王都は遥か南東の洋上。成都ブリュークスハイムも水神郷レンデフェルンからもまた距離のある、ジグドシャルナ大陸のほぼ中央部にその村はある。
 街道からは少し離れているため、人の往来はあまりない。来客と言えば、街道沿いの宿場からあぶれた人くらい。寒村と言って差し支えない。
 村の名は、シェラムルといった。
 何も住人は、好き好んでこんなところに村を建てたわけではない。街道沿いには、あまりいい井戸が掘れなかったのだ。加えて、人を大勢住まわせるに足るだけの木材が得られる森が、すぐそこにある。確かに人の出入りは少なく、経済的な活動は小さい。国としても、さほど重要な地点というわけでもない。
 とはいえ、住めば都という。この村に住む者は、別段ここでの暮らしに強い不満があるわけではなかったし、不満があるものは、歩いて数日程度の、ブリュークスハイムやレンデフェルンへ自主的に移る。ここは、そうした村だった。
 そんなシェラムルに、いつの頃からか忌み子の噂が広がるようになった。どんな禁忌でも、躊躇なく犯す不届きもの。それはほどなくジグドシャルナ大陸、ひいては海峡を越えてガリュフェニス大陸にも伝わっていた。
 いつの間にかそこには尾ひれがつき、王都クレセントにたどり着くころには、おぞましい化け物が住まう村、とまで大きくなっていた。
 この噂のせいで、シェラムルを訪ねる人はほとんどいなくなった。誰だって命は惜しい。そんな村に行くくらいなら、野宿のほうがマシ、ということなのであろう。
 そのシェラムルのほぼ中央。村の重要な農業水源であるシェーラ池のほとりに、一人の少女がいた。
 ややウェーブがかかった髪の色は金。肩までかかるその髪はあまり手入れがされていないのか、多くの毛先はほつれた糸のようになっている。だが、それよりも何よりも目を引くのは、彼女の瞳だ。
 それは、透き通った紫色をしていた。やや青みがかったそれは神秘的な煌めきを放ち、アメジストと比べてもなお、彼女の瞳に軍配が上がるだろう。
 少女の名は、ナナ。彼女こそ、シェラムルから発した忌み子の噂の元凶であり、張本人である。
 彼女には、人とは違う特技があった。それは――。
「……あ」
 太陽の光が乱反射する池の上を飛んでいたスズメが、タカに捕まった。スズメはもがくが、タカの鋭い爪が食い込んだ身体は、ほとんど動かない。
 とっさにナナは、やめたげてよお、とつぶやいた。
「……っ」
 その瞬間だった。タカが、拘束を解いてどこかへ飛び去ってしまった。解放されたスズメは、それこそハトが豆鉄砲を喰らったような、面食らった表情のまま、タカとは反対のほうへ飛んでいく。
「……また……やっちゃった……」
 ナナがつぶやく。
 そう、これこそ彼女の特技だった。
 彼女が口にしたことは、現実になる。必ず、ではない。しかし半分くらいは、現実となる。それがどんなことであれ、関係ない。彼女がそうしたいと言えば、彼女の意思に関係なく、多くは現実になってしまう。
 この特異な能力は、シェラムルでは忌避された。当然と言えば当然である。
 有用に使おうと思えば、いかようにでもできる能力だが、悪い方向へ使えば、これほど恐ろしい能力は類を見ない。
 たとえば、彼女が一言、「死ね」と言ったら、どうなってしまうのか?
 結果は想像に難くない。相手は、恐らく死ぬだろう。そして村人たちは、何よりもそれを恐れた。
 気づけばナナは、村の誰からも相手にされず、ただ忌み子と後ろ指を指されるようになっていた。彼女が、捨て子だったことも影響している。
 彼女を拾った神父一家。村で唯一の知識人である一家の者は、彼女を暖かく迎え入れてくれた。だがそれでもなお、いや、そうだからこそ、彼女は恩人たちに対して申し訳ないと思っている。
 結果、ナナは誰にも心を開かず、誰からも心を開かれない、ひどく臆病な性格に育った。
 そしてナナは、今日も自分に唯一許された席である、池のほとりの古株に腰を下ろす。あてどもなく、ただ景色を眺めるだけの毎日。それだけが、彼女が一日にすべきとされたことだった。

 ある日、ナナがいつものようにシェーラ池を訪れると、そこには先客がいた。腰に手を当てて、まるで仁王立ちの様相で、いつもナナが座っている古株に立っている。そして、じっと池を眺めている様子だった。まだ太陽は完全に目を覚ましていない朝。普通、この時間帯に暇を持て余している人間など、滅多にいるものではないのだが。
 けれども、その先客に声をかけられるほどの、小さな勇気すらナナは持ち合わせていなかった。物心ついてからずっと、蔑まされて生きてきたのだ。すべての人間が、彼女にとって恐ろしい何かだった。
 だから、彼女は声をかけることもできず、ただ先客の背中を見つめることしかできなかった。
 その先客は、小柄だった。ナナもまた、決して長身とは言えないが、それでも年頃の女として、恥ずかしくないくらいの背丈はある。だが、今彼女の目の前でその人物は、古株に上がってようやくナナと同じくらいになるかならないか、といったくらい。降りてしまえば、頭二つとは言わないが、一つと半分くらいはナナより小さいだろう。
 背には、その背丈にあったサイズのマント。黒を垂らしこんだような、薄暗い青の生地がそよ風に揺れている。
「……いつまでそこに突っ立ってるつもりなのさ?」
 声をかけられず、観察に徹していたナナは、その声に思わずびくりと身体を硬直させた。目の前の先客が、口を開いたのだ。
 その声は、風に揺れる鈴のように透き通っていながら、どこかなまめかしい色を帯びている。そっと身体を撫でられるような感覚を覚える、妖しい声音だった。
「ボクに用があるの? だったら、何か言えばいいのに」
 そして、声と共にその主が振り返った。
 輝いていると錯覚させるほど、陽光を乱反射させる翠緑の髪がさあ、っと揺れる。そして、それと同じ、翠緑の瞳がゆっくりとナナの顔を見据えた。
「ぁ……」
 美しい少年だった。ともすれば少女かと思ってしまう艶やかな姿は、うら若い少年が持つ独特な、両性具有の魅力をたたえている。ナナは、思わずその顔を見つめてしまった。普段、人の顔を見るなんて怖くてできやしないのに。
「……ボクの顔に、何かついてる?」
 ナナのその様子に、少年がにや、と笑いながら小首をかしげた。両目の下に描かれた逆三角形の赤い模様も、端を歪めて笑っているようにも見える。
 その声に、ナナはようやく我に返った。先ほどまでとは打って変わり、顔を伏せて、あちこちに視線を泳がせる。
「……ぇ、あ、ぅ……」
 家族以外と言葉を交わすのは、どれだけぶりだろう。ナナは、自分でも驚くくらい、何も言葉が浮かんでこなかった。ただ、小さく首を振ることしかできず、情けなくなってくる。
「……んっと。別にそういうわけじゃない、のかな?」
「…………」
 改めてかけられた問いに、ただ頷く。口が壊れてしまったような気分だった。
「口下手な奴だなあ。いいけど、別に」
「…………」
「この村の人?」
「…………」
 頷く。
「そっか。この池に用があるわけ?」
「…………」
 もう一度。
「ふうん。お邪魔だったかな。ごめんね」
「…………」
 今度は、首を振る。
「……ホントに話すの苦手なんだね。苦労してる?」
「…………」
 ――硬直。
「あはは、今度はリアクションもなしかあ。ううん、いいよそれ以上考えなくって。無茶なこと聞いたのはわかってるから」
 くすくす、と楽しそうに笑い、少年は古株から降りた。やはり、ナナの胸元くらいまでしかない。ずいぶんと小柄な少年だった。
「それじゃ、ボクは行くよ。ごめんね、邪魔して」
「…………」
 すぐ隣を、少年がすり抜けていく。どう反応していいかわからず、あれこれと考えているうちに、彼の姿はあっという間に遠くに行ってしまっていた。
「…………」
 少年は、一切振り返らなかった。しっかりとした足取りで、ぐんぐん行ってしまう。小さくなるその後ろ姿を覆い隠すように、青いマントが揺れている。
「……なん、だったのかな……」
 少年が角を曲がって家の陰に隠れてから、ナナはようやくそうつぶやいた。そして、崩れ落ちるようにしてその場に座り込む。思っていた以上に、緊張していたらしい。
「……誰……だろ……?」
 当然の疑問にナナがたどりついたのは、ようやく落ち着いて、いつものように古株に座ってからだった。

「いたいた」
「……!?」
 それからしばらくして、不意に後ろから声をかけられてナナは驚きながら振り返った。
「や。さっきぶり」
 振り返れば、そこには先ほどの少年がいた。そんなことを言いながら、ひらひらと手を振っている。
「……っ、!? ……」
「そう驚かなくってもいいじゃない。確かに気配は消してたけど」
「…………」
