夢というものは、一体どうして見るのだろう。懐かしい夢に、思わず目を覚まして彼は何気なく思っていた。
 今までの経験や、心の奥底で無意識のうちに思っていることが描かれるのはわかる。けれど、そうでない夢も往々にしてあるわけで、それ以外の、取るに足らない夢に吉凶を見るというのは、どうも眉唾ものなのではないかと、どうでもいいことを考えて、彼は苦笑した。
 ビロードで飾られた、ベッドの天蓋から視線を外して、彼は脇で輝く明かりに目を向ける。それは、申し訳程度に、しかししっかりと明るく輝く炎霊石のランプだ。
 彼がむくりと身体を起こすと、かすかに、ベッドが悲鳴を上げたように聞こえた。だが、それは別段珍しいことではないので、彼がそれを気にすることはない。それよりも、隣で静かな寝息を立てている妻を起こさないようにと、それだけを気にしていた。
 炎霊石ランプを乗せるための燭台で輝く光は、光の魔法のような、ともすれば目を焼かれるのではないかと思うような強烈な光ではない。揺らぎさえ時に見える明かりは、まさしく優しい炎のそれだった。
 そのランプの明かりの向こうに、先ほどまで見ていた夢で会った幼馴染の顔を思い描いて、彼――大国アルセルンの若き国王、フィリップ・レス・ティオ・アルセルンは、もう一度苦笑する。
 単純といえば、理由は単純。その幼馴染の顔が、今隣で眠る妻のそれと、よく似ているからだ。その幼馴染はわりと初恋の想いを抱いた相手なので、似た相手を好きになってしまったのは仕方ないかもしれない。
 とはいえその幼馴染というのは男であり、フィリップとは同性なのだが、まあその辺りは、彼にしてみれば誰にも言いたくない黒歴史のようなものである。
 もちろん、だからといって邪険にしたことはない。逆に、悩み多き幼馴染のよき相談相手として、親友として、二人は良い間柄だった。もちろん今も。その頃はフィリップの兄もみな健在で、王位とは関係のない位置にあったことも影響しただろう。
 先ほどまで見ていた夢を思い起こすにつれて、フィリップはなんとなく、その幼馴染の安否が気にかかった。いきなり旅に出るのだと言って半年ほど前に城を訪ねてきたのを思い出して、顎に手を当てる。
 魔法はとても達者だったが、それ以上に内気で、怖がりだった姿を考えるにつけて、やはり無理にでも引き止めたほうがよかったか、と思えてならないのだ――。

「よーっす、お久ー」
「フィリップ様!?」
 そこは、王都レスティナスの西にある港町、マレナである。その外れにある小さな広場で、フィリップは井戸の傍らでひざを抱えていた青髪の少年に声をかけた。その少年は、突然の客に驚いた様子で、あたふたと立ち上がる。
「様はいらねーっつってんだろ。フィリップって呼べよ」
「う、うん……でも、だって、身分が」
「そーいうのいーから。めんどいからいーの」
 ひらひらと手を振って、フィリップは少年の隣にどっか、とあぐらをかいた。それを見て、少年ももう一度その場に腰を下ろす。
「……わかったよ。……えっと、じゃあ、フィリップ」
「おう、なんだ?」
「……またお城、抜け出してきたの?」
「へっへっへー、その通りでございます」
 悪びれる様子もなく笑うフィリップに、少年は呆れたような、でも仕方なさそうに、困った笑顔を見せる。
「もう、仕方ないんだから。また大臣様に怒られちゃうよ?」
「いーんだよ、大臣のお説教なんてもう慣れっこだからさ。ほれ、右から左に」
 言いながら、にやっと笑って両耳を指差した。その姿に、少年はくすくすと控えめに笑う。
 フィリップ、十五歳の初春だった。父王が崩御してそろそろ一年、跡を継いだ長兄が国を動かすようになってからと言うもの、フィリップの城を抜け出す悪癖には拍車がかかっていた。何せ後継のごたごたしたことが済んだのだから、末っ子のフィリップが国に関わる可能性はもはやほとんどないといってもいい。
