不死鳥の卵―light write Knight―
不死鳥の卵
―light write Knight―
0.ヒカリ
その日は、八月の終わりだった。
暦の上では既に秋。しかしそれでも未だ暑さは色濃く残る。気温はゆうに三十度を超え、うだるような暑さに人々が心の中で悲鳴を上げていた。
そんな日、そんな街に、大粒の雪が舞った。
急に気温が下がったというわけでもなければ、特に何か前触れがあったわけでもない。それはまさに青天の霹靂としか言いようがなかった。
ビルが密集しヒートアイランドの加速する摩天楼の空が、まるで漂白剤で染め抜いたかのような真っ白い雪で覆われて、道行く人もそうでない人も、その光景に思わず仕事の手や歩く足を止めたものである。
そして、その日。まるでその雪に祝福されているかのようにして、この世に生を受けた少年がいた。いや、正確にはその表現はあまり正しくないのであるが……。
ともあれ、摩天楼の中に埋もれる小さな病院の一室で、産声を上げることなく彼は生まれた。産道を通ることもなく、帝王切開によって。別にそれはそこまで珍しいというようなことではない。
だが、何よりも彼の存在を否応なしに周囲に認めさせるものが、彼にはあった。それは、日本人の黒髪の中に煌々と浮かび上がる翠緑の瞳である。
その瞳の色を見た医師達は、何かの間違いではないかと精密検査を重ねに重ねた。なぜならその鮮やかな瞳は、かつて報告例がないほど美しく、朝陽や夕陽の光が映ると神秘的な輝きを放つものだったから。が、結局原因は不明のまま、母親とは過ごせない一ヶ月が彼の人生の始まりだった。
そのうちに彼も家族に連れられ退院した。家族といっても彼の父親は既におらず、ただ内科の医者として開業していた母親の女手一つで彼は成長することとなる。
灯台のように、人々の導き手となりますように。
母親はそう願いを込めて息子に、翠緑に輝く瞳を持つ息子に、光、と名づけた。
そして、時は巡り始める。輪廻する運命の円環が、廻り始める――。
1.アリス
穏やかな秋の昼下がり。陽気は暑くもなく寒くもないくらいで、子供たちにとっては絶好の遊び時間だ。この小学校のグラウンドでも、遊びに興じる子供たちの歓声で満たされている。
ブランコに乗る子もいれば、サッカーをする子もいるし、もちろん中には教室で友達と喋っていたりする子もいる。とかく子供たちは遊びに一生懸命だ。
その中で、数人様子の違う子供たちがいた。
彼らがいるのは校舎の丁度裏側。あまり普段は人が寄り付かない場所だ。そんな場所に、四人の少年が、一人の少女――いや、少年を囲んで罵声を浴びせていた。更には、時折中央の少年に石を投げつけたり、蹴ったりする者もいる。遊ぶとかそういう次元の行為ではない。誰の目で見ても、それがいじめなのは火を見るより明らかだ。
何かされるたびに、いじめられている少年は歯を食いしばってその場でただじっと耐えている。声を出すわけでもなく、ただじっとうずくまって。
「緑ー!」
「緑っ子ー!」
周りのいじめっ子たちは、なんらかの周期でもあるかのように少年に対して緑、という言葉を叩きつける。言いながら、また少年を蹴りつける。それでもやはり少年は耐えるだけだ。
いじめっ子たちが言う言葉の意味は、いじめられている少年の瞳を見れば一目瞭然だ。
今は涙で潤むその瞳の色は、日本人――いや、この世界の人間にはあるまじき、煌くような翠緑色だった。それは、この世のどんな緑を折り重ねても、決して現れることはないように思えるほどに幻想的だ。校舎の影であるためそこに陽は差さないが、恐らく陽光を浴びればそれは美しく輝くだろう。
しかし、その緑色の瞳から、一条の涙が零れ落ちた。それは少年の頬を伝って服に滴り落ち、雫の跡を作る。そして、その部分の周りや地面には、恐らく少年の涙の跡であろう湿った部分がある。この涙の前にも同じように地面へ向かって走った涙があったのだろう。
少年の顔は、成長すれば美しくなるだろう。幼いながらも整っている。しかし、今の彼の顔は泥と涙でとても見られたものではない。顔に傷がないのが意図的なのか知る由もないが、いじめっ子たちの慣れたやり方を見る限りこれは日常的に繰り返されていることのようだ。
虚空に視線を投げかける少年の瞳には、諦めと、絶望と、悲しみと――そして、一縷の望みとが複雑に入り混じっている。
「バケモノ!」
今まで緑、と言っていたいじめっ子たちの言葉が更に鋭くなった。それは、あまりに美しすぎる翠緑色への畏怖なのか。それとも単純に、緑の目を持っている人間など妖怪か何かに分類されてしまうほどのことなのか。
「お前なんか退治してやるぞ!」
一人のいじめっ子が、その辺りに転がる小石を無造作に拾い上げると、握り締めて振りかぶった。
それを見るや、少年は来るべき痛みに堪えるため、目を閉じて身体を強張らせる。しかし、いくら待っても変な沈黙が続くだけでそれらしい痛みがやってくることはなかった。
恐る恐る目を開けた少年が見たものは――
「……あんたらいい加減にしなさいよ!」
先ほど小石を投げつけようとした少年の腕を、一人の少女が掴んでいた。
他のいじめっ子たちはそれを認めると、お互い囁きあって、捨て台詞も残さずそこから走り去っていった。最後に腕を掴まれていた少年は、少女に背中から突き飛ばす形で解放されてその場で転ぶことになる。しかしすぐに立ち上がると、先に行った三人を慌てて追いかけていって、校舎の影に消えた。
いじめっ子たちが消えるのを確認すると、少女はしゃがんで少年の顔を覗き込む。
「……大丈夫?」
「……うん……」
消え入るようなか細い声で、少年は辛うじて頷いた。少女はそれを聞くと、すっくと立ち上がって手を差し伸べる。
「ほら立って。それくらいできるでしょ?」
少年は無言で少女の手を掴むと、のろのろとその場に立ち上がった。しかし、それでも彼は少女の手を握ったままずっとうつむいている。
「……まったく。あんたも抵抗しないからそうなるのよ。あーゆーやつらはね、こっちが黙ってると付け上がるの!」
少年の手を振り払って、少女はすぱっと言う。少女の言葉に、少年は更にうつむいた。
「……ボクじゃ……勝てっこ……ないもん……」
「はいはい、そのセリフは聞き飽きました」
「……それに……ヤだよ……。ケガするのは、ボクだけで……」
「あーもう、それ以上しゃべるな!」
少女は半目でにらみつけながら、少年に向き直る。そして無理やり少年の視線を自分のそれに重ね合わせると、ゆっくりと口を開いた。
「いーい、光? あたしだってね、幼馴染のあんたがいじめられてるとこなんて見たくないの。でも、あんたが変わろうって思わない限り、ずーっと続くわよ?」
「……でも」
ぎゅっと瞑られた少年の瞳から、大量の雫が溢れ出た。今まで耐えてきた分が一斉に堰を切ってあふれ出し、そのままそれは濁流となって彼――光の頬を伝っていく。
「……あたしのこの言葉、もう聞き飽きたと思うし、正直光には辛いと思うよ。でも、あたしあんたに変わってほしいから……もっと強くなってほしいから言うの。……できる限りあたしも手伝うから」
光からの返答はなかった。いや、あえて言うなら、声を上げて泣いたというのが彼なりの返答だったのかもしれない。
しばらくの間、二人はそこに立ち尽くしていた。次のチャイムが構内に鳴り響いても、なお。