 少年は、いたずらっぽくくすくすと笑った。いかにも、してやったという感じだ。
 だが、彼の次の言葉に、ナナはもっと驚くことになる
「隣いい?」
「えっ?」
 思わずそんな声が出た。少年の意図することが理解できなくて、何度も瞬きする。
「くすくす……そう驚かないでよ。もっと驚かせたくなるじゃないか」
「へ、ぅ、あ」
「他意はないよ。隣に座ってもいいか、って聞いたんだ」
「う……うん……」
 いいかな、と首をかしげて見せる少年に、ナナはまた思わず、頷いた。頷いてから、自分が他人と会話したことに気付いて、内心更に驚く。
 そんな彼女の心中を知ってか知らずか、少年は遠慮なくナナの……というよりは古株の隣に腰を下ろした。草がかさかさと鳴る。ナナは古株に座っているので、ただでさえ身長差のある二人の視線は、かなりずれている。
「お前が忌み子だね?」
「……っ!?」
 だが次の少年の言葉に、ナナは息を呑んだ。この見知らぬ少年がなぜそれを知っているのか、という疑問からではない。また、直接的な暴力を受けることになるのか、という恐怖心からだ。
 自身の能力が忌避され続けて久しい。ほぼ物心がついた時からずっと、ナナは周囲から虐げられて生きてきた。今回もまた、そうなるのか、と。そんな恐怖が彼女をねっとりと包み込む。
 その様子は、外から見てもわかりやすい反応だったのだろう。少年は、苦笑しながら首を振る。
「言っとくけど、思考を読んだわけじゃないよ。その辺にうろついてた奴に聞いたのさ」
「…………」
「……それに、何も取って食おうってわけじゃないから。そんなに怯えないでよ」
「……ほ……ほん、とう……?」
「そうさ。ま、そんなに怯えられたら食べたくなっちゃうかも、ね?」
「……っ」
 くすくすと笑いながら言う少年の笑顔は、どこかすごみがあった。先ほど驚かせようと思っていた時の笑い方とは違う。美しくも蠱惑的な瞳が、ぎょん、とナナを見つめている。身体がこわばって、動かなくなるのを感じた。
「あはは、冗談だよ。そんなことしない」
 不意に、少年はえへらと笑った。それまで漂っていた恐ろしげな雰囲気は一瞬にして消え失せ、見た目通りのかわいらしい笑い方に変わる。
「…………」
 そうは言われても、すぐにそうですかと頷けるほど、ナナは純粋ではなかった。何年もの間虐げられてきたのだ。相手の言うことは、簡単に信じられない。
「……からかうつもりだったんだけどな。逆効果、か」
「…………」
「ごめんよ。驚かせて、悪かった。ボクはシフォン。忌み子の噂が気になって、調べに来たんだ」
 そう名乗って、少年は手のひらを開いて見せた。それからおもむろに立ち上がると、恭しく頭を下げる。
「本人から、直接真偽のほどを聞きたいんだよ。話を聞かせてくれないかな?」
 そして、そう付け足した。
 その所作は優雅で、シフォンの育ちの良さをうかがわせた。微笑み、ナナの返事を待つ顔は、先ほどの圧迫的な笑みを忘れてしまいそうなほど、穏やかだ。
「…………」
「ダメ、かな?」
「……す、少し、なら……」
「ありがとう」
 たどたどしいナナの返答に、シフォンはにっこりと笑った。
 満面の笑みとは、こういう笑い方を言うのかもしれない。ナナは、少しだけうらやましい気がした。
「じゃあ、さっそく聞くんだけど。レンデフェルンで聞いた噂だと、シェラムルの忌み子はとてつもなくおぞましい闇の力で、世界の真理を捻じ曲げてしまう化け物、って話だったんだけどさ?」
「…………」
 人の噂とは、まったくうまく伝わらないものだ。しかし、自分はそんなものではないと心中で叫びながらも、ナナは間違ってはいないなあ、とも思ってしまう。
 確かに自分は、言葉を口にすることで世界の真理を捻じ曲げてしまう。化け物と言われても致し方ないほど、簡単に。
 だがそうは言っても、自分がそこまで大仰な存在だとも思っていない。本当にそんな存在ならば、この小さな村の人々に虐げられるだけで終わってはいないはずだ。
「その顔は、違う、って顔だね。うん、所詮噂なんてそんなものさ。実際のところ、どこまで何ができるのさ?」
「……えっと……」
 興味津々といった様子で続きを促すシフォンに、ナナは何度も口ごもり、言葉を間違えながらも、説明する。
 こんな話し方で、しっかり意図したことが伝わっているのか何度も不安になったが、シフォンはナナを責めることもなく、ただ静かにじっと話を聞き続けていてくれた。おかげで、最後のほうは緊張も薄れてきて、どもったりすることも減った。
「……という、わけ、なんだけど……」
「ふうん、なるほどね。よくわかったよ」
 説明をし終わったナナに、シフォンは何度も頷いていた。意図していたことは、おおむね伝わったらしい。ほっと胸をなでおろすナナだった。
「なるほどなあ……それで忌み子か。んー、人間はホントに正体のわからないものに怯えるんだね。理解はできるけど、でもいくらなんでもこれは……」
 一方、シフォンは一人で何やらしきりに得心した顔でぶつぶつとつぶやいている。その意図するところはナナにはよくわからなかったが、まっすぐ彼女に向けられた視線には、普段感じたことのない色が含まれていて、どうすればいいかと思ってしまう。好奇と侮蔑の視線なら、ただじっと耐えればいいと経験でわかってはいるのだが、こんな見られ方をされるのは初めてだったのだ。
 そして何より、彼はナナのことを恐れる様子がない。口ぶりから言って、理解していないわけでもなさそうなのに。ナナには、それが何より疑問だった。
「あ、あの……」
「ん?」
「……こ……」
「こ?」
「こ、……怖く……ない、の……?」
 だから、思わずそう聞いた。忌み子だと知れば、誰もが恐れるはずだから。
 だが、ナナの考えとは裏腹に、シフォンは少し面食らったかと思えば、不意に笑い出した。何がなんだかわからず、ナナはおろおろするばかり。
「ああごめん……ごめん、何もバカにしてるわけじゃないんだ」
 まだ笑いの余韻を残したまま、シフォンが口を開く。
「ただ、ボクが考えもしなかったこと聞かれたから、ついさ」
「……?」
 言葉の意味がわからず、首をかしげる。
「怖くないか、だなんて。わけわかんないよ。なんで怖がる必要があるのさ?」
「…………」
「そんな神聖な力を怖がるなんて、ありえないよ。人間界で一番神に近い力じゃないか」
「……え……?」
「わかんない、って顔だね。教えてあげるよ。お前のその力の正体は、夢幻魔法。想像を現実のものとして創造する魔法だ」
「む、げん……?」
 聞いたことがなかった。そして、説明されてもよくわからない。
「夢幻魔法は、大樹の女神ユシェーラの力を借りて発動する魔法だ。世界の四大要素である夢の力を使う、とても珍しくて特殊なものなんだよ。術者の思い描いたものを実現する、一言で言ったら夢をかなえる魔法だ。普通の魔法と違って、文字通り『魔法』な代物さ。口で言ったものしか発現しない辺りは、たぶん単純に技術不足なんじゃないかな」
「…………」
「それにね。夢をかなえるって言っても、無条件でできるわけじゃない。どんなものでも対価が必要だ。今お前が所有してるマナの量じゃ、ボクに致命傷は与えられないよ。だから、ボクがお前を怖がる理由なんて何もない」
「…………」
「わかって……もらえてないみたいだね。まあいいよ、わからなくっても。とりあえず、ボクにはお前を怖いなんて思えないし、その辺にいる普通の人間と何も変わらない。そこだけわかってもらえればいいよ」
 彼の説明は、あいにくと学のないナナには理解しづらいものだった。ただそれでも怖くないと、普通の人間と何も変わらないと、そう言われたことが嬉しかった。家族にしか言われたことのない言葉が、何より身に染みた。
「……あ、ありがとう……」
「うん、どういたしまして」
 ナナに即答して、シフォンがくす、っと笑う。その笑顔が、ナナにはまぶしく見えた。だがそれについて、気の利いたセリフが出てくるような、柔軟な感性はあいにく持ち合わせていない。
 何を言えばいいだろう。失礼じゃないだろうか。迷惑じゃないだろうか。そんなことばかり考えてしまって、結局何も言えない。
 そして遂には、会話が途切れたのを見て、シフォンが立ち上がる。
「……じゃ、ま、こんなトコかな」
「え……」
「んー……、くぁ。忌み子の真相もわかって、用事は済んだからさ」
 背伸びをして答えるシフォンの顔に、悪びれた様子はなかった。まるで無邪気な猫のようだ。だが、それが余計ナナに一抹の寂しさを感じさせる。
「もう、……行っちゃう、の……?」
「うん。元々、忌み子のことを知るために来ただけだからね」
「……そ、そう……」
「ちょっと期待外れだったけど、まあいい暇つぶしにはなったよ。付き合わせて悪かったね」
「そ……そんなことない」
