王都クレセント。月世界すべてを手中に収め、そのすべてを治めるクレセント王国の都。その文化水準は高く、また人々の暮らしも、他地域とは比べ物にならない。
 とはいえ、いかに都とは言っても、すべてのものが裕福な暮らしをしているわけではない。フルムーン十八世の治世が始まっておよそ十五年。いくつかの福祉政策が採られたが、それでもなお、貧富の差は埋めがたいものがあった。まして、身分の違いはどうしようもない。
 そんな都のはずれ。一般的に貧民街と呼ばれる薄暗い街並みのそのまた端で、崩れかけた壁に座り込んで、彼方にそびえる王城をじっとりと睨みつける少女がいた。
 粗末な服からのびる手足はよく日焼けしていて、彼女がいかに多くの時間を太陽の下で過ごしてきたかがよくわかる。あまり手入れのされていない黒髪はされるがままに伸びきっていて、腰のあたりには彼女のいでたちとは不釣り合いな、純白の絹のリボンで留められていた。
 彼女の名前はユウ。それ以外に、それらしい名前はない。そしてその名前も、誰がつけたのか、いつつけられたのか、どういう意図があったのか、一切わからない。
 なぜなら彼女は、自らの出自を知らない。親を知らない。気付いた時には貧民街にいて、気付いた時には家なしの子供たちの輪の中にいた。
 浮浪児。一言で言ってしまえば、彼女はそんな存在だった。
 ユウは、傍らに置いていた紙袋の中から、真っ赤に熟れたりんごを取り出した。それから、城を睨んだまま、りんごに勢いよくかぶりつく。
 かしゅ、という小気味いい音がかすかに鳴り響く。しばらく、身を咀嚼する音だけが続いていた。
 そんな彼女が座る壁の下部が、不意に開いた。重いものが動く時独特の鈍い音に、彼女は思わずぴんと背筋を伸ばしてそちらに目を向ける。その目は、先ほどとまでとは打って変わって、期待に満ちた色をしていた。
「……なんだ、リックかよ」
 しかしその色は、開いた壁から出てきた少年を見るや否や、元の不機嫌そうなものに戻った。それから、ぶっきらぼうに言って、彼女は袋の中のりんごを少年めがけて投げつける。
「なんだ、って。ひどい言い方だなあ」
 リックと呼ばれた少年は、それをこともなげに受け止めて見せると、ゆっくりとユウへ振り返った。
 さらりと揺れる青髪は、星の色。そして彼女を見つめる赤い瞳もまた、星の色をしている。そんな星に愛された少年リックは、隠すことなく苦笑いを浮かべていた。
「うっせうっせ、いつもどーりだろ」
「ま、それは確かに」
 投げやりなユウの言葉に、今度はリックは肩をすくめて応じた。
「とりあえず、そっち行くから」
 それから彼は、ユウが腰かける壁をよじ登り始める。
 その行為自体を止めることは、ユウはしない。むしろ、食べかけのりんごをほおばりながらも横に動いて、彼が座れるスペースを作ったのだから、彼を受け入れていることは間違いない。
「よ、っと……」
 リックのほうも、それが自然と言わんばかりに、壁を登り終えた後はユウが空けたスペースに腰を下ろした。
「……久しぶり」
 それから彼は、穏やかな顔をユウに向けた。
「んだな」
 ユウは、彼に顔を向けない。しかし、城を見つめる彼女の表情は決して無愛想なものではない。むしろ逆で、彼の来訪は彼女にとっては十分好ましいことなのである。ただ、それを表面に出すのはためらわれた。そういう年頃だった。
 二人は幼馴染だ。多くの時間を共に過ごし、互いに手を取り合って生きてきた。
 けれども、並んで壁に座る二人の服装は非常に対照的だ。
 ぼろぼろの服のユウに対して、リックがまとう服はしっかりとした造りになっている。飾り気はなく、どちらかというと朴訥な印象を与えるが、それでもその質がいいことは、子供が見てもわかるほどだ。
 それも当然である。貧民街に暮らし、時に軒下で一夜を明かすこともあるユウと違い、リックの住処は王城なのだから。
 彼は、貴族の息子だった。しかも、彼は他の人間とは一線を画した立場にある。
「……グロウはどーしたんだよ?」
「うん、そのことで今日は話に来たんだ」
