可能性の話 ― Lucius ―



0.今→過去、回顧

 俺があいつと初めて出会ったのは、果たしていつのことだっただろう。それくらい、あいつと共に過ごした時間は永い。もはや、正確には覚えていない。
 もちろん、時間という単位を逆算していけば、それが正しく今から何年前であるかということは導き出すことが出来る。だが、そんなことはしてもまったく意味がない。だから、それが一体暦において何年の出来事だったのか、などということは一切語らないことにする。
 だって、そうだろう?
 時系列で関係あるならせいぜい、それがどれくらいの時代で、それが一年の中でどれくらいの季節だったのか、それだけわかっていれば差し支えはないのだから。
 そして、それらのことは覚えている。正確な数値が記憶の引き出し、その奥底に追いやられようとも、それがどういった時だったのか、それくらいはいつでも引き出せる場所にしまってあるのだ。
 というより、そもそもこの暦という概念はもはや意味を成さなくなっている。まったく別の暦が動いている中で、それではない尺度を持ち込んで何年だの何月だのと問答したところでどうしようもない。
 ……話が横にそれてしまったな。つまるところ、数値などは語る上で何の意味も持たないということを言いたかったのだが、俺はどうやら人にものを語るというのは得意ではないらしい。前置きなど、つけないほうがよかったかもしれない。
 そう、俺があいつと初めて出会ったのは、今からもう、途方もないほどに昔のことだ。とりあえず、百年は軽い、とだけ言っておこう。それくらい大昔だ。
 今やただの化け物に成り下がった――などと言うとあいつは怒り出すかもしれないけれど――俺にも、子供時代というものはあった。あいつとの出会いは、そんな子供時代の真ん中くらいに訪れたのだ。
 思えば、それはぐるりぐるりと廻り続けるメビウスの円環に、たった一つだけ生じたほころび。有史以来のあまたの記録が記された黒い年代記に、たった一つだけ加わった改ざん。
 俺とあいつが出会ったということ。たったそれだけのことで、変わった。すべてが。
 そして俺があの時、あのようにしていなくても、あの狭くて広かった『世界』という空間の結末は、変わりはしなかっただろう……。

1.冬→春、出会い

 ルキウス・グリエルモ。それが俺の名前である。
 その頃からしても、とっくに使われなくなった大昔の言葉、それがその由来だ。
 意味については後にするとして……何を思って両親がこの名前をつけたのかは、当時既に孤児だった俺にはもはや知りようがない。推測程度なら可能だが、正解は既に墓の中へ持っていかれてしまっているので本当のところはやはりわからない。
 当時の俺はどちらかというと世間的には斜に構えたませたガキで、世の中というものに対してあまりいい感情は持っていなかった。それが幼心に刻まれたトラウマによるものなのか、元々そういう性格だったのか、その辺りは自分でもわからない。
 ただ一つ、あいつと会ったことが少なからず俺という人間のあらゆる部分に多大な影響を及ぼしたということは、おおよそ間違いないだろう。
 そんな俺があいつと出会ったのは、丁度雪が降るのも収まり始めた冬の終わり頃だった。
「メルちゃんです、みんな仲良くしてあげてね」
 いくつものしわが刻まれた顔に丸めがねをかけた、いかにも人のよさそうな、ふっくらとした老婦人だった園長は、スクールから帰ってきた子供たちを広間に集めると、あいつをみんなにそう紹介した。
 それは別に、珍しい光景でもなんでもなかった。
 俺が子供時代をすごしたのは、いわゆる孤児院と呼ばれる場所である。法律だかなんだかの難しい文章の中では、児童養護施設という、いかにも偏見か何かを避けようとした意図のある言い回しが使われているが、詰まるところはそういう場所なのだった。
 こういった孤児院――そこに在籍していた子供たち自身、そう呼んでいたので以降もこの呼称を使うことにする――は当時、そこかしこにあった。なぜなら当時は、失踪事件がそこら中で頻発していたからだ。失踪に限らず、とある理由で親をなくす子供は多かったのだ。かく言う俺もその一人なのだが……それらの理由については、後述する機会があるので今は語らないことにする。
 まあそういったわけで、珍しい光景でもなんでもなかったというのはつまるところ、施設に子供が増えるのはその頃の俺たちにしてみれば日常茶飯事だったというわけだ。広間に集められた時、誰もがまた、自分たちと同じ境遇の奴が来るのだと予想していたくらいに。
 そして、そういった境遇の子供が、突然こんな孤児院につれてこられて、すぐに打ち解けるはずがないことも、みんなが知っていた。自分たちがそうだったのだからだ。そうした経験をした子供はしばらく、トラウマでまったく顔に表情がないか、常に泣いているかのどちらかだ。
 だから、園長にメル、と紹介されたあいつを見ても、誰も何も深くは考えなかった。物憂げにどこか遠いところを見ている美しい緑色の瞳を覗き込みながら、いきのいい奴は自分が誰かということをアピールしていたが、それでも。そんな奴も、あいつの素性には、驚いていた。
「……メルちゃんは」
 園長は、子供から見てもどう話せばいいのか困ったような顔をしながら、おもむろに口を開いた。
「この間、山の近くにあるアパートの一室に一人でいるところを管理人さんに発見されました」
 その言い出しで、ある程度社会的知識を持っていた先輩たちは目に見えてざわついた。当時の俺はわからなかったが、このメルと呼ばれたあいつが、当時世間を騒がせていた事件の渦中にあったことが、その言葉から予想できたのである。
 事件とは、とある年代もののアパートを処分しようと何か部屋に残っているものでもあるかどうか見回りをしていた管理人が、とある一室で、力なく横たわっていたあいつを発見した、というものであった。
 その管理人曰く、その部屋は二十年ほど前に不思議な人物から大金によって借りられ、それ以降ずっと借り続けられていたそうだ。そんな部屋に、まるで放置されるかのように一人子供がいたということで、世間は大々的にそのことを報じていたのである。
 どうしてそんなところにあいつがいたのか、どこから来たのか、どうやって生きていたのか、そういったことは一切不明だった。当事者であるあいつはそれについては何も語らなかったから、誰も彼も真実には迫れなかったのだ。
 俺はそれについて、何年も経ってから本人から聞くことができたのだが、それはそれだけあいつにとってはつらい記憶だったことを物語っている。だから、それを掘り起こすのは心苦しいので伏せさせていただく。
 あいつが孤児院にやってきた日の少し前、世間はなにやら騒がしかったことは記憶している。ただ、当時の俺は新聞だのニュースだのといった堅苦しいものにはまったく興味がなかったから、それに関しての記憶は正直言って薄い。それは俺の友達もそうだった。
 だから、とつとつと園長が語るその素性は、大きな衝撃だった。
「みんな、みんなは、この子の悲しみやさびしさのわかる、優しい子たちだって、信じています。どうか、メルちゃんを救ってあげてくださいね」
 最後そう締めくくったとき、園長は涙ぐんでいた。それはもちろん演技なんかでは断じてないだろうが、それに心を動かされた子供はたくさんいた。彼女の言葉に誰もが元気よく、「はい!」と応えた。
 一方俺は、正直、初めてあいつと出会ったときの印象はそこまでいいものではなかった。普段なら、多分俺もみんなと同じように言っていただろう。少なくとも外見上は。
 それでもそうしなかったのは、何かよくわからない、言葉ではうまく説明できない、得体の知れない何かを直感的にあいつから感じていたからだと思う。だからこそ、俺が受けた第一印象はいいものではなかったのだろう。
 そうした思いを抱いたものは俺だけだったようで、俺は他の連中と明らかな温度差があって職員からせかされるようにして何か言われたような覚えがある。何を言われたかは、多分どうでもよかったので覚えていないが。
 だが、そうしてひどく不思議な感覚に首をひねっていた俺や、新しい仲間に孤児院の中を見せてあげようなどと言っている子供たちの喧騒などには目もくれず、あいつは、ただひたすら、まるでこの世にはないものを見つめているかのように終始無言で、ただぼう、としていた。

 唐突で何なのだが、園長に紹介されたメルという名前は、あいつの本当の名前ではない。本名は、カイト・シルヴィス。本人が後に語った弁によると、俺のそれと似たようなどこかの遠い時代の言葉で、時を越える白い翼、という意味があるらしい。
 あいつの本名が誰にも知られていなかったのは、先にも言ったような理由がある。誰とも何もしゃべろうとしなかったのだ。他人と関わることを完全に拒否しているように。
 発見されてからしばらく入院していたらしいのだが、その時から今に至るまで、あいつは一言たりとも言葉を発していなかったらしい。そのため周囲はあいつを呼ぶ時に困り果て、主治医があいつが発見された部屋番号から、番号、という意味の古い言葉をもじってメルと名づけたそうだ。人の悪い奴は、あえてそう呼ばず、509、と部屋番号そのもので呼んでいたそうだが。
 そういうわけで、あいつの本当の名前を知っている人間は当時いなかった。ただ一人、俺を除いて。
 だから俺以外の人間にとって、あいつはずっとメルだった。俺すら、あいつの本名を知ったのはこの時から大分先のことだから、それまではそう呼んでいた。
 その頃、孤児院の誰にとってもメルだったあいつが来てからの数日は、普段新しい仲間が入所した時よりも目立ってにぎやか――特に男子が――だった。
 まあ、当然と言えば当然かもしれない。
 あいつはとても小柄だが、その黒髪は光を受けるとつややかにきらめいて美しい。透明感のある健康的な白い肌はすべての女性の羨望の的だった。長いまつげとくりくりとした大きな瞳を宿した顔は言いようもなく可愛かった。服装は孤児院にいる子供相応の質素なものだったが、そうしたものを身にまとってなお、あいつの姿は暗闇に一輪だけ咲く花のような特別な雰囲気があったのだ。
 誰とも口をきかなかったので、もちろん誰もあいつの年齢など知るはずもないが、ませた年頃のガキたちは特にこぞって、どうにかしてあいつをしゃべらせようと躍起になっていた。
 とにかく色々なことを話しかけ、遊びに誘ったり、わざといじわるをしてみたり、子供が考えうる最大限の手段を彼らは試みたが、それらはすべて失敗だった。
 そしてそうした必死の努力――こう言ってはなんだが、まさに彼らは必死だった――も、一月もすればほとんど見られなくなった。あいつは、やはり誰とも何もしゃべろうとしなかった。
 あいつは孤児院での時間を、最初はただひたすらにぼうとしたまますごした。孤児院の庭に接するように設けられた縁側に座り、初めてここに来た時と変わらないうつろな瞳をして、この現実にあるものではなく、まるで遠く彼方にある幻想を見つめているかのように。
 夕方など、しつこく太陽の光が居残ろうとする黄昏の中などでは、生気のなさが余計に際立って亡霊か何かのように見えるくらいだった。少しずつみんながあいつを敬遠していったのは、必然とも言えた。
 あいつは誰からの呼びかけにも反応しなかった。ただ刻限を告げる鐘に動かされているかのように、夜になると自室に戻り、朝になると現れる。食事も取ろうとしないので、さすがに孤児院の職員たちは交代であいつにものを食べさせた。
「あんな長いことまったく何もないなんて、あの子よっぽどだよなぁ」
「おれはもう諦めたね。せっかくなんかしようと思っても、全部無視されるんだから」
 友達の間では、そんな会話が何度もあった。それくらい、何も反応しないのだ。喜怒哀楽、すべての感情が、まるでどこかに落としてきたかのように存在していなかった。
 くすぐってみてもぴくりとも動かないし、殴ろう――さすがにみんな、本当にそうはしなかったけれど――としてもちっとも動かない。
 ただ二つ、首から下げたペンダントと、左のほうだけ長い髪の毛を結ってある髪飾りを触ろうとしたときだけ、あいつは動いた。明らかに拒絶の態度を取った。
 心ここにあらずといった様子でも、それらはあいつにとって、非常に大切なものらしかった。だが、人間らしい…いや、生き物らしい動きと言えばそれだけだった。
 そんなあいつが少しだけ変わったのは、風もぬるんできて、新しい年が始まったくらいのことだった。
 久々のスクールを終えて俺たちが戻ってくると、あいつは誰に借りたのかあの広間に置かれたソファーに腰掛けて、黙々と本――ひどく難解な本だという記憶が残っている――を読みふけっていた。
 その変化に、男子は「誰かがメルを口説き落としたんじゃないか」と噂した。この世をさまよう幽鬼か何かのようにただぼうっとしていたのが嘘のように、一応食事は自主的に取るようになり、誰かがちょっかいを出せば拒絶程度の反応だけは毎回するようになった――見事に拒絶しかしなかったが――のだから、ある意味そうした噂は当然かもしれなかった。
 が、実際はそんなことは一切なかった。相変わらずあいつは誰にも心を開いておらず、ただただ本を読むだけの毎日をすごしていたのである。
 俺といえば、この頃やはり特に何か特別な感情があったとか、そういうのはなかった。相変わらず、可愛いけどどこかヘンな奴、その程度の認識だった。
 一応、他の連中と話を合わせる程度にあいつを観察しはしたが、休日を丸一日費やしてわかったのは、たった一日でそこらの本なら一時間から二時間程度で読みきってしまうほど、読書の速度が速いという程度だった。
 だが俺は、幸運だったのかそれとも不幸だったのか、それはどれだけ時間を経てもいっこう答えは出ないが、丁度それくらいの時に、あいつの昼間とは違う姿を――多分それは、あいつの本当の姿だったのだろう――目撃することになる。

 おりしもその日は夜になって急に冷え込んだ日だった。俺はふともよおして、トイレへ足を運んだ。
 俺のいた孤児院は、子供たちの部屋からトイレまでは少し距離があった。その間には、必ず縁側を通らなければならなかった。空気が澄んでいたその日は、そこから何気なく遠い夜空を見上げると、どこまでも暗い夜空の中で輝く双子の月の姿を拝むことができた。
 そのままトイレに行けば、多分何もなかったかのようにそのまま部屋に戻っていただろう。だが俺は、その月の下、孤児院の庭に設置されたジャングルジムの上に、あいつが、カイトがいるのに気づいてしまった。
 俺は、何事だと思わず外へ出た。息は白くなるほどではなかったものの、冷たい夜風が身体を通り抜けて、ぶるると身体が震えた。しかしそれは、俺の好奇心を止めることにはならなかった。
(こんなとこで、一体何してんだか……)
 それは率直な感想であり、疑問だった。そして俺は、それを解決させるために行動する。
 ジャングルジムをそっと登り、気づかれないように近づいてみれば、カイトは小さな身体をさらに小さく縮めて、空を眺めているようだった。
「おいメル、お前何してるんだよ、こんな時間に?」
 俺はからかうつもりだった。しかし、電撃に打たれでもしたかのようにばっとこちらを振り向いたその顔を見たとき、そんな考えは吹き飛んだ。
「だ……れ……?」
 逆光になっていてよくわからなかった。しかし、カイトの瞳から、とめどなく涙が流れ出ていることはわかった。声も震えていてか細く、聞き取るには少し難儀だった。
「お、おい?! なんだ、大丈夫か?!」
 俺は慌ててジムの頂上までのぼると、カイトの肩に手をやった。当時の俺からしても小さいその肩は、ひどく頼りなく、ちょっと力を加えたら壊れてしまいそうだった。
「……っ、ぐ、す……っ」
 俺が声をかけても、カイトはしゃべらなかった。いや、しゃべりたくても声が出なかったのだろう。俺を見て、あいつは、せきを切ったように泣き出した。俺はどうすることもできず、ただおろおろしながら、頭をなでてやるのが精一杯だった。
 思えば、あいつの声を聞いたのはこの時が最初だった。そして俺は図らずも孤児院の中で、いや、恐らくはあいつが発見されて以来、初めてカイトと会話した人間になったのである。
 泣いて、泣いて、ひとしきり泣いて。どれだけの時間が経ったのか、時計がなかったのでそれはわからない。
 俺はもちろんトイレに行きたかったのだが、カイトにしがみつかまれて、そのまま泣かれたのでどうしようもなかった。落ち着いたところでようやく俺から身体を離したが、顔は伏せたままで、どうしたらいいのか戸惑っている様子だった。仕方ないので、こちらだってどうすればいいかなんてさっぱりだったものの、声をかけることにする。
「大丈夫かよ?」
「……うん……」
 先ほどよりはしっかりとした声。ここでようやく、俺ははっきりとカイトの声を認識した。見た目に相応しい、可愛い声だった。ただ、高いといえば高いが、それはどちらかというと中性的な雰囲気の声。
 声を聞けたことは、大きな収穫と言えた。また、ある意味で感動みたいなものもあった。しかし、会話はそこで途切れてしまって続かなかった。
 どうしようかと俺が考えていると、突然あいつは口を開いた。
「……カイト」
「……え?」
 余りにも突然すぎて、俺は思わずぽかんと口を開けた。訳がわからなかったのだ。思わずそう尋ね返すと、あいつはゆっくり顔を上げて、俺の顔を見ながら言った。
「……カイト・シルヴィス。それが……ボクの、名前」
「あ……あぁ、そ、そう……なのか……。お、俺はルキウスだ! ルキウス・グリエルモ」
 月光を背負ったカイトの顔を見つめながら、どうしてか俺はそう早口に告げていた。今でも、俺らしくないと思う。
「……ルキウスは光、グリエルモは守護者って意味の、古い言葉なんだってさ」
「……ひ……かり……」
 なんとか会話を続けたくて、思わず俺は言っていた。やけに俺を大事にしてくれた、両親がよく語っていた俺の名前の意味だ。繋げて意訳して、光の強き守護者となる。正直、なんと大仰な名前かと自分でも思う。当時からしたらなおさらだ。
 けれども、俺の言葉を聞いてあいつは、なんとも言いがたい、遠い目をした。最初の頃とはまた違う、まるで永遠に失われてしまってもう戻ることのない、懐かしい過去へと思いをはせる年寄りのような、そんな目だった。
 しかし会話はそれっきりで、カイトは一言だけごめんなさい、と告げると、そのままそそくさと戻っていった。
 だが俺は最後、月の光に一瞬だけ照らされてはっきりと見えたあいつの姿に、たとえようもない神々しさを感じて、ただ呆然とその戻る後姿を見つめていた。