青かった空は夕日に焼かれ、今そこにはオレンジの空が広がっている。カラスが七つの子の待つねぐらへ帰ろうとする時間帯、子供達もそれぞれの家路へとついていく。
そんな中、黒くて長い影を背負って、二人は通学路を歩いていた。
「……アリス……」
「ん?」
光は呟くように口を開いた。アリスと呼ばれた少女が、光に顔を向ける。それと同時に、彼女の首から下げられている大きな黒水晶がはめ込まれたペンダントが揺れた。
アリスは、顔立ちこそ日本人のそれだったが、髪色や瞳の色が違っていた。薄い金色の髪で、瞳は西洋人の青い瞳。光の鮮やかな翠緑の瞳と比べるとそれは淡く、くすんだ色、と言ったほうがを正しいかもしれない。いわゆるハーフ、というやつだ。
「……ごめんね……」
明るいアリスの声とは対照的に、ポツリとそれだけ言って光は黙り込んだ。
「いつものことでしょ。気にしないで」
努めて優しい笑顔を見せて、アリスは後ろで自分の手を組むと、更に続ける。
「……友達でしょ、あたしたち」
「……ありがとう……」
身体が小さいせいで、どちらが背負われているのかわからないくらい大きく見えるランドセルを抱えて、光はそれだけを返した。そんな光の瞳は、逆光の暗さの中でも美しく、よく映えた。
「…キレイなのにな、緑色…」
小さな人間の身ではとても行くことのできない遥か上空を見上げながら、アリスはひとりごちる。道端に視線を落としていた光は、その時だけアリスの横顔に目をやった。
二人はそのままゆっくりと街並みの中へと溶け込んでいく。まもなく日没だ。
やがて二人は、一軒の病院の前で足を止めた。
「……じゃあね、アリス。おやすみなさい」
病的といえるほど暗い顔だが、かすかな微笑を浮かべて光はアリスに言う。それを受けて、アリスは隣の家の門をくぐりながら――もちろん笑顔で――手を振って答えた。
「うん、また明日ね!」
アリスが家の中に消えるのを見て、光は病院の裏手に回る。『桐原内科』と書かれた看板を抜けた先に、さながら牢獄のような雰囲気をかもし出す玄関口がひょっこりと顔を出す。
「……ただいま」
暗い廊下に向かって、誰にともなく光は言った。が、返事はない。
彼の母親、成美は内科を営む医者である。近くに小児科がないためそちらも扱っており、かなり遅い時間まで営業時間を設定している。そんなハードスケジュールにも関わらず、日曜日も気楽に往診に応じる成美は良き医者だろう。
しかし、光にとって成美はあくまで医者でしかなかった。成美から、母親としての愛情というものはおおよそ受け取った記憶が彼にはない。いつも彼女は忙しく飛び回っており、今も昔もまるで彼のことは眼中にないかのよう。
光の家は生活部分と病院部分が繋がっている。しかしそちらからの音は、ほとんど生活区域には入ってこない。音の滅多に起こらない暗黒のスペースの中で、独り生きていけるはずなどない。そんな彼が生活を主に送っていたのは、他でもないアリスの家だった。
今年で五年生になり、流石に幼馴染とはいえ異性の家にずっといるということを遠慮してか、彼は自宅で放課後を過ごしているが、この中での生活などまるで空虚で、生きているというよりもむしろ囚人のように生かされている感覚に近かった。
のろのろと自分の部屋に戻ると、彼はランドセルを机に置いて自分のベッドに身体を埋める。そして光は、そのまま暗闇に身を任せて意識を深く沈ませていった。
「……お母……さん……」
元々小さなその声は、厚い布団に吸収されて本人にすらほとんど届かなかった。
こうして、光の一日は過ぎていく。ただ、今を生きるだけの術しか――あるいはそれすら――彼にはわからなかった。こんな毎日を送って死んでいくのかという思いは、自然に彼の枕を涙で濡らす。
2.ナミダ
基本的に、一度人間が持った感情、特に負の感情は滅多なことでは変わらない。そのくせよくよく原因を見つめなおしてみると、それは実に些細なことであることも多い。そんなわけで、中学校に進学しても光の生活にはほとんど変化がなかった。
他の小学校から生徒が集まってくるから、もしかしたら一人くらいは友達もできるかも、という淡い期待はものの見事に粉砕された。それも実に早い段階で。
誰もが光を奇異の目で見つめるのだ。その緑色の視線を感じると、慌ててその視線から外れようとする。同じ小学校だったものはさすがに慣れていて、意図的にそういう目を向ける。しかし、他の小学校から来たものたちは光の瞳のことは知らない。珍しいもの――さしずめ動物園で異国の動物を見るような目で見られるのだ。
そして性質の悪いことに、今まで光をいじめてきた連中がその手――後々冷静になって考えてみれば実にいかがわしい――の話を吹き込んだせいか彼は今まで以上に孤立していった。肉体に直接受けるようないじめはなくなった。けれども、その代わりに今度は精神的ないじめが始まった。
誰も光に話しかけようとしない。授業中、教師に何か言われた時など、どうしてもという時は言葉を交わすが、それ以外では誰も絶対に彼に話しかけようとしないのだ。たった一人、アリスだけを除いて。
しかし、アリスはアリスで運動部に入部したため、下校時には独りで帰ることが多くなり、元々口数の少なかった光は、ますます暗くなっていった。
また、光は人気のない家を嫌ってすぐに家に帰らない。スーパーマーケットや本屋などで時間を潰し。ある程度暗くなってから帰る。成美は相変わらず忙しいから。家にいてもすることがないから。
ある日、いつものように彼は時間つぶしのため既に通いなれた本屋の入り口をくぐり雑誌コーナーへ足を運んでみれば、ある月刊の漫画雑誌に新連載が始まっているのを見つけた。カラーで刷られた表紙をめくると、その新連載なるものが十数ページにわたって、表紙と同じくカラーで続いていた。
それはごくごくありふれたファンタジーの世界観だった。剣と魔法が存在し、善と悪がいる世界。善が仲間と共に悪を討つ――そんな筋書きらしかった。
光は、そのカラーページのキャラクターたちをじっと見つめる。その中に、誰一人として黒髪と黒い瞳を持つキャラクターはいなかった。青や赤や、そして緑など、実際にはありえない瞳を持ったキャラクターたちがそこにいる。
――こういう世界に行けたらなぁ……。
心の奥で、光は呟いた。こういう世界なら、どこにいても自分の緑の瞳を異端視する目はないはずだ。そう思いながら、光は自分と同じ緑色の瞳を持ったキャラクターに視点をあわせた。カイト・シルヴィス。それがそのキャラクターの名前らしい。
どこか超然とした顔。飄々とした態度。そのキャラクターの一つ一つのしぐさに、そのキャラクターの持つ自信のようなものを感じて、光はまぶたを少し下ろす。
こんな風に、自信たっぷりに振舞える日は、来るだろうか。考えて、すぐに内心首を振る。そんな日が訪れることなど、ないだろう。こんな風に、なりたいけれど。
ため息を一つついて、しかしその物語がなかなか気になる内容だったため、彼はその雑誌を手にすると、カウンターに向かった。
女男。
いつの間にか、そんなあだ名が光についた。
周りの男子が二次性徴を向かえ、声変わりと共にぐんと背が伸びていくのに対し、光はそんな気配は微塵もないことが原因だ。
中学二年生になっても身長は百四十に届かず、声変わりなど一体どこに置いてきたのかと思えるほど高い。言動も女々しく、もはやパッと見ただけでは光が男なのか女なのか、即座に判断を下すことは難しくなっていた。