 だから、そんなフィリップが城を抜け出してもそれをとがめるものはほとんどいない。大臣の説教も最近は形ばかりで、受け流すのも昔に比べて随分楽になったものだ。
「それよかクー、お前どうしたんだ?」
「……っ、ど、どうって、……な、何が……?」
 クーと呼ばれた少年が、おびえたような目を向けてくる。ここにいることからして何かあるなと思っていたが、その反応にフィリップは確信した。
「いや、あんだけ長かった髪をばっさり切られてみろ。そりゃ何かあったかって思うっつーの」
 言って、彼はクーの髪を指差した。
 最後に会ったのは去年の暮れごろ、その時も今と同じようにして城を抜け出してきたが、その時のクーは、腰に届かんばかりの長い髪を、ポニーテールにしてまとめていた。ところが今はその面影はなく、少し首にかかるくらいにまで短くなっている。
「……あ、う……うん……まあ、何かあったかって言われたら、あった……の、かな……」
「なんだどうした。お兄さんが聞いたるぞ、なーんでも話してみ?」
「……えーっと、そんな長くないんだけど……」
 クーに向き直ってその顔を見つめるフィリップに、ぱたぱたと手を振ってクーは答える。
「……あのね、今度お城まで報告に行く予定だったんだけど……ボク、今度レイロールの魔道学校に入ることになったんだ……」
「なんだとう」
 クーの言葉に、フィリップは居住まいを正す。
「レイロールって、あれか? 神域近くの。あのレイロールか?」
「……そうだよ、あのレイロール」
「うおう……なんだお前、すげえじゃん!」
 言って、フィリップは親友の肩をばし、と叩いた。
 レイロールの魔道学校と言えば、音に聞こえた魔法使いの名門である。世界でも特にマナの多い島に存在し、魔法使いの育成には定評があるところだ。そのため各国から魔法使いの卵たちが集まるが、あまりにここだけが有名になったために入学希望者が殺到するようになり、ここ十数年は入学するだけでも箔がつくほどの難関となっている。
「わぅ、痛いよフィリップってば……」
「はっはっは、やめないぞーやめないぞー」
「もう、ばか……」
「うむ、お前にバカって言われてもその通りだとしか言えないから困る。いや別に困りはしないか」
「むー!」
 クーが頬を膨らませてにらんできたので、ようやくフィリップは叩くのをやめる。
「ははは、いやー、俺は魔法とかさっぱりだけど、親友がんなトコに入るってなると俺も鼻が高いぜ」
「や、そんなことないよ……ボク、実技だけで通ったようなものだし……」
「いやいや、実技だけで通れるってーことは、要するに才能半端ないってことだろ。もっと自分に自信持とうや!」
 ははは、と笑ってフィリップはまたしてもクーの肩を叩いた。だが、今度は抵抗される気配はない。
「う、うん……だといいな……」
「しかし……まあそうか、それで髪切ったんだな。心機一転、みたいな」
「……そうじゃないんだ……。その……ちょっと長すぎたみたいで……」
「ん?」
 少し意味が理解できず、フィリップは腕を組む。そんな彼に、クーが髪先を弄びながら、答えた。
「……男の子は、髪の毛短くないといけないんだって。学校の規則でそう決まってるみたいで」
「ああ、そういうことか……いや、でもなんでだ? 長くてなんか問題あんの?」
「……わかんないけど……。でもそう決まってるんだって。だから、切ったの」
 そして、ため息混じりにクーは顔を伏せた。
「これでもぎりぎりなんだって……。はさみ入れるのすっごくイヤで……切った後もちょっといろいろモメて……」
「……ぁー、なるほどね……。それで、ここか」
「…………」