 翌朝、漠然と昨夜のことは誰にも言うまいと思った。
 初めてあいつと会話することができた。あいつの本当の名前を知ることができた。それらのことは、その頃の孤児院では名誉とも言えるのだが、多分、たった一人自分だけ、あいつの表情のある姿を見たという、何か特権じみた経験を独り占めしたかったのだろう。
 もしかしたら俺のように、何かささいなことをきっかけにしてあいつと話した奴がいて、そいつもあいつの名前を聞いているのかもしれないと考えたが、しばらくして考えるだけ無駄だと悟る。
 朝食を取りながら、俺はカイトと友達にでもなれたらいいかなと思ったが、昨夜の姿はどこへやら、いつものあいつに戻っていた。まるで昨夜のあの姿は夢か何かかと思えるくらいに。
 こっちが目配せしても、あいつは目も合わせようとしなかった。ただ気のない風に普段通り、ソファーで本を読んでいるだけ。本当にあの出来事が夢だと思えてしまう。
 結局、俺はなんかよくわからない胸のうずきを感じながら、それからの日々を悶々と過ごすことになった。

2.春→夏、恋慕

 時は巡り季節は移ろう。世の中は初夏を迎えようとしていた。
 ある程度時間はすぎたが、相変わらずあいつに変化はなかった。あれ以来俺は躍起になり、なんとか声を聞こうと色々言葉をかけたりいたずらをしかけたりした――それは以前他の奴らがやっていたことで、後になってよく考えれば意味がないことくらいわかってもいいものだと思う――が、それでもあいつは一言も口にしない。
 せいぜい近くによることくらいが精一杯だった。
 この頃になると俺は、最初に感じたよくわからない違和感、というか、得体の知れない気配がなんとなくうすぼんやりとだが、わかるようになっていた。
 独特な気配からくる、威圧感のようなもの。それが俺にいい印象を与えなかったものだ。人を拒否する姿勢そのものが、雰囲気になって出ているのかもしれない。誰も彼も、あいつのそばにしばらくいるとなんとなくそれを感じて居心地が悪くなる。そんな異様な雰囲気に俺は慣れてしまい、カイトのそばにいてもそういう印象を受けなくなった。
 免疫と言ってしまったら身も蓋もないが、つまりはそんなところだ。そして俺は、そうなってからは以前にも増して、あいつのそばにいるようになった。
 周囲からは「あのルキウスがべた惚れか?」などとささやかれた。自分で言うのもなんだが、俺はどちらかというと硬派なほうだったらしいから、この頃から俺はそれについてよくからかわれるようになった。
 だが結局のところ、周囲が噂したように俺はこの時からカイトに恋をしていたのだろう。そうでなければ、もう誰もあいつに話しかけるのを諦めた中で一人、躍起になるはずがない。当時の俺は必死に否定したが。
 そして、あいつはやはり他の人間とも口をきこうとはしなかった。
 俺は話かけるだけじゃなく、たまには変化球を投げてみることを思いついて孤児院の外に連れ出そうともした。けれど結局、それは無駄な努力だった。
 だから、ある日突然あいつから話しかけられた時は、俺だけでなくその場に居合わせたもの全員が驚愕をもって迎えたものだ。
 それは大型連休を翌日に控えて、さて明日から何をしようかとみんなで話していた時のことだ。ソファーで本を読んでいたあいつは読み終わりでもしたのかぱたんとそれを閉じると、しばらくそのままで何事か考えた後、やおら立ち上がり、俺のところまで来て、言った。
「……ルキウス、図書館、どこ?」
 俺は丁度あいつが見える場所で友達と輪になって話し合っていた。あいつの姿が見えていた俺でもとっさに声が出ないほどに驚いたのだ、見えない位置にいた連中の驚きがどれほどのものだったかは口にするまでもない。
 俺たちが、というよりもそこにいたもの全員が沈黙したため、その広間は静寂に包まれることになる。外で遊んでいる連中の声が、いやに大きく響いていた。
 最初に沈黙を破ったのは、やはりあいつだった。
「ねえ、図書館、どこにあるの?」
 そりゃあ、子供ながらに図書館の場所くらい知っていた。知っていたが、それを答えるだけの余裕は俺にはなかった。
「……め、め、メルちゃんが……」
「しゃ……しゃべった……」
 聞かれている俺が答えない中、次第に周りがショックから立ち直る。そしてすぐに、ざわざわとした喧騒に発展する。あいつは不思議そうに、その様子をきょろきょろと見回していた。
「メルちゃんがしゃべった! 地震来るんじゃない?!」
 とか抜かす奴がいれば、
「うわやべぇ、超可愛い!」
 とか目じりを下げる奴もいて、そうかと思えば、
「ルキウス、てめぇやっぱり俺たちの知らないところで口説いていたな!?」
 などとふっかけてくるやつもいる。以前の夜のことを誰にも言ってなかった手前、それには反論できず、とりあえず俺は抗議の視線を向けるだけに留めておいた。
 あまりの騒ぎに、庭にいるやつや、事務室につめていた職員の人たちまで何事かと言わんばかりに広間に入ってきて、広間はさながらどこかの遊園地か何かのように人でごった返してしまった。
 あちらから問われ、こちらから小突かれ、俺が立ち往生していると、誰かに手を引っ張られた。そのままそれが誰か確認することもできないまま、俺はするすると人と人の間を縫うようにしてそこを脱出することができた。
 広間から離れたところでようやくそれが誰かと確認することができた。
「お前……一体、どういうことだよ?」
 カイトだった。かなり力強く引っ張られたような気もしたが、気のせいだったろうか。いや、後から考えればそれは決して気のせいではないのだが……。
 当の本人は、自分が一言口を開いただけでこんな大騒ぎになるとは夢にも思っていなかったようで、珍しくその顔には困惑の表情があった。二回目の、カイトの表情。
「ボクは……ただ読む本がなくなったから……図書館に行きたかっただけなんだけど……」
 しどろもどろに説明する姿に、俺はまた何か胸がうずくのを感じた。だがそれをなんとか抑えると、俺はカイトに耳打ちする。
「今まで誰とも話したことのなかった奴がしゃべればああなるだろうよ!」
「そう……かな……」
 どうも自分のことに関しては、少々鈍いようだった。俺も人のことを言える立場ではないが。
「悪いけど、今日は多分お前、もうアウトだぞ。きっとみんなに捕まる……」
 そこまで口にして、カイトははっとなった。視線の先には、広間から消えた俺たちを探してやってきたみんながいる。見つかってしまったらしい。
「…………」
 諦めたように、あいつはため息をついていつもの無表情な顔に戻った。
 結局、その日は俺の言った通りになった。みんなに捕まって、「今日はお祝いね」という園長の鶴の一声で、何かパーティじみたことをすることになってしまったのだ。
 人見知りをするのか、はたまた俺以外の人間には心を開いていないのか、あいつは終始無口だった。時折、部屋に戻りたそうに俺のほうを見てくる。だが俺は俺であいつの要望に応えられる余裕はさっぱりなかった。
 あいつをしゃべらせたということで、まるで英雄か何かのように扱われ、あいつと共にパーティの主役にされてしまったからだ。それまで裏方に回ることの方が多かった俺としては心底勘弁してほしかったのだが、数の暴力には勝てやしない。この日以来、少しだけ多数決が嫌いになった。
 その夜は、部屋に戻って真っ先にベッドにもぐりこんだことを覚えている。とっとと眠りたかった。それくらいに疲れた。
 しかし頭はまだ興奮のさなかにあって、なかなか眠ることはできなかった。
 色々な考え――どうしてあいつは俺に話しかけてきたのかとか、図書館に行ってまたぞろどんな本を読む気なんだとか――が脳裏をよぎったが、結局それらがまとまることは決してなく、気がついたら目覚まし時計のベルと朝の日差しに包まれた中、「起きる時間ですよ」と職員に言い渡されていた。

 カイトが孤児院で初めて口を開いた次の日。
 あいつが図書館に行きたがっていたということで、俺と俺に近しい友達ら数人で図書館まで案内することになった。正直、どうせ行くなら俺一人でカイトと行きたかったが、世の中はままならない。なんでお前らも来るんだよ、などと胸の中で毒づきながらも表面上はそれを出さないようにヘンな努力をしていた。
 一方あいつは、おしゃべりな俺の友達たちの輪の中心にされ、ひどく困っていた。やはり人見知りする性質らしい。
 そうでなくともあいつは他人に対しては一切心を閉ざしていた。そうした中で周りからあれやこれやと話しかけられるのは、多分迷惑だったのではないか。
 ……などというのは、半ば俺の身勝手な考えかもしれない。嫉妬とか、そういう感情が恐らく少なからずあって、あいつが俺以外の人間と話すのを見たくないという思いが意識の底にあったのだと思う。
 あいつがお望みの図書館は、孤児院からはバスで二駅程度の距離にあった。俺たちの住んでいた街はそこまで大きなところではなく、どちらかというとベッドタウンの性質が強い。だから交通網は比較的充実していて、さして待ちぼうけを食らうことなく順調に図書館まで到着することができた。
 設立されて八十年を迎えようとしている市の図書館――後に得た知識による――は、ひどく重厚な造りをしている。昔の紡績工場だか何かを改築して造られたものらしく――これも後で知ったこと――、きれいに漆喰で壁が塗られているが、一方でそれらが剥がれ落ちた場所も多く、そこかしこにレンガの素顔が丸見えになっている様子がうかがえた。また、ところどころに葦だか何かの草が壁に絡まっている。
 図書館など正直自分とは関係ないと思っていて、実際それまで場所は知っていたもののこうして真正面から訪れたのは初めてだったので、その雰囲気にはとにかく圧倒されたのを覚えている。
 そして、中に入ってもう一度圧倒される。
 床一面に敷き詰められた赤じゅうたんは、テレビとかでしか見たことのないVIP用のそれを思わせた。そしてその上にところ狭しと並べられてるのは巨大な書架。それらがひたすらに整然と並んでいる光景は、そんなものとは縁のなかった子供の心にとっては驚き以外の何物でもなかった。何せ目の届く範囲百八十度、すべてが本、本、本。それらが俺たちよりも大きな書架にぎっしりつまっているのだ。
 初めてそこを訪れた俺たちの姿を見つけた職員は、丁寧に応対してくれた。貸し出しの際のルールや、館内での注意事項などの説明を受けて、俺たちはその静謐な空間にようやく受け入れられる。
「すげぇ……これ、どんだけ本あるんだろうな」
「さあ……知らないけど、一万とかそれくらいはありそう」
 図書館ではお静かに、と何度も言われた俺たちは、書架の間をきょろきょろしながら歩き、普段余りしない小声でそうした話をする。
「さっきカウンターのプレートに書いてあったぜ、全三階建て、四十万冊だってよ!」
「うげー、マジで?」
 みんなが本の冊数で驚いているの対して、俺はよくもまあそんなにも本を作るだけのネタがあったなと、ヘンなところに驚いていた。
 そんな俺たちを尻目に、あいつは、カイトは書架の横のラベル、中段に大きな文字で、さすがの俺たちでもわかるように記された分類と、それらの上下に、こちらは俺たちには暗号のようにも思えるものに目を走らせながらすたすたと離れていく。
「あ、おい、どこ行くんだ?何か探してるのか?」
「…………」
 無言。知りたいならついてくればいいじゃない、とでもいった雰囲気だ。
 しょうがないので俺はカイトに後ろについて回る。他の連中はどうやら俺たちを見失ったようで、少し離れたところから騒がしい声が聞こえてくる。
 許せ友よ、悪いが俺はお前たちと一緒にいるよりカイトのそばにいたい。そんな気持ちがあったので、彼らの声は黙殺した。
 とは言っても、余りしつこくはりついてうるさくかぎまわってあいつの機嫌を損ねたりするのは嫌だったから、ただ本当に、金魚の糞のように後ろについていただけ。
 カイトは長い間、図書館の中を歩いて回っていた。一階だけでなく、二階や三階にも立ち入った。余りに広い上に、すべて書架をじっくりと眺めてから動くので、ぐるりと一周してくるだけでもそれなりの時間を要した。
 しかし、それでもお目当てのものが見つからなかったようで、あいつはまだ足を運んでいない場所があるのかと一階広間にある案内用の看板にかじりつく。
 しばらくそれを見つめていたが、やがてカイトはカウンターへと足を運んで一言二言職員と会話をすると、少し残念そうにして戻ってきた。
「……どうした?」
「……一番読みたい本がなかったの。しょうがないから他のにする……」
 どういう類の本を求めていたのか、それは皆目見当がつかなかったが、そんなことより俺は会話が普通に成立したことに内心感動していた。
「何を探していたんだ?」
「……調べたいものがあったの。……ルキウスも好きな本、読んでなよ」
 しかしそれはぬか喜び、あいつはそれ以降会話を続けることなく、書架の歴史、文化、風俗などといった分類に収められていた、今まで俺が見たこともない大判の分厚い本を引っ張り出してくると、そのまま閲覧者用に設けられたテーブルについて読み始めた。
 そんな様子を後ろから見つつ、俺はがしがしと後ろ頭をかいた。
(好きな本、なんて言われても……なあ……)
 何せ俺には当時、読書なんて習慣はこれっぽっちもなかった。読んだことのある本といえば、本当に小さい頃、両親が読んで聞かせてくれた雷神の英雄が活躍するおとぎ話の絵本と、あとはせいぜいスクールの教科書くらい。教科書に至っては、あちこち落書きだらけという体たらくだ。筆者の写真などは特にその餌食になってており、読書とは本当に縁遠い生活をしていた。
 一応言われた通りにいくつかの書架を見て回ってみたものの、正直興味をかきたてられるようなものはなかった。というか、それ以前に圧倒的な量の本を前にして本を読む気はすっかり失せていたのである。仕方がないのでカイトのところに戻ると、例の猛烈なスピードで本を読み続けていた。
(……すっげ)
 はっきり言って、神技か何かかと思えた。さすがに大判サイズのものは以前孤児院で読んでいた本のような速度ではなかったが、少なくとも俺には、あいつと同じ速度でものを読めるやつは思いつかない。
 その日は結局、俺はカイトが本を読んでいるところを黙ってじっと見ていた。
 後で合流した友達たちはこの沈黙の空間に耐え切れなかったようで、後で連絡してくれよとだけ言い残すと、そのまま街へと繰り出していった。俺は少し迷ったが、カイトのそばにいることを選んだ。
 ちなみに、後で連絡するも何も孤児である俺たちが携帯電話などの金がかかるものを持っておらず、そうした手段が一切ないことに気がつくのはもう少し後のことだ。
 だが帰り、ちょっとしたトラブルがあった。
 閉館時間ぎりぎりまで粘っていくつもの本を読んでいたカイトは、さらに孤児院へ戻っても本を読むつもりだったらしく、本を借りようとカウンターに向かったらしい。
 あいにくと俺はその頃は眠りの底に落ちていたようで、あいつに起こされるまでは何も気づいていなかった。
「ルキウス……その……図書館のカード、作ってくれないかな……」
 俺を起こして開口一番、あいつはそう口にした。
「カード?」
 最初に説明を受けたときに聞いていた。どこにでもありがちなルールだが、本を借りる際には、ここで発行しているカードがないといけないらしいのだ。それがわかっていたから、余計に疑問だった。どうして俺が作らねばならないのだろう。別にわざわざ俺がしなくっても、カウンターに行けばちゃんと作ってくれるはずなのに。俺は重いまぶたをこすりながら思わず聞き返していた。
「えっと、ボク……住民に登録されてなくて……」
「え……」
 目が点になった。
「……戸籍がないの」
「マジかよ」
 驚いた。本当に驚いた。そして一方では俺の中のヘンに冷静な部分ではなるほどと納得もしていた。
 そう、世間で話題になるほど取り上げられた事件の当事者なのに、誰もその本名を知らないというのはつまり、この近辺の街にカイトという人間のことが情報として残っていなかったからなのだ。……実際のところは最初からなかったのだが。
 そしてそういった個人情報がないせいで、カードを作ることができないのだという。それで、俺にカードと作ってもらいたいということだった。
 別に断る理由もないので、俺は手順に従ってカードを作ってカイトが借りたいと言っていた本を代わりに借りる手続きを済ませた。内心で、融通がきかないなと思っていたのはここだけの話。
「ありがとう」
「いいって。……それより、これ、お前が持ってろよ」
 カラスも七つの子が待つねぐらへと帰る時間帯。図書館を後にした俺たちは連絡手段なんて持っていないことに気づき、他の連中にもすっかり置いてけぼりをくらったことをようやく知って本数の減ったバスを待っていた。俺は図書館のカードをカイトに手渡す。
「どうせ、俺が持ってたってきっと使わないからさ」
 カイトが申し訳なさそうな顔をしたので、俺はそう付け足した。すると、少し迷っていたようだがカイトはそれを受け取ると、それをポケットにしまいこんで、もう一度ありがとう、と言った。
 赤い太陽の光を受けたその顔がまぶしくて、俺は思わずバスが来るはずの方向に目をそらす。
「バス、遅刻してやがるなぁ」
 俺は知らない。そうして遠くに目をやる俺の横顔を、あいつがどこか寂しそうに眺めていたことを。
 この日から、カイトはほぼ毎日、図書館へと通うようになった。そしてそのたびに、分厚い本を借りて帰ってくる。それらの本は俺には到底読み切れそうもなかったが、あいつはそれを一晩ですっかり片付けてしまうのだ。そして図書館に行き、一日を読書ですごし、そして本を借りて……という生活が始まった。
 一度何を読んでいるのか気になってちらりと見てみたが、その時の本は物理法則がどうだのといった、頭がパンクしそうな代物だった。あいつはスクールに通っていないのだが、どこでそうした知識を身に着けたのかは一切謎だった。