このあだ名のおかげなのか、それとも周りがただ慣れただけなのかはわからないが、最近は光への風当たりはかつてほど厳しくはなかった。
そんな中で、光が唯一の慰めとしたのは、絵だった。絵とはいっても、油絵や版画といった、いわゆる芸術作品ではない。キャラクター物を中心とした、イラストである。
きっかけは、以前購入した漫画だった。そうした作品の世界に行くことができないなら、せめてそうした世界を生み出してみたい。そんな想いがあった。
元々絵は得意なほうだったからなのか、それとも練習に割ける時間が多いからなのかわからないが、ともあれ彼の上達速度はわりと早かった。
それまでは部活動に参加していたわけではなかったが、最近になって一応存在していた漫画研究部に入部することになった。業後はそこで絵の練習に励む毎日をここに、三ヶ月近く続けている。下校最終時刻まで残っているから、小学校時代のようにアリスと帰ることも多くなった。
これくらいで満足するべきなのかな、と自分に言い聞かせて、光はかばんを背負いバインダーを抱えて校門を出た。このバインダーには、ファイリングされた絵が入っている。色々と考えて、今漫画にしてみようと挑戦している話で、今のところこれはアリスにも見せていない。ちなみに見せられない理由は、びっくりさせようとかそういうものではなく、単純に恥ずかしいからだ。
寂しさや孤独感がないわけではない。だが、今は去年までに比べれば問題ないレベルだ。
高望みはしないほうがいいかな。そんな風に思考をぐるぐるめぐらせながらとぼとぼと歩く光を、後ろから眺める三人の少年がいた。三人ともやけに黒い笑顔を浮かべて光に駆け寄る。
「よーう桐原、最近やけに下校が被るねぇ」
一人の少年が、光になれなれしくもたれかかった。突然のことに、光は足を止めてただ目を丸くすることしか出来ない。
「今日は一人かよ? 恋人さんはいないんですか?」
別の少年がニヤついた目で光を覗き込む。誰のせいだとは言わないが、光はその手の話には極めて疎い。そんな彼が、少年の言う『恋人』が意味するのが誰なのかわかるはずもない。
「こいびと? そ……そんな人、いないよ……」
辛うじて聞き取れるような声を搾り出して光は彼らから逃げようとするが、更に別の少年が光をマークして離さない。力のない光は、こういう風にされると逃げることができないのを判っているのだ。
「しらばっくれんな!」
光にもたれかかった少年が突然怒鳴った。耳元で大声を上げられて、光は思わず身体を強張らせた。
「お前やけに笠山と仲いいよな。あれはどう説明するつもりだ、おい?」
「アリスのコト? アリスはただの幼馴染で……」
精一杯の抵抗を込めて光は言う。しかし、最初から光と馴れ合うつもりなどない少年たちは、そのかすかな抵抗を無視して光を傍の壁に押しつけて取り囲んだ。
「お前ごときが笠山さんとなれなれしくするんじゃねぇよ!」
「おうよ。彼女に迷惑だろ」
言葉の端々から、どうも彼らがアリスに惚れているらしいということは、ある程度人生経験があるものならわかっただろう。だが、光はこと対人関係に関してはまったくといっていいほど無知だった。そして、三人の少年たちにとってそういうことがわかろうがそうでなかろうが、どちらでもいいことだ。
「ん? こりゃお前が描いてるのか?」
最初光を覗き込んだ少年が、光の持っていたバインダーの中を見て頓狂な、それでいて嬉しそうな声を上げる。それは丁度、幼児がオモチャを手に入れたような顔だった。
「へぇ? どんなん?」
「見せろ見せろー」
他の二人もそれに群がる。慌てて光は取り返そうと近寄るが、すぐに壁に思いっきり抑えつけられて動けなくなる。
「や……やめて……やめてよ……!」
ぐったりとその場にうずくまってしまった光の瞳から、涙が零れ落ちた。痛みによる涙は約二年ぶりだろうか。
しばらく、描きかけの原稿に見入っていた少年たちは、出し抜けに笑い出した。それも半分以上わざだと思えるような大げさな笑い方で。
「くっだらねぇー、お前こんな恋愛もの好きなのかぁ?」
「男がこんな少女漫画みてーの描いてんじゃねーって!」
「は、ハラいてぇわー」
「…………」
笑いに続いた罵倒に答えることも出来ず、ぼろぼろと光は大粒の涙を流し続ける。自分自身、女の子みたいだと思っているだけに、彼らの言葉は鋭い刃となって光の心を深く抉り取った。
「ってかお前男じゃないだろ」
「女っつったほうがいいって、絶対」
「お前頭いいな。じゃこういうのどうよ?」
いいながら光にもたれかかっていた少年が、やおらかばんから取り出したのはどこから用意したのか、女子生徒用のセーラー服だった。
「や……っ、やめ……て! むぐ……っ!」
声――むしろ悲鳴――を上げかける光の口が強引に塞がれた。両腕は高く上げられて壁に擦りつけられ、無理やり制服を脱がされ。そして――無理やりセーラー服を着せられる。その間の時間は、ごくわずかだった。
「おーおー、似合ってますよ光ちゃん!」
「いっそ明日からそれで登校しろよ!」
「あ、それ好きにしていいよ。どうせ姉貴のお古だし」
高らかに笑いながら、三人はその場を離れていった。してやったりというように、やけに楽しそうにはしゃぎながら。その手際のよさは、狙っていて事前に用意していたとしか思えないくらい迅速なものだった。
その場に取り残された光は、そのままそこに座り込んでいた。目は完全にうつろで、ただそこからは涙がとめどなく流れている。今までに描いた原稿は、やはりというかなんというか、踏みにじられてボロボロになっていた。
そのまま日が暮れるまで、光はひたすらに無力な自分を責め続けていた。
翌日、光は学校を休んだ。何気なさそうに朝のホームルームでそんな連絡を伝える担任の話を聞いて、アリスは頭の中で嫌な想像が、まるで機械で水素を注がれる風船のようにどんどんと膨れ上がっていくのをやけにはっきりと感じていた。
無視され続けているというのがいいというわけでは無いが、最近は以前ほど陰湿なやり方はされておらず、特に目立ったこともなかったから、あまりかまってやらなかった。
――でも、そんなのはただの言い訳に過ぎない。
アリスは、自分の不手際に――それが無理にでも背負い込んだものであったとしても――内心唇をかんだ。
その日彼女は部活動を早々に切り上げると、早足で光の家へと急いだ。
いつも通り、光の家――の生活区域――には明かりがともっていない。隣の病院部分からは煌々と明かりが洩れているが、本当に繋がった同じ建物とは思えないくらいそれとはまったく対照的だった。
アリスは光の家の合鍵を持っている。相互の母親同士仲がいいこともあって、昔はよく出入りしたものだった。同様に光はアリスの家の合鍵を持っているのだが、ここ数年彼はそれを使っていない。アリスからすれば何を遠慮しているんだ、といったところである。
彼女が玄関を開けると、そこには暗黒の廊下が広がっていた。ここは昔と変わっていない。ふと彼女はそう思った。その暗い廊下を壁伝いに歩いて、ようやく光の部屋にたどり着く。
静かに戸を開けると、そこはとても一人用の部屋とは思えないほど大きな部屋が広がっていた。その奥のベッドの上で、誰かがうつぶせになっているのが入り口からかすかに見える。光だ。