 ユウに返事をしたリックは、いただきます、とつぶやいてからりんごに口をつけた。音が鳴る。その所作一つとってみても、彼は万事につけ行儀がいい。彼の育ちの良さがにじみ出ているようだった。
「……あのさ、ユウ。いろいろ話すけど、これだけは最初に言っておくよ。全部、グロウが自分で決めたことだ、ってね」
「……んだよ。すげーヤな予感しかしねーんだけど」
「そう、だね……ユウにはたぶん、そうだと思う」
「……わーかったよ。でも、わかっててもたぶん、キレるときはキレるから」
「ん、知ってる。はあ、オレしかいないのはわかってるけど、気が重いよ」
 食べかけのりんごを両手で抱えて、リックは深いため息をついた。しかしすぐに表情を引き締めると、ユウに顔を向ける。
「グロウの奴だけど、もうこっちにはほとんど来れない。来れなくなった」
 リックのその言葉に、ユウは絶句する。
「……なんで」
 ようやく絞り出したその言葉は、かすかに震えていた。
「あいつ、本格的に政治に関わることになったんだ。もちろん、後継ぎとしてではないんだけど……王族なことには代わりないから」
 一方リックの声は、淡々としていた。ただ、決して彼に心がないわけではない。それは、先ほど彼が気が重い、と言ったことからもわかる。
「…………」
「……こないだ、グロウの賜名の儀が執り行われたんだ。いまさらって感じだけど……とにかく、陛下が本当にあいつを王子として扱うってことを表明した。これであいつは正真正銘、王子だ。その決定は誰にも変えられないんだよ」
「…………」
「……でも、さ。ユウ。オレは、もう関わるなって言いに来たんじゃないんだ。あいつは、これからも絶対お前たちに会いに来るから、って……裏切ったりしない、って……そう、言ってた。そう伝えてくれ、って……」
「ば、……ばっか、やろう……!」
「……ユウ」
 それまで黙っていたユウの怒声に、リックは複雑な表情をして彼女を見つめた。それは、やっぱりな、と言いたげであり、また同時に、すまないと言っているようでもある。
 そんなリックの胸ぐらを、ユウは勢いに任せてつかみあげた。その拍子に、りんごの入った紙袋が倒れて、中のりんごがばらばらと外に転がる。いくつかが、壁からさらに落ちて、その商品価値ががくりと下がった。
「ふ、ふざけんなよ……! どーいうことなんだよ!? あいつ、あいつ国のことは捨てたって……!」
「……そう、だな。言ってたね。でも、……その決意を変える何かがあったんだよ」
「お前はいいよな! リック! お前は……お前はあいつの『ちきょうだい』なんだろ!? お前だって、お前だって城に住んでるんだもんな!」
「…………」
 ユウの言葉に、リックは思わず視線を逸らした。
 彼女の言う通り、リックはグロウと乳兄弟の間柄にある。同じ乳母に育てられた二人は、文字通り兄弟と言っていいほど、約十年の人生を一緒に過ごしてきた。
 王子であるグロウと、遠慮なく会話ができる。これは、城内においてはほぼ彼だけが有する特権とも言える。そう、彼は他の貴族の子弟とは一線を画した存在なのだ。
 だがユウは、リックとは違う。
 確かに、グロウは王子としては異端である。貧民街を活動の拠点とし、貴族よりむしろ平民、あるいはそれ以下の人間こそ拠り所としていた。ユウをはじめ、この地区に住む子供たちとは、今までずっと親しく付き合ってきた。しかしどう振る舞ったところで、彼はあくまで王子なのだ。それはもはや変えようがない。
 一方ユウは、この王国においてヒエラルキーの最下層に位置するただの子供でしかなかった。何の後ろ盾もない。何の武器もない。どうあがいたところで、彼女はそもそもの土台からして、リックと同じ場所に上がることすら許されない。それも、変えようがなかった。
「私は……私は……!」
 そして、それはユウも理解している。天と地ほどの差がある身分。しかしその差は彼女にとって、どうしても越えたいものであった。
「……うん。わかってるよ。お前、ずっとそうだったもんな」
「……っ」
「あーあ、やれやれ」