3.夏→秋、力

 再び時は流れ、さらに季節は変わった。
 世間ではいわゆる夏休みの時期となり、俺たちも毎日が休みといういささか堕落した日々を過ごしていた。宿題も出てはいたが、最終日までに終わればいいので、そんなものには誰も彼もほとんど手をつけていないようだった。俺は先にやっておくタイプだから、ちまちまと進めていたけれど。
 カイトは相変わらず毎日を図書館で過ごしている。何をそんなに読むのかとも思うが、四十万冊も本があるのなら、いくらあいつの読む速度が速かろうとすべてを読みきるには相当の時間が必要になるのだろう。
 そして夏休みに入ってからは、俺もほとんど毎日図書館に入り浸っていた。表向きは宿題をやるためと、保護者みたいなもんだ、などと言っていたが、結局のところあいつと一緒にいたいだけだった。
 孤児院の職員は俺がいれば問題ないだろう、と言った感じで見送ってくれたが、友達はからかい混じりの見送りをしてくれた。世間的には、こちらの事情はどうあれ完全に俺たちは付き合ってるように見られていたようだ。
 俺は別にそれが嫌ではなかったが、何せ微妙な年齢だったこともあって、表面的には断固否定していた。何か言われるたびに、「そんなんじゃねえ! ほっといてくれ!」と。まあ、実際問題、本当にそのような関係ではなかったのだが……。
 カイトとは、多少会話を交わすようにはなっていた。基本的にはあいつが話しかけてきて、俺が返し、それを何度か繰り返す。会話と言うには余りに短いものばかりではあったが、当初何も口をきかなかったあいつからしたら、これは大きな変化――進歩?――といって差し支えないだろう。
 とはいえあいつはやっぱり無口。孤児院に帰ってもひたすら本を読んでいるので誰とも話はしない。俺を相手にしても、口を開こうとはしなかった。もっぱら、あいつとの会話は図書館でのわずかなやりとりだけだった。
 それでもそれは数えるほどで、図書館にいる間の大部分はヒマだった。その中で、俺はヒマにあかせて何十冊もの本を読破した。読む速度はもちろんあいつにはまったく敵わなかったけれど、それでもあんな厚い本を、しかも何冊も読み通せるなんて自分でも驚いたものだ。その夏休みの中で俺は本当に色んな知識を得たが、なんとなく、そういった知識は世界を広く見せてくれるものなのだと思うようになっていた。
 そんなある日のこと。
 いつも通り図書館で一日を過ごし、俺たちは孤児院への帰途についていた。ほとんど毎日図書館に通っているせいで交通費がかさみ、いい加減に金欠になって孤児院までの道のりを俺たちは歩いていた。例によって俺にはよくわからない本を借りたカイトの荷物を持って、俺はあいつの隣に並んでいた。
 乗り物に乗ればあっという間の距離でも、歩きとなるとそうもいかない。近いようで遠い距離を歩くうちに、太陽も元気をなくして地平線の向こうに帰りつつあった。
 日が暮れてしばらく、恐らくは街の中心へ向かっているであろう若者の集団に出くわした。若者と言っても、当時の俺からしたら彼らは自分よりも年上なのは間違いなかったのでそういう印象はまったくなかったが。
 彼らは一見して、素行がよろしくないと判断できる類の人種だった。世間的には、不良だとか非行少年などと呼ばれているような。
 俺ははっきり言って関わり合いになどなりたくなかったが、そう思いすぎるのは時に逆効果らしい。ガキが二人歩いているのを見て、光栄にも連中は本日の獲物に俺たちを選んでくれたのだ。
 始まりは、典型的な因縁づけだった。向こうからぶつかってきておいて、逆に相手に対して謝罪を要求するというような。
 ターゲットにされたのは、俺ではなくカイトだった。多く見積もっても百四十センチにやっと届く程度しかない身長のあいつは、連中からしたらいかにも狙いやすいカモだったのかもしれない。
 だが、この時連中がどういうことをのたまったのかは覚えていない。もしかしたら、
「なんだおい、人にぶつかっておいて、謝ることもできねーってのかあァん?!」
 というような、半ばテンプレートのようなことも言ったのかもしれないが、それらは所詮、この後起こった出来事に比べたらまったく印象の薄いものでしかなかったのだ。
 ぶつかられて、非はなかったけれどあいつは、まず謝った。だが、それは連中にしてみれば期待していた結果なわけで、これ幸いとばかりにまくしたてた。曰く、慰謝料がどうとかそのような。
 そんな対応に出た連中に対して、俺はあいつがどうにかされやしないかと気が気ではなく、あいつに代わってなんとか諦めてくれるように前に出て、説得した。というより、頼み込んだと言ったほうが正しいかもしれない。
 しかし交渉は決裂。というか、恐らくこの結果を連中は一番望んでいたのだろう。相手を打ちのめし、その上で借りると言う名目で――当然それが返ってくることはありえない――金を持って行く。むしろそれが筋書きだったかもしれない。ガキ二人をボコボコにする程度、連中にとっては造作もないことだっただろう。
 それでも、あいつの前で無様なことはできないと、内心怯えつつも俺はできるだけの抵抗をしようとして身構えた。けれどもあいつは小さな手で俺を押しのけると、すっかりやり遂げた気分でいる連中にゆっくりと近づいていったのだ。
 俺が危ない、と声を上げようとした瞬間だった。あいつはそこで振り返って、言った。
「……大丈夫だよ、ルキウス」
 その通りだった。下から襲ってきた蹴りを、あいつは涼しい顔で受け止めた。それも、片手で。連中の一人はその光景にぎょっとすると、なおも足を止め続けるカイトにパンチをお見舞いする。
 だがあいつはそれを上体をわずかにずらしてかわすと、止めていた足を大きく跳ね上げ、殴りかかってきた相手の腕を取り、どこかをどうかした。瞬間、その相手は大きく宙を舞って、背中から道路にたたきつけられてそのままあえなく昏倒した。
 わけのわからない光景だった。
 その辺りで拾ったらしい棒による一撃は、最小限の動きで回避されて、その次には虚空に弾かれていた。額に当たるはずだった石は、首をすくめてかわされた。いや、それどころか、明らかに回避できないはずの一撃もあったはずなのに、それらはみな、なぜか何かにぶつかったかのように弾かれた。その時何か、風を切るような得体の知れない音が響いたような気がするが、空耳だったのだろうか。
(な……なんだよ……。あいつ、強いじゃないか……)
 最初あいつの泣き顔を見たとき、なんて小さくてかよわい存在なのだろうと思った。きれいで可愛い、それでいて壊れやすい、ガラス細工のような存在だと思った。少しずつあいつに惹かれていたのはもうなんとなく自分でもわかっていたから、できるならば、何か危険なことに遭遇した時は俺があいつを護ってやろうとも思っていた。
 それなのにあいつときたら、いつかのように、どこか遠い幻を見ているかのような遠い目のまま、ただ翠緑の美しい瞳を焔のように揺らめかせながら淡々と敵を倒している。
 自分が情けなかった。まるでピエロか何かのように思えて、同時に悔しかった。俺は、あんな小さな女の子すら護れない、そんな子に護られるくらい、ちっぽけな存在に思えたのだ。
 やがて相手の連中は、カイトの超常的な動きに薄気味悪いものを感じたのか、はたまた勝ち目がないと悟ったのか、一人、また一人と逃げていった。たいていは捨て台詞をはきながらだったが、中にはただわけのわからない悲鳴を上げていく奴もいた。
 たった一人残った、恐らくリーダー格らしい男は意地やプライドによるものなのか、それとも単純に鈍いのか、殴りかかった拍子に腕を絡め取られ、そのままその腕をありえない方向へと捻じ曲げられた。
 あいつの手に捕まってようやく状況のやばさに気づいたのか、男は全身で抵抗したが、カイトの攻撃はいっかな止まる気配がなかった。そのままゆっくり、嫌な音を立てながら男の腕が曲がっていく。悲鳴が道路に響いた。
 その声に俺は我に返った。そして、慌てて二人の間に入る。もちろんあいつがどうこうされるのを止めるわけではなく、あいつが相手をどうこうしてしまうのを止めるために。
「カイト、もういい、もういいんだ! もうやめてやれ!」
 俺はそう言いながら、あいつの腕をつかんだ。その細くて白い、きれいな腕は、しかしつかんだ俺もぎょっとするくらい、予想外の強さをしていて、俺の手なんてものともしなかった。
「カイト、もうやめるんだ! カイト!」
「……す……? ……ル、キウス……」
 俺の声に、カイトは呆然した。その時腕の力も緩んだようで、捕まっていた男はするりとそこから抜け出すと、悲鳴と共に立ち去っていった。
 彼が消えても、しばらくカイトは呆然と、目の焦点があっていないのかぼう、と遠いところを見つめていた。まるでぬけがらになってしまったかのように。
 それまでは俺が何か話しかければ多少なりとも返事をするようになっていたのに、それすらもなくなってしまっていて、ただそこに立ち尽くしているばかり。
 俺はなんとかしてあいつを引っ張って、今日は厄日だなどと思いながら帰宅の途についた。
 帰り道に不良に絡まれたことは黙っておいた。絡まれたついでにあいつが返り討ちにしたことなんて、もちろん言えるはずもない。
 その日、ベッドの中で俺は、ひたすらにあいつの、あの人間を超越したかのような動きが夢であってほしいと願いながら、一向に訪れる気配のない睡魔を待ち続けた。

 次の日からしばらく、あいつは孤児院に引きこもっていた。本を読むわけでもなく、ただひたすら最初のように、ぼう、と何か非現実のものを見ているような感じで。
 どうしてそんなことになったのか俺には見当がつかなかった。一瞬、俺の前であんなことをしてしまったからなのかという考えもよぎったが、さすがにそこまで自分に自信があるわけでもなく、ましてや、俺とあいつは、何か特別な関係でもない――自分を納得させるためにいやに強調した覚えがある――のだから、それは即座に否定した。
 一体何があったんだと、俺は何度もあいつに問いかけたが、しかしあいつからは何も答えは返ってこなかった。ただ以前とは、俺を含め他人からの言葉に最低限の反応を示していた点で違っていた。食事はちゃんと自分で取っていたし、周りからの問いかけには首を振った。
 当初のような状態になってしまったことで、俺はやはり周囲から泣かせでもしたのかなどとさながら週刊誌やワイドショーみたいに身に覚えのないことを問いただされたが、本当に思い当たる節などなかったので、とにかく違うとしか答えることはできなかった。
 あいつのその変調はやがて一週間ほどで収まったが、それからしばらく、あいつは俺と口をきいてくれなかった。それどころか、俺の姿が視界に入ることすら避けているような雰囲気で、俺は内心で何か嫌われるようなことでもしてしまったのかと自問しつつ、あいつから避けられているらしいという現状にただ落ち込んだ。
 それ以降、あいつは以前にも増して猛烈な勢いで本を読み漁るようになった。図書館でどれほど本を読んでいたかは、避けられていたので近づけなかった俺には知る由もないが、借りてきた本を読む速度は明らかに上がっていた。その姿はまるで、何かから逃げるかのように、文章の中に潜り込んでいるみたいだった。
 そんな中迎えた、夏休みも終わりに差しかかったある日のこと、それは丁度、最初あいつと言葉を交わしたような、夜空がよく澄んだ日。
 未だに接触を避けられていた俺は少しセンチになって、自分でもらしくないが縁側に座って空を眺めていた。双子の月は片方が昏い新月、もう片方が光る満月だった。
 色々なことが俺の中から湧き上がっては沈んでいった。どうしてあいつが俺を避けるのか、もしかしたら俺のことが好きではないのか、そうならどうして最初からそうでなかったのか。
 ぐるぐるとネガティブな思考が頭の中で渦巻いて、なんだか胸が苦しかった。胸が張り裂けそうというのはこういうことを言うのかと思いながら、恐らくは今も自室で本を読みふけっているだろうカイトの顔を思い浮かべて、深いため息をついていた。
 じわり、と涙が浮かんできたので、俺はごろりとそこへ仰向けになる。涙がこぼれないように。視界はぼやけていたが、夜の広間の天井は、夜空とはまったく正反対にただひたすら真っ暗だった。
「はあ……。もう……どうすりゃいいんだか……」
 何気なく口をついて出てきた言葉は、自分でもびっくりするくらい震えていた。ここまで泣けたのは、両親を失った時以来かもしれない。
 なぐさめてくれる相手のいないところで、独り哀れっぽく泣いたところで意味などない。だから、涙が収まるのをただじっと待つくらいしか、その時の俺にできることはなかった。
 自分でもどれだけそうしていたかは定かではない。ただ、ようやく涙が収まって、自分の中のもやもやをどうにか胸の奥底に押し込めることができたので、そろそろ部屋に戻ろうと身体を起こしたら、頭上で光っていたはずの月は既に大分降りてきていたから、かなりの時間そうしていたことは間違いない。
 いい具合に眠気もやってきて、もういい加減で寝ようと部屋まで戻る。あくびをしながらのろのろと廊下を歩いてようやく自分の部屋――正確には相部屋だから俺だけのものじゃない――に戻ってきて、俺は思わず足を止めた。
 部屋の扉、その前に、カイトがいた。どれくらいそうしていたのか、廊下に腰を下ろして細いひざを細い腕で抱えながら。
 一気に目が覚めた。それと同時に心臓が一気にたくさんの血液を送り始めて、半分眠りかけていた頭にエンジンをかける。
 あいつはまだこちらに気づいていないようだ。俺はどうすればいいのだろうと考え、そしていい考えなど突然に出てくるはずもなく、結局正面から声をかけていた。
「よ……よう、どう、したんだよ……?」
 できるだけ何気なく風を装ったつもりだったが、まったくできていなかった。声が上ずって、また震えていて、なんとも情けないことこの上なかった。
 カイトは俺の姿を確認すると、ゆっくりと立ち上がって、しばらく何か迷っているような様子だったが、やがてぱたぱたと廊下の向こうへ走り出した。
「あ、お、おい、待てよっ?!」
 思わずそう言って、俺は追いかけていた。人の部屋の前で座り込んでおいて、部屋の主の姿を見て逃げるなんてさすがに腹が立った。そうまでして俺を避けたいのか。俺が何をしたっていうんだ?
 あいつが消えた廊下の角を曲がると、その先であいつが立ち止まってこちらを見ていた。俺の姿を確認すると、あいつは再び駆け出す。
(なんだ?)
 そう思うと、ついさっきまでの腹の虫も勝手に収まって、今度はただその疑問を引きずりながら俺は走っていた。
 何度かあいつは廊下の向こうへ消えたが、そのたびにあいつは少し先のところで俺を待っていた。それを繰り返して、おぼろげに俺はあいつが俺をどこかへ連れて行こうとしているのだと思い立った。そして遂に、あいつは一つの部屋の前にたどり着くと、俺の姿を確認してそこに消えた。
 そこは女子棟の奥まったところだった。通常ここでは二人もしくは三人の相部屋が基本だったが、その部屋のネームプレートには一人分の名前しか記入されていなかった。その名前はメル。あいつだ。
 名前を確認して、俺は少し、どうしようか迷った。こんな夜中に、女子棟にいるのはさすがに気も引けた。しかし結局誘惑に負けて、俺はその部屋の扉を、できるだけ周りに響かないようにノックした。
 ほんのわずかな間を空けて、「入ってきて」という、あいつの声が中から飛んできた。
 何かやましいことがあったわけでもないが、それでも中に入るのはなんだか勇気が要った。一瞬の間を最大限に考えて悩んで、そして俺は、その扉を開いた。今まで見たこともなければ聞いたこともなかった、あいつの部屋の扉を。
「……カイト……?」
 部屋の中は、正真正銘の真っ暗闇だった。暗闇には目が慣れていたが、それでも何も見えなかった。完全に光がないらしい。通常は常夜灯くらいついているはずだが、それが消されているのは用心深いからなのか。しかし、どことなくあいつらしいと俺は感じた。
 俺が暗闇に向かって声を投げかけると、ひんやりとした何かが俺の手に触れた。一瞬どきっとしたが、手に触ったその感覚から、それが手であることがわかった。状況から考えれば、それはカイトの手。
「……お、おい?」
 返事はなかった。ただその手は俺を部屋の中へと導くと、どこかで俺を座らせた。布団の感覚があったので、ベッドに座らされたらしい。
 俺が困惑していると、隣にカイトが腰かける気配を感じた。目が見えないせいで他の感覚が鋭くなっているのか、すごく近いところであいつの静かな呼吸がやけにはっきりと聞こえて、俺の鼓動は早くなった。
「……ごめんね」
 たっぷり間をあけて、カイトはそう口を開いた。が、一瞬どうして謝られているのか俺にはわからなかった。
「別に、嫌いなわけじゃ、ない、んだけど……」
 そう続けられて、やっと俺は、俺を避けていたことについてなのだと理解した。同時に、嬉しかった。俺は嫌われているわけではないのだと、あいつの口から聞けて。
「……いや、俺はその……別に……」
 隣から、さらさらと髪の毛の揺れ動く音が聞こえた。否定されたらしい。確かに相当気にしていたから、それに対しては何も言えなかった。
「……じゃあ、なんで」
 代わりに、聞いていた。もう謝らなくていいからと、思いながら聞いた。そうしたやり取りは不毛に続きかねないから、とにかく真相が知りたかったから。
 俺の問いには、沈黙が返ってきた。ただの沈黙ではなく、言おうかどうしようか、悩んでいる。そんな雰囲気だった。こんなところまで連れてきたわりには、あいつの中でもはっきりとした考えというか決意は固まっていないらしい。
「……ルキウスが」
 散々悩んで、ようやくカイトは口を開いた。ヘンなところで止めるので、俺は思わず不安になって、暗闇に沈んでいるあいつのほうに身を乗り出していた。
「……似てた、から……」
「……俺が似ていた?」
 誰にだろう。まさか、あいつの父親とかだろうか? そうでないとしても、なんとなく、あいつにとって大切な人だろうな、などと思った。
 そして同時にああ、そうだったのかと思った。あいつが俺を避けていたのは、もうこの世にいない大切な人を見ているようでつらかった、ということだったのかと。
 カイトもその気配がわかったらしい。小さくうん、と呟いた。推測が裏付けられて、半ば無意識にそうだったのか、と返答していた。
 それからしばらく時間をかけて、あいつはぽつりぽつりと、少しだけその人について語ってくれた。
 俺と似ているというその人は、名前を『スウォル』と言うらしい。地方都市の要職についていて、そこでは有名人だったらしい。少なくともまったく聞き覚えがない名前なので、恐らくカイトはここではない、どこか遠いところの出身なのだろうなとなんとなく思った。
 そしてその人は、行き先のなかったカイトに、たいそう親切にしてくれたらしい。やはり、その人はあいつにとっては父親にような存在らしく、また同時にそれ以前からあいつが孤児だったことを知って、悲しくなった。二度も親と呼べる人をなくすなんて、俺には考えられなかった。
 なお、あの不良どもを撃退した神がかった体術は、その人から教えてもらったらしい。その際に、恐らくは師匠としての敬意を込めてだろうが、『スウォル様』とあいつが呼んだ時、何か気に食わないものを感じたが、それを突っ込んだらなんだか聞きたくないことが飛び出してきそうで、追求できなかった。
 そうこうしているうちに、外から小鳥のさえずりが聞こえてきた。夜が明けてしまったらしい。
「……朝になっちまったみたいだな」
「うん……」
 俺の言葉にカイトは立ち上がると、移動してカーテンを少しだけ開けて見せた。
 その瞬間、夏の朝の日差しが部屋の中に差し込んできて俺は思わず目を細めた。やがてその光にも慣れて目を開けられるようになると、カイトの姿と、あいつの部屋の様子が見えるようになった。
 ひどく殺風景な部屋だった。置いてあるものと言えば、ベッドと机だけ。それ以外のものは何もない。強いて言うなら、机に載せられた本たちくらいだが、それ以外は本当に何も見当たらなかった。時計すら存在していない。
 普段どういう生活をしているのだろうと思い尋ねてみようかとも思ったが、ずっと本ばかり読んでいるのでそれ以外のことはしているとは思えず、本当にあいつの生活には本しかないのだと感じた。
「まだみんな寝てる時間かな」
 部屋の中を見渡して、改めて時計がないのだと気がついてそう言ってみる。あいつはこくりとうなずきながら光をさえぎるカーテンを厚いものから薄いものに切り替えた。強めの日差しが柔らなくなる。
 一応カーテンが引かれているが、それは薄いので外の景色を見ることはできた。この部屋は隅のほうにあったと思ったが、窓から見える景色は結構いいものだった。
 と、俺は普段自分の部屋から眺めている庭の木を違う方向から見ていることに気がついて、自分がいるところが女子棟であることを思い出した。今はまだほとんどの奴らが眠っているだろうが、もう少しすると…。
「やっべ、俺そろそろ戻るわ!」
「あ……う、うん。ごめんね、夜中に連れ出しちゃって」
 職員やここで寝ている女子たちに見つかる前に部屋に戻らないと、後でひどい目にあうのは火を見るより明らかだった。カイトもそれに気がついたようで、ひどく申し訳なさそうな顔をした。
「い、いや、大丈夫、気にすんなって。んじゃあ、な、また飯の時間にでも!」
 あいつの話はもっと聞きたかったし、あいつと二人きりの空間にいたかったが、それをするには少し、いや、かなり時間がないと言わざるを得なかった。
 急いで俺は自分の部屋に戻ったものの、結局俺はその後一睡もできなかったのでその日は一日中ぐったりとしてすごした。一方あいつは、朝食の時には小さくごめん、とささやき、その日は図書館には行かないで俺の方を気にかけつつ、のんびりとしたペースで本を読んでいた。
 俺を気にかけてくれたことには素直に嬉しい気持ちがあったが、正直それ以上なんだかんだと考えるだけの心の余裕はなかった。