 フィリップの言葉に、クーはこくりと頷いた。そのままひざを抱えると、そこにあごを乗せて地面に目を向ける。
 ここ、というのは他でもない。昔から、このあまり人の来ない町外れの井戸は、クーが落ち込んだ時に来る場所なのだ。それも、なかなか大きく凹んだ時に彼はここに来る。フィリップが彼と出会ったのも、そんな時だった。
「……こんなに切らなくっちゃいけないんだったら、そんな無理して学校行きたくないって言ったら、おとーさんすっごく怒って……」
「……お前にしちゃ珍しく言ったな。よっぽどショックだったのな……」
 普段のクーなら絶対に言わない言葉を聞いて、フィリップは目をむいた。それから、彼の心中を慮ってその頭を優しく撫でる。
「……だって……あそこまで伸ばしたの、初めてだったから……」
「うん、長かったなあ。……えーっと、うん、可愛かったぞ」
「…………」
「……いや、でもさ」
「……?」
「今の髪型もなかなか似合ってるぞ。なんつーの、ボーイッシュ? 久しく短いのも見てなかったし、なんか新鮮だ」
 とても男に対して言う言葉ではない。それはフィリップもわかっている。
「……そう、かな……。ボク、これ似合ってるかな……?」
「うん。これはこれで長いのとは違った良さがあると思う」
「……そ、かな……」
 そして、クーがそう言って頬を染めるから、どうも妹を口説いている気分になってくる。実に不思議な心持だった。
「あれだよ、学校なんて三年くらいだろ? 髪の毛伸ばすのは、それまでのガマンって考えればいいんだ」
「……でも……」
「だいじょぶだーって。お前が卒業したらお前取るように兄貴に言っとくしさ。そうなったらもー多少の無理くらい俺がなんとかしてやるよ。こう見えて、俺だってい・ち・お・う、王子だしな」
 そして、フィリップはな、と声をかけて笑って見せた。そんな彼を見ながらクーはしばらく考えているようだったが、やがて張り詰めていた表情をふ、と崩した。
「……うん。ありがとう……。ボク、ガマンする……」
「ん、偉いぞー」
 こくりと頷いたクーの頭を再度撫でて、フィリップは笑う。それにつられてか、クーもようやく微笑んだ。
「……ねえフィリップ」
「ん?」
「……ボク、おとーさんに謝ってこようと思うんだけど……」
「お、そーだな、それがいい」
「……あの、さ、その……ついてきてくれないかな……?」
「……ったく、しょうがねえなあ」
 ひどく弱弱しく聞いてくるクーに、にやっと笑って見せて、フィリップは彼の頭をがしがしと乱暴に撫で回した。
「わかったわかった。お兄さんがついてってやるから、ちゃーんとしっかり謝るんだぞ」
「う、うー、わかってるよぅ」
「ほら立て立て。ん? お兄さんの手、必要か?」
「一人で立てるもん!」
 ぷんすかと耳を赤くして、クーが立ち上がる。それに笑い声を向けながら、フィリップも立つ。
「うぃ、じゃ行くか。アストラル卿、なんだかんだできっと心配してるぞ」
「……うん」
 返事を確認して、フィリップは先頭に立って歩き始める。それに付き従うような形で、クーが続いた。
 隣まで追いついたクーの見上げてきた顔は少年というより少女のそれで、フィリップは弟を伴っているのか妹を伴っているのかよくわからない心境になった。それから、彼の父親である伯爵から散々頭を下げられるのだろうなあと考えて、若干頭を抱えたくなったのだった。

「……いやいや」
 そこまで思い返して、フィリップは頭をかいた。友人の心配をしていたはずが、いつの間にか夢の回想になっていて、これは違うと思ったのだ。
 ちなみに、あの後は思っていた通り伯爵に何度も頭を下げられ、あの時ばかりは王族という身分など捨てられるものなら捨てたいと本気で思ったものだが……その伯爵は、今や彼岸の人である。
「……やれやれ」
 ベッドに座り込んで腕を組み、彼は頭上を仰ぐ。