 なおも険しい表情のままでいるユウをなだめるようにして、リックは彼女の肩をたたいた。それから、そっとその手を取って、胸ぐらをつかまれている状態を解く。
「結局、最後までダメだったなあ。ま、あいつじゃ仕方ないけど」
「…………」
「ユウ? オレはまだ他のみんなにもあいつのことを教えなきゃいけない。だから、悪いんだけどもう行くよ」
「…………」
「最後に、あいつからお前宛ての伝言、伝えとくよ」
「……私、あての……?」
「うん。まず半分……実は、あいつが城の隠し通路を教えたのって、お前だけなんだよ」
「……?」
「わからないかなあ」
 首を傾げるユウに、リックは苦笑した。それから仕方ないなあ、とつぶやいて、彼女にそっと耳打ちする。
「……つまり、秘密の屋上に入っていいってあいつに認められたのは、城下じゃお前だけなんだよ」
「……あ」
「そういうことだよ。で、残り半分伝えるよ。いつでも来いよ、だってさ」
「…………」
「じゃあ、確かに伝えたよ。オレは他の奴のところに行ってくるからさ。あ、これもらってくよ」
 そう言うと、リックは食べかけのりんごを片手に壁の上から飛び降りた。
 それから、ユウのほうへ振り返って手を振りながら言う。
「じゃあな! がんばってこいよ!」
 その言葉に、ユウはようやく呪縛から解き放たれたかのように全身を震わせると、リックに向かって叫ぶ。
「う……うっせー! このばかやろー!」
 その顔が赤いのは、太陽のせいではないだろう。

 高い壁に囲まれた城下町の中で、更に高い城壁で囲われた堅牢な守備を誇る白亜の城、クレセント。数千年という悠久の時を経てもなお美しさを保ち続けるこの城は、月世界で唯一の城塞にして、最大の建造物である。陽光を受けて一層輝いて見えるその姿は、まさに月を手中に収める輝かしき一族、クレセント家とその王国を象徴しているかのようである。
 そんなクレセント城は、実は入城に制限がない。旅人だろうが定住者だろうが、騎士であろうが商人であろうが、そして貴族であろうが貧民であろうが関係ない。その城門は、常にすべての国民に対して等しく開かれている。
 とはいっても、基本的にユウは城には入らない。彼女にとって建物に入るということは、基本的にものを盗む行為に直結している。だが、入ったところで城から何かを盗むとなると、リスクが大きすぎるのだ。
 何より、いくら表向きは誰でも入れるとはいえ、彼女のような貧民階級が城内にいると、周りからの視線が痛い。いかにも、場違いなところで下民が何をしているのだと言われているような空気を、どうしても感じてしまうのだ。
 だから、彼女は滅多にここに足を踏み入れることはしない。それでも今日ここに立ち入ったのは、リックの言葉があったからだ。
 グロウが、いつでも会いに来いと言っていた。ならば、何も気兼ねすることはない。彼女はそう自分に言い聞かせ、城の中を歩き続ける。
「相変わらず広ぇトコだな……ここまで来るのにどんだけかかったよ……」
 目的の場所――グロウの部屋の前までたどり着いて、彼女はため息と共に振り返った。そこには、長い螺旋階段が伸びている。
「……でも。ここに来たの、どんだけぶりだろ」
 扉に手を伸ばしながら、そんなことをつぶやく。もっとも、そのつぶやきに対して答えられるのは今ここにいる自分以外いないし、そもそも自分で答える意味も特にはない自問なのだが。
 ともあれ、深呼吸を一つ。そして彼女は、扉をノックした。
「どうぞ」
 そして即座に、部屋の中から久しく聞いていなかった声が返ってきた。その声に、ユウは一瞬硬直する。
 最近、ずっと会っていなかったのだ。嬉しいはずなのに、妙な緊張を覚えてしまうユウだった。
「……入るぜ!」
 そんな緊張を吹き飛ばすように、彼女は勢いよく扉を開ける。
「ユウ?」
「お、おうっ」
 そこには、見慣れた服ではなく、その身分に相応しい立派な服に身を包んだ幼馴染がいた。
 その髪と瞳は赤い。朔の星と同じその色は、彼が星に愛されて生まれてきたことの証だ。
 だが何より目を引くのは、彼の耳が丸いこと、そしてその指が五本あることだ。これらは、いずれも月の民の身体特徴ではない。