 それは偽らざるナナの本音だった。久しぶりに、本当に久しぶりに、人と会話をした。とても短い時間だったが、それでも彼女にとって、楽しい時間だった。
「そんなこと、ない……。た、楽しかった、……」
「そ? それならいいんだけど」
 言いながら、シフォンが歩き出す。朝と同じように、ナナのすぐ脇をすり抜けていく。
 その様子が途方もなく切なく感じられて、ナナは思わず彼の腕に手を伸ばしていた。
「……あの……っ」
 しかし、その手は彼の腕をつかむことなく、途中で止まる。まったく、情けなくなるくらい臆病だった。
「ん。どうかした?」
「そ、その……あの……」
「うん」
「……ま、……また……き、来て、くれない、かな……」
 そして、ようやく口にした言葉すら、だんだん小さくなる。最後のほうは、自分でも何を言っているのかほとんど聞き取れなかった。
 本当に、どれだけ他人を気にしているんだと嫌になる。もしかして、自分は世界で一番会話のできないやつなのではないかとすら思えてくる。
 けれど、どうしても考えてしまうのだ。自分が口にしたことは、現実になってしまう。仮にならなくても、その一言、一言で、他人を傷つけてしまうのではないか、と。
「どうかな」
 しばらくして、シフォンが口を開く。どこか楽しそうに、くすくすと笑いながら。つりあがった口の端から、とがった犬歯が顔をのぞかせている。
「あはははは、お前はわかりやすいなあ。そんな残念そうな顔するなよ」
「……っ」
 そんなにわかりやすい顔をしたんだろうか。ナナは思わず両手で頬を押さえる。少しだけ、普段より熱い気がした。
「そうだね……暇があれば、来てもいいよ」
「ほ、ホント?」
「うん。その代わり、いつ来るかはボクにもわかんないよ」
 言いながら、シフォンが踵を返す。マントが、ふわりと広がった。
「気が向いたら、そのうち来るさ」
「う、うん……」
「それじゃ、機会があったらまた会おう」
「あ、……う、うん」
 そして、シフォンが歩き出す。その歩みはやはり、外見からはとても想像できないほど早かった。ナナが立ち上がる間もなく、ぐんぐんその姿が小さくなっていく。だが、決して走っている様子はない。
 ほどなくして、彼の姿が完全に見えなくなった。景色に溶け込んだかのように、不意に。いや、消えた、という表現のほうが近いだろうか。
「また……」
 会えるだろうか。もしも会えたら、どんな話ができるだろうか。
 ナナは、その頭の中で考え続けた。

 それから数日が経った。
 相変わらず、ナナは池のほとりでたった一人で座っていた。養い親の手伝いができればいいのだが、彼はこの村の神父であり、村人からの尊崇を集める存在である。そんな彼の職場に自分のような忌み子がいれば、その仕事に支障が出るのは間違いない。
 こんな自分を、ずっと嫌な顔一つせずに育ててくれた両親に、迷惑はかけられない。だからナナは、今日も池のほとりに座り続ける。
 と。
 そんな彼女の後ろに、一人の少年が現れた。
 肩までかかる翠緑の髪はあまりにも優美で、見るものを魅了する。くりくりとした丸い瞳は、月をそのままそこに落とし込んだかのようだ。
 シフォンである。だが、彼が現れたことに、ナナはまだ気づいていない。ただ、池の中をただようドジョウの行方を眺め続けている。
 そんな彼女のすぐ真後ろに立つと、シフォンは少し息を吸い込んで、大きな声と共に彼女の肩をたたいた。
「わっ!」
「きゃああっ!?」
 そしてナナは、その突然のことに、悲鳴と共に古株から転げ落ちた。後ろに立ったシフォンにまったく気づいていなかったのだから、その反応は至極当然といえる。
 彼女が振り返ってみれば、シフォンは苦笑しながら頭をかいていた。
「ごめんごめん、そんなに驚いてくれるなんて思わなかったよ」
「し……、し、シフォン、くん……」
「うん、久しぶり。大丈夫?」
「あ……う、うん……」
 困ったような顔で差し出されたシフォンの手を取って、ナナは立ち上がる。少し、ひんやりとした手だった。
「き、来て、くれた……んだ……」
「暇だったからね。部下と話してるのもそれはそれで有意義だけど、たまには他とも、ね」
「…………」
「どうかした?」
「あ、……その、ぶ、部下、って……? シフォンくん……何、してるの……?」
「ああ」
 ナナの問いに、シフォンは肩をすくめた。それから、ナナに座りなよ、と促しながら、自分もその場に座り込む。
 ナナは言われるまま、草の上に腰を下ろした。いつもとは違う感触が、尻に伝わってくる。たまにはこういうのもいいかな、とも思えた。先日よりシフォンの目線が近い分、会話もしやすいかもしれない。
「普段は……そうだな、部下を率いて各地を転戦してる。でも最近は、遺跡の発掘をしてたよ。それも大体終わったけどさ」
「……じゃ、じゃあ、シフォン、くんは……騎士様、なの?」
「騎士か……騎士とはまた違うかなあ。似たようなものかもしれないけど」
「で、でも。え、偉い人、なのよね……?」
「それはそうかな。まあでも、気にしないでよ。今は仕事してるわけじゃないからね」
「そ、そう……?」
 それでも、やはり気にしてしまう。所詮、自分は小さな村の、一人の村人に過ぎないのだから。
 しかしそんな風に見られるのが嫌なのか、シフォンはなおも首を振る。しかめた顔を隠すことなく、いいから、と言い続けている。
「そんなに気になるなら、いっそ命令しようか? 普通に接しろ、って」
「え、えええ……」
 そんな命令は聞いたことがない。思わず口が開いた。
 だがそこまで言うのなら、とも思った。きっと、身分などは気にしない性質なのだろう。貴族にも、そういう人がいるのかもしれないと思えば、なんだか少し、見たこともない上流階級の世界が、近づいた気もした。
「それはそうとさ」
「う、うん……?」
 ナナが話を受け入れたのを見計らって、シフォンが話題を切り替える。それに相槌を打って、ナナはちらりと彼の顔を見た。
 相変わらず、幼くも整った顔立ちだ。きめ細かい肌は白く、絹織物を彷彿とさせる。よほど手入れがしっかりしているのか、それとも単純に若いからか。それはナナにはわからなかったが、少なくとも彼女には、自分のほうがよっぽど汚れている気がして、負けた気分になる。
「すっかり忘れてたんだけど、ボク、お前の名前を聞いてないよ。いつまでもお前、じゃ相手しづらいし、名前教えてくれない?」
「……あ、ぁ、う、うん……」
 そういえば、と心の中と実際とで、二重に頷く。
 確かに、ナナはまだ名乗っていない。両親以外に名前で呼ばれることなどないので、まるで違和感もなかった。
「え、ええと、えと」
「面白い名前だね」
「へ? ……、あ!? ち、ちが、違うよ、そうじゃなくて!」
「くすくす……冗談だってば。うん、話の腰折ってごめんよ。それで?」
「え、っと……な、ナナ……」
「ナナ、か」
「…………」
 改めて名前を呼ばれるというのは、存外気恥ずかしいものだった。どう答えていいのかわからず、とりあえす頷くナナ。
「珍しい名前だね。同じ音が連続するって、あんまり聞かない気がする」
「そ、そう、なの……?」
「少なくとも、ボクが聞いてきた中では初めて、かな」
「そう、なんだ……」
「少なくとも、だよ。実際どうなのかは知らないさ。それより……」
「?」
 差し出された手を見て、ナナは首をかしげた。それを見て、シフォンがまたくすくすと笑う。
 そして笑うや否や、彼はその左手でナナの左手を取った。それが意図するところがわからなくて、今度は面食らうナナ。
「……もう、わからないかなあ。よろしく、だよ」
「……ぁ、う、うん……」
「あははは、面白いなあ、ナナは。いちいち反応が楽しみだよ」
「ふ、う、うううー……」
「あははははははっ。ごめんごめん。さ、ほら、改めて。よろしくね、ナナ」
「う、う、うん……よ、よろしく……」
 握手。その行為の意味を実感しながら、ナナは頷いた。

 日が暮れていく。焼けきった赤色を残しながら、太陽が星に変わり始めている。今宵は青と赤がほぼ半々のようだ。
 そんな太陽と星の交代劇を見ながら、ナナはため息をついた。疲れた、とか、参った、とか、そういうつもりでしたわけではない。いつもよりもあっという間に、すごい速度で一日が終わったからだ。
 できるなら、このまま時間が止まって、ずっと話をしていたかった。
「……一日も終わりだね」
「…………」
 シフォンの言葉にも、ため息交じりで頷くだけだ。
 こんな楽しい一日は、どれくらいぶりだろう。少なくとも、物心ついてからの記憶には、ないような気がした。
「それじゃあ夜になるし、ボクはそろそろ帰ろうかな」
「えっ?」
 だが、立ち上がったシフォンの言葉に、ナナは耳を疑った。
 帰る。今、帰ると言ったのか?