「…………」
 五年前のあの日、既にクーに対しては弟のように思っていたが、初めてクーに会った時に胸に抱いた感情は、やはりそうした家族的なものではないのだろうなと、フィリップは思っている。
 それは、恐らく少年の青い心が抱えた初恋だ。何せ、クーは今でさえ男か女か見紛うようなのに、子供の頃のクーは本当に女の子と言っても誰も疑わないほどの容姿をしていたから、初めて会った時は、本当に女の子だと思った。だからこそ、そんな感情を抱いたのだろう。
 とはいえ、初恋というものが得てして成就しないように、ふたを開けてみればクーは男で、どうしようもないと知ったので、すぐにそうした気持ちは薄れていった。
 はずなのだが……どうやら、初恋というものは人の心の奥底で、好みの女性という形でずっと存在し続けるものらしい。
 ふと、フィリップはもう一度ベッドで眠る妻の顔に目を向けた。あの少し幼い顔立ちに似た姿。けれど、性格は違う。どちらかというと彼女は活発で、フィリップにも物怖じすることなく遠慮のない言葉を浴びせてくる。
「……あいつに話したら、なんて返ってくるかなァ……」
 はは、と乾いた笑いをしながら、もう一度妻の顔を見る。やはり、自分の好みはこうした、少しあどけなさを残した顔なんだろうなと、改めて思った。
「……にしても、あいつ今頃どこで何してんだろう……」
 改めて、クーのことを考える。幼馴染は、親友は、そして、弟は。どの空の下で何をしているのだろう。が、いくら考えたところで、それは今の彼にはわからない。
「……ま、寝るか」
 一つ大きなあくびをして、彼は妻を起こさないようにベッドにもぐりこむ。今度は朝まで眠れるといいな、と考えて、目を閉じた――。



◆フィリップ・レス・ティオ・アルセルン(Philip Res Thio Arlcern)
星の世界中部、アルセルン王国の首都レスティナスに生まれる。
レビック歴五百七十年、陽船の輪十五日生まれ。
およそ千年、七十九代にわたって存続したアルセルン王国最後の国王。歴史上、フィリップ八世と呼ばれる。諡号は星祚王。
父王の数ある子供たちの中では末っ子で、元々はもっとも王位に遠い存在であったが、相次ぐ兄王たちの死により、レビック歴五百八十六年、弱冠十六歳で王位につく。
証拠となる文献などは六百年を経た今も見つかっていないが、兄王たちの在位の短さから、その大半は彼と、彼の側近による暗殺という見方が一般的である。
国王としては内政と外交に力を注ぎ、邪神封印後の安定期では、各国との交渉を密に行い、新大陸の利権を巧みに獲得した才知あふれる王だったといわれる。
しかし、当時の諸侯の顔ぶれを見れば、この時代のアルセルン王国には極めて優秀な人材がそろっていた時代であるため、彼一人の功績ではないことも示唆されている。
のち、レビック歴六百十八年の世界の日に、王位をマレナ侯爵グロウ・ナルーンへ禅譲し、王位を去る。
禅譲後は、寵姫ルーリィと共に新大陸、シェルドール大陸へ移り住み、静かな余生を送り、レビック歴六百二十九年逝去。享年五十八歳。
その死に際し、禅譲され王となっていたグロウ・ナルーンは国全体でもって喪に服し、葬送した。
大国アルセルン王国最後の国王であり、禅譲での国明渡しという歴史的な事件の当事者であることから、その史料は多い。
また、アルセルン王国を継承したアストーン選王国が、フィリップ八世を名君として評し伝えてきたこともあり、現在でも名君として支持される王の一人である。
日記等の記述から見ても、少なくとも他人によく接し、和を重んじた人格者であったことはほぼ疑いがない。

筆、コルファ・クレイアス





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