 おとぎ話では星にも人が住んでいるとされ、そこでの星の民が、ちょうど彼と同じ姿をしていると言われている。実際のことは定かではないが、ともあれ他とは異なるその身体が、王子でありながら彼を貧民街へ向かわせた理由の一つである。
 そんな彼――グロウは、ユウの入室が荒っぽかったからか、少し驚いたようだった。しかしすぐに表情を綻ばせると、腰かけていた椅子が倒れんばかりの勢いで立ち上がると、大股でユウに近寄ってきた。
「よく来たな、ユウ! 城の連中絶対そんな開け方しないから、ちょっとびびったじゃねーか」
「わ、悪かったな! どーせ私は荒っぽいよ!」
「んだよ、そうスネんなって」
「スネてねーし!」
「あはははは、わかったわかった」
「むー!」
 大声で笑うグロウの顔を睨みつけて、ユウはむくれた。彼の変わらない態度に幾分かの安心感を覚えつつ、すっかり王子らしいいでたちの彼にかなりの違和感を覚えつつ。
 そんな彼女の心中を知ってか知らずか、グロウは左手を差し出してきた。彼は左利きだ。
「……ったく。おら」
 その手を腕相撲のようにしてしっかりと握ると、二人はそれまでのやり取りがまるで嘘のように、にかっと笑みを突き合わせる。
「……久しぶりだな、ユウ」
「……おー、お前こそ」
「まあ座れよ。立ちっぱはだりーだろ」
「ん、じゃ遠慮なく」
 グロウが薦めた椅子に、言葉通り遠慮なくどっかと座るユウ。日ごろ、石畳や壁などによりかかることが多い彼女には、その豪奢な椅子の肌触りや、吸い込まれそうなほどの座り心地は、感動を覚えるほどだった。
 一方のグロウも椅子を引っ張ってくると、ちょうどユウの正面につくように配置する。そして、椅子の上にあぐらをかいた。
 その様子を改めて正面から見ると、まったく不思議な気分になるユウだった。
 彼女の知る限り、グロウはいつも自分たちと同じようなぼろに身を包んでいて、一緒に泥だらけになりながら、町や野を駆け回ったものである。当然、その姿は今とは比べようもない。そうした姿であってもなお、グロウには不思議と汚れているという印象がなく、彼女は無意識のうちにグロウのカリスマ性を感じていた。それが、グロウの王族としての姿を見慣れていないことから来る違和感と相まって、何とも言えない心地になるのだった。
「どうした?」
 そんな調子で見つめるユウを、不思議に思ったのだろう。グロウが首を傾げて、尋ねてきた。
「んーにゃ。似合わねーカッコしてんなって」
「……そう言うなよ、わかってんだからさ」
 ユウの指摘に、グロウはおどけてみせた。ひらひらと手を動かしながら、苦笑した顔をユウからそむける。
 だがその指摘は、実のところ本音ではない。ユウは内心で、今のグロウの格好は、グロウが着るためのものなんだと思うくらいには、似合っていると感じていた。ただ、それをすぐに口に出せるほど、彼女は素直ではなかっただけである。
 そして彼女は、そんな気持ちをさらに押し隠すかのように、話題を変えてしまう。
「知ってるよ。あ、これ、土産」
「お、うまそー」
 ユウが差し出したりんごを見て、グロウは表情を輝かせた。
 ユウは知っている。りんごが彼の好物だということを。だからこそ、彼がいつ訪れてもいいように前々から用意していたのだ。本来なら出迎えた時に渡すつもりではあったが。
「ま、盗品なんだけどさ」
「あははは、やっぱな。んなこったろーと思った」
 受け取ったりんごを豪快にかじりながら、グロウが笑う。国民が盗みを目の前で口にしたのだから、王子たる彼はそれをとがめるべきであろう。が、そんな彼もユウたちと一緒に何度も城下町で狼藉を働いているので、彼にしてみればそう気にすることではないらしい。
「やー、やっぱりんごは生でかじるのに限るなー」
 悪びれることなく、ユウをとがめるでもなく、彼はそう言って、更にりんごにかじりついた。盗難の被害者にしてみればたまったものではないだろう。
「今年のりんごはいい出来だー、って、青物屋のおやじが言ってたぜ。食うのが久しぶりだから、私はよくわっかんねーけどさ」