「い……い、今、から?」
 信じられなくて、思わず聞いていた。
 これから日が暮れて、夜になる。夜になれば、街道はほとんど様子が分からなくなる。今日は雲が少ないので、ある程度開けていれば見えないこともないだろうが、一人で夜道を行くのは危険だ。ましてこの物騒な昨今、夜は魔物の活動もより活発になる。
「うん、そうだよ」
 しかし、聞き間違いではなかった。ナナの問いに、シフォンはあっけらかんと答えた。
「ひ、一人、で?」
「うん。なんで?」
「だ……、だって、あ、危ないよ……」
 最寄りのレンデフェルンでも、歩いていけば数日はかかる。ブリュークスハイムとなれば、さらにもう二日か三日は増えるだろう。道中の野宿は仕方がないとして、何もわざわざ夜に出立しなくてもいいだろうに。
「危ない、か……そうか、普通、そう考えるのかな」
 ナナの言葉に、シフォンは目からうろこと言わんばかりに頷いている。完全にそうした発想がなかったらしい。
「と、泊まってったほうが……」
「そうだねえ……でも、ボクお金持ってきてないよ」
「えっ」
「泊まるつもり、なかったからさ。だから帰……」
「う、うち、大丈夫だよ」
「うん?」
 思わず言ったナナだったが、言ってから、何を言ってるんだと、自分の目を丸くする。その目の前で、初めて彼女に言葉を中断されたシフォンが、同じように目を丸くしている。
 その様子に、考えるよりも早く、口が動いていた。
「あ、ああ、あの、その……う、うち、教会、だから。お金がない人とか、宿屋に泊まれなかった人とか、よく、泊めるし……だ、だから、その、よ、よかったら、よかったらなんだけどっ。と、泊まって、いかない、かな……」
「……言い切ったね。珍しいこともあるもんだ」
「…………」
 まったくそうだと、心の中で何度も首を縦に振る。これだけ長くしゃべれるなんて、自分でも驚きだった。
「いいよ、その頑張りに免じて泊めてもらおうかな。でも、ちょっと待ってて」
「?」
 言いながら、シフォンはナナに背を向けると、右手から何やら魔力をほとばしらせた。それは黒く、既におおむね太陽から星への役者交代が済んだ今、ほとんど宵闇に溶けてしまっていて、具体的なことは背中越しではよく見えない。
 しかしほどなくして、その魔力の奔流の中に、人影が浮かび上がった。それははっきりと誰の顔、と認識できないほどにはおぼろで、ナナはすぐにそれがどんなものか考えるのをやめた。
「オルトゥス? うん、ボク。そっち、どう?」
『申し訳ありません、特に進展はございません。毎度ながら、破壊するわけにはいきませんからねえ……』
 その黒に浮かび上がった人影のものらしい声が、聞こえてくる。それはシフォンの、どこか心をくすぐる鈴のような声音とは違い、地面の奥底から湧き上がってくる地鳴りのように低い声だ。
「にしても、いつも以上に手こずるね。やっぱり、凍土は難しい?」
『はい。ウェルリースと一見同じに見えますが、あそこは水のすぐ近くの地層、今回とはかなり条件が違います。レスレクティオでは目立ちすぎて敵に気付かれますし……サクリフィキウムが生きていれば、もう少し早くできたのでしょうが』
「……もういない奴のことを言ってもしょうがないよ。オルトゥス、焦らずベストを尽くせ。何かあったら、すぐに報告を」
『御意』
 何の話をしているのか、まるで見当がつかなかった。土がどうの、水がどうのという単語の一つ一つは理解できるのだが、それが何を意味しているのかは不明だ。
 そもそも、シフォンがオルトゥスなる人物と会話しているこの状況も、よくわからない。魔法なのだろうが、なんだか普通の魔法ではないような気がして、ナナの肌は粟立ってならなかった。
「それでね、オルトゥス。実はさ……ちょっとシェラムルに滞在しようと思うんだけど、いいかな?」
『シェラムルに……? あそこは戦略上、重要な場所とは思えませんが……』
「うん、それはそうなんだけどさ。ちょっと面白い奴がいてさ。しばらく付き合おうと思うんだ」
 この意味するところは、さすがにナナでも理解できた。面白い奴、というのは考えるまでもなく自分のことだろう。
 そんな風に思われるのは初めてだ。シフォンと一緒にいると、まったく初めてづくしで、人生の長さに反して経験の少ないナナの感覚は、麻痺してしまいそうだった。
「それで物は相談なんだけどさ……ボク、しばらくそっち空けていい? 見つかるまではボクがいなくてもいいでしょ?」
『……わかりました。確かにトーカリウス様は、長く主のために働き続けてまいりました。たまには、ゆるりと羽を伸ばされるのもよろしいでしょう』
「あはは、話がわかる部下を持って嬉しいよ」
『ありがたきお言葉……』
「じゃあオルトゥス、レスレクティオにも伝えといて。そっちは二人に任せる。何かあったら、遠慮なく呼んで。飛んで帰るから」
『御意』
 その言葉を最後に、黒い魔力の中におぼろに浮かんでいた人影は消えた。だがそれでも、そのオルトゥスなる人物の声はしばらく、木霊のような響きを伴って、残っている。
 ほどなくして魔力そのものも、シフォンの手のひらから消えた。そして彼は、それを見届けた上でゆっくりと振り返る。
「……あはは、いろいろと聞きたそうな顔してるね」
 振り返ってすぐに、苦笑するシフォン。そしてナナが思っていたことを言うより早く、続きを口にする。
「今のは一種の魔法さ。遠くにいる奴と話をする、っていうね。さっきのはオルトゥス、ボクの部下の一人だよ」
「……そ、そう、なんだ……」
「で、本題。外泊と休暇の許可出たよ」
「え、あ」
「だから、しばらくお邪魔させてもらおうかな、って。いいかな?」
「う、うん!」
 微笑むシフォンに、ナナは大きく頷いた。いろいろな感情が、胸中にあった。いつもならそこにあるのは、負の感情だけなのに。しかし今日は、逆。
「えと、こ、こっち、だよ」
「うん、案内よろしく」
 そうして二人は、連れ立って日の暮れたシェラムルを少しの間歩く。
 家と家の距離はかなり離れている。が、それでも隣の家が見えないほど離れてはいない。ぽつり、ぽつりと続く灯火の光が、物寂しさと共に並んでいる。その光の一つ一つに、それぞれの暮らしがある。
 そんな家々を縫うようにして、二人は歩く。村の光景はあまり見たことがないのか、シフォンはもの珍しそうにそうした様子を眺めていた。
「し、シフォンくん、あそこ……あそこが、あたしの家……」
「へえ」
 間近に迫った自宅、兼教会を示したナナに、シフォンが嘆息を漏らした。
 それは、この小さな村にあって、唯一の二階建ての建物だった。その上にはさらに鐘楼があり、小さいながらも鐘が揺れている。壁にあしらわれた彫刻や彩は決して華美ではないが、神をまつるため、信仰を集めるため、ささやかながら丹精込めて建てられたであろう雰囲気に満ちていた。
「……教会って、どこも立派なものだけどさ。ここは周りに家があまりないから、随分と立派に見えるね」
「う、うん。やっぱり、そう見える、かな……?」
「かなり、ね。でもそれにしても、きれいにしてあるし、いい建物じゃないかな。ボク、その手の神様って信じてないけど」
「……そう、なの?」
「うん、信じてない。……いや、存在するってのは知ってるから、ある意味で信じてはいるのかな。信仰の対象ではない、という意味で信じてないっていうか……」
「おや?」
 あごに手を当てて、考え込みながら歩いていたシフォンのつぶやきを遮るように、前方から男性の声が振ってきた。
 二人がそちらに顔を向ければ、白い簡素な服に身を包んだ初老の男性が、教会の扉から顔を出していた。胸元には金色の十字架が下げられており、彼が聖職者であることは深く考えるまでもないだろう。
 その男性の顔を見て、ナナは彼に走り寄ると、その太い腕の中に飛び込んだ。
「お義父さん、ただいま」
「ああ、おかえりナナ。今日は遅かったね、ちょうど探しに行こうかと思っていたところだ」
「ごめんなさい、心配かけて……」
「いいんだよ。……ところで、そちらは?」
 男はナナを抱きとめながらも、後ろで二人を見上げているシフォンに気付き、そちらに視線を移した。
 目を向けられたシフォンは、ナナが紹介するより早く一歩前に歩み出ると、ぺこりと頭を下げる。
「初めまして。ここに来れば泊めてもらえるって聞いてね」
「はい初めまして。私はここの神父をさせていただいております、ディーズというものだ」
「お、お義父さん、えっと、シフォンくんね、お金持ってないみたいで……その、と、泊めてあげられないかなって」
「なるほどなるほど」
 ナナに、頭をなでる形で応じながら、ディーズはシフォンの前に立つ。そして腰をかがめて、彼と同じ目線にしてからにこり、と微笑んだ。
「シフォン君、と言うんだね」
「うん」
「宿屋のような気の利いたおもてなしはできないが、それでもいいかな?」
「構わないよ。雨風がしのげるだけで十分さ」
「いい子だね。……さ、二人とも中にお入り。ご飯にしよう」
 立ち上がるディーズに背を押される形で、ナナとシフォンは教会に足を踏み入れる。そしてすぐそこにいた、これまた初老の女性に迎えられた。
 ディーズと同じく、金色の十字架を首から下げている。彼女もまた、聖職者だろう。
「おかえり、ナナ。……あら、お客さん?」
「ただいま、お義母さん」
「ああ、お客さんだ。ララ、準備を頼むよ」