最初は眠っているのかとも思ったアリスだが、そうではないらしいとすぐにわかった。時折、くぐもった泣き声が聞こえてくる。少なくとも寝ているわけではない。
「……光……?」
アリスは、ベッドの前に座って静かに言った。その声に、光の身体が固まる。
「ひっく……アリ……ス……?」
しゃくりあげるような震えた声が、アリスの耳朶を打った。涙で濡れた翠緑の瞳が、一直線にアリスを見つめている。
「……何があったの……?」
アリスが言い終わる前に、光はアリスに飛びついた。その様は、子犬が母親にすがりつく姿に似ている。
「うわあぁぁぁぁぁぁん!」
そしてそのまま、アリスですら今まで聞いたことのない大声を上げて、光は思いっきり泣き始めた。どうすることも出来ず、ただアリスは光を撫でることしかできない。それが慰めになるのかどうかは、彼女にもわからない。
涙ながらに光が昨日あったことを語り始めたのは、それから一時間は後だった。多少落ち着いたとはいえ、説明は涙声で途切れ途切れのためわかりづらかった。が、それでもアリスは把握できたのだろう、彼女は回答の代わりに光を優しく抱きしめた。言葉が、出なかった。
アリスの瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた――。
3.カイト
ゆらゆらと、バスが揺れる。別に地震が起きているわけではない。単純にバスという乗り物が走る時の揺れであり、中にいる人間でそれを気にするものは一人もいない。
そんなバスの一番後ろ、最も広い場所に、荷物と並んで座りながら漫画雑誌を手にする光の姿があった。その隣、荷物とは反対の側に、アリスがいる。
そこは二人の家と通学している高校の近くとを通る路線バスであり、今は下校のためにバスに揺られているというわけだ。バスの背中を、夕焼けが照らしている。
「…………」
「…………」
光は、手にする雑誌を隣のアリスにも見せるような形でいる。彼女も、それを受けてやや身体を彼に預けるような形で、その物語の中に意識を傾けている。
それは、光が中学時代に講読を始めたあの雑誌だ。二人が高校に進学してそろそろ一年、当時から加えると四年近くの時間が流れているが、光が講読するきっかけとなったあの漫画は、まだ続いていた。だから彼は、一ヶ月に一度、学校の帰り道でコンビニに立ち寄る。そこで雑誌を購入し、帰りのバスの中でそれを読むという生活を送っているのだった。
中学時代と違って、光もアリスも、部活動には参加していない。いわゆる帰宅部である。だから、雑誌を買って帰る日は、二人で過ごす場合が多くなっていた。
「…………」
「…………」
アリスが右手をひらひらと動かす。それを認めた光は、ページをめくった。どちらかというと、読む速度は光の方が速いのである。
物語の中では、件のカイトというキャラクターが、主人公たちに神秘的な様子の杖を渡して、その使い方や、隠された真実などを語っていた。漫画などでもよく見られる、かくかくしかじか的な場面である。また、今までどこかすごい奴だと思っていた仲間がやはりすごい存在で、主人公たちが成長するのを見守っていた、とそこで暴露されるのもわりと使い古された手法だ。
「…………」
「…………」
再度、アリスが次のページを促して、光がそれに従う。
見開きで、カイトがさあ行け、と促していた。すべての準備は整ったと、そういうことらしい。そして、でかでかと切られた「続く!」の文字。どうやら、今月の分はここで終わりのようだ。
「……あー、まあ、ここで切るのが王道よね」
「……だね。わかってるけど、やっぱり続き気になるね……」
月刊誌なだけに、一回分の連載量は多めだ。しかし、その代わり一度発表されると次の話が公開されるまでの時間は長い。
「ま、でもこの雑誌の傾向からして、行けって言われてすぐにラスボスまで行くわけはなさそうよね」
「そうだね……きっと延びるよね……」
ぱらぱらと他のページを送り続ける光に、アリスが苦笑を向ける。光も、同じく苦笑した。
人気のある作品が、作者の意図したところで終われないという話はよくあることだからだ。特に、この雑誌はその傾向が強い。とはいえ、二人ともそうした「大人の事情」を理解できる歳になっているので、それ以上は何も言わない。
「それにしても、あんたのお気に入りは超古代文明のアンドロイドと来たわね。そりゃなんでもそつがないわけだわ」
「そう来たねー。今までの流れから、現代人じゃないって設定は間違いなかったけど、人間じゃなかったね……」
「まあ見た目とか変わるわけでもないし、よっぽど化け物にでもならない限り嫌いにはならないでしょ。首にケーブル繋げて目から映像投影した時はどうしてくれようかと思ったけど」
「ああ……うん、あの場面はびっくりしたね。それまでその手をイメージさせるシーンなかったしね……まあ、確かに食事はしてなかったけど……」
バスが、相変わらず揺れる。光の手から離れた雑誌が、その衝撃でずるりと落ちそうになって、アリスがそれを止める。
「……うーん、でもアンドロイドかあ……。カイトには憧れるけど、やっぱり人間でいたいかなあ、ボクは……」
ありがとうと言いながら、光はそう続けた。その顔を、アリスはへえ、と意外そうな顔で見つめる。
「だってさ、ご飯を食べられるって幸せだと思うんだ。美味しいもの食べるって、生き物の特権じゃない?」
「……なるほど、そう来るのね」
光の言葉に、アリスはあは、と笑う。
「うん、食べられるってのは幸せだわね。でも……」
しかし、すぐに少し顔を険しくして光を見つめる。その様子に、彼は不安げに小首をかしげた。
「……でも?」
「……空腹の苦しみって半端ないと思うの」
二人の腹の虫が、鳴き声をあげた。
「…………」
「…………」
赤い太陽が、二人の顔を照らす。赤らめた表情が、夕焼けで隠されている。
「……うん、それは本当にどうしようもないね……」
「……でしょ」
「今日のご飯、なんだろ……?」
「そろそろシチューとかが美味しい季節だけど、どうかなー」
夕食の話題に花が咲きそうになった頃。
「あ、次だ。そろそろ降りる準備しないと」
「え? あ、ホントだ。光、ほら漫画」
「あ、うん、ありがと」
光はアリスから漫画を受け取り、アリスはそのついでに降車を告げるボタンを押す。「次降ります」という赤い文字が浮かび上がった。
4.フタツ
どうしてこんなことになってしまったのだろう。節々が痛む身体をさすりながら、光は心の中でつぶやく。周囲には、誰もいない。
そこは、南米ペルーで最近発見された遺跡である。大学生になった光は、所属する研究室の教授につきそって、アリス他、院生や四回生らと共に現地調査に同行していた。
ところが今、その教授や他の随行員などは誰もいない。彼らはみな、この遺跡の中で帰らぬ人となった。アリスとは先ほどはぐれてしまい、今彼女がどこにいるかは、皆目見当がつかない。
遺跡は、まるで人を拒むかのような凶悪な仕掛けで次々と襲ってきた。そのたびに、団体は人数を減らしていった。これがハリウッド映画なら、残された二人はロマンスの末に脱出することができるかもしれないが、現状でそんなことを考えるのは、あまりにも楽観的と言わざるを得ない。
彼とアリスがはぐれたのは、本当につい先ほどのことだ。