「らしいなー。こっちでもなんか、グルメきどっちゃってるやつらが最近んなこと言ってっぞ」
「へー、やっぱそーなのかな。ふーん……よくわかんねーや」
「そんなもんじゃね? 俺もぶっちゃけよくわかってねーし」
「お前は少しわかってもいーんじゃね?」
「無理無理、んな上等な口してねーもん」
「それもそーか」
 そして二人は、また笑い合った。
「……やー食った食った」
「芯までりんご食う王子なんてたぶん、お前くらいだよな」
 グロウの口からわずかにはみ出た果梗を見て、何気なくユウは言う。それを受けて、グロウは含んでいた果梗を取り出して、その辺りに投げ捨てた。
「そうだな、歴史上そんなやつはいなかったんじゃねーかな」
 そして、あろうことかその高価であろう服の袖で、口を拭う。ユウにとっては別になんでもない行為だが、もちろん城内の、特に目付け役などに見つかろうものなら、何を言われるかわからないだろう。まだ、彼が王族としての作法などになじんでいない証左と言えた。
「こんな姿のやつも、な」
 だが続いたグロウの発言に、ユウは驚いた。月の民とは異なる身体を持っているということは、周囲から言われてもグロウが自ら口にすることは、今まで絶対になかったからだ。それだけ、彼が自らの身体に劣等感を抱いていたことは、近くで彼を見てきたユウはよく知っている。
 そのため、彼女は思わず絶句した。そして、そのままグロウの顔を凝視する。
 グロウのほうも、彼女のそんな考えはわかっていたのだろう。見つめられたまま、少しだけ苦笑して口を開いた。
「……まあ、なんつーか、どうでもよくなったっつーか? 弟が生まれて、もう気にする必要もなくなったしさ」
「そ、そう、か……?」
「ん。まー気にすんな」
 そう言って、もう一度グロウは小さく苦笑した。
「……変わったな、お前」
 その様子に、ユウは思わず口にしていた。
「……そう思うか?」
「ん……思う」
 彼女の知るグロウは、もっと荒れていたから。もっととげとげしかったから。これほど穏やかなグロウの姿を、彼女は見たことがなかった。
「……どうしてだよ? お前……だって、お前の味方してくれたお妃さまはいねーんだぞ。言ってたじゃねーか、お前……」
「そーだな……母上を殺して生まれてくる奴なんて、……って、言ってたな、俺」
「じゃあ、なんで」
「だってよ、かわいいんだよ。まだ言葉も話せないし、立てねーけどさ。……でも、俺の顔見て笑うんだ。……そんな顔見てたら、殺すとかそんなの、思えなくってさ」
 そう言って笑うグロウの顔は、かつて見た彼とは違い、心の底から笑っているような、とても嬉しそうなものだった。
 十年に満たない人生の半分を、ユウは彼と共に過ごしてきた。それでもユウは、彼のそんな笑顔を見たことがなかった。彼女の記憶に、そんな顔のグロウはいなかった。
 一度も見たことがない、一度も自分に向けてくれなかった笑顔。それが、生まれて間もない赤ん坊に向けられているのかと本能的に理解した時、ユウはずきんと胸の奥が痛むのを感じた。
「俺は王様にゃならねー。これはもう決まったことだ。オルトクレセンティアもティルに譲った。……でも、だからこそ俺にも、やっと居場所が見つかったんだ。こんな城の中でも、俺がいてもいい場所がさ」
「居場所……」
「ん。俺は、ティルを守る。どんなことがあっても、絶対ティルを守る。魔法はできないけど、俺には剣があるからさ。……それが、俺の居場所だと思う。思った」
「…………」
 ユウは、お前の居場所はこっちじゃないのか、という言葉を思わず呑み込んだ。言えなかった。
 弟を守るんだ、と言ってこそばゆそうに微笑む幼馴染の姿は、その生まれにふさわしい、輝かしいものに見えた。それはユウにとってあまりにもまぶしく、近づくこともできないくらいに輝いていて。
 結局、どこまでいっても自分と彼とは、違う立場で、違う人生を歩むと決まっていると。……そう、思うには十分すぎた。
 自分は、彼の居場所にはなれない。そう言われた気がして。
「……なあ、ユウ」
「……んだよ」