「はい、わかりました」
 ディーズの言葉に微笑みながら頷くと、ララと呼ばれた女は、奥へと入っていく。三人も、彼女を追う形で教会に連結された居住スペースへと移動する。
「ララ、か。なるほどなあ」
 その道中、シフォンが妙に納得した表情でつぶやいたのを見て、ナナは首をかしげた。
「……何が……?」
「んー? いや、ナナの名前はあのララって人から取ったんだろうな、って思ってさ」
「ははは、その通りだよ」
 シフォンの言葉に、ディーズが答える。
「ちょっと安直だったかな?」
「いいんじゃない?」
「う……うん、あたしも、気に入ってる、よ」
「ははは、ありがとう」
 笑いながら鼻の下をしきりにこするディーズ。どうやら、照れているらしい。そんな純朴な様子は、少年がそのまま大きくなったかのようだ。
「それに、似合ってるしね」
 だが、そんなディーズを尻目に、そんなことを言いながらシフォンが流し目をくれるので、ナナは思わずどきりとした。
 廊下にかけられた燭台の灯りに照らされる瞳は、昼間、太陽の下で見るのとはまた違う。躍るような炎を抱いたそれはひどく魅惑的で、身体の感覚が溶けてしまいそうな気にさせる、妖しい美しさにあふれている。
 ナナがそれに射抜かれたのは一瞬だったが、それからしばらく、彼女は動悸が止まらなかった。それくらい、彼の瞳は妖しく、艶やかだった。魅入られる、というのは、まさにこういうことだろうかと、ナナはうっすら考えるのだった。

 それからどのようにして床に就いたかは、あまり覚えていない。気づけば鶏が夜明けを告げる声を聞いており、窓から差し込む日差しをぼんやりと見つめていた。
 眠気はあまりない。ただ、寝起き独特の気だるさにしばらく身を任せて、身体が動くようになるのを待つ。その傍らで、昨日のことを考える。
 シフォンを名乗る、美貌の少年。子供らしからぬ落ち着いた言動は、彼が見た目通りの少年だと思うには、少し違和感があった。それに、あの誘惑するかのような瞳も、とても子供には思えない。
 しかし、そんな彼が、自分を普通の人間と同じように接してくれる。それが何より、ナナにとっては嬉しかった。 そこまで考えて、彼女はベッドから身を起こした。今、シフォンは何をしているだろう。そう考えると、自然と体が動いていた。
 一階まで下りれば、既にパンケーキが焼けるいい匂いが漂っている。食堂まで行けば、普段より一人分多い朝食の準備に追われるララが、かまどの火加減を調整していた。ディーズの姿はない。が、外から定期的に聞こえてくる芯の通った音から、恐らくはいつも通り、朝の日課である薪割だろう。
「おはよう、お義母さん」
「あら、おはよう」
「……シフォンくん、は?」
「あの子なら、外で水浴びしているわ」
「みず、あび?」
 予想していなかった答えに、思わず目が丸くなる。だいぶ温んできたとはいえ、まだ春は遠い。朝に水浴びをするなんて、ナナにとってにわかには信じがたい話だった。
「裏手にいるはずよ。せっかくだしナナ、呼んで来たら? そろそろご飯ができるわ」
「……う、うん」
「ついでにディーズさんも呼んできてくれるかしら?」
「わかった」
 料理に追われるララの背中に返事をして、ナナは食堂を後にした。
 勝手口から教会の裏手に出れば、そこには大きな一本松がある。そのすぐそばで、予想通りディーズが斧を振るっているのが見えた。
「おはよう、お義父さん」
「ああ、おはようナナ」
 返事と共に斧が振り下ろされ、薪が割れる小気味いい音が響いた。既にある程度動いているのだろう。ディーズの額には、うっすらと汗がにじんでいる。
「そろそろご飯できるって」
「そうか。わかった、ありがとう」
「シフォンくんは……?」
「ああ、彼なら井戸のほうにいるよ。ほら」
 ディーズに差されたほうを見れば、なるほど確かに、石組みの井戸枠を挟んだ向こうにあの美しい月色の髪が見えた。
「ありがと、お義父さん」
「ああ、どういたしまして」
 ディーズに手を振って、井戸へ向かう。向かうと言っても、すぐそこだ。ナナは、手を振って近づきながら、シフォンに向かって声をかける。
「シフォンくーん」
 ただ、その声はあまり大きくはなかった。日ごろから声を発する習慣があまりないナナにとって、離れたところにいる相手に声を張り上げる行為には、まったく縁がないからだ。
 しかし、シフォンにはしっかり届いたらしい。彼は、井戸桶を片手に持ったまま、こちらに振り返った。
 ナナは、そんな彼に思わず足を止める。
「ああ、ナナ」
 そう言う彼の姿は、ひどくなまめかしく、艶やかだった。濡れそぼった髪は、ただでさえ光を魅せる月色を一層際立たせている。水が滴る肢体はどこまでも白く、しかし冷水で刺激された裸体がほのかに紅潮している様子は、実に耽美だ。
「おはよう」
 そう言われるまで、ナナはシフォンのそんな姿に見とれていた。ようやく我に返り、慌てて頷き返す。
「う、う、うん、おはよう……」
「どうかした?」
「う、ううん、な、なんでも、ないよ……」
 首を傾げるシフォンに、ナナは髪を振りまく勢いで首を振る。
 それ以上、近づけそうになかった。近づいたら、井戸枠で隠れたシフォンの身体がすべて見える形となる。子供とはいえ、他人の裸を見るのは気が引けたし、何より彼の身体をすべて見てしまったら、なんだか自分がどうにかなってしまうような気がした。
「さ、寒く、ない、の?」
「全然。いつもしてることだし。……ナナもする? すっきりするよ」
「あ、あああ、あたしは、遠慮、しとく……」
 だがシフォンは、どこまでも屈託がなかった。朝でまだ少し気が抜けているのか、その表情はどこか柔らかい。そっか、とつぶやくと、改めて桶の中の水を頭からかぶった。
 いつもしているとは言っても、絶対寒いはずだと、内心ナナは叫んだ。見ているだけで、こちらが寒くなる光景である。
 夏場は確かに水浴びもするが、夏の井戸水は冷たいので、それほど頻繁に水浴びをする習慣はナナにはない。いや、ナナに限らず、この村の住人全員に、そうした習慣はないと言っていい。
「ん。ふい。あー気持ちよかったー」
 自分がしているわけでもないのに寒気を感じて震えるナナを尻目に、シフォンは手早く身体を拭いて、服を着始めていた。
 そういえば、彼が着ていた服は袖がない。今もそうだ。しかもマントを除けば、重ね着をしているわけでもない。彼は先天的に寒さには強いのかもしれない。
「どうかした?」
「…………」
 着替えを終えたシフォンが、近づいてきて言う。上目遣いに覗き込んでくる緑の丸い瞳が、どこまでも透き通っている。そこに潜り込めたなら、彼の心の奥にまで行けるのではないか。そう、思わせるほどに。
「……なんでも、ないよ」
「ふうん? 今朝のナナはちょっとヘンだな」
 否定はできなかった。ただ、言い訳が許されるなら、それはシフォンのせいだと言いたかった。その一挙手一挙動が、心をとらえて離さないのに。
「おーい、二人ともー」
 そんな二人に、ディーズの声が飛んできた。そちらを見れば、彼は先ほどまで割っていた薪をひとくくりにまとめた束を両手に持って、こちらを向いている。
「ご飯ができたそうだよー。食事にしようー」
「はーい」
 彼に手を振って、ナナは歩き出す。隣に、シフォンが並んだ。
「……シフォンくん、甘いものって、食べられる?」
「大好きだよ。何が出るのかな?」
「えっと、冬はね、ジャムを作りおいてある、から……パンケーキがほとんど、かな」
「へえ。それは楽しみだ。イチゴかな? ミカンかな?」
「……どっちも外れ」
「違うの? じゃあ、答えを楽しみにしとくよ」
 そう言って無邪気に笑うシフォンの顔を見て、ナナは胸が高鳴るのを覚えた。ディーズに追いついて三人になってからも、その感覚が消えることはなく、しばらくその高鳴りに、彼女は少し、困惑するのだった。

 朝食を済ませれば、もうナナにすることはない。いつもなら、礼拝堂に入るディーズとララを見送ってから、シェーラ池に向かう。
 しかし今日は、シフォンが二人の仕事を見たいと言うので、母屋に繋がる通路から、こっそりと様子をうかがうことになった。
 教会で生活してはいるが、なんだかんだでナナも、彼らが具体的にどういうことをしているのかは知らない。よい機会だとも思えた。
「天におわします全知全能の神よ……」
 祭壇の前に立ったディーズが、祝詞を捧げている。その内容は、さすがに聞き覚えがあった。ナナの記憶が確かならば、聖書の冒頭の一節だったはずである。
 ディーズの後ろには、彼の祝詞に合わせて数人の男女が祈りを捧げている。一日を教会からという、敬虔な信者たちで、その顔はナナも知っている。傍らには、ララが寄り添っていた。
「……なるほどね、これがヴィーノの教えってやつか。実際に見聞きするのは初めてだ」
「……あたしも、かも……」
 小さく開けた扉の隙間から様子をうかがうようにして、二人はささやきあう。
「冗長で面倒だなあ。言葉そのものに意味があるとは言っても、所詮姿を見せたことのない神に捧げようっていうんだから、どれが正しいのかわからないんだろうね」
「…………」
「……大体わかったよ。付き合わせて悪かったね」
「う、ううん、そ……そんなこと……」
「悪いついでに、もう一ついい?」
「……?」