4.秋→冬、記憶

 そしてまた、季節は変わる。時間の流れは決して止まることはない。ただ、低きに従う水のように。
 秋。ご多分に漏れず俺の通うスクールも、行事の多い季節だった。体育祭は言うに及ばず、それに続く文化祭が全校生徒の関心の的。学校からしたら定期テストも行事の一つかもしれないが、子供心にそれははっきり言ってどうでもいいことなのは納得してもらえるだろう。
 カイトとの溝が埋まってしばらく経っていた。あれから、なんとか多少会話をすることができる程度には関係は戻っていたが、やはりなんとなく俺に『スウォル様』の面影を感じるからか、いささか遠慮しがちではあった。
 また、俺以外の人間とも少しだけ言葉を交わすようになっていて、それは喜ぶべきことなのだろうが、やはりと言うかなんと言うか、面白く感じていなかった俺がいたのは事実である。
 俺はどちらかというと勉強よりもスポーツが得意だった。だからというわけではないが、体育祭は俺にとって活躍の場で、毎回楽しみな行事だった。
 また、自分の出番がたくさんあるのだから、できれば体育祭にあいつも見に来てくれないかと思ったが、そうした淡い期待はかなわなかった。まあ当日までにかなり時間があったのに結局言い出せなかった俺が圧倒的に悪いので、朝、出発する際に「がんばってね」と言われただけでも幸せかもしれない。
 体育祭はダメだったが、その次に控える文化祭はみんなが出し物をやる、地域の行事と言っても過言ではない。スクールの生徒だけでなく、周辺の住民も毎年出店などで参加するのだ。これなら、きっとあいつも来てくれるし、誘うのも不自然じゃない。そう思いながら、俺は秋が深まっていくのを見守っていた。

 文化祭前日。出し物をやる連中は最後の最後までスクールに残って調整を続けていたりしたが、そんな中を俺は一足先に抜け出して帰宅の途についていた。
 孤児院の友達連中も、居残りをしているやつが多くてその日は少しだけ閑散としていた。既に日も暮れていたから、庭先で遊んでいる下級生たちの姿はとっくに見えない。
 用意してくれていた夕食を手早く片付けて、俺はカイトの姿を探した。と言っても、探すまでもなくあいつが普段どこにいるかはわかっていたから、あいつのところに行った、というのが正しいかもしれない。
 あいつは相変わらず、本に没入していた。広間のソファーに座って、小さなひざに大判の本を乗せて、もはや見慣れたがやっぱり何度見てもすごいと思う速さでページをめくっていた。
「よ、また本が変わってるな」
 俺が声をかけると、カイトは頭を上げて俺のほうに目を向ける。そうしてこくんうなずくと、
「……うん、今度のはちょっと時間かかりそう」
 そう言って少し微笑んだ。
 そんなカイトの隣に俺はそっと座って中を覗き込んでみる。そしてすぐ、後悔する。何がなんだかさっぱりわからない式や、細かい文字が溢れていて頭が痛くなった。
「……無理」
 渋い顔をしながら頭に手をやってそう言う俺を見て、カイトはくすくすと小さく笑った。
 最近、少し笑うようになったあいつの笑顔は、はっきり言おう、まるで天使のそれだ。惚れた弱みかもしれないが、少なくとも俺はそう思っていた。いや、今でも思う。これほど笑顔の似合う顔は、あいつ以外誰もいないだろうとさえ、思う。だが、あいつの心からの笑顔は見たことがなかった。いつもあいつの微笑みは悲しそうで、どうすればあいつの満面の笑みを見ることができるだろうかと俺は考えるようになった。
 そして、俺がそうしてあいつの顔に見とれている間も、あいつはページを読み進めることを止めない。どうやって切り出したものかと俺が悩んでいて、一言二言会話を交わしていても、速度が落ちることはないのだ。
 正味な話人と話している時くらいこちらを見てほしかったが、それは多分俺が口下手で、あまり多く発言しないせいもあるのかもしれない。
「……で、さ、話、変えるんだけど……明日、うちで文化祭、あるんだよ」
 なぜなら、俺の言葉にあいつは手を止めると、ちゃんとこちらを向いてくれるから。それで少し考えて、
「……へえ、そうなんだ。あ、だから最近、みんな忙しそうだったのかな」
 と答えるのだ。それにはすぐに、そうだと返して少し考える。
 果たして、カイトは来てくれるだろうか。考えても仕方がないのだが、ついつい口にすべきかどうか迷ってしまうのだ。自分の中で答えを決めあぐねて、どういうことがあるのかとか、俺のクラスが何をするのかといった、文化祭についての当たり障りのない会話をする。
 が、結局答えを決めかねている中でそうしたネタはいよいよ尽きることになる。俺ってヘタレだなぁ、と多少自己嫌悪に陥りつつ、それを口にした。
「なあ、その……お前、明日来ないか?」
 俺の提案は少し意外だったらしい。カイトは大きな目をさらに大きくさせて、俺の顔をきょとんと見つめる。
「人はたくさん来るけど……その……なっ、きっと、楽しいと思うんだ。ここのみんなもきっと喜ぶし」
 見つめられるというのは落ち着かないもので、しどろもどろになりながら俺は言葉をつむぐ。さらに何か気の利いたことの一つでも言えればよかったのだが、あいにくとそんな技術と度胸など、まったく持ち合わせていなかった。
 カイトはそれに対して、ソファーに深く座りなおすとしばらく天井に眼をやった。そうしてやがてこちらに視線を戻すと。
「考えとく……よ」
 それだけ言って、なにやら意味ありげにうなずいた。来るのか来ないのか、どちらでもない返事をもらって、俺はようやくそこで無意識に呼吸を止めていたことに気がついて、大きく息を吐き、そして吸い込んだ。
 それからは、俺から何か言うわけではなく、カイトが何か言うわけでもなく、ただ図書館にいるかのように二人とも黙り込んで、静かに時間を過ごした。消灯の時間が来るまでそれは続き――そして、その夜は結局眠れなかった。

 先に述べた通り、俺たちの住んでいた街はベッドタウンとしての性質が強かった。つまり、産業らしい産業はあまりないが、人口は多い。このためか、毎年各地域のスクールで行われる文化祭は多くの人が集まるビッグイベントだった。
 そんなわけで文化祭当日、俺の通うスクールも、それはもう見渡す限り人、人、人の大盛況となるのだった。別に目立ったところがあるわけではない。校庭には出店が並び、校舎の中では各クラス、あるいはサークルによる出し物があるというような、どこでも見受けられるようなごくごく一般的なものだ。
 その中で、俺の所属しているクラスでは大真面目なクラス委員の、街の歴史について発表するとかいうこれまた大真面目な意見に、対案を出す積極的な奴がいなかったおかげで――せいで?――広めの多目的ホールで街について調べた結果の発表を張り出す――ネーミングにセンスはなく、『私たちの街』という直球すぎる名前で――ということをしていた。
 図らずも夏休み中、何気なく図書館で読んで得ていた知識がここで発揮されることになったのだが、別に嬉しくもなんともなかった。堅物の委員長に多少は見直された――お約束みたいな、皮肉交じりのほめ言葉だった――ところで、楽しいはずもない。これが女子だったら少しは違ったかもしれないが。
 とはいえこの『私たちの街』、意外にも大人受けはかなり良かった。来客に若年層はさっぱり見受けられなかったが、昔からこの辺りに住んでいるという人たちには懐かしかったらしい。世の中何が受けるかわからない。
 俺が自分のクラスのところにいたのは受付の仕事があった午前中だけで、午後に入ってからは友達と他を見て回ることにしていた。受付をしていた時も、もしかしたらあいつが来てくれるんじゃないかと思ってそわそわしていたが、結局そんなことはなかった。
 まあ仮に来てくれたとしても、お互いの姿をこの人ごみの中から見つけ出すのは大変だろうから、半ば諦めの境地ではあったのだけど。
「さて、どこに行こうか」
 そこらの出店で買ったらしい焼きそばのパックを片手に友達の一人が言う。俺は参謀よろしくその傍らでパンフレットを開いて出し物がある場所の見取り図を見せていた。
「演劇部のはまあ、基本じゃないか?」
「確かに。あとは……なんだ、このムササビ研究会って?」
「さあ。今年になってできたサークルらしいけど、知らねー」
 人でごった返した廊下を歩きながら、みんなで話し合う。まあ話し合うと言っても、基本的に計画性はない仲間内だったから、なんだかんだで予定通りに行くわけはないのだが。
 演劇部の、さすがに手の込んだ芝居を見て、キャストのだれそれが可愛かったとか、裏方がどういうことをしているのかとか、とりとめのないことを言い合いながら――見所はそこじゃないだろうと言いたかったが、やめておいた――今度はどこへ行こうという話になる。
「あ、おい、なんかあれ面白そうじゃないか?」
 パンフレットを眺めながら面白そうなものを探していた俺の肩をたたいて、そいつは廊下の行き当たりにある部屋を指差した。
 一体何をと思ってそちらを見ると、そこには、いかにも何かが『出そう』な雰囲気のおどろおどろしい装飾が入り口に施された場所だった。黒い幕が垂れ下がり、そこここになにやら骨みたいなものや鎖などがつけられている。
 掲げられた看板には『オカルト研究会』のこれまたおどろおどろしい書体の文字が踊っていた。誰もが内心、納得すると同時にうさんくさいと感じたと思う。まあ確かに、面白そうではあったけれど……。
「……外れの匂いがするんだけど」
「いや、そこはあえて行ってみようぜ。人少ないみたいだし、もしかしたら当たりかもしれないじゃん」
 随分とわかりやすい前向き姿勢。当たりとは余り思えないが、まあその時はその時で、話の種になるだろうか。
 気がつけば全員、その扉をくぐっていた。やっぱり、予定通りになんかなりはしない。
「うへぇ、よくこんなに集めたなぁ」
「…………」
 中もこれまた不気味な飾りつけがされていたが、そこで行われていたのは意外にも、未確認飛行物体がどうのとか、異世界から来た人間がなんだとか、黒魔術がどうのとと言った、怪しいものではなかった。
 そこで催されていたのは、人々の生活を脅かす化け物たちについての研究だった。
 化け物と言って、一笑に付さないでもらいたい。この『世界』では、科学が迷信や魔術と言ったものを駆逐して長い年月が経っており、ファンタジーだのメルヘンだのは縁がなかったのだが、なぜか俺が生まれたくらいを境にして、急にそうした存在が現れるようになっていたのだ。
 最初のほうでちらりと触れたが、多発する失踪事件、および親をなくす子供の急増の原因はおおよそにしてこの化け物どもだ。
 そして…俺もその一人であると言ったのも、つまりはそういうことだ。俺も、こうした化け物によって、両親をなくしている。目の前で。
「あ、そうか、ルキウスはそういえば……」
「……ん、いや、大丈夫」
 自分をこんな境遇にした連中のことは憎いが、それでも、自分が何もできないガキであることはわかっていたので、そうしたジレンマや心の痛みは全部無理やりに押さえ込んで、俺は展示をそれこそなめまわすようにじっくりと見て回る。
 オカルト研究会がやっていることだから信憑性については疑問符がつく部分もあったかもしれないが、少なくとも俺にはそういった腑に落ちない点はないように思えた。それは自分のトラウマから来る、無意識の受容に対する供給だったからかもしれないが。
「……最初に出たのは十五年前、か……」
 俺が生まれているかどうかぎりぎりの時期だな、と思ったように記憶している。当時の俺からしてみれば、十五年という月日は非常に長いように感じられた。
「へー、別に本当に血を吸うわけじゃないんだな」
「ものにもよる……って、なんか当たり外れがあるみたいだね」
 化け物の総称は、ウァンピーレ。吸血鬼、という意味だ。
 ここの発表によると、これはこの十五年前に現れた最初の奴が血を吸ったから、らしい。以降、ウァンピーレどもは何度もそこかしこで出現し、そのたびに目撃情報があるらしいが、どうやら種類が豊富で、全てが全て血を吸うようなものではないそうだ。
 ……まあ、それを知ったところで、やっぱり俺には何にもできなかっただろう。大体、今まで見つかった連中はどんなに小さくても人間より大きいのだから、生身で太刀打ちなんてできるわけがない。毎月、大の大人がウァンピーレがらみの事件で何人も命を落としているのだ。身近に孤児の数が増えるというのは、そうした恐怖が常にすぐそこにあったことを物語っている。
 一瞬、不良相手にすさまじい立ち回りを演じてのけたあいつの姿が脳裏をよぎったが、いくらあいつでも、丸腰であんなものを相手取るのは不可能だろうと思えて首を振る。その矢先。
「……なんだこれ」
 前言撤回。やっぱりオカルト研究会はオカルト研究会だった。
 真面目なウァンピーレについての発表が大部分を占めていて部屋の片隅に追いやられるような形になってはいたが、そこにあったのは紛れもなくうさんくさい、黒魔術だか錬金術だかの記述だった。何々から抜粋、とか書いてあるが、はっきり言って、とてもじゃないが信じられそうになかった。
「あ、やっぱこういうのもあるんだな」
「うわぁ、なんだこりゃ。『魔法は特別な血筋のものだけが使えるもの』……だってさ。本当かよ?」
 とりあえず、気持ちは痛いほどわかるが、その発表に携わったらしい研究会員がこっちを眺めていたし、あまりそういうことを大きな声で言い合うのはいかがなものか。
 魔法……テレビゲームとかに出てくるような魔法が使えたら、俺でもウァンピーレどもに対抗できるだろうか。本当にそんなものが存在するのならば、使えるようになりたかった。少しでもいい、力が欲しくて。
 何はともあれひとしきりその魔法がどうのという文章を楽しんで、俺たちはそこを後にすることにした。あながち外れというわけではなかった。知識を得ることに関しては、それなりに満足だ。
 順路表記で出口と書かれた場所をくぐっても、そこはまだ彼らのテリトリーらしかった。一種の詰め所みたいな感じで、どうやら交代で休憩を取ったり受付をしたりしているらしい。
 そんな場所でアンケートを求められても、正直困る。書いているところをしかと拝見されたら、書きたいことも書けなくなるじゃないか。
 差し出されたアンケート用紙と鉛筆を手に友達と苦笑しながら見つめ合い、まあ適当なことを書いておこうと思ったが、やたら熱心に話をする研究会員の声が気になってうんざりした顔でそちらに目を向けた。
「……カイト?」
 唖然とした。思わず本当の名前を呟いていた。確かにそこには、あいつがいた。いつも通り、美しい黒髪を深い緑の髪飾りで結ったあいつは、制服だらけの人間の中でとりわけ目立っていた。それでもそんなことは気にしないようで、研究会員が語る話に真剣な顔で耳を傾けていた。
「お、おう、お前、来てたのか」
「? ……あ、ルキウス」
 なんだか複雑な気分だった。あいつが来てくれたのは嬉しいが、なんでまたよりにもよってこんな場所で会わなければならないのか。あと、何を思ってそこまで熱心に話を聞いているんだ?
 俺が明らかに態度が変わったのと、話しかけた相手が少女だったことから、友達連中が群がってきた。
「何だよルキウス、この子どうしたんだ?」
「可愛い子じゃん。ルキウスの彼女?」
「え、ロリコン?」
「うっせぇな、ほっとけよ! 同じ孤児院の奴だよ……」
 思わず眼をそむける俺。たまたまカイトに話を聞かせていた奴が視界に入ったが、よほどヒートアップしていたのか、途中で話の腰を折られてえらく不機嫌そうだった。
 その様子が目に入ったカイトは、俺の代わりに謝るとついでに辞意を告げてそのまま部屋の外へと向かっていった。
 あいつがあまりに気のない風にして出て行ってしまったので、俺は慌てて用紙に適当なことを書き込んで後を追った。
 そこを出てみれば、すぐそばの壁に背を預けて遠くを見ているカイトがいた。俺が出てきたことに気がつくと、こちらを向いて小さく手を振る。
「よかった、そろそろあそこお暇したかったんだ」
 俺が近づくと、開口一番であいつは言った。
「ルキウスが来てくれて、助かったよ」
 そう言ってあいつは微笑む。どことなく小悪魔みたいなその笑い方も、また可愛かった。
「なんだよ、熱心に聞いてたのは振りだったのか?」
「途中から、関係ないほうに行っちゃったから。……それより、いいの?」
「あん?」
 カイトが俺の後ろを指差す。と、そこには、遠巻きにこちらを伺っている連中の姿。
「……あいつら……」
「みんな待ってるみたいだし、行ってきたら?」
「え……いや、でも俺は……」
 お前と一緒に、と言いかけたが、連中が見ているところでそんなことを言うのははばかられた。まったく、ヘンなところでプライドが高いんだからどうしようもない。
「ボクは大丈夫だよ。それよりもさ、友達は大事にしなきゃ」
 ね、と言って、カイトは寂しそうに微笑んだ。大丈夫だよ、という言葉が、なんだか独りでも大丈夫だよと言っているように聞こえて、なんだかひどく切なくなった。
 しかし、それを問いかけるのもこの場では相応しくないように思えた。それこそ、多分俺にとってはあまり嬉しくないことが出てきそうな予感があったのだ。
「……ん……じゃあ、えと、気をつけろよ? ヘンな奴とかに……」
「ありがとう。それじゃあ、また施設でね」
 俺の言葉に一瞬きょとんとしたが、あいつはすぐに微笑んでそう言うと、くるりときびすを返してそのまま人ごみの中に消えた。しばらくその後姿を眺めていたが、後ろから騒がしい声と手痛い歓迎が俺を襲ったので、感傷に浸るヒマはこれっぽっちもなかった。俺はしばらく、近場の出店で取り調べみたいに拘束されるはめになる。
 その日は結局後片付けや何やらで時間が過ぎてしまい、それからカイトと話せるような時間はなかった。まあ、翌日が振り替えで休みになっていたから、そんなに気にしなくても大丈夫かなどと思いつつ、今年の文化祭は幕を閉じた。