明かりのほとんどない遺跡の中、二人は携帯電話に付随するカメラ用のライトを周囲に向けながら、牛の歩みを続けていた。何か少しでも脱出の手がかりとなるようなものがないかと、半ば背中を合わせる形で。
二人は、二十一と二十歳になっていたが、光のほうが早生まれであるにもかかわらず、彼はいまだに子供のような外見のままだ。身長は百四十くらい、声も変わることなくボーイソプラノ。合唱部から目をつけられているが、それはとりあえず蛇足だ。
一方のアリスはというと、百六十台の半ばくらいまではある。身体つきはすっかり大人のそれであり、光と並んでいると、姉弟を通り越して親子に見える場合すらあるくらいだ。
そうして二人で歩いていたが、しばらく罠がなかったことから、休憩しようとしたのがいけなかったのだろうか。光は考える。
床に座り込んで、壁に背中を預けた途端のことだった。壁ががくりと後ろに下がり、そのまま光は壁の中に吸い込まれてしまったのである。目を点にしながらも、手を差し伸べるアリスの姿が視界に飛び込んできたが、どうにもならなかった。
そして、地面にぶつかる衝撃と共に彼が放り出されたのが、この場所だ。周囲に明かりは、やはりない。だが、先ほどの回廊とは違い、そこは広場のようである。巨大な柱が林立する様子は、イギリスのストーンヘンジを髣髴とさせた。
「どこかに出口、ないかなあ……」
まだ身体が痛むが、かといって致命的なものではなさそうだった。光は立ち上がると、出口を求めてそこをさまよい始めた。
その広場は、まるで競技場のようにとてつもなく広かった。携帯電話は先ほどの回廊に置いてきてしまっていたから明かりはなく、一寸先は闇という言葉をそのまま体験できるほどだ。
「……?」
ある程度進んで、光は人影を見たような気がした。もしかしたら、アリスだろうか。そんなことを考えて、彼は足を速める。
「……わあ!?」
そのまま少し早歩きに進んで、近づいてきているのが自分だと知って、思わず足を止めた。それにあわせて、向こうに立つ自分も足を止める。
そのまま向こうが動く気配がないので、彼はそろりそろりと、再び歩き出した。すると、向こうの自分も同じようにして、こちらへにじりよってくる。
「……ひょっとして、これ……」
ふと思うところがあって、光は走り出した。目の前に、自分が迫る。ぶつかる直前で足を止めて、彼は目の前に手を差し出した。ひやりとした感覚が、手のひらから全身に広がった。
「……なんだ、やっぱり鏡かあ」
そこには、自分とまったく同じ姿の少年が一人。だがその少年は光沢の中にあり、それはすなわち、光が鏡と向かい合ってることに他ならない。
「……でも……なんでこんなところに、鏡なんか……」
そもそも、遺跡の存在からしてわからない。造りからして南米の文明とは異なるものばかりだし、今までの罠もやたらとバリエーションが豊富で、まるで世界中のあらゆる文明をごちゃまぜにしたような、奇妙な完成度があった。
そんな遺跡の恐らくは深い場所の、恐らくは巨大であろう鏡を、光はぼんやりと見つめた。鏡の中の彼も、そうした行動にならう。が。
「……え!?」
その、鏡の中の自分が、にやりと笑った。光が決してしたことのない、底意地の悪そうな、いかにも何かをたくらんでいそうな、邪悪な笑み。そして。
「!? わ、え、な、えええっ!?」
光が混乱している中、鏡の中から手が伸びてきた。そして、やはりにたりと笑う自分が、光の手を握る。
「ひゃ――!?」
次の瞬間、光の意識がぐにゃりとゆがんだ。思わず目を閉じる。それはごく僅かな時間だったが、終わった直後、光は床に投げ出されるような感覚を覚え、目を開けた。そこは、完全なる闇の中だった。
「ええ……!?」
振り返る。そこには、先ほどいた広場があった。そこだけ、空間がテレビになったように、長方形で広場の様子が見て取れる。そして、その先には。
「……ど、ど……どういう……ことなの……?」
邪悪な笑みをたたえた、光がいた。
「……ふふ、ご苦労さん」
「!?」
もう一人の光が口を開いた。自分と同じ声だ。しかし、どこか何かを達観したような、冷めた色がそこにはある。
「どうやら今回は成功みたいだし……やっと、ボクの夢が叶うんだなあ……!」
「な……ど、どういうことなのさ……!?」
もう一人の自分の言葉の意味を、光はまったく理解できなかった。そんな光に対して、もう一人の彼が嘲笑の目を向ける。
「……ふふ、冥土の土産に教えてあげる。ボクはキミさ。億年兆年、あるいはもっと後……それくらい未来の、キミだよ」
「!?」
「ボクはね、異形の神の幼生なんだ。人間の姿を持った、ね。ご丁寧に人間そのものの感情、思考と肉体組織でさ。だから特に目立った能力があるわけじゃない。まあ生まれが生まれだけに、世界の壁を越えることと不死身の身体があるけど、これは種として共通してるものだし、別にそう珍しくもないんだよね」
「…………」
何がなんだかわからない。光は、もう一人の自分に困惑した目を向ける。
「それでさあ、ボク、まだそんなこと知らなかった頃……今のキミと同じくらいの時ね。その時、キミと同じようにしてやってきたこの遺跡で、旧き支配者を信奉する連中にアリスを殺されたんだよ。生贄だって。ボクは殺されても死なないし、腐っても幼生とはいえ神みたいなものだから、生き残ったんだけど。当然ながら、死んだ命は帰ってこなかった」
「……死ん……だ……」
「そうさ。その時、ボクは自分の力に目覚めたんだ。出自も知った。大切な人を守ることができなかった悔しさと、怒りと……まあ色々な感情が爆発して、気づいたらここじゃない世界にいた。だからボクは――死者を蘇らせる術を探して、ありとあらゆる世界を渡り歩くことにしたのさ! 次こそはアリスを守る力を身につけるためにも!」
それだけ一気に言って、笑う。それは勝利を手にした人間が、ひどく饒舌になるのとよく似ていた。
もう一人の光の演説が、続く。
「でも! でもね……そんな技術はどこの世界にもなかった。なかったんだよ! わかる!? それを知った時の、ボクの絶望感が! ……ああごめん、わかるはずないや。キミはボクだけど、ボクの人生をまだ辿ってないからね。悪かったよ。……まあそんなで、ボクは生き返らせるのを諦めた。でも……ふと思ったのさ。悠久の時を生きて、ボクの力はとてつもないものになった。今のボクの力があれば、ひょっとして、失った時間を『繰り返す』ことができるんじゃないか、ってね!」
そして、もう一人の光が、光を指差す。恐らくは、鏡に向かって。
「それでボク、地球が存在する世界を探したんだ。どうせ平行した世界なんて腐るほどあるから、できるだけボクの育った地球に近い環境の世界を探した。で、見つけたのがこの世界。……いやあ、我ながら名案だったと思うなあ」
言って、彼はけらけらと笑った。その様子を、もはや光は見ることしかできない。
「……あはは、それで、ボクは歴史の黒幕になったんだ。無貌の神の真似事って言ったら手っ取り早いかな? 世界を、ボクの思うように動かして、ボクが望んだ世界になるように手引きしたんだ。何度もね。ちょっとでも間違えたら、もうアリスが生まれてくる可能性は出てこなくなるからさ。壊してはやり直して、やり押しては壊して……うん、ここは語ると長くなっちゃうから、割愛しちゃう」
もう一人の光の顔が、喜びに満ちている。狂気に取り憑かれたようなゆがんだ笑みだ。その様子に、光は息を飲む。