 そんな心境が、表情に出ていたのだろう。グロウが、察した様子で立ち上がり、ユウの肩を叩いた。
「ちょっと上行こうぜ。いいだろ?」
「…………」
「な」
 それだけ言うと、彼はユウの了解を得ることなくきびすを返すと、壁まで移動しそこにかかっていた燭台をぐるりと半回転させた。
 すると、燭台のすぐわきの壁が、重い音と共に下に沈み込んだ。その先には、暗い道が奥へと続いている……。

 クレセント城には、無数の隠し通路がある。その起源は古く、悠久の昔、初代始光王シュリファーナがディオクレティアン一世を名乗り、この地に城を築いたその時からあったと言われている。
 しかしそれから六千三百年の時が流れ、そのほとんどは今や忘れ去られてしまっている。城の外、この島に隠された聖地へ王族が落ち延びるための避難経路とその周辺は、いまでも王族に伝わっているが、それ以外は記録にも残っていない。
 今、グロウに付き従ってユウが歩いてきた長い昇り階段も、そんな忘れ去られた通路の一つである。
 数年前、まだ城下で暴れ始める前のグロウが、リックと共に発見したこの隠し通路は、そのままクレセント城の頂上に繋がっている。その後この存在はユウも知ることとなり、三人はこの、今は誰も知らない道の先にある、誰も知らない屋上を「秘密の屋上」と呼び、よく戯れていたものである。
「……お前とここに来るの、久しぶりだな」
 その屋上に足を踏み入れて開口一番、グロウはそう言った。
 それは確かにそうで、ユウの記憶が確かなら、今は亡き王妃がグロウの弟を懐妊したと知らされてからは、そもそも城に足を踏み入れていない。一年は来ていないことになる。
「あー、まあ……」
 当たり障りのない返事をしながら、ユウも屋上に足を踏み入れる。
 気分はよろしくなかったが、それでも久しぶりの屋上は、やはり気持ちよかった。
 今日は風も穏やかで、音もない。雲は少なく、周囲に遮蔽物がないクレセント城の屋上からの眺めは、ユウの知る限り最高の景色だ。これに勝るものを見ようと思えば、彼方にそびえる世界樹を登りきるか、鳥のように空を舞う以外にないだろう。
 端のほうまで行けば、その景色を独り占めできる。この島しか知らないユウは、彼方にあるであろう何かを思い起こさせるこの景色が、大好きだった。
「……ユウ、俺さ」
 そんな頑丈な石で組み上げられた縁によじ登りながら、グロウが口を開いた。
「どうしても許せないことがあったんだ」
 そして、縁の先にある柵の手前にあぐらをかく。それから彼は、来いよとばかりに手招きしながら、言葉を続ける。
「……守れなくってさ。母上に頼むって言われたのに、守れなかったんだ」
「……?」
 仕方なしにグロウの隣まで行って、ユウは首を傾げた。そのまま彼の真意を探るように、眉をひそめたままの顔を彼に向けながら腰を下ろす。
「何もできなかった自分にすげーむかついてさ。そんで、そんな自分が許せなかったんだ」
「守れなかった、って。……何が」
「絶対……絶対ティルだけは、守るって思った。シフォンの分まで……ティルを守るんだ、って……」
 問いに対する答えはなかった。グロウの口から出てくるのは、あくまでそれまでの話の続きであって、ユウの言葉は耳に届いていないかのようだった。
 だがユウは、そのことに腹を立てるよりも、グロウが口にしたシフォン、という名前に首を傾げた。
 聞き覚えのない名前だった。それが誰を示すのか、見当もつかない。しかし、グロウの口ぶりではあくまで弟のティルと同列の扱いのようで、それがユウの頭上に疑問符を浮かばせることになる。
「もっと強くなって、誰にも負けないようになる。……それだけじゃなくって、ティルができないことは、俺が代わりにできるように、いろいろやれるようになる。……そう、思ったんだよ」
 続くグロウの言葉は、淡々としていた。だがその言葉から、彼の決意の強さがユウにもよくわかった。
 こんな風に言う彼を、彼の意見を変えることはできない。彼は頑固だから……それは、ユウにとってたどり着くのも難しくない結論だ。
「わーかったよ……もう何言ってもダメなんだな」