 ところが次の日、普段からして早起きのあいつがいつにも増して早起きをし、俺が起きた頃には既に出かけようとしていたのには驚いた。聞けば、今日も図書館に行くのだという答え。
 俺は慌てて着替えると、朝食も取らずにあいつを追いかけた。歩幅のあまり大きくないあいつの歩きに追いつくのはそこまで難しいことではなく、全力で走ったらわりかし簡単に隣に並ぶことができた。まあ正直、朝食抜きには大分厳しいものだったが。
 こんなに早く出てまで、図書館で何をするのだろう?
 それに関しては問いかけても、調べたいことがあるとか、できれば人のいない時間がいいとか、要領の得ない答えしか返ってこなかった。仕方がないので、いつかのように俺はその後ろを黙ってついていく。
 図書館に着いたのは、開館した直後くらいだった。入り口をくぐったら、職員から、こんな早い時間から子供が二人で何の用だとでも言わんばかりの視線を投げかけられたが、あいつはそんなことは一切気にしない様子で、ただぐんぐんと階段を上っていく。
 そのまま二階を通り越して、三階まで上がった。どうやら、今回の目的はここらしい。
 夏休み、ほぼ毎日あいつについてここに来ていた頃、三階にはほとんど立ち入らなかった。そこに置いてあるのは主に児童文学の類で、物理だの数式だの歴史だのという、難解なものばかりを選んで読んでいたあいつのお気に召すものはなかったらしいのだ。
 そんな場所に一体何があるんだと、俺が聞こうと思った矢先だった。あいつは俺のほうを向いて唇に人差し指を当てた。静かに、ということだろう。
 何事かと思って息を殺して様子を見ていると、あいつは周囲の様子を確認しながらとある書架に手をかけた。そのままするすると上に登ると、今度はその書架に隠れていたらしいはしごに手をかけて、さらに上を目指す。
 そのはしごがどこまで続いているのかと上に目をやると、壁の高いところに、ぽっかりと開いた穴が見えた。俺の立っている場所からは、その昏い穴の向こうに何があるかは到底わかりそうにない。
 俺がそうして呆然としていたが、途中であいつのスカートの中が見えそうになり、慌てて顔をそらした。そうして俺が煩悩と戦っている間にあいつはするするとはしごを昇り、その穴の中へと消えた。
 慌ててその後を追おうとするが、あいつがああして静かに、と言ったからには、多分あそこは基本的に入ってはいけない場所なのだと漠然とだが思った。だから、俺もあいつにならって音を立てないように、誰かに見つからないように細心の注意を払いながら、あいつが消えた穴へともぐりこむ。
「……けほっ、うわーすっげぇほこり……」
 中に入ってすぐに、恐らくはかなり長い間ずっとここに積もっていたと思われる、非常に歴史の古いほこりに最大級の舞で歓待されて、大げさながらも思わずむせた。
 そこを見渡してみると、明かりのない屋根裏部屋といった感じで、ほこりの他にもクモの巣がそこかしこにかかっている。たった一つだけある窓は小柄なカイトすら通れそうにないくらい小さく、また日当たりの良くない場所にあるのかほとんど光を呼び込めていなかった。
 そんなところにあったのは、いくつかの本棚だった。下に置かれているものよりは大分小さめで、書架と言うのはなんだか違うように思われた。小柄なカイトでも十分そのままで上の本が取れるだろう。
 そして実際に、あいつは無我夢中になってその本棚に納められたいくつもの本の背に目を走らせ、何か気に入ったらしいものは片っ端からそれを取り出していた。それらは随分と古いもののようだったが、別段ひどく虫に食われているとか、雨漏りとかで腐り落ちていたりということはなく、暗いながらも遠目で、大体は本を開いて読む、もしくは知識を引き出すという実用に関しては下にあるものとほとんど遜色がなさそうだった。
 カイトがあまりに夢中でいくつもの本を選び出しているのでそれを邪魔したら悪いなと思いながら、俺は床に置かれた本の一つを手に取ってみた。
 表紙の装丁は紙というより木か金属で、やけに頑丈で、そして重かった。題名が見たこともない文字で書かれていて読めなかったので中をのぞいてみる。と、なんだか普通の紙とはかなり質感の違う紙が俺の手に触れた。聞きかじった知識で、これがもしかしたら羊皮紙とか言うものなのではないかと思ったが、それよりも表紙と同じく中もさっぱり見たことがない文字でびっしり埋め尽くされていたことに驚いた。
 こんなものを読んで、一体何をする気なのだろう。というか、それ以前にこの本をあいつは読むことができるのだろうか?
 絶対無理だと思いながらも、あいつならやりかねないとも思った。
「……なあカイト? これ……何の本なんだ?」
 いい加減で疑問が大きく膨れ上がってどうしようもなかったので、カイトが一段落したらしいのを見て声をかけてみる。部屋の奥のほうからいくつもの分厚い本を抱えて戻ってきて、あいつは「え?」と聞き返してきた。
「いや、だからこれ、一体何の本なんだ? って」
「もう諦めてたんだけどね……昨日オカルトの人から聞いてここにもこういうのがあるってわかったんだ」
 カイトよ、それは答えになっていない。
「オカルトって……まさか魔法の本とかじゃないだろうな」
「そうだよ。ボクはこういうのを読みたかったんだ」
 冗談めかして言ったつもりのことをあっさりと肯定されて、俺は唖然となった。簡単に言ってくれるが、魔法なんて簡単に信じられるようなことではない。
 そんな俺を尻目に、カイトはどこから取り出したのか緊急避難時用の大きな電灯のスイッチを入れながら、他よりは幾分小さい本を床に置き、そこを照らして見せた。
「見て、これだけほこりがかぶってないから、多分あの人はこれを読んだんだよ」
 他のものとは違って装丁が普通で、書かれている文字も普段見慣れているものだったが、それは別にそこまで気になることではない。
「カイト……。魔法……って、お前、本当にあんなの信じてるのか?」
 色々と疑問は尽きないが、とりあえず最初にそう聞いておくことにした。答えはすぐに返ってきた。
「ウァンピーレは信じて、魔法は信じないの?」
「…………」
 至極不思議そうな顔をしてそう言ったカイトに、何も言えなかった。しかし、そうは言っても実際に見たことがあるものとそうでないものではそうなってしまうものだ。百聞は一見にしかず、とも言うし。
「ボクはね、ルキウス。ウァンピーレは魔法と何か関係があるって思うんだ。どこかの悪い魔法使いが、世界征服のために創った化け物。どう?」
 だがカイトは、無邪気な顔で突拍子もないことを言い出すのだ。そんなどこかのテレビゲームや漫画に出てくるようなことが、本当だったらとしたら少しは笑えただろうか。それにしたって、被害に遭っている身としては、そんな奴がいたなら本気でぶん殴ってやりたい思いに駆られた。
「まあそれはあてずっぽうなんだけど……どうしてあんなのが生まれてくるのか、ああいうのが出たとき一番いいのはどんなことか、とかね、そういうの、知りたいんだ。この『世界』が成り立ってる、仕組みにとても関わることだと思うから」
 そう締めくくって、あいつは穏やかな瞳をこちらに向けた。少し時間が経ったからか、小窓からわずかに光が入って来ていてその瞳を照らす。エメラルドのようにきれいな目が、俺を見ていた。
 あいつの言葉に、両親が死んだ日のことを思い出した。忘れもしない、雷雨がひどかった夜のこと。
 俺の二親は、どちらも民間伝承や民俗学といった分野の学者だった。二人はこの近辺の地域に伝わる雷神の伝説と、それにまつわる特別な一族について調べていたらしい。俺のやけに大仰な名前はそのせいではないかと今では思う。彼らは各地の遺跡を見て回り、常にどちらか片方は家にいなかったことを覚えている。
 そんな二人が珍しく家にいて、家族が三人揃っていた時、俺は、俺たちはウァンピーレの群れに襲われたのだ。ねずみだかうさぎだかを無理やり大きくして凶暴化させたような奴らが、突然家の中に突っ込んできたのである。
 後は、よくある話だ。両親は共に俺を助けるために、死んだ。かろうじて生き延びた俺は、あの孤児院に拾われたのだ。
「……あんなのを……倒せるのか……?」
 思わず拳を握り締めていた。搾り出すように俺が言うのをまるで待っていたかのように、あいつはぱらぱらとページをめくる手を止めるとぱたんとそれを閉じ、そして静かに、けれどあいつらしからぬしっかりとした声で言った。
「それを、それ以上のことを、ボクは知りたいんだ……」
 俺とあいつの視線が、空中でぶつかる。その目には、強い意志が感じられた。その光を、俺は俺ではない、遥か昔の前世か何かで知っていたような気がして、なんだかくらくらした。
「……死んだ魂を蘇らせる、魔法を」
 それはつまり、死人を生き返らせるってことだろうか。そんなことができたら色々と問題が起こりそうだと思う反面、そんなものが実在していたらどんなにかいいだろうとも思った。
 遠くで、雷の音がした。小窓の向こうには分厚くて薄暗い雲が立ち込めているのが見え、夕立にはまだ大分早いが、一雨ありそうだった。
 ただでさえ暗いのに、さらに暗くなってきた屋根裏で、あいつの瞳がぐらりと揺らいだ気がした。
 長い長い沈黙が二人の間に流れた。小窓には雨が叩きつけ、雷鳴と共に風まで吹きすさんでがたがたと音を立てる。
 雨と、風と、雷の音だけが響く空間の中で、あいつは不意に、ぽつり、ぽつりと静かに語り始めた。それは、以前に聞いていた『スウォル様』の話、その続き。いや、ほとんど全貌のような長いものだった。
 それらの話は、まるで音楽の授業で聞いた詩吟か何かのように、謡っているみたいだった。それまでのあいつからは考えられないくらいに長い詩の大部分は『スウォル様』との思い出で、しかしそうした話を語るうちに、あいつは少しずつ、表情を変えていった。失った過去を思い出すような顔から、崇拝にも似た、恍惚とした顔に。
 瞳から立ち上がる緑色の憧れ、嬉しさ、その他あらゆる幸せそうな感情は、つまり、あいつにとって『スウォル様』が父親のような存在ではなく、あいつを包み込んで、良きも悪きもすべて受け入れてくれる、恋人のような存在だったのだと、俺の認識を改めさせるには十分すぎた。
 そうして、なんとなく気がついた。あいつが最初からその時に至るまで、頻繁にうつろな瞳で遠くを眺めていたのは、現実世界の喧騒ではなく、それよりもずっとずっと高い優先順位に『スウォル様』との思い出を割り振っていたからなのだと。
 稲光が刹那、屋根裏を照らす。俺はこぼれかけていた涙が見られると思って、とっさに顔を背けた。余韻を響かせながら、再び静かになっていく中で、そっと涙をぬぐう。あいつの話は、詩は、続いた。
 そんなもの、まるで反則じゃないかと、俺は下唇を強くかみ締めた。
 あいつのあんな嬉しそうな顔は、それまで見たことがなかった。何をしても、決して出てこなかったあいつの笑顔に、俺はどうすることもできやしない。
 俺は、こんな笑顔をあいつに生み出してやれるだろうか。この世から去ってしまった、思い出という記憶の中に理想的に編集されたアルバムで飾られた美男に、俺は太刀打ちできるのだろうか。
 そんなこと、できる気がしなかった。俺は、その人のように強くなんかない。その人のように偉くなんかない。何かを与えられるわけでもない。
 俺はただ、あいつのことが好きな――そう、それこそ胸が張り裂けて死んでしまうくらいあいつのことが好きな、ただの子供。勝負なんて、最初から見えていた。
「……ルキウス、ねえ、聞いてくれてる?」
 本人に自覚は多分ないだろうけれど、時折はさまれるその言葉が、また苦しかった。
 俺は決して『スウォル様』ではありはしないのだと言われているような気がして、また涙があふれそうになる。けれど、あいつは思い出を語ることに夢中で、それには気づいていないようだった。
「……ああ、聞いてるよ。それで、どうなったんだ?」
 だから、俺にできることと言ったら、嗚咽をかみ締めながら涙が収まるのを待ちつつ、できる限りそれが不自然にならないように努めるくらいだった。
 俺がそう言うと、あいつは安心したように、また長い思い出を語り始める。雷雨が遠ざかる気配を感じた。
 あいつの思い出話は、まるで以前にここで読んだような、古い伝承の物語よりもよっぽど荒唐無稽だった。けれどもそれを語るあいつの語り口は真剣で、その瞳は痛々しいくらいにまっすぐで、だから、俺はあいつの話すことをすべて信じることにした。
 あいつの話を聞くうちに、あいつが見た目に反してひどく長い長い年月を生きてきたのではないかという疑惑が俺の中に生まれたが、しかしそんなことはもはやどうでもよかった。
 よしんばあいつの言っていることがすべて、その小さな頭の中で生み出された幻想、妄想で、あいつがどうしようもない虚言癖の持ち主だったとしても、俺は、俺だけは、あいつを信じ続けようと決心した。
 もう、自分の気持ちに嘘はつけなかった。この時、はっきりと理解した。あいつはとっくに、俺の中で大切な場所を占めるピースになっていたことを。だから今さらあいつが普通じゃなかったとしても、もう取り外すことなんてできやしない。