「……それで! それで今回はね、本当にうまくいったんだ! 順調に手はずが整って、アリスが生まれてくることを知ったんだ! そいでボクは、自分の肉体と魂を切り分けて、ボクはアリスの黒水晶を通して世界を見れるようにここに残って……残った肉体には用意してあった別の魂を入れて、母親役の人に植え付けたんだ……。回りくどいけど、そうしないとなぜかここまで到達しなかったからさ……仕方ないね……」
そこまで言って、もう一人の光がぎらりと緑色の瞳を光へ向けた。血走ったような、しかし真剣そのものな瞳が、光の視線を貫く。
「……じゃ、あ、ボク……は……」
「そうだよ、言ったろ? キミはボクなのさ。……何も知らない、何も汚れてない頃のボクだ! ……ねたましかった。アリスの隣にいるお前が、どこまでもねたましかった! だから色んな奴をけしかけて、苛め抜いたんだよ。ココロが壊れない程度にね!」
「……ッ!」
「あはははは! その顔だよ、その顔が見たかった! ……でも、キミという存在は殺さないよ。消さないよ。その暗黒の領域の中で、一生、死ぬこともなくずーっと、独りでありつづけるといい。お前だけ死ぬなんて、絶対に許さない。ボクが久遠の彼方からずっと味わってきた、死ぬことよりも辛い孤独を、永遠に味わい続けてろッ!」
そう言い放ち、もう一人の光は笑った。けたけたと、壊れたような笑い声が空しく響く。
その姿を、光は涙をとどめることなく、呆然と見つめる。今にも心が砕けてしまいそうだった。
「……おっと、ボクはそろそろ行かなきゃね」
「……行く……って……。……まさか……!?」
悪い予感しか感じさせない流し目を見て、光はもう一人の自分に追いすがろうとする。だが、二人の間は見えない壁のようなもので遮られ、二人が繋がることはなかった。
「まさか? まさか、何? ……あはは、いいよ、別に言わなくったって。ボクが言うもんね」
「……っ」
「そろそろここにアリスがたどり着く頃合だね。ボクの時はここに待ち構えてた連中がいたけど、そんなのボクが許すわけないし。ボクは安心して、彼女と合流することができる……」
「……や、やだ……! やだよ……!」
光の思ったことは、的中していた。
つまり――もう一人の光は、そのまま光として、世界に戻るのだ。アリスと共に。
では、ここにいる自分はどうなるのだろうか? 考えるまでもなく、その答えはわかっていた。
「これでやっと、ボクはアリスとの人生を再開できる……知ることのなかった、アリスとの……ああ、やっとここまで来たんだ!」
「…………」
「……それじゃあね、粗大ゴミ」
彼は最後にそれだけ言うと、満面の笑みを光に向けて、背を向けた。そして、光から遠ざかっていく。振り返る気配は、微塵もない。
「……ま、待って! いやだよ! いやだ! ……あ、ああああ……あ……」
どれだけ力を込めても、目の前にある見えない障壁を越えることはできなかった。そのまま、もう一人の光の姿が闇にまぎれて見えなくなり、光は、完全に一人となる。
しばらく彼は、いなくなった自分の姿をそれでもぼんやりと探していたが、やがてそれも諦めて、その場にゆっくりと崩れ落ちた。
「…………」
涙があふれて止まらなかった。しかし、泣き声は上がらない。声をあげて泣くことができないほど、彼は打ちひしがれていた。
考えも回らない。とにかくありとあらゆる負の感情だけが、今の光に満ちていた。
5.ツバサ
どれだけそうしていたかは、定かではない。光は、言い争う声を聞いたような気がして、意識を取り戻した。取り戻して、このまま眠っていられたらどれだけよかったかと思って、死にたくなる。
今いる暗黒の空間と、先ほどいたあの広場とを唯一繋ぐ、四角い枠。そこから向こうを覗き込んで、光は息を飲んだ。
「……だから! 光はどこにいるのよ!?」
「さっきから言ってるじゃないか、光はボクだよ!」
そこには、アリスと自分がいた。もう一人の光が、アリスと口論をしている。
「違う! あんたは光じゃないわ!」
「どうしてさ!? どうしてそんなこと言うのさ!?」
「バカにしないでよ! あたしが何年光と一緒に生きてきたと思ってんのよ! あの子のこと、ずっと見てきたんだからね! ずっと……ずっと!」
「…………ッ!?」
アリスの言葉に、もう一人の光が、受け入れがたい現実に直面したように息を飲む。
「だからわかるのよ……理屈じゃなくって、感覚で! あんたは光じゃない。見た目は同じかもしれないけど、違う! 光はね、そんなうそ臭い笑い方しないのよ! もっと包容力のある、優しい笑い方すんの!」
「…………」
「……アリスーッ!」
叫んでいた。アリスの言葉が嬉しくて、光は彼女の名前を叫んでいた。どうか届けと、心の中で祈りながら。そして、その想いは。
「……光……?」
「!? な、……ッ!?」
届いた。アリスが、「こちら」に目を向ける。そして、恐らくあちらでは鏡であろうこちらとの境目に存在する見えない障壁に、触れる。彼女の手に己の手を重ねて、光は泣きながらもう一度叫ぶ。
「アリス! ……アリス……! ボクはここにいるよ……ここに……!」
「光! これってどういうことなの!? 鏡の中にって……そんな、冗談きついわよ……!」
「わかんない……! わかんない……!」
「……ちょっとあんた! 光に何したの!?」
アリスが、怒鳴りながら後ろに振り返った。そこには、呆然と立ち尽くす、もう一人の光。幻想的に輝く緑色の瞳が、しかし怒りとねたみと悲しみと、それから絶望の色でまたたいている。
「…………」
「答えなさいよ! 光に何を……、……ッ!?」
アリスがそう言って、もう一人の胸倉をつかんだ瞬間だった。
「きゃ……!?」
「うあッ!?」
「!?」
彼女がいつも身に着けている、黒水晶のペンダントが闇を焼き尽くさんばかりの輝きを放った。その輝きが、光のいる空間を飲み込んでいく。
「……さ……させるか! そんなこと、そんなこと……!」
まばゆさに目を閉じた光に、もう一人の光の声が届く。直後、何かが砕け散る音が響き渡った。
気がつくと、光はあの場所にいた。明かりのない広場。しかし以前とは違い、一人ではない。そこにはアリスと、それから怨念のこもった視線を向けるもう一人の光がいる。
「……光!」
「アリス!」
アリスに声をかけられて、光は彼女の懐に飛び込む。
「……あ、あれ?」
しかし、光はそのまま彼女の身体をすり抜けてしまった。
「……ちょっと、どういうことよ?」
「……わ、わかんない……」
常識の範疇ではまったく理解のできないことが立て続けに起きて、二人の混乱はいよいよ極まろうとしていた。
「……あ、は。あは、ははは、あはははははは……!」
突然、もう一人の光が笑い始めた。先ほど見せたような、けたけたとした笑い方。しかし、今度はそれに加えて、何かが途切れてしまったような、何かが壊れてしまったような、ひどく狂ったようである。
「……あははははははは! ……ふざけるな!」
そして、叫ぶ。
「ふざけるな! こんな……こんな結果、認めるものか! どうしてだ! どこがおかしかったんだ!? ボクの計画は、完璧だったはずなのに……! なのに!」
その姿を、光とアリスが見つめる。
「……なのにアリス! どうしてボクを裏切るんだ!?」
「……う、裏切るって……! 知らないわよ! 勝手なこと言わないで!」