「本が読みたいな。知識階級の二人なら、ある程度蔵書は持ってるでしょ?」
「本……」
 その申し出は、ナナにとってまったく予想だにしないものだった。そもそもナナ自身、読み書きは堪能ではないので、ディーズが持つ神学書や魔導書は、彼女には難しい。だから、そうした習慣は身に着かなかったのである。
 しかしシフォンは、さすがに人を率い、上に立つ人物ということだろうか。その見た目とは裏腹に、知識に対する欲求はとても旺盛なようだ。そしてそれを満たすことができるだけの知識が、しっかり備わっている。
 上流階級の人は違うなあ。それが、最終的にたどり着いたナナの感想だった。
「……ひょっとして、他人には見せられない?」
 ナナが考えている間の沈黙を、シフォンは何か規則があると思ったようだ。首をかしげながら、顔を覗き込んでくる。
「へ、ち、……違う、よ……」
「本当に?」
「……ん、うん……本なんて、……気に……したことなかった、から……」
 シフォンの顔が近い。自分に向けられた月色の視線に、身体が熱くなる。ナナは、それを振り払おうと踵を返した。
「こ、こっち……」
 とはいえ、案内するほど離れているわけではない。食堂の隣なのだから、数十歩も歩けば到着する。
 扉の造りは食堂とほぼ同じだが、食堂との違って普段は扉で閉ざされている。たった二人で教会をきりもりしなければならないから、ディーズたちがここを使うことはなかなか多くない。
 しかし、だからと言って鍵がかかっているわけでもない。都の王立図書館などに比べれば、ここに保管している書物などは、盗難を気にするほどの代物ではないということなのだろう。
「ここ、だよ……」
 重苦しい悲鳴を上げながら、扉が開かれる。その瞬間、ほこりが舞い上がって二人を出迎えてくれた。
「……全然使われてないんだなあ」
 その熱烈な歓迎に顔をしかめながら、シフォンは人差し指を小さく振った。
 するとそよ風が吹き、ほこりから二人を守りながら、そのまま窓に向かって誘導していく。魔法だろうか。ナナは、思わず変な声が出た。
 ほどなくして、書斎に積もっていたほこりは一掃されたようだ。むせ返るような嫌な臭いが、嘘のように消え失せていた。
「えっと、……ま、ど……あ、あった……」
 そして、ナナが雨戸まで締め切られた窓を開け放てば、新鮮な風と共に、太陽の光が差し込んできた。一気に室内が明るくなる。
 そこは、小さいながらも壁一面が書架となった立派な書斎だった。棚の大半はしっかりと本で埋まっており、古いものから新しいものまで様々のようだ。
「……へえ、結構あるじゃないか」
「う、うん……でも、その、難しい、よ……?」
 雨戸を開けた状態にして窓を閉めながら、振り返る。数えるほどもこの光景は見ていないが、ナナにとっては圧倒されるほどのものだった。
 その前で、シフォンが腕を組んでいる。顔が動いているので、棚の本を順繰りに眺めているのだろう。
 邪魔はしたくなかった。だからナナは、彼のすぐ後ろに立って、彼が本を取るのを待つことにする。
「……あ」
 ほどなくして、シフォンはめぼしいものを見つけたらしい。不意にそう声を上げると、隅のほうの、古びた本だけが治められた書架に近づいた。そして、その上のほうの棚から、一冊の本を引っ張り出す。
 傍目から見ていて、彼の身長では絶対に届かないと思ったが、それは杞憂だった。届かないどころか、彼は軽々と跳躍してあっという間に天井近くまで舞い上がると、しばらく空中に滞留して、簡単に目的のものを取ってしまったのだ。出番のなかった梯子が、切なそうに沈黙している。
 一体何が起きたのか、ナナにはさっぱりだった。魔法だということは理解できる。できるが、その魔法をどうしたらこのような使い方ができるのか、見当もつかない。月に愛されている彼だからこその芸当なのだろう。
「見てよナナ、随分と貴重なものがあったよ」
 そんなナナをよそに、シフォンは楽しそうな声と共に、今し方手にした本の表紙をナナに見せてきた。
「……?」
 だが、貴重と言われたそれに記された文字が、ナナには読めなかった。汚れていたり、欠損しているわけではない。単純に、文字そのものが見覚えのないものだったからだ。一部は見知った単語もあったが、それでも読めたのは、「私」「見た」の二語だけだ。
 そんな彼女の様子を見て、シフォンはああ、とだけ言うと、彼女を近くの机にいざなう。そのままシフォンには幾分大きい椅子に腰かけると、机の上に、先ほどの本を置いた。
 ナナは、そんなシフォンに黙って付き従う。彼の後ろに立てば、本の中身がナナに見えるように、こちらに示してくれていた。
「これはね、『私が目撃した夢幻魔法に関する記述と考察』って書いてあるんだよ。著者が見た、夢幻について書いてあるんだと思う」
「…………」
「夢幻は、神域に住む世界樹の一族にしか使えない、極めて稀有な魔法だ。それについて記された本が神域の外にあるなんて、相当な値打ちものだと思うよ」
「そう、なんだ……?」
 見た目からは、とてもそうは見えない。聖書などに比べると装丁は粗末であり、どちらかといえば、日記のような手軽な雰囲気すらある。
「……後クレセント暦千二百三十一年銀狼の輪十八日著す、か。確か、今は二千五百八十三年だっけ? 前回の直後くらいに書かれたんだね。年代ものだなあ」
 だが、シフォンは珍品に出会えたからか、うきうきした様子でその本を眺めている。ナナにはどうしても、そんな大昔のものが貴重には思えなかったのだが、彼の様を見る限り、そんなことはおくびにも出せない雰囲気だ。
「見てよナナ、書き出しもすごいよ。『邪神討伐のため、共に旅した夢幻の君。神域に帰ってしまった彼を偲び、これを記す』だってさ。歴史どころか神話だね、これは」
「邪神……」
「いるよ。魔物だっているだろ? それより……ほら、夢幻魔法がいろいろ載ってるよ」
 シフォンが記述を読み上げながら繰るページの端々には、絵が載せられている。それらは決して写実的なものではないが、なんとなく、その注釈や説明が読めなくても、どういうものかがうかがい知ることができた。
 ナナが見ただけで理解ができたのは、炎が壁のようにせりあがっているもの、巨大な氷の刃が魔物を薙ぎ払っているもの、いかずちが雨のように降り注いでいるものくらいだったが、それでもそれらが、普通の魔法とは違いすぎる規模のものなのだと理解するには十分だった。
 自分にも、これらと同じことをするだけの力があるのだろうか、と考えてみる。しかし、仮にできたとしても、結局忌み子として扱われることには変わりないのだろうな、とも思った。そう思うと、無性にやるせなさがこみ上げてくる。
「何もそう気にしなくていいじゃないか」
「え……」
 シフォンの声に思わず顔を上げる。そこには、こちらに顔を向けたシフォンがいた。
「ナナは気にしいだなあ。どうせ、ホントに自分が夢幻使いなら、どうしてこんなに差があるんだろう、とか考えてるんだろ? で、どっちにしても虐められるのかな、とかさ」
「…………」
 図星だ。ナナは、口をつぐむ。そして、何をどう言えばいいのかわからず、ひたすらおどおどする。
「言わなくてもわかるよ。ナナは顔に出やすいから、わかりやすいもん」
 だがそれすらもシフォンは見透かして、そう言った。やれやれ、とでも言いたげに小さな肩をすくめながら。
「ぅ……」
「気にしたってどうしようもないじゃないか。いや気にするのは仕方ないにしてもさ。ありもしない自分の姿を想像して、その想像で落ち込むって、ばかばかしいって思わない?」
「…………」
 その通りだ。その通りなのはわかっている。わかってはいるが、それでもその考え方は、シフォンのように強い人間の発想だと、ナナには思えてならなかった。
 ずっと、自分の価値を認めてもらえなかった空しさ。ずっと、自分を否定され続けてきた苦しさ。そんな負の感情は、さらなる負の感情を生み、連鎖を起こす。そんな連鎖に陥った人間には、後ろを向くことで精一杯なのだ。
 だが、そんな思いを爆発させることなど、ナナにはできない。気持ちがどれだけそれを訴えても、無意識のうちにそれを押しとどめてしまう。
 周りに迷惑をかけてしまうから。言ったら、本当になってしまうから。
「……それにナナ。ナナは夢幻の血族だ。あんまり、自分の悪い姿考えないほうがいいよ。それが本当になっちゃうかもしれない」
「……っ」
「だから、とりあえず自分はすごいんだって、そう思っとけばいいよ。そうしたら、もしかして夢幻が発動して、本当にすごい自分になれるかもしれないじゃない?」
「…………」
「夢って、そういうものじゃないのかな? そういう意味での夢、という概念はボクにはよくわからないけどさ」
 そう締めくくって、シフォンは本に目を戻した。
 彼の言うように、思い続けていれば実現するだろうか。口にし続けていれば、あるいはその可能性も……。
「…………」
 いいや、という否定は、胸の内だけで終わる。
 自分は、幸せになる資格なんてない。なってはいけない。
 その思いは、もはや拭い去れないだろう。心のどこかで望んではいても、抑圧された経験がそれを許せないから。
 ちら、とシフォンに目を向ける。彼は、もはや完全に本の世界に没入していた。その美しい瞳をさらに輝かせて、目の前の新しい知識に夢中になっている。