 その日、カイトが話すのをやめた時、小窓からは既に星空が見えた。
 朝、ここが開館してすぐくらいからずっといたのだ、カイトの話がいかに長く、そして大きなものかは想像に難くないと思う。そして同時に俺は、あいつが見た目通りの少女ではなく、少なくとも百年くらいは生きているのだと、直感ではあるが半ば確信するに至っていた。
 すっかり夜になってしまったので、俺たちは重い腰を上げて下に降りようとしたが、どうやら既に閉館してしまったらしく、館内の照明は小さなもの以外すべて落ちていた。
「……もしかして、閉じ込められた?」
 すべて――いや、恐らく本当に全部話そうとするなら一日では足りないと思う――を話し終えて、疲労とそれから過去の幸せを思い出してしまったからだろう、いつもより消沈して見えるカイトのほうを振り返る。あいつの持つ電灯の光がやけにまぶしかった。
「……え、うそ……」
 肩を落としていたカイトも、さすがにそれには驚いたらしい。俺たちが朝入ってきた壁の穴から顔を出して今度は図書館の中を見下ろすと、それから意味もなくあー、とだけ言った。
 このままぼう、としていてもどうしようもないので、ひとまず俺たちはそこから降りることにした。二人同時にはしごを降りるのはやや危なかったので、一旦俺が電灯を持って残り、先にカイトに降りてもらうことにする。
 度胸があると言うか、やはり先ほどまでの壮大な話は本当なのだろう。あいつは暗闇の中をまったく恐れることなく、するするとはしごを降りていく。やがて下までたどり着いたのだろう、闇の中から「いいよ」と声が飛んできた。
 あいつの声を受けて、俺は持っていた電灯を下に落とす。光があっという間に遠ざかっていき、そして止まった場所にあいつの姿を見つけた。上手くキャッチしてくれたようだ。
「じゃ、今から降りるから……」
 こちらを照らしてくれるあいつの姿を見下ろしながら、俺はゆっくりとそのはしごを降りる。古いものだからか、時折俺の体重にぎしぎしと悲鳴を上げて、俺は何度か身体を強張らせた。視界が悪いというだけのことなのに、まったくそれだけで一気に心細くなるものだ。
 とはいえ、ただでさえ何もできないのだから、せめてあいつの前でだけはかっこ悪い姿をさらしたくなくて、俺はできる限り警戒しながら、少しずつ慎重に下へ降りる。やがて光が近くなり、なんとか最初足場にした書架のところまでたどり着いた。
「ふー……」
「おつかれさま」
 ぺたんと書架の上に座って電灯をかざしたまま、カイトは少しだけ笑った。その顔はやっぱりどこか寂しげだ。少し胸が痛んだが、とりあえず、この中で一夜をすごすのは色々と避けたいところだ。
「……で、どうしよう?」
「んー……図書館の人には悪いけど、どっか窓から出ればいいんじゃないか?」
「……だね」
 窓開けた瞬間警報でもならなきゃいいけど、とも思ったが、しかしそれくらいしか俺には方法が見当たらなかったので、それに関しては気にしないことにした。
 まあ、じっとしていても仕方ないので、とりあえず動き出すことにした。
 俺はカイトの代わりに電灯を持ち、先頭に立って行く先を照らす。静かすぎて、電灯のじじじ、という音すら聞こえてくるくらいだ。
 中をしばらく歩き回ってみたが、窓という窓がものの見事に全部はめ込み式で、開くタイプの窓は数えるほどしかなかった。しかも悪いことに悪いことは重なるもので、そういうものに限って高いところにあって手が届かない。入り口に関しては無論しっかりと錠が施されており、びくともしなかった。
 途方にくれそうになるが、だからと言って諦めるわけにもいかず、とにかく出られそうな場所をひたすら探して館内をさまよう。ようやくそれらしい出口――無論本来の用途ではない――を見つけたときは、結構な時間が経っていた。まあ、それは感覚であって、実際はそこまで経ってはいなかったが。
「…………」
 そこは、女子トイレだった。思わず黙り込む。厄介なことに、元が紡績工場という女性の職場だったからなのか、男子トイレは増築された場所にしかなかった。そして、そこには窓はあってもそれはどん詰まりの敷地内に繋がっていて、結局出られなかったのだ。
「どうしたの?」
「……いや、なんでもない」
 不思議そうにこちらを見つめてくるカイト。女子トイレになぞ男の俺に縁があるはずもないので、今まで一度も入ったことのない、まるで一種聖域のような気がして、なんだか肩身が狭かった。
 女子トイレの奥には、なんとか人が通れるくらいのサイズの小窓があった。そこから外を眺めてみると、道路に面した芝生がすぐそこに見えた。
「じゃ、えーっと、今度は俺から出るよ」
 俺の言葉にカイトはこくりとうなずいて、足場や手のかけられそうな場所を照らしてくれた。
「よ……っと……」
 小窓から身を乗り出して、なんとか自分の身体をそこから引き抜こうともがく。なんだか泥棒か何かになったみたいで、ヘンな気分だった。子供と言っても、俺もいい加減でそれなりの身長だったので節々を何度かぶつけることになったが、かろうじて無事に外へ出ることができた。
 自分が出てきた窓のほうに振り返って、俺はカイトから電灯を受け取った。今度は俺が窓の周りを照らしてやる。
 さすがにカイトは俺よりも小さく、また身体つきも細かったので、比較的楽に抜けられたようだ。するりと窓を抜けると、軽やかに着地…しようとして。
「あ、カイト、スカートがひっかかって……」
「え? きゃっ?!」
 遅かった。がくんと揺れて、カイトはまったく見当違いの場所に落ちる。俺はなんとか助けようとして、身体をあいつと地面の間に滑り込ませた。何か、布地の破れる音が聞こえた。
「い……たぁ……。ルキウス……ごめんなさい、えと、大丈夫……?」
「……なんとか、な」
 かろうじて大地への激突は避けられた。衝撃に思わず目をつむっていた俺は息を吐き出しながら目を開ける。
「…………」
 白い、下着が見えた。
「あ、ちょっと?! や、み、見ないで!」
 ばたばたとカイトは俺の身体から降りる。ゆっくりではなかったので、窓枠などにぶつけた身体の一部に振動が響いて痛かった。
 が、それ以上に良心が痛むと言うか、なんと言うか。
「い、いや、すまん!」
「むー……」
「ご、ごめんって! べ、別に、見たくて見たわけじゃ、不可抗力って奴で……!」
 予想外の出来事に、俺はわたわたとまったく関係もないのに身体を動かして、とにかくよこしまな気持ちがあったわけではないことを必死に強調する。
 俺の必死さが伝わったのかなんとかカイトは機嫌を直してくれたが、その後もしばらく俺になんとも言えないじとっとした目を向けるので、そのたびに俺はごめんと謝ったり、見えていないと説得したりするはめになった。
 これに関しては何度も触れられるのは嫌だったので、俺はできるだけ会話が途切れないように努力した。自分では口下手だと思っていたが、人間、追い詰められると意外となんとかなるものだと思った。

 さて孤児院に戻ったらたいそう騒ぎになっているかなと思ったが、時間が時間だったので小さい子たちは既に眠っていたし、職員はほとんどそれぞれの家に帰っていて、宿直の人が二人と、園長しかいなかったので、それほどでもなかった。
 できるだけ面倒なことになってほしくなかったので、友達連中には見つからないように、俺たちはそっと職員室へと顔を出す。色々と質問攻めにされたが、それはみんな心配してくれていたからだとわかっていたから、素直に答えて、素直に謝った。懐中電灯を知らないかとも聞かれたが、それに関してだけは知らないと答えておいた。後でカイトが戻しておくだろう。
 それから俺たちはそれぞれの部屋に戻ったが、俺はほとんど一日中まったく食事をしていなかったことを思い出して、急に腹が減ってどうしようもなかった。そういえば、朝食も食べていなかったし。
 とはいえ、今さら職員の人たちに迷惑はかけられないし、それにまだ起きていた同室の奴になんだかんだと聞かれて身動きもとれなかった。
 正直、そいつの好奇の目に耐えられるだけの元気はなかったので、あー、とかうー、とか生返事に終始する。ベッドに入ってからも空腹が収まるはずもなく、どうやら人間は空腹でも眠れないものらしい。
 一人で空腹と戦っていると、扉が開く気配を感じた。開けた主はできるだけ細心の注意を払っているようだったが、いかんせんものがものなので完全に無音にはなっていなかったのだ。
 誰だこんな時間に、とは思ったものの、身体を動かすのも面倒だったのでそのままでいると、その誰かは俺の元までやってきて、そっとささやいた。
「ルキウス……起きてる……?」
 思わず身を起こしていた。
「カイト?」
「よかった、起きてた。……えっと、来て」
 そう言うと、カイトは静かに部屋を出る。何をするつもりなのかはまったく見当もつかなかったが、あいつの誘いを断るなんて選択肢はもちろん存在しない。俺は同じようにして、そっと部屋を後にした。
 廊下に出るとカイトは俺を待っていて、いつかのように、とまではいかないが俺の少しだけ前に立って歩いていく。
「どこに行くんだよ……?」
 俺が隣に追いついて尋ねると、あいつはなんだか申し訳なさそうにどもりながら、ささやいてきた。
「その……ルキウス何にも食べてないでしょ。だから……ね?」
 なんとなくどうしたいかはわかったが、かといってどうしようもないだろう。俺は首をひねりながら、カイトの導くままに、普段みんなと並ぶ食堂に足を踏み入れた。
 その瞬間、俺の鼻が食べ物のいい匂いをかぎつけて、思わず背筋が伸びた。殺人的というのは言い過ぎかもしれないが、そう感じるくらい空腹だったのだ。
 果たして、案内されたテーブルには料理が並んでいた。どれもこれも、匂いだけでなく彩りや盛り付けが美しく、視覚的にもまったく胃袋を刺激してくれた。
「これ……」
「作ったんだ。その、良かったら、食べて」
 カイトの手料理と聞いて、俺は思わず感動していた。まさか、あいつの作ったものを口にできるなんて夢にも思っていなかった。瞬間空腹以外のあらゆるものが飛んでしまい、俺はしばらく食事しか目に入らなくなる。

 おいしかった。ひたすらに、おいしかった。どこかに空腹は最高のソースとかいう言葉があるらしいが、恐らくこのおいしさはそれ以上に、料理のできがいいからに違いない。俺の好物ばかりというのもあったかもしれないが。
 カイトは、俺がそうして料理を平らげる間、ずっとその様子を見つめていた。
「ごちそうさま! ああ、すっげーうまかった」
 俺が食べ終わってそう言うと、あいつはなんだか嬉しそうな顔をして、頬をかいた。
「おそまつさまでした。よかった、そんなにおいしく食べてもらって」
「いや、だって本当にうまかったから」
 食器を片付けながらありがとう、と言うと、あいつは厨房に入ってそれらを洗い始めた。テーブルに着いたままその様子を何気なく見ていたが、なんというか、非常に手馴れた感じだった。
 頭の隅で当然か、とも思った。
 今日、あいつは『スウォル様』と暮らしていたとも語った。そういうことならあいつが料理ができてもまったく不思議じゃないし、むしろできて当然とも感じたのだ。
 だが一方で、満腹になったからかどうやってこれらの食材を用意してきたのか、といった疑問がふと浮かんだ。ここにあるものは計画的に担当の人が毎日消費していくようになっていたから、使ってしまえば後々まずいことになるのは俺でもわかるので、多分そうはしなかったとは思うが……。
 などと考えて、俺はもはや大抵のことでは驚かなくなっている自分がいるのに気づいて、なんとなく苦笑してしまった。
「どうかした?」
「いや、別に」
 食器を全部やっつけて、手を拭きながらあいつが戻ってきた。俺はひらひらと手を振って返して、それからあくびをかみ殺した。
 しばらく二人とも黙り込んだが、やがてカイトが口を開いた。
「今日はその、ごめんね、色々と」
「や、俺だって悪かったよ」
 何が、とは言わないが。
 また沈黙。今度は俺が先に口を開く。
「ありがとうな、本当に」
「ううん、いいんだ」
 それからまた、静寂が訪れた。今度はどちらも口を開くことなく、しばらくして、どちらからともなくおやすみ、とだけ告げて、それぞれ部屋へと戻っていった。
 色々あって複雑な気分ではあったが、それでもなんとなく、これくらいが幸せかな、と思った。長い一日は、やっと終わりを告げる。