「……アリスなのに……。ここにいるのはアリスなんだ……あの時と変わらない……。なのに……それなのに……どうしてこうなった……」
もう一人の光はうつろな瞳で、その場にへたり込んだ。そして、ぶつぶつと二人には聞き取れないほどの声で、呟き続ける。
「……ねえ光、どうなってるのよ……」
「……ボクもよく……。ただ、彼は遠い未来のボクだって、言ってた……」
「……意味わかんない」
「……ボクもだよ」
「……そうだ……意味、わからないよ……」
ひそひそと話す二人に、もう一人の光の言葉が割り込む。二人は、同時にそちらに目を向けた。
「……わからない! 意味がわからない! ……でも、そうだ……そうか……」
「……ひっ!?」
もう一人の光と目が合って、光は思わずあとずさる。死んだ目がこちらを見ていた。輝きも何もない、ただ暗黒の瞳がそこにはあった。
「……お前がいるからいけないんだな……? そうだ……お前は殺さないといけなかったのか……。あは、ははは、あはは、これは誤算だった、なあ……。肉体奪えば十分って、思ってた、けど……そうかあ……魂も消滅、させとかないと……いけなかったのかあ……これは……ボクの……ボクの大誤算だよ……」
「……っ!」
のたり。もう一人の光が、一歩こちらへ近づく。その右手に、真っ黒なオーラをまとう、同じく漆黒の刀身の剣が出現した。
「……お前の存在を……なかったことにすれば……そうだ……光はボクだ……ボクだけだ……」
のたり。また一歩、彼が近づいた。その左手に、右手と同じ、暗黒の刃が握られる。
「……殺してやるぞッ! お前なんか、殺してやるッ!!」
刹那、彼の姿が掻き消えた。そして。
「……うあああぁぁッ!?」
次の瞬間、光の身体の半分が、抉り取られて吹き飛び、床を転がる。
「光!?」
身体が抉り取られたのは一瞬で、すぐに光の身体は元通りになっていた。しかし、言い知れぬ虚無感と、悪寒のようなものを感じて、光はがたがたと震えた。魂を削がれたのだと、彼は本能的に確信する。だが、その目の前に、邪悪な波動をまとう二対の獣が迫る。
「死ね! 死ねえ! 死んでしまえッ! お前なんか! お前なんかッ! 死ねッ! 死ね……ッ!」
怨嗟の言葉と共に、もう一人の光が二振りの剣を振るう。その動きは我を忘れたような直情的なものだが、あまりにも速く、そして鋭いため、光はなんとかそれを避けようとするがかなわず、少しずつ身体が削れていく。心が、魂が千切れ飛んでいく。
「やめて! それ以上は……っ!」
二人の間に、アリスが腕を広げて割り込んだ。しかし、暴走した二振りの獣は、止まることなく――。
「あ…………!?」
「う、あ、……あ、…………」
「…………!?」
どこまでも赤く紅く美しい花が盛大に咲き誇り、そして、散った。その全てが、スローモーション映像のように、光には見えた。きっと、もう一人にも同じように見えていたことだろう。
『……アリス!』
二人の光が、同時に彼女の名を呼んだ。しかし、彼女の身体を支えることができたのは、一人だけ。
「アリス! アリス! そんな、やだよ……! どうして、どうして……!」
「アリス! アリス! なんで……どうして……! どうしてこんなやつを……!」
「……ばか……や、ろ……」
その言葉と共に、アリスの腕が、彼女を支える両手を振りほどいた。当然、支えを失った彼女の身体は床に投げ出されることになる。
「アリス!?」
「え……」
アリスに突き放されたもう一人の光が、まるで腰が抜けたかのように、床にへたり込む。
「アリス! 何して……! それじゃ、……!?」
「……バカ光……。……あいつは……あんたじゃないの……あんな……奴の手、なんて……」
血で濡れた手が、光に差し伸べられた。しかし、今の光には、その手を握り締めることはできない。支えることもできない。ただ、そこに手を差し伸べて応じるだけが、精一杯だった。
「……ひか、り……ひかり……のが、……いい……の……」
「アリス……!」
「……あた、し……あ、んた……の……こと、だけ……見て……きた、から……。ひかりが……、う、が、ごふっ、う、…………」
「……! も、もう……やめて! それ以上、喋らないで……!」
光はもがく。アリスの身体を抱きしめようと。しかし、それはかなわない。ひたすらに、彼の手は虚空を掠め取るだけで。
「……ずっ……と……一緒に……いた、かった……。……ごほッ! ……ぅ……、光……大、好き、だったよ……」
「アリス……。ボク……ボクもアリスのこと……!」
血と涙に濡れた幼馴染の顔が、赤い血が滴るその唇が、そっと光のそれに触れた。いや、触れたように、見えた。実際には、繋がってなどいない。しかし、光の口の中には鉄の味と、ほのかな想いが広がったように感じられた。
しかし、それは刹那の幻。糸が切れた人形のように、アリスの身体から力が抜けた。目は閉じられており、けれどもその口元には微笑が宿っていた。
「……ア……リス……? ……アリス!?」
光は叫ぶが、アリスからの返事はなかった。ただ、その身体だけが何かを訴えかけるようにそこに残っている。その様子に、光は言葉を失った。
「……どう……して……」
もう一人の光が、呟いた。が、光には、彼を見る気力すらなかった。
「……全部……順調だったはずなのに……。どうして……また……彼女を死なせて……」
全てを諦観したような、呆けた声だった。
「……は、はは……。……ボクの、してきたこと、って……なん……なのさ……?」
「……!?」
次の瞬間、光の意識がぐらりと揺れた。そして直後、もう一人の光がいた場所にごろりと転がる。
「……え……?」
「……もう、ボク……疲れた……」
身体を起こすと、そこには、もう一人の光の姿。
「……その身体……あげるよ……。もう……もう、どうでもいい……何もかも……」
「な……」
「……アリスにとっての『光』は……お前なんだ……。ボクじゃ……なくなってたんだ……」
もう一人の光が、顔を伏せる。その視線の先には、既に事切れた、アリスの身体。
「……アリス……!」
光は、そこに這いよった。そして、今度はその身体に、触れる。まだ暖かかった。しかし、拍動は感じられない。
「……アリス……」
「……これもあげるよ……」
思考を放棄しようとした光に、もう一人の光が何かを差し出した。
「…………」
それは、アリスのペンダントだった。もう一人の光は確かに、それを手にしていた。彼がものに触れることができていることを疑問に思うだけの余力は、光にはなかった。魂でも、モノを動かせる力があるのだろう。光は、彼の手からペンダントを恐る恐る受け取った。
アリスが、いつも身に着けていた黒水晶のペンダント。暗闇の中にあって、その水晶がきらりと輝いているように見えた。
少し手を動かすと、ペンダントの蓋が開いた。ロケットになっていたようだ。ずっと一緒にいたはずだが、光はこの仕掛けは知らなかった。
中には、一枚の写真と、紙切れ。
写真は、子供の頃の光とアリスが映るものだった。今とあまり大差ない幼い顔を輝かせている光と、あの勝気な、だけどまだ幼かったアリスが腕を組んで映っている、二人だけの写真。
そして、紙切れには子供が書いたと思われるつたない字が、並んでいた。
ずっと、いっしょだよ。
「……ボクたちが……保育園の、ときの……?」