 だからユウは、努めて明るい調子でそう言うと、空を仰いだ。澄み切った大空を、名も知らぬ純白の鳥が飛んでいる。
「わかったけど。私納得してねーからな」
「ああ、わかってる。……ごめんな、全部言うわけにはいかねえんだよ。でも、お前たちを裏切ったりしない。これからも俺はお前たちに会いに行くし、お前たちだって、いつでも来てくれ。……来てほしい」
「……ぜってーだぞ。裏切ったりしたら、私ぜってー許さねーから」
「ああ、絶対だ。約束する」
 そう言って、グロウは握り拳をユウに向けた。その拳に、ユウも己の握り拳を正面からぶつける。そして二人は、どちらからともなく笑った。
「……なあ、グロウ」
「んー?」
 それからその場に身体を横たえて、ユウはグロウを呼ぶ。
「…………」
「…………」
 しばらく、静寂が辺りに満ちた。
 空には、純白の鳥が今なお優雅にたたずんでいる。
 ユウの全身にはやりきれない思いが駆け巡っているのに、世界はあまりにも彼女に無関心だ。そんなことは百も承知していたが、それでも今のように落ち込んでいると、その事実に折れそうになる。
 けれど、折れるつもりはなかった。少なくとも、彼の前でそんな無様な姿はさらしたくない。ユウにとって、彼はそういう存在だから。
 彼方に見える空に手が届かなくても、あの鳥のようにせめてそこに届かんとする気持ちだけは失うものか。
 幼くも確たるその決心を胸中に抱いて、ユウは首を振った。
「……なんでもねーや」
「なんだそれ」
「うっせーやい!」
 それは、まだはばたくことも知らない雛鳥の、精一杯の叫びだったのかもしれない。



◆ユウ・フェルフェスト(You Fellfest)
月世界の北中部、クレセント王国の王都、クレセントの貧民街に生まれる。
後クレセント暦二千五百六十四年、一角獣の輪三十四日生まれと伝えられるが、詳細は不明。
およそ二千六百年前、二世代前の世界の子に随行した英雄を始祖とする武家の名門、フェルフェスト家中興の祖。
元々の生まれは最下層民の浮浪児であったが、王室の推挙を得てフェルフェスト家の養子縁組競争に参加。見事当主の眼鏡にかなってフェルフェスト家の養子となった。
複数いた養子の中では唯一の女子で、その後も当時としては唯一の女騎士となって近衛騎士団に入団、王国に仕える。
他の養子たちが伸び悩む中、当時まだ王子だったクレセント三十六世の護衛役に任命され、そのまま王子と共に邪神討伐に参加しこれを撃破、十英雄の一人となる。
この活躍により黒陽騎士団の団長に抜擢され、フェルフェスト家次期当主の座を確実なものとする。以降、主に新大陸の開拓と魔族との折衝を任務とし、ヴィンデルミア大陸の海港都市リッテルリヒトの建設者となる。
またこの功績から、後クレセント暦二千五百九十六年、リッテルリヒト辺境伯に封じられており、更に二千六百二十年にはリッテルリヒト侯爵に封じられた。
没年は後クレセント暦二千六百二十六年、享年は六十二歳。その死後、クレセント三十六世により聖人に列せられている。
血縁の大半を紅鶴十一日の怪で失って以降、零落著しかったフェルフェスト家を盛り立てた立役者だが、一般的にはそれよりも史上まれにみる立身を成し遂げた存在として特に名高い。
運に恵まれていたとはいえ、努力を重ねて出世を続け、侯爵まで上り詰めたことは出世を夢見る平民層、あるいは下級貴族層のものにとってあこがれであり、また結果的に女性の社会進出を促したことから、特に女性からの人気が高い。
こうしたことから、王国全土で今なお月下美人の愛称で親しまれており、リッテルリヒトに建つ彼女の墓には参拝者が絶えない。
なお、貧民であった彼女を、なぜ王室がフェルフェスト家に推挙したのかは今でも謎とされている。
しかし私は知っている。彼女を推挙した人物が、星の子にして今は歴史から抹消された流星の赤太子、グロウ・ナルーン殿下であることを。

筆、コルファ・クレイアス





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