5.冬→春、分岐

 そしてまた、時は巡り季節は変わる。ゆっくりとだが確実に街の色も変わっていき、やがて雪がちらほらと降るような時期となった。
 俺とカイトの関係は、相変わらずだった。文化祭以降、スクール……というか周辺地域で目立った行事がないのでこちらから何かに誘うということはできなかった。
 あいつはあいつで、あそこで見つけたあのよくわからない本などがいわゆる禁書の類らしく、また図書館からの持ち出しが禁止されている……というか、あそこの存在からして職員にはほとんど知られていないようで、本を借りて帰ってくるということがなくなった。それに伴って、図書館に入り浸るのが増えた。
 俺たちの会話は、俺があいつの本名を口にするのが二人っきりの時のみというのがあるせいか、基本的に孤児院では起こらず、めっきりその数は減っていた。
 俺としては、スクールなぞサボってでもあいつと一緒にいたかったが、無論そんなことはあらゆる意味で無理だった。あいつがスクールに来るようになってくれれば、せめて登下校の時くらい一緒にいられるのに、と思ったが、それは俺ではなくあいつの問題なので、あいつが行きたくないと言う限りは不可能だった。
 季節が季節だけに、身体だけでなく心も寒かった。もっとあいつといたかったし、もっとあいつの顔が見たかった。想いだけはふくらむが、それを伝えることなんてできなくて、ただ時折交わすあいつとの会話だけが、ささやかななぐさめだった。
 けれども、冬が静かに広がり、そろそろ本格的に雪が降り始めるだろうかという頃。大きな変転が訪れることになる。
 その日は冬のこの地域にしてはやけに気温が高く、もちろん雪なんて降るわけもなく、まるで冬がどこかへ行ってしまったかのように暖かい日だった。朝から誰もが、こんな日ばっかりならいいのに、とか軽口を叩いていたが、はっきり言って、もうこの時点からおかしかったのである。
 平日だったので、俺はいつも通りスクールへと登校し、あいつも普段と同じように図書館へと足を運んだ。日常ではあったが、非日常は確実に迫りつつあった。
 丁度その時、意地悪くもお約束な小テストというものをやらされていて、俺はとっととやるだけのことをやって、頬杖をついて気のない顔で窓の外を眺めていた。窓を開けてもさっぱり寒い風は入ってこず、むしろ届けられる生ぬるい風はねっとりと俺の顔をなでた。
 そんな俺の目に、上に拡声器を積んだ、赤いワゴンの姿が飛び込んできた。目を疑った。だがその直後、それはけたたましいサイレンを奏でながら、第一種警戒通報を告げたのである。
『みなさん、ただちにこの地区から避難してください。繰り返します。みなさん、ただちにこの地区から避難してください……』
 拡声器を通じて聞こえてくる公務員の声に、教室全体がざわめいた。教師が全員避難経路図に従って避難するように告げ、みなが整然と動き始める。
 第一種警戒通報。それは火事だとかテロだとかを告げるようなものでは断じてない。性質的にはそういったものの出現を警告するものだが、対象にしているのはウァンピーレである。そんなものが流れるということは、この周辺に連中が出現したことに他ならない。
 それを告げる赤いワゴンは、すなわち最も恐ろしいものの象徴みたいなものであり、それは時に死亡通知と等しかった。
 避難訓練とは違う、本物の緊張感を背負いながら、俺を含めみんなが指定された場所への避難を急ぐ。ウァンピーレに対抗する手段は機動隊や軍隊くらいしか持っていないので、一般市民は地下シェルターへと退避するのだ。
 スクールからそこへ向かって走る途中、ふと振り返った俺の目には赤い紅い、霧のようなものがじわりじわりとこちらへ迫ってきているのが見えた。それがどんなものなのかまったく見当もつかなかったが、言い知れぬ恐怖が俺の中を駆け巡り、無意識に走る脚に力を込める。
 それからどこをどう動いたのかは記憶にない。気がつけば俺は地下シェルターの門をくぐっていた。
 こういう時、普通なら家族を真っ先に探すだろう。しかし俺には家族と呼べる人を既になくしていたから、同じ孤児院の仲間を探した。あるいは、そこで俺たちの世話をしてくれている職員の姿を。
 時間が経つにつれてそこは人でごった返し始めたが、幸いにも俺は孤児院のメンバーと早々に合流することができ、それからほどなくして園長たち職員と、それにくっついている子供たちとも合流できた。
「よかった、スクールに行ってた子たちともこれで合流できましたね、園長先生」
 職員の一人はそう言ったが、園長は気が気でならないといった風に、まだ周囲を見渡している。俺は、まさかと思って周りを、ここに集まったみんなの顔を見た。
 嫌な予感は的中した。いない。カイトが、あいつがいない。
「園長先生、もしかして、あいつ……!」
「そうなのよ、メルちゃんが……まだ来ていないの」
 俺の言葉に、彼女はひどく落ち着かない様子で言った。それを聞いて、俺は、思わず走り出していた。
「あっ、ルキウス君?!」
「おいルキウス、待てよ!」
 職員や、友達の声が聞こえたが、耳に届いてもそれは俺を止める力はなかった。いてもたってもいられなかったのだ。もし、万が一、あいつに何かあったら。
「カイトー! カイト、いるのか?! いたら返事してくれ!」
 ためらうことなくあいつの名前を、本当の名前を叫びながら、人ごみの中を走る。先々で誰かとぶつかって、大きくなってしまった自分の身体が少しだけ恨めしかった。
 地下シェルターは広い。さんざん駆けずり回って、声をからして叫んでも、隅から隅までは到底届かない。それでも俺は走って、ただ走って、あいつの姿を探した。見つからない。どこにもいない。
 まさか。
 ふと脳裏をよぎったのは、あいつが、まだ図書館にいるかもしれないということだった。あいつなら、周りの異変なんてまったく気にしないで、ただ本に没頭していてもおかしくないと思えた。
 そして同時に、この推測がひどく正しいように思えた。冷静な時だったら、また普通の人間を探しているなら、いくらなんでもそれはありえないと思ったかもしれないが、それでもあいつだったらありえるかもしれない。そう思ったら、俺は矢も盾もたまらなくなって、地下シェルターを飛び出していた。
 住民の避難が完了して閉まりつつあった巨大な門を間一髪ですり抜けると、長い長い階段をひたすら昇る。とめる声なんて聞こえちゃいなかった。
 なんとかそこを昇りきると、人っ子一人見当たらない、完全なるゴーストタウンと化した街が目の前に現れた。街はまったく違う姿を見せたが、しかしそこは普段自分が歩き回っている、慣れ親しんだ土地だ。迷わず図書館に向けて走り出した。
 既に地下を走り回っていて体力なんてとっくに残っちゃいなかったし、息はすっかり上がっていた。それでも、図書館にあいつがいないんじゃないかとかいう疑念なんてとっくに吹き飛んでいて、あいつが、あいつの変わり果てた姿だけは見たくない、ただそれだけで、疲れた身体に鞭を打って俺は走り続けた。
 やがて行く先に、あの赤い霧が現れた。最初は街全体を包むんじゃないかというくらいの勢いで膨らんでいたが、すべてを包むほどではなかったらしく、霧は侵食を停止していた。
 それでも俺の目には、まるで何かおどろおどろしい生き物がうごめいているかのように見えて、思わず足を止めた。霧のようなものとは言ったが、まさしくそれは霧でないようで、向こうの景色は見えないわけではなく、むしろ赤色で景色を染めただけのようにはっきりと向こう側が見える。
 しばらく躊躇していたが、俺は決心すると、勇気を振り絞ってえいや、とその中に飛び込んだ。
 その瞬間、強烈で攻撃的な感覚が俺の目を、そして鼻、口を襲った。きつい鉄分の臭いが鼻の奥の奥まで殴りつけてきて、舌の上には嫌な味が広がる。目の前は、真っ赤だ。それは暖かみなど欠片もない、ただただ破壊的な、赤い色。
 わずかに立ち止まったことで全身に倦怠感が一気に襲ってきたが、それでも俺は止まるわけには行かなかった。早くあいつのところに行かないと、あいつがどこか遠くへ、それこそこの世ではないどこかへ行ってしまうような気がして、それはもはや心配のレベルではなく、強迫観念のように俺の心臓をわしづかみにして離さない。心臓はそれに身を任せるようにどくんどくんと激しく脈打ち、俺の全身に血を供給する。それでも足りない。早く、もっと早く、早く!
 ひたすら図書館めがけて走り続けていた俺の目の前を、先にある十字路を、突然何かが横切った。俺はぎくっとして、急ブレーキをかけた。息が上がってしまってどうしようもなかったが、それでも近場の物陰に隠れて先の様子を伺う。
 それは、蟻だった。巨大な、それこそどこか別の世界から来たかのように巨大な蟻。それが、がさがさと十字路を歩いていたのだ。あんなもの、その辺りにたくさんいるはずがない。間違いない、今の人類の唯一にして最大の敵、ウァンピーレだ。
 俺は舌打ちをした。ここから図書館まで行くには、どうしてもこの道を通らなければならない。遠回りはできればしたくなかったし、そんなことをしたら途中でもっとたくさんのウァンピーレに襲われてしまいそうだった。
 身体を動かすことに全精力を傾けていた心臓は、深い思考に必要な血液をもはや頭には送れなかった。俺はもう意を決すると、道端の石をいくつも拾って、できるだけ遠くへと投げた。
 石はそのままどこかの敷地内に入り、窓ガラスを割ったらしい、がしゃんという音が響いた。大蟻はその音に敏感に反応して、その音が起きたほうへと向かっていく。
 これ幸いと、俺は大蟻が消えるのを見計らって一目散に駆け出す。できるだけ早く、あの化け物から距離を取りたかった。恐らく窓を割ってしまったらしい家の人には申し訳なかったが、多分、責任に関しては化け物に転嫁してもおおよそ問題はないだろう。
 なんとか大蟻をやり過ごして、再び図書館を目指す。距離的には孤児院から向かうよりも近いはずだが、いやに遠く感じて、もっと速く走らなければという思いに駆られた。気持ちだけが先走り、足がもつれた俺はアスファルトめがけて倒れこんでしまう。
「いつ……つ……」
 身体を起こすには、体力がもう残っていなかった。そのままうずくまって、痛みに耐える。のろのろと顔を上げるが、そこから先は、身体が言うことを聞かなかった。
 あと少しなのに。倒れこんでいるので視線は低かったが、赤く染まった巨大な図書館はそれでもしっかりと見えている。あと少しだというのに気力がわいてこなくて、思わず口から怨嗟の言葉を出していた。それは多分、自分への言葉。
 その時。化け物の声が聞こえてきた。それも一つではなく、いくつも。続いて、今まで聞いたことのない、きっと何かが何かにぶつかるような音も響いてきた。図書館のほうではないが、それはかなり近い場所。まさか。
「カ……イトー! カイトっ、いるのか?! いたら、いたら返事してくれー!」
 そう思った瞬間、俺は叫んでいた。大声を出すことで自分の場所が化け物どもに気づかれるのではないかということも考えずに。肺が喉に焼き付いて、赤い霧で焦がされて思わず咳き込んだが、俺の声はしっかりと、人気のない街に響き渡った。
 少しの間、音は何も聞こえなかったが、まるで俺という相手に目標を変えでもしたのか、周囲から耳にするのも嫌な、虫の音が聞こえてきた。それらはまっすぐに俺のほうに向かっているようで、だんだんとしかし確実に大きくなっていく。
「ルキウスっ、逃げて! そこにいるなら、今すぐ逃げてっ!」
 恐怖感が次第に増大していく中で、俺は、俺の耳は、確かにあいつの声を聞いた。
 よかった。どうやら、声を出せるくらいには無事のようだ。そう思った瞬間俺は化け物のことなど忘れて、本当に最後の気力で立ち上がると、ただカイトの声のしたほうに向かって動き出す。
「ダメだよ、来ちゃダメ! こっちに来たら……!」
 俺が動き出すと、即座にあいつの声が飛んできた。言葉の続きは、言われなくともさすがに気がついた。
 目の前に、先ほどと同じような巨大な蟻が三匹、のそりと現れた。人間など、簡単に飲み込んでしまえそうなくらい大きい。俺はぎょっとして、そしてそこで立ちすくんだ。
 恐怖はまだ続く。今度は、近くの壁を乗り越えて蜘蛛が現れた。言うまでもないかもしれないが、やはり大きかった。サイズは蟻といい勝負で、そんな大きな蜘蛛が、がさがさと現れて俺へと迫ってくる。
 それは原始的な恐怖だった。遺伝子という二重螺旋に刻み込まれた、相手が自分よりも強いと思ったときにやってくる恐怖。そして何より、自分よりも大きなものには、勝手に恐ろしさを感じてしまう。それが普通ではありえないものなら、なおさらだ。
 頭では、逃げなければと思った。しかし、それでも身体は言うことを聞かなかった。立ちすくむ、というのはまさにこういうことを言うのだろう。それに、もう体力なんて残っていなかった。立っていることすらかなわないほどに。
 下半身から力が抜けて、がくりとその場にへたり込む。だがその瞬間、まるで風のように誰かが俺の身体を受け止め、そしてさらっていった。
「カイト……?!」
「よかった、間に合ったっ」
 まさしく、カイトだった。あいつからしたら一回り、下手したら二回りは大きい俺の身体をその細い腕でしっかりとつかんで、そしてそんな状態にもかかわらず信じられない速度であいつは走る。まるで、本当の風のように。
 また助けられてしまった。助けようと思っていたのに。ひどく自分が情けなかったが、そう思うのもつかの間、あいつの服が無残にもあちこちが破れていて、また、その白くて美しい顔や腕、脚などに無数の赤い筋が走っているのが目に入る。
「か、カイト、お前大丈夫かっ?」
「…………」
 俺の問いかけには、沈黙が返ってきた。答えたくないのか、それとも答えられないのか、それはわからなかった。しかし、どちらにしてもそれは俺の心配、あるいは不安を膨らませるだけだった。
 ふと、何か本が、ページがばらばらばらと風でめくれるような音を耳にしたような気がした。あるいは、開いていた鍵ががちゃんと閉まったような音。同時に、何か不愉快な笑い声も。俺が空耳かと虚空を見上げたその瞬間。
「ま、マジかよ……?!」
 上空から、さらにたくさんのウァンピーレどもが降り注いでくるのが見えた。連中はいずれも俺たちの近いところに降りてきていて、降りた端からまっすぐこちらへ向かってきているらしい。そして、その間に後ろから、先ほどの奴らも追いついてくる。
 カイトが足を止め、つらそうに大きく息を吐き出した。
「ど……っ、どうすんだ、囲まれちまった……」
 四面楚歌。周りはすっかり化け物たちで一杯だった。それらはやはり、いずれも蟻や蜘蛛と言った、昆虫を大きくしたようなものばかりだった。それらが大勢うごめいている光景は決して快いものではなく、思わず吐き気がするのを手で押さえてこらえる。
 幸いにして、あまり広い場所ではないので一斉に襲ってくるには無理がありそうだったが、どちらかというと一瞬で止めを刺されたほうがほんの少しだけましかもしれない。
「ルキウス……危ないから、伏せてて」
 意を決したようなあいつの声を聞いて、俺は思わず顔を上げた。薄い青色のワンピースが、あいつの背中が飛び込んでくる。しかしその小さな背中は、ひどく大きく見えた。
「カイト……?」
「…………」
 俺のかすれた声はそのまま空に吸い込まれて、それから次の瞬間俺は息を呑んだ。あっと声をあげることもできず、ただその光景に目を奪われる。
 あいつの両手がそれぞれ何もないところをつかみ、そのまま何か抜き払うようなしぐさをした。刹那、どこからともなく現れた剣が、とてもあいつには似合わない無骨な剣が、その細い手の中に握られていた。
 あいつがぐんとそれを振り払うと、二つの獣は勢いよく空を切り裂き、そして、同時に襲い掛かってきた二匹の大蟻の分厚い胴体を真っ二つに引き裂いた。その勢いのままくるりとそこで回転すると、今度は上空に切っ先を差し出し、そして同時に横を真一文字に切り払う。飛び掛ってきた大蜘蛛が串刺しになって、また何匹かが大きく弾き飛ばされる。串刺しの大蜘蛛を剣から飛ばす形で投げつけると、それは手負いの化け物を押しつぶす砲丸となった。
 それら一連の動きが、ほとんど一、二度まばたきをするくらいの間に行われた。当時の俺には、何が起こったのか、ほとんど理解することができず、ただぽかんと口を開けたまま。必死に頭を動かそうとしたが、目の前で繰り広げられるあいつの、踊りのような剣さばきを見つめることしかできなかった。
 あいつは、俺という足手まとい――まさしく俺は足手まとい以外の何者でもなかった――がいるにもかかわらず、その、まるで身体の一部であるかのように忠実な二振りの剣でもって、次々と相手を切り伏せていく。時折連中の鋭い脚が何度かあいつの身体に傷をつけたが、それらをまったく意に介すことなくあいつは剣の舞を続けた。
 だが、ウァンピーレの生命力は尋常ではない。完全に頭から尻まで真っ二つにでもしたなら別だが、少し切られた程度ではものともせず、何度でも立ち上がってくる。
 あいつは確かにすばらしい動きを見せていたが、それでも連中のありえないほどのタフさには苦戦しているようで、少しずつではあるが、その身体に傷が増えていった。俺はそんな様子をただ見ていることしかできず、どうしようもない悔しさに歯を食いしばりながら、少しでもあいつの邪魔にならないように低くその場に伏せているのが精一杯だった。
 突然、何か口ではうまく言えないような、激しい音が耳を突いた。何事かと思って思わずそちらに顔を向けると、何匹ものウァンピーレが緑色の焔によって焼き払われている光景が飛び込んできた。
 一瞬何が起こったのかさっぱりわからなかった。しかし、次の瞬間理解する。二つあったはずの剣は一本になっており、その開いた片方の手のひらの中で緑の焔――もちろん炎色反応によりトリックなどでは決してない――をもてあそんでいるあいつの姿があった。つまりは、どうやってやったのかまったく見当もつかないが、あいつがやったのだろう。
 そしてその通り、あいつはその手の中の焔を周囲のウァンピーレに向かって投げつけた。瞬間、先ほどと同じような強烈な音が響き、同時に連中が火炎にまかれてその場に崩れ落ちる。どうやら音は、爆発音のようだった。
 もう、決定的に、あいつは普通の人間ではないことを無言のうちに証明していた。剣だのなんだのは、まだ、なんとか無理やりにでも納得することはできた。しかし、あんなわけのわからない芸当をさらりとやってのける姿はそんなことよりずっと強烈で、俺とあいつが、まったく違う世界に生きる人間だと知らしめるには十分すぎた。
 ほどなくして、緑色の見るも美しい焔はしかし見るも無残に化け物どもを焼き払い、そこに残る生命体は俺とカイトだけになった。すべてを駆逐したことを確認すると、あいつは出したときと同じように、手元の剣をまるで手品かなにかのように消滅させると、俺に背を向けたままうつむいて、ぽつりと呟いた。
「……ルキウスにだけは……見せたく、なかったよ……」
 ひどく、寂しそうな声だった。振り返ったその顔は、声と同じように寂しそうで、またどこか悲しそうだった。
 けれど俺はと言うと、間抜けな顔をしてただただ腰を抜かしていた。正直言って、怖かったのだ。剣を振るう姿はまだ多少なりとも美しいと思えたが、あの地獄を思わせるような火炎は、あれだけは、まったく自分の常識、知識の範囲で説明できなくて、また圧倒的な力で、恐ろしくてたまらなかった。
「……カイト……お、まえ…って……」
 震えた声でようやく言えたのは、それくらいだった。言葉から、隠しようのない俺の恐怖感を感じ取ったのか、あいつは一瞬はっとした顔を見せたが、すぐに寂しそうに微笑むと、最大限、俺を驚かせない、怖がらせないソフトな声で言う。
「……ボクは……ね……。『魔法使い』なんだ……」
 言いながら、静かにしゃがんで、そっと俺の頬をなでる。その手は暖かく、間違いなく、人間のものだと感じられた。
「遠い世界から……ここまで流れてきた『魔法使い』……」
 そう言うと同時に、あいつは俺に触れていない手の人差し指を立てると、空中でそれを、タクトのようにくるくると回した。
 次の瞬間、宝石のようにきれいな輝きと共に、あいつの身体に走っていた無数の傷跡が埋まっていく。俺が先ほど転んだ時にできた怪我も同時に治っていたが、俺はそれには気がつかなかった。
 目で見てわかるその再生は、本当に映画やアニメーションなどの映像で見た通りで、けれども実際に目の前で見るそれは、余りにも不自然で背筋が何かぞわぞわとして鳥肌が立った。
「……ごめんね……。だます、つもりなんてなかった……けど……」
 自分を見つめる俺の視線を避けるように、あいつは顔をそむけながらそっと立ち上がる。そして俺の方へ背を向けて、続けるのだ。
「……でも、知られちゃったし……もう、ここにはいられない……」
「な……なんだよ……?知、られた……って……。俺は……俺はお前のこと、何も……」
 言葉の中に別れの匂いがこもっているのを感じて、俺は、なんとかかろうじて声を出す。
 どうしてもあいつを失いたくなくて、なんとか引きとめようとして出したその言葉は、けれど涙で震えていて、また貧弱な頭からなんとか引っ張り出してきただけあってお粗末なものだった。
「……正体を見られたら、ヒーローとか……魔法使いは、さ……行かなくちゃいけないんだよ……。それまでの生活を捨てて……誰もその人を知らないところへ……行かなくちゃいけないんだ」
 そんなものは、子供が喜ぶ手合いの、都合のいい物語だけだと、否定したかった。けれどもう、俺の喉は嗚咽にふさがれていて、声を出すことができなかった。
「……さよなら、ルキウス……。ボクの……ううん、ボクを、助けてくれた人……」
 ゆっくりとあいつが、空を仰いだ。やはり宝石のように美しい輝きを身体にまとって、あいつの背中に透明感ある、イルミネーションのような翼が現れた。赤い霧は、まるでそれを避けるかのようにして遠ざかり、あいつが見上げるのは、暮れなずむ空に顔を出した、白い双子の満月。
 その月に吸い込まれていくかのように、ふわりと、あいつの身体が浮き上がって、少しずつ、少しずつゆっくりと空の中へ消える――。
「ま、待てっ、待ってくれ! カイト、行くなっ! 行かないでくれっ!」
 嫌だった。大好きな人がまた、自分にはどうすることもできないほどどこか遠くへ行ってしまう、そんなことはもう、嫌だった。
 ただあいつに行ってほしくない、ただあいつと別れたくない、その一心で俺はなんとか身体を奮い立たせると、まさに背中の翼をはためかせて飛び上がろうとしていたあいつに飛び掛った。
「えっ?! きゃ……っ?!」
 あいつはバランスを大きく崩して、それでもあいつの身体は俺の勢いに負けることなく、飛び掛った俺をも道連れにして、空へと舞い上がった。
「る、ルキウス……! ボクは、ボクはもうルキウスとは……!」
「バカッ! 俺を置いていくなんて……一人で行っちまうなんて、許さねぇ!」
 異変が収まったのか、冬の気配を取り戻し始めた風に流されながら、俺たちは夜になりつつある空を横切る。
 しばらく二人で同じようなやりとりを繰り返すが、もはや二人とも理屈などなく、ただ絶対行く、絶対行くなの応酬でしかなかった。傍から見たら、見た目通りの子供が二人、だだをこねあっているようにしか見えなかっただろう。
 そのうちお互いに、どうしても退かない相手にヒートアップして、気づけばただの喧嘩になっていた。思えば久しぶりの会話だったが、それがよもやこんな風になるなんて、さっぱり思っていなかった。
 が、熱くなっていて方向を見誤ったのか、それとも単純に舵を取っていなかったのか、やがて俺たちは風によって流されて、そのまま建物の壁へとぶつかることになる。
「……あ、カイト、やべぇ、ぶつか……」
 遅かった。
「きゃあぁぁ?!」
「うっわあぁぁ?!」
 そこまでスピードは出ていなかったが、それでもカイトは壁へとぶつかって、そしてその影響かどんどんと高度が下がっていく。下がるというか、もう落ちると言っても差し支えないくらいだった。ぐらぐらと激しく揺れながら、まっすぐ地面に向かって一直線。
 直前になってようやく持ち直したのか、間一髪のところで俺たちは墜落を免れ、もう一度ふわりと空へ浮かび上がる。
 ……はずだったのだが。
 泣きっ面に蜂と言おうか、運の悪いことに、丁度その先にまた、障害物があった。公園によくあるジャングルジムだ。今度は直撃はしなかったものの、二人ともそれに足を取られ、中へと落ち込んでしまった。
「……い……ってぇ……大丈夫か?」
「……なんとか、ね……」
 小さな身体が災いして、完全にジムの中にはまってしまったカイトを上に引っ張りあげて、お互いの安否を確認する。それから、どちらからともなく大きなため息をついた。カイトはもう、動こうとはしなかった。
 すっかり夜だった。先ほどはただ白かった月も、今や完全に夜の帝王よろしく空の真上に鎮座ましまして金色に輝いている。見上げた光景は、初めてカイトの名を聞いたあの日よりもまぶしかった。
 二人ともすっかり頭は冷えてしまい、けれどどうすればいいのかわからずただ気まずい空気だけがあった。
「なあ……その……」
「なに……?」
 呼びかけてはみても、どういうことを言えばいいのかわからなかった。聞きたいことは色々あったし、言いたいこともそれと同じくらいあるはずなのに。
「…………」
「……ねえ……ルキウス……」
 俺が無言でいると、今度はカイトから声をかけてきた。
「……ん?」
「……その……今でも……ボクが行こうとしたら、止める……?」
 また俺はあいつから先にしゃべらせてしまった。つくづく、俺ってどうしようもない奴だと思いながら、それでもこれだけは断言する。
「止める……な、ああ、止める。だって、その……」
「そっか……やっぱりそうなんだね…」
 あいつがそれだけ言って、また俺のほうから身体ごと顔を背けようとしたので、俺は、その動きを止めて、俺のほうを向いているようにする。びっくりしたような緑色の瞳が俺の顔を見つめていた。その顔が、俺の心を決めさせた。
「カイ……ト……っ、俺、俺ずっと、お前のことが……お前のことが好きだった! 最初話した時から俺、お前のことが気になって……ずっと、ずっと忘れられなかったんだ!」
 本音。今まで、ちょっとしたプライドとやせ我慢とで、ずっと心の奥に閉じ込めてきた本音。
「だから、俺……お前と、ずっと……一緒にいたい。な、なんの役にも、立たないかもしれないけど……」
 最後は、声が大きく震えて、そしてにごった。無数のウァンピーレたちを相手にしてなお圧勝してしまったあいつにとって、俺なんて必要ない、俺なんかじゃ、あいつのことを護るなんて、とてもじゃないができっこないと、今日のことで痛感していた。
 そんな俺にできることなんて、何があるだろうかと心の隅で思いながら、カイトの言葉を待つ。拒絶されるだろうか、それとも受容されるだろうか。心が震えた。
 ところが、そんな俺の不安の入り混じった期待に反して、あいつは突然表情を崩すと、その大きくて愛らしい瞳に、大粒の涙を浮かばせたのだ。予想もしていなかったことに俺はびっくりして、本当に驚いて、思わずあいつの小さな身体をゆすっていた。
「お、おい、どうした?! だ、大丈夫か?!」
 俺が困惑していると、あいつは一回とん、と俺の胸を叩くと、泣きながら、搾り出すようにして叫んだ。
「バカ……! 言わないでよ……言わないでよ……っ!」
「え……? ど、どういうことだよ、何がなんだか……」
「置いてけぼりになんか、されたくないのに……! なのに……なのに……っ」
 あいつの言っていることが、理解できなかった。置いていかれようとしていたのは俺ではなかったか? カイトは、一体その小さな頭で何を考えているのだろう。
 あいつの言葉は、叫びは続く。そこにはもう、多くの化け物を屠り去ったあいつはいない。ただ、その姿相応の小さな子供がそこにいた。
「ボクは……っ! ボクは、幸せになる資格なんてないから……! だから……絶対独りにされるんだ……! そんなだったら……最初、から……ずっと独りでいたほうが、そのほうが楽だった……のに……!」
 やっぱり、意味がわからなかった。けれど、それでも、わかることが一つだけある。だから言う。
「そんなわけない、幸せになる資格のない人間なんて、いるもんか!」
「……ないんだ……ないんだよ、ボクにはないの! 誰も、ボクの時間になんか追いつけないんだ……っ!」
「なんでだよ、どうしてなんだ?! どうしてお前はそんなこと……!」
 わからない。ちっともわからない。どうしてそんなに卑下するのか、そしてなぜこんなにも泣き叫ぶのか、まったく理解できなかった。気がつけば、俺はそんなカイトに、怒鳴りつけるようにして聞いていた。
「ボクは……ボクは死ねないんだ……! ずっと、ずっとずっと、このままなんだよっ!」
「?!」
 返ってきた言葉は、普段あいつからはまったく聞けないくらい大きな声。そしてそれは、やけに重かった。俺は思わず二の句を継げられず、あいつのすっかりぐしゃぐしゃになってしまった泣き顔を注視する。
 しばらくあいつは必死に嗚咽をこらえながら、それでもこらえきれずに泣きじゃくった。
「カイト……?」
「……呪い、みたいなもので……。……歳も取らないし、病気とかにもかからない……ずっと生きてなきゃいけないんだ……」
「……不老……不死ってやつか……?」
 こくりと、あいつはうなずいた。
 不老不死なんてフィクションにはよくあっても、現実では決して存在しないことだと思っていた。普通ならそんなバカなと笑って、そこで終わっただろう。けれど、あいつの言葉はひどく重く、真実なのだと思わせるような何かがあった。
 不老不死。古今東西の偉い人たちが望んだもの。
 それはやけに魅力的で、もしそんな風にになれたらどうなるだろうと考えたこともあった。
 しかしこれが、あいつのこういう状態が、その結果だというのか? 決して老いることのない、死ぬことのない身体は、呪いとまで言うほどに、恨めしいものなのだというのか。
「誰も……ボクに追いつけないんだ……。ボクを必要としてくれる人も……そうでない人も……ボクはみんな置いてけぼりにしちゃうんだ……」
「…………」
 だから、か。だから、『置いてけぼりにされたくない』のか。だから、『絶対独りにされる』のか。友達や、恋人や、家族、そういった大切なものからすべて取り残されて、独りにされるのは嫌だから、だから、『ずっと独りでいたほうが楽』だって言うのか。
 あいつが見た目通りの年齢ではないだろうとはもう確信してはいたが、まさかそこまでとは思っていなかった。果たしてあいつは、一体どれくらい、そうした悲しい経験をしてきたのだろうか。その小さな身体からはまったく想像もできないくらいに、悲愴な人生――それはもう人生と呼べるのだろうか?――を歩んできたのだろう。
 そんなあいつの今までを想像して、とてもじゃないが、俺のような若造がなんだかんだと言えるようなものではないと思った。俺だったらそんな痛みに、重みには耐え切れそうにない、と。
「……だから……全部全部、拒絶すれば……そんな思いしなくって、いい……って……」
 あいつは泣きながら、それでも続ける。今まで溜め込んできたものをこの際全部吐き出すかのように。
「でも……できなかった……。誰とも……何の、関係もないって、無理……なんだよね……。スウォル様は……わかってたんだ……だから……『俺のことは忘れろ』って、仰ったんだ……」
「…………」
 確かに、いっそすべて忘れてしまえれば、それは楽なことだろう。思い出がなくなるのはつらいだろうけれど、それでも俺は、その『スウォル様』が多分、だからこそ自分にかかずらわっていないで、新しい出会いを見つけろと言ったのではないかと、勝手に想像した。
 ただ漠然とだけれど、それでもあいつと仲良くなりたいと思っていた最初の頃の自分を思い出した。俺だけじゃない、俺はたまたま、あいつと多少なりとも仲良くなれたが、俺以外にも、俺と同じことを思っていた奴はたくさんいるはずだ。俺はその中でも、少し運が良かっただけ。
 俺はそんな中で、あいつに少しでも何か楽しい体験をさせてやれたのだろうか。
「独りは……もう……嫌……。でも、もうどうしたって結果は、一緒……。今どこかに逃げたって……それは大切な人をなくすのが早くなっただけ……」
「……カイト……」
「……もっと、ずっと早く……出て行けばよかった……」
 だから、『言わないで』なのか?
 俺は……どうやら少なくとも友達と呼べる位置にはいて、あいつの中でもっと重要な位置になる可能性はあったようだ。だからその前に、出て行けばよかったと言うのか。
 もっと重要な位置……たとえば、『スウォル様』に近しいところまで、俺を行かせる可能性があいつ自身にあって、だから『言わないで』ということなのか?
 何かできることがあるわけでもなく、大した思考もできない頭をただ漫然と動かしていると、あいつの身体が、細い腕が、俺の背に回された。どきっとして下を見ると、すぐ目の前に、あいつの顔。
 今までこんな近くであいつの顔を見たことなどなくて、状況に相応しくないとはわかっていても、俺は胸の高鳴りを抑えることはできなかった。月明かりに照らされたその顔は、まだ濡れている。
「ルキウス……ボク……独りになるのは絶対嫌……」
「……ああ、わかってる……」
「でもそれは避けられないから……だから、お願い……。せめて、せめて、ボクだけを見て……。ずっと、ボクのことだけを、見ててほしいの……」
 今にもまた泣き出しそうな顔を向けて、あいつは言った。その懇願、もしくは哀願は、ひどくわがままなものだった。しかし、それでも俺は、俺は――。
「――わかった」
 答えた。イエス、と。俺だって、カイトを失いたくなかった。いつか俺の中からあいつへの想いが薄れる日が来るかもしれなかったが、それでも。
「ありがとう……ルキウス……。ボクも……ルキウスのこと、好き……だよ……」
 俺の言葉を受けてあいつは、とても嬉しそうににっこりと笑った。まだ涙で濡れていて、あまりいい顔とは言えなかったが、それでも、初めて見たあいつの、初めて俺に向けられた等身大の笑顔は、すぎるほどにまぶしく、そしてたとえようもなく可愛かった。
 そのまま、その余りにも魅力的に輝いている笑顔に吸い寄せられるようにして、俺はあいつの唇に、自分のそれを重ねた――。