 素敵な姿だな、と思えた。うらやましくはない。彼の、そうした姿が見られるだけで、なぜかそれでいいような気がした。
 ナナは、シフォンの邪魔にならないように、部屋の隅に移動すると、本棚を背にして座り込んだ。そして、椅子の背もたれにすっぽりと隠れてしまった彼の後姿を考えながら、彼が口を開いてくれるのを待つのだった。

 ひんやりとした風を受けて、ナナは目を覚ました。どうやら、床に座ったままうたた寝をしてしまったようだ。
 身体を起こそうとして、彼女は自分に毛布がかけられていることに気がついた。自分の部屋にあるものではない。普段自分が使っているものは、もう少し粗末だ。これは、客室で使っているもののはず。
 そこまで考えて、彼女は前に目を向ける。椅子に隠れてしまって見えない小さな姿を思い起こす。
 もしかして、彼が? そう思って、声をかける。
「……し、シフォン、くん……?」
 しかし返事はなかった。まだ本に没頭しているのだろうか。
 ナナは、少し痛む節々をさすりながら立ち上がると、そっと椅子の中を覗き込んだ。
「…………」
 そこには、胸に本を置いたまま、背もたれに身体を預けて寝息を立てているシフォンがいた。
 その姿は普段の彼とは比べ物にならないくらい無防備で、毒気のない寝顔はかわいらしい少年そのものだ。だが、少しだけ乱れた翠緑の髪が鼻筋から頬にかけてかかる様はどこかなまめかしく、妙な感情を覚えそうになる。
 ナナは首を振った。なぜそんな感情が首をもたげたのかわからない。わからないが、とにかくその気持ちを振り払うようにして、首を振った。
 それから彼が胸に抱いた、開きっぱなしになっている本に目を向ける。その表紙は、先ほど見たものとは違う。何冊目かはわからないが、少なくとも自分がうっかり寝ている間に、最初の一冊は読み終えたのだろう。
 こうしてシフォンの姿を眺めると、改めて不思議な子だと思えた。時折人をからかってみたかと思えば無邪気に笑い、かと思えば深い知識と見解を持ち合わせていて、大人顔負けの冷静さは見習いたいほど。魔法にも極めて秀でているように見えるし、もしかしたら、武術にも堪能かもしれない。
 そうしてよくよく考えれば、ナナは彼のことをほとんど知らない。知っているのは名前くらいで――いや、そもそもその名前すら、もしかしたら本当の名前ではない可能性もある。
 数日前に会ったばかりの、見知らぬ少年。ナナにとって、シフォンはそういう存在のはずだ。
 けれど、と心の中で首を振る。
 そんな他人でしかない彼を見ていると、少しずつ鼓動が大きくなっていくのを感じる。その現象が何を意味するのかわからないまま、それでも彼ともっと話がしたいと、せめて友達になりたいと、そう思うナナだった。
「…………」
 起こそうかどうするか少し考えて、無理に起こさないことにした。自分に掛けられていた毛布を、シフォンにかける。
 が。
「きゃ……っ!?」
 シフォンに近づいた瞬間、ナナは腕をつかまれて一気に引き寄せられた。そして、喉元に冷たい何かが当てられる。
「…………」
「…………」
 呼吸をすれば息がかかるくらいすぐ目の前に、シフォンの顔があった。開かれた瞼から、宝石のような美しい瞳がナナを見据えている。
 早鐘のようにどくどくと胸が鳴るのを感じた。彼が近くにいるからではない。あまりにも突然の出来事に、心底驚いたからだ。
 喉元に当たっているのは、どうやらシフォンの指らしい。指のはずだが、刃物を当てられたような気がして、息が詰まった。
 しばらく二人は、そうしてまるでにらみ合うようにして硬直していた。だが不意にシフォンが表情を崩すと、ナナは毛布越しに彼に抱きとめられる。
「!?」
 せっかく静まりかけていた動悸が、また一気に加速する。状況が読み込めなくて、頭の中がどうにかなりそうだった。
「……もしかしなくても、ボク寝てたよね」
「…………」
 シフォンの問いにも、ろくに答えられなかった。ただぎこちなく頷くだけで精一杯だ。
「ごめん、ナナ。癖なんだ。寝てる時に接近されると、無意識に攻撃しちゃうんだよね」
「…………」
「危うく喉かっさばくトコだった。よかった途中で気付けて」
「……!?」
 不穏な言葉に、背筋が凍るかと思った。思わず飛びのこうともがく。しかし、身動きは一切できなかった。ナナの身体を抱えたシフォンの腕の力は、その細腕からは想像できないほどに強く、ナナをとらえて離さない。
「悪気はないんだ……完全に反射的に動いちゃうんだよ」
「ふひゃ……っ」
「ごめん、言い訳だね。ホント、ごめん……」
「ひ、ん……!」
 なぜか、シフォンはナナを離してくれない。それどころか、耳元でささやくように話しかけてくる。彼の吐息を感じるたびに、身体の奥から全身がうずく感覚が湧き上がってきて、思わず声が出てしまう。
「し、……し、ふぉん、くん……」
「ん?」
「……、は、恥ず、かしい、……」
「……え、なんで?」
「な、なんで、って、……、……」
 決死の覚悟で言ったというのに、ナナの意図は伝わらなかった。いつもなら、こちらの表情から考えていることを当ててくるくせに。
 それとも、これもからかわれているのだろうか。シフォンの考えていることは、とても読めそうにない。
「…………」
「えーっと、ごめん?」
 本当に悪気はなかったようだ。シフォンは首をかしげながら、ナナの身体から手を放す。ようやく身体を起こしてシフォンから距離を取ったが、それでもまだ彼はすぐ目の前にいる。ナナは高鳴る胸の鼓動を抑えきれず、荒い息をついた。
「……っ」
「えっと。なんか、うん、ホントごめん。大丈夫? 顔、真っ赤だけど」
「…………」
 あまり大丈夫ではなかったが、とにかく何度も頷く。胸に手を当ててみれば、胸が破裂してしまうのではないかと思えるほどの激しい拍動が、手に伝わってくる。
 しばらく、シフォンは黙っていてくれた。何か言うでもなく、何かをするでもなく、ただ静かにナナが落ち着くのを待っていた。
 じっと見つめられているのは慣れていないし、何よりあんな蠱惑的な瞳で見つめられたら、また胸が高鳴ってきそうだったが、目を閉じて深呼吸を繰り返すことで、なんとかそれを乗り切る。
「はい。無理しちゃダメだよ」
 ナナが落ち着いたタイミングを見計らって、シフォンは二人を薄皮一枚で隔てていた毛布をかけてきた。そのまますっぽりとナナの身体を覆いこむ。
「……ありがとう……」
「ん」
 だいぶ、シフォンの近くにいることにも慣れてきた。ただ、やはり少しだが動悸は感じる。
「……あ、の、……さ。……これ、シフォンくん、が……?」
「うん、寝ちゃってたから。ナナの部屋がどこかわかんなかったから、ボクの部屋にあったの使ったけど」
「あ、あり、がとう……」
「どういたしまして」
 薄く微笑んだシフォンの顔が、たとえようもなくまぶしく感じた。彼の優しさが、そうやってにじみ出ているような気すらした。
「……ナナ、外の空気吸おうか。本はしばらく置いとこう」
「う、……うん」
 そして二人は、連れ立って書斎を後にする。
 向かうのは、いつもの場所だ。シェーラ池のほとりにたたずむ、大きな古い切り株。
 道すがら周りから向けられる視線は、いつにも増して痛い。よそ者と忌み子の組み合わせだ。排他的になりがちなこの小さな村では、仕方がない。
 しかしそれでも、隣にシフォンがいてくれるだけで、そんな心の痛みなど気にならないくらい、彼の小さな身体が頼もしかった。
 この気持ちは、なんなのだろう。
 ナナは池に着くまでの間、そんなことを考えながらずっとシフォンの姿を見つめていた。

 それから数日が、あっという間に過ぎていった。毎日、村のどこかへシフォンを案内して、様々なことを話した。
 それらはいずれも他愛のないもので、傍からは何の変哲もない雑談でしかない。しかしそんな何気ないことが、ナナにとってはとても嬉しいものだった。
 だがそんなある日、シフォンは突然村を発った。それは本当に突然で、仕事が入ったとだけ告げて、別れの挨拶もそこそこに彼は飛び出していった。
 仕事ならば仕方がない。彼は、自分と違って忙しい身分なのだ。
 そう考えて、ナナは自分を無理やり納得させた。それからいつもの生活に、池のほとりで時間を無為にすごす日々に戻る。
 けれども、今まで普通だったはずのそれが、たまらなく苦痛だった。
 何かをするわけでもない。ただ、ひたすら池の水面を眺めるだけの時間。まるで永遠の中に放逐されたような虚しさばかりが彼女を虐げる。吹き抜ける風の中に、彼女は己が孤独なのだと知った。
 池を見つめながら考えるのは、シフォンのことだ。
 少年か少女か区別のつかない、中性的な顔立ち。小さな唇は朝露を浴びてなお香る野ばらのように赤く、そこから紡がれる言葉の一つ一つが、甘く、耳をしびれさせる。そんな、可愛くも魅惑的な少年。
 今、何をしているのだろう。今、どこにいるのだろう。ただただ、それだけが気になった。そして、いつまた、訪ねてくれるだろうか、と……。
 そこまで考えて、首を振る。シフォンの邪魔はしたくない。そもそも自分は、彼とは関係のない他人でしかない。
 ――けれど。その堂々巡りであった。
 思えば彼が訪れて、初めて唇を開いた。嬉しかった。ただ純粋に、嬉しかった。初めての話し相手。自分を拒まないでくれた、初めての人。