光はしばらくそのまま写真を見つめていたが、やがてそれらを元通りに仕舞うと、ペンダントを首から下げた。黒水晶が、まるで宿るべき主を見つけたかのように、あるいは、長年の想い人に身を寄せたかのように、キラリと輝いた。
「……ああ。……やっぱり……『光』はお前なんだ……」
もう一人の光が、うわごとのように呟いた。
「……行けよ……。この世界じゃない、どこかに……」
「……行って、どうしろっていうのさ……。死んだ人は……戻ってこないんでしょ……?」
「そうさ……ボクの……ボクが行ったことのある世界は、ね……。……世界は多い。星の数よりも……。だから……ボクが行った世界は、全てじゃない……」
ああ、と、彼はうめいた。
億も兆も越えるほどの時間を生き抜いた彼が、それでもたどり着けなかった、死者を呼び戻す術の存在する世界。そんなところを、ボクは見つけることができるのか。光はそう考えて、顔を伏せる。
「……行けよ……。……とりあえず、ボクの前から消えて……もう……」
「…………」
光は、答えることが出来なかった。それを見たもう一人の光が、睨みつけてくる。その瞳からは、滝のようにとめどなく涙が流れ出ていた。
「……行かないなら」
「……っ!?」
もう一人の光が、何かを呟き始めた。光には、まったく聞き覚えのない音だ。けれど、なぜかその音の意味が、効果が、正確に理解できた。そして、もう一人の光がそれを全て唱えきる前に、その祝詞の全てを、彼は「思い出す」。
「……消えろ!」
「待っ――」
時間と空間の座標が、激しく揺れ動いた。世界が、振動する。七色の霊妙なる輝きがその場に溢れ、一が全となり、全が一となる。刹那、窮極の門が光の身体を飲み込み、そして――ここではないどこかへ、その存在を遥か彼方の次元に運び去った。
その場に残されたのは、もう一人の光の精神体。
「……寝よう。……永遠の眠りの呪いを」
彼は呟く。それが、久遠の中で磨耗した魂の、最期だった。
6.ハジマリ
風がそよそよと吹きぬける。草はぶつかりあって涼やかな音を奏で、やがてそれは遠くへと走り去っていく。そこは、見渡す限りの平原だった。遠い地平線に、ぼんやりと街らしき影が見えるが、そこからではわからない。
そんな草原の中に、光は倒れていた。柔らかい草の絨毯が、まるでゆりかごのよう。その中に抱かれる彼の姿は、新しい生命のそれのようでもあった。
ふと、彼に降り注ぐ陽光が遮られた。太陽との間に男が立ち、光を見下ろしていた。風になびく長い髪は、銀。かけられたふちなしのメガネの奥に、優しい微笑みが湛えられている。
男が、何かを唱えた。すると、銀色の輝きが巻き起こり、それが光の身体を包み込む。それは、光が今までいた場所では、ありえない光景だった。
「……ん……」
そしてすぐに、今まで起きる気配のなかった光が、目を開けた。輝かんばかりの、神秘的な翠緑色が世界を見た。新しい、今までいた世界とは異なる、その世界を。
「……大丈夫ですか?」
そんな光に、銀髪の男が優しく尋ねた。その男の顔を見つめて、光は静かに一つ、頷く。
「それはよかった。立てますか?」
それを見て、男が手を差し伸べてくる。迷うことなくそれを握り、光はゆっくりと立ち上がった。地平線まで広がる平原が、彼の目に飛び込んでくる。
「私は、サトゥールと言います。近くの街で、魔術師をしています。……君は? こんなところで、一体何を? 見れば、どうもこの国では見かけぬ出で立ち……」
サトゥールと名乗った男は、ふむ、とメガネを直しながら、光の姿をしげしげと眺める。
「……ボク、は……」
そんなサトゥールに、光が口を開く。
「はい」
彼は、静かに微笑んだ顔を見せた。だが、そんな彼に向けるべき言葉が、光には浮かんでこなかった。
「……ボク……ボクは……」
「…………」
「……ボクは……。…………。……わかりま、せん……」
そう。世界を移動した衝撃が彼の全てを打ちのめしていた。それはひょっとしたら、大切な人を失ったという記憶を、消し去りたいという、無意識がそうさせたのかもしれない。あるいは、朽ちることも死ぬことのない肉体があっても、己に覚悟がない場合は、大きな打撃を受けるものなのかもしれない。
困惑した表情のまま、顔を伏せる光。その様子を見て、サトゥールは顎に手を当てた。
「……記憶喪失、ということですか……」
「…………」
「……わかりました、しかしまず名前がないことには……。君、自分の名前じゃなくって構いません、何か思い当たる言葉はないでしょうか?」
そして、笑顔を崩すことなく、光に言う。それは、底抜けの優しさを体現したような微笑だった。
「…………」
「…………」
光は、考える。サトゥールは、答えを待つ。そうして、しばらくの時間が過ぎた。
「……カイト……。カイト・シルヴィス……」
長考に次ぐ長考の末、光は一つの名前を口にした。それは、己の名前ではなく、ましてや想い人のものでもなかった。それは、憧れるものの名前。
「『時を越える翼を持つもの』ですか……良い名ですね」
それを聞いて、サトゥールはにこりと笑顔を深める。
「……では、これからしばらく、君のことを、カイト君、と呼びます。よろしいですか?」
「…………」
言葉はなく、しかし光は、こくりと頷いた。
「……さて、ではこの後はどうしましょうか? もし行く当てがないのでしたら、私の家に来ますか?」
「……いいん、ですか……?」
「構いませんよ。広いだけがとりえの家に住んでいるもので、いささか淋しいものがありまして。……ああ、弟子には、呆れられるかもしれませんが。まあ、そこは気になさらないでください」
言葉の途中で申し訳なさそうな表情を浮かべた光に、サトゥールはいやいや、と手を振る。そして、よく人を泊めるので、と告げた。
「…………。……はい……あの、その……お願い、します」
それで、ようやく光は表情を和らげた。そして、深々と頭を下げる。
「……はい、こちらこそ、よろしくお願いいたします。では、参りましょうか。こちらです」
「はい」
そうして、光は先に立ったサトゥールの背中を追いかける。その先には、彼方に見えるあの街。
この時、光の新しい生き方が始まった。卵という古い肉体を捨てた雛が、果てなく広がる大空を目指すように。それは、光という生命の終わりと、カイトという生命のハジマリを意味する。
同時にそれは、新しい輪廻のハジマリだ。久遠の孤独を背負い、悠久の時間を生きる輪廻。しかし、あるいは神の悪戯でもあったのか、それが廻ることは、ない。
旧き己が翼を与え、銀色の魔術師が奇跡を託し、最強の剣が闇を斬り裂き、光の守護者が孤独な心をすくいとった時、円環は姿を変える。
それは同じく、永遠を生きればこそ味会う苦難。しかし、そこには心がある。常に寄り添う、もう一つの心。二つの心が溶け合う中で、彼は生きる。あらゆる時空を飛び越えて、全ての出会いをその背に負いながらも、その翼が折れることは、ない。
だが、その不死鳥の姿を知る者は誰もいない。少なくとも、今はまだ、誰も。
Fin,and his story is continued on "mIracle stone","devil hunTer",and "the Endhia".
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