 それから長い間、俺たちは夜の空を眺めていた。あいつの小さな指が、俺の手をぎゅっと握っている。
 視界に入ってくる昏い夜空は、しかし星と月の光がそこかしこでまたたき、宝石箱のよう。それらがみな、一様に俺たちを照らしていた。
 すっかり夜もふけてしまったが、周囲に人の気配はまったくなかった。朝が来るまでは地下シェルターにいることになったらしかった。
 これから、どうなるだろうかとなんとなく考えてみた。
 あいつは、このままどこかへ行ってしまうのだろうか。それとも、ここに残ってまた本を友とした生活に戻るのか。どちらにしても、俺はあいつに誓ったのだから、あいつがどこへ行こうと、そばにいる。たとえまた先ほどのように俺を置いていこうとしても、追いかける。そう心に誓った。たとえストーカーなどと言われようと、たとえ俺がこの世から消え去っても、ずっとあいつのそばにいる。
 あいつとはもっと話がしたかった。あいつのことをもっと聞きたかった。その中には必ず、『スウォル様』のことも入っているだろうけれど、それでもいい、あいつの何もかもを知っておきたかった。
 ああそうだ、こんな俺でも、あの『スウォル様』に勝っていることが一つだけあるじゃないか。
 こうしてあいつと一緒に未来に行けるのは、俺だけだ。あいつといることを楽しめるのは、俺だけなんだ。既に過去の人である『スウォル様』は、もうこれ以上思い出を作ることはできない。でも俺なら、もっとあいつとの思い出を作っていくことができる。まだ時間はあるのだから、『スウォル様』に追いついて、追い越せる可能性だってないはずがないじゃないか。
 それに、あいつがどうしてあんな身体になったのかは知らないけれど、あいつが不老不死になれたのだから、絶対にそういう身体になる方法はあるはずだ。そうなれるかどうかはわからないけれど、もし俺がなれたなら、俺はあいつの時間に追いつくことができるはずだ。
 あいつを一人ぼっちになんてするものか。そうだとも、俺は『守護者』の名前を背負っているのだから。
 一人心の中で決心をつけたところで、俺は口を開いた。あいつに惚れてから、俺から沈黙を破るのは一体何度目だったろう。きっと片手で数えられる。
「なあ、カイト」
「なぁに……?」
 俺の身体に遠慮がちに身体を預けて、あいつはこちらを見上げる。もう、そこにいつものような無表情はない。恐らく、これからはこうした静かな微笑みが、いつもの表情になるのだ。
「カイト、俺……お前がどこに行っても、どんなことになっても、絶対にお前のそばにいるよ。俺……お前の『守護者』になるから」
「守護者……」
 少し驚いたような顔で、カイトはその言葉を繰り返した。しばらくしてから、あのとびっきりの笑顔を見せると、ありがとうと、そう言って俺の腕にからみついた。
 俺がその様子にどぎまぎしていると、あいつはなんだか、いたずらっ子のような顔をして、妙に意地の悪い声で続けた。
「……でも、しばらくはボクが護ってあげるね」
「なっ、お、お前っ」
 言い返せなかった。確かに、このままではあいつを護るなんてできっこない。どうにかして、そうした『強さ』を身に着けなければ、守護者などといきがったところでどうしようもない。
 もう一つ、強くなろうという決意を固めて、俺は笑った。それにつられるようにして、あいつも笑う。夜空の王、双子の月に見守られながら、俺たちは静かにふけていく二人だけの時間を分かち合うのだった。

6.過去→今、現下

 その後、故あってあいつと同じ不老不死の肉体を得た俺は、結果的にではあるが、あいつの『守護者』足りえる存在になった。相変わらずあいつのほうが強くて俺の助けなど必要もないくらいなのだが、それでも、これまでの時間で積んだ研鑽は、当時のあいつにも匹敵するだけの力を俺に与えている。
 そしてこの時から先、今に至るまで俺はあいつと、永遠と言うにはいささかオーバーかもしれないが、それくらい永い時間を共に生きている。
 あれからさまざまな国、地域、いくつもの時代を渡り歩いた。無数の体験をしたが、それらはいずれも、あの時のような鮮明な記憶ではない。楽しかった、厳しかった、そういった漠然とした記憶はあるが、ここまではっきりと覚えているのは、最初だけだ。
 何はともあれ、俺の中であいつの存在は未だに大きなものだということは間違いない。そしてそれは、恐らく俺が存在し続ける限り、変わることはない。誰かがこの世に常なるものはないと言ったことがあるらしいが、少なくとも俺は、俺の中に息づくあいつへの想いだけは永遠であると思う。
 あの時の約束は、違えていない。もちろん、永い時間の中で色々なことがあって、時には別々に過ごしたこともあったが、それでも結局、俺たちの時間は永遠で、俺たちについてこられるものなど、いやしないのだ。だから俺たちは、お互いこそが最高のパートナーであると信じている。『世界』が終端に飲み込まれようとも、俺たちはいつまでも共にあり続ける。
 そう、俺は、俺の名前はルキウス・グリエルモ。生まれた時から名前にそうあれと運命付けられた、あいつの、『光の強き守護者』なのだ。
 ……おっと、あいつが呼んでいる。多分、今度の仕事についてだろう。悪いが、俺の話はここまでだ。それじゃあまた、機会があれば。
 さーて、今日はこれから忙しくなりそうだ……。





・あとがき。

 どうもこんにちは、ぽぴゅら〜です。ひさなぽぴーでもあります。
 まあその辺りは置いとくとして。
 なんですね、こんだけ長い作品を一度にべんっと公開したのは当サイト始まって以来、初となります。
 新しい話だーと思って油断しながらクリックした人は、スクロールバーの長さに驚いていただけたかと思います。
 いやまあ、一冊の本を読むよりは短いんですけどね。半分弱、ってところでしょうか。
 この作品は、どこかの賞に応募しようと思って書き始めたものの、登場キャラを意図的に二人にしぼっていたせいもあって規定文字数を満たすことが出来ず、晴れてお蔵入りになったという曰くつきのお話です。
 まあ文章を書く、ということを完遂した、という意味も込めて失敗作ではないので、習作として公開に踏み切った次第です。
 ボクことぽぴゅら〜は、一人称で物語を綴るのが極端にニガテなので(単純に一人称の小説をほとんど読んだことがないせい)、マジで習作の域を出ていないので、投稿はしなくてもよかったかなー、なんて思います。
 お話そのものについてですが、この『可能性の話』は、カイトの物語を繋げた一連物語の最終作品、『the Endhia(以下、E)』の外伝になります。
 Eはこの四百年後が舞台になっておりまして、不老不死なカイトは今作の主人公、ルキウスと共に何でも屋を営んでいたりします。
 ただし、タイトルの通り今作は『可能性の話』で、入り口のところに記した通り、『誤まって導かれた』お話のため、本編ではこの流れではありません。
 Eに繋がるようにするには、ルキウスにかわいそうな目にあってもらわねばならないのです。
 それだとあんまりだー、ってんで、この外伝が生まれました。実際問題、ルキウスというキャラは結構好きなのです。
 まああんまり、形にもなっていないEのことをうだうだと続けても仕方がないので、このあたりで。
 最後に、この作品を執筆するに当たって、その土台となったルキ×カイSSを書いてくださった某U氏には、多大なる感謝と大いなる謝罪を。
 ご覧になっていただけているかはわかりませんが、この場を借りて厚く御礼を申し上げます。
 それでは、あまりあとがきが長くなるのもあれなので、これにて。
 また何か、長編を公開する機会があれば、あとがきでお会いしましょう。そんな機会、ほとんどなさげですけど!

 2008年 11月9日 ぽぴゅら〜/ひさなぽぴー 下宿先にて

 P.S.
 本当なら、キスシーンのあとはベッドシーンを書きたかったんだ! アウトだってわかってたから自重したけど!






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