 そんな人一緒に過ごせる時間がいかに幸せであったのかを、そして、今までの生活がいかに寂しく悲しいものであったのかを、改めて痛感する。
 ナナ、と。
 シフォンに呼んでもらいたい。声を交わしたい。ナナの想いは膨らんでいった。
 ある日、いつものように池で一日を終えて家に戻り、特に何かするでもなく、一日を終えようとしていたナナは、ディーズに呼び出された。
「お義父さん……?」
 井戸のすぐそば。普段、ディーズが薪割をしている切り株に、彼は座っていた。その背中におずおずと声をかけて、ナナは首をかしげる。
「ああ。ほら、おいでナナ」
「…………」
 手招きされて、ナナは頷く。そして、ディーズに促されるまま、その隣に腰かけた。
 隣に座れば、ディーズの身体が大きくて頑健なものだとはっきりとわかる。シフォンとはひどく対照的に思えた。
「……ナナ、最近元気がないようだね」
「…………」
 静かに口を開いたディーズに、ナナは怯えるようにそっと彼の顔に目を向けた。
「すまないね……日ごろ構ってあげられなくて」
「…………」
 首を振る。ディーズには、養ってもらっている恩がある。そんなことで彼を恨もうなど、ナナはまったく思っていない。
 むしろ、何も手伝うことができない自分のほうこそ、申し訳ない。そう思ってすらいる。
「……シフォン君のことを、気にしているのかい?」
「……っ」
「……最近ずっと、食事のときすらなんだかぼんやりしていて、心配していたのだけれども」
「…………」
 そんなに表に出ていたのかと思うと同時に、なぜだかひどく恥ずかしくなって、ナナは顔を伏せた。シフォンにも言われたが、どうやらわかりやすい性質らしい。
「……あたし」
 意を決して、口を開く。ディーズやララは家族だからか、比較的決心してから行動に移すまでに時間がかからない。他人にもせめてこれくらいできればと思いながら、続ける。
「寂しい……。シフォン君が帰っちゃってから、ずっと……」
「……そうか……」
「……シフォン君のこと、ばっかり……考えてるの……。また……また、会いたい……お話、したいよ……」
 胸が締め付けられているようだった。苦しくて、切なくて、悲しくて、そして空しい。
「……ナナは、彼のことが好きなんだね」
「…………」
「違うかい?」
「…………」
 答える代わりに首を振った。
 好き。言われて初めて、ナナは自分の気持ちの正体をおぼろながらつかんだ。
 けれど、彼女が思い浮かべた「好き」は、シフォンに対して思うものとは違う気がした。ディーズやララに感じているものとは、異質なものに思えた。その食い違いがもどかしくて、彼女は首をかしげる。
 そんなナナを見て、ディーズはなぜか感慨深そうに頷くのだった。
「……ナナ、それは『恋』だよ」
「こ、い……?」
「そう、恋さ。誰かのことがたまらなく好きになって、その人のことが頭から離れなくなる……神が我々人間に与えたもうた、情熱的な感情なんだ」
「……好き、より……もっと好き、ってこと……?」
「ん……まあ、そんなところかな」
 きゅん、と胸が痛んだ。その根元を探るように、胸に手を当てる。静かな拍動が、手のひらを通して伝わってきた。
 恋。誰かのことがたまらなく好きになって、その人のことが頭から離れなくなる。
 まさにその通りだ。ナナは、夜空の青の比率を増した星を眺めた。
 もしあの星が月ならば、そこにシフォンの姿を投影したかもしれない。翠緑の髪と瞳を月に見立てていたかもしれない。
 そんな彼女の横で、ディーズが腕を組む。
「ナナも恋をする歳になったんだね……私も歳を取るはずだ」
「……お義父さん……」
「シフォン君は、いい子だよね。少し横柄なところもあるけど、根は優しい子だ。何より、人を引き付けて離さない、不思議な魅力がある」
「…………」
 全面的に同意だった。ナナは、大きく頷いた。
「ナナ? 私はお前を、娘だと思って今日まで育ててきた。これからも、それは変わらない」
「…………」
「だから、やっぱりナナには幸せになってほしいんだ」
「…………」
「……また、来てくれるといいね。私も、彼ともう少し話がしたいよ」
「……うん」
 もう一度、大きく頷いてディーズと目を合わせる。少ししわの寄った目じりが、にこりと笑っていた。
 シフォンに、会いたい。
 ナナは心の中でつぶやいた。

 さらに数日が過ぎた。シフォンがシェラムルにやってくる気配はなく、ナナは今までのように、池のほとりで時間をつぶす日々を送っていた。春は近いはずだが風はやはりまだ少し冷たく、冬が最後の最後に去るまいと抵抗しているかのようだ。
 恋という感情を認識して以降、ナナの心中に渦巻くシフォンへの想いは、抗しがたい大きさになっていた。ただ会いたいと思うだけで、押しつぶされそうな胸の痛みを感じた。何より、一人で過ごす時間の冷たさが痛くて、何度枕を濡らしたかはもうわからない。
「……はあ」
 それに合わせて、ため息が増えた。自分ではどうしようもない現実を前に、それしかすることができなかった。
 そうして時間を浪費していたある日のこと。ナナは、いつも通り池のほとりで座っていた。特に何かをするわけでもなく、池の水面を眺めていたのもいつも通り。けれども、そんなある意味で普通の毎日の中で、それは起こった。
 ナナは、突然背中に痛みを覚えてうずくまった。何が起きたのかわからず、思わず後ろに振り返る。直後、彼女の顔は白くなった。
 そこには、石をたくさん抱えた子供たちがいた。いや、中には青年と呼べるくらいの年かさのものもいる。全員がその手に何らかのものを持っているが、とりあえず、その中のどれかが自分にめがけて投げられたことはすぐに理解できた。
 ああ、久しぶりだなと、彼女は思った。そして、その紫紺の瞳を曇らせる。
 忌み子と呼ばれ続けて十余年。こうして、理由もなく周りから迫害を受けたことは両手でも数えきれない。ここ数年は、魔物が活動が活発になり、そちらに手を取られるようになったからか、こういうことは減っていたのだが。
 こういう時、何をしても無駄だということは、今までの決して長くはない人生経験から、わかっている。口を開けば禁忌が犯されると思われているのだから、説得や抵抗はむしろ逆効果だ。できることと言えば、自分に向けられた数の暴力に耐えることだけ。
 だからナナは、来たるべき痛みに備えて、まず何より頭を両手で覆った。それから、少しでも被弾する可能性を下げるために、身体を小さく丸める。
 そしてそれは、ある種のゴーサインだった。
 それを見た瞬間、その場にいた全員が、一斉に手にしたものをナナめがけて投げ始めた。それは主に石で、時折木の枝が混ざる。と同時に、罵声も降ってくる。
 消えろ。死ね。その二言の大合唱だ。
 身体の痛みはいずれ消える。最悪、ディーズが魔法で治してくれるだろう。
 しかし、心の傷は。
 それは、魔法では治せない。
「……っ」
 手の甲に、石が直撃したようだ。鋭い痛みが全身を駆け巡り、じんじんと手がしびれる。きっと、出血しているだろう。
 かといって、傷の状態を確かめるわけにはいかない。今手をどければ、頭が無防備になる。そうなれば、身の危険どころか命が危険にさらされることになる。
 久しぶりだからだろうか。全身を襲う痛みが、かつてのそれより強烈に感じた。
 痛い。その言葉が何度も脳裏で繰り返される。
 嫌だ。続いて、その言葉が湧き出して響く。
 そして。
 ふと、脳裏に少年の顔が浮かんだ。月と同じ色の髪と瞳を持つ、小さくて大きい少年の顔。
「……っ、だ、助けて……シフォン君……」
 その瞬間、思わずそう口にしていた。
 それは、溺れる者がわらにすがるのと同じく、極めて無意味に近い行為と言えた。けれども、それでも何かにすがりたくて、すがるよりほかになくて、ナナは、自分でも知らず知らずのうちに、そう言っていた。
 だが、……いやだからこそ、その夢は現実となる。
 不意に悲鳴にも似たどよめきが湧き上がり、それと同時に石の雨が止んだ。
「……?」
 突然のことに、当のナナは首をかしげる。周囲は、それまでと打って変わって、水を打ったような静けさに満ちていた。
「…………」
 恐る恐る、顔を上げる。
「……お前ら」
 そこには。
「死ぬ覚悟はできてるんだろうな……」
 そこにあったのは、緩やかに風に揺れる、青黒いマント。
「こんなことをして、無事で済むと思うなよ……」
 そこにいたのは、月に愛された翠緑の少年。
 ナナは、とっさに彼の名をつぶやいた。
「……シフォン、君……?」
 その声は彼――シフォンには届かなかったようだ。彼は感情を押し殺した白面もそのままに、村人たちへ一歩踏み出した。
 それに合わせて、それまで黙っていた村人たちが、一斉に罵詈雑言と共に石を投げ始めた。よそ者は出ていけの不協和音と共に無数の石がシフォン、そしてその後ろのナナに降り注ぐ。彼女は思わず、また身体を丸めて身を守る。
 だが、どれだけ待っても痛みは訪れなかった。不思議に思ってもう一度目を開けてみると、そこには信じられない光景が広がっていた。
 空中で、すべての石が止まっていた。すべてが、二人を襲う目前の場所で、止まってしまっている。時間を止めたら、もしかしてこんな光景になるのだろうかとナナはふと思った。
 だが、決して時間が止まっているわけではない。すぐにナナは、一つ一つの石の周辺で、小さな見える風が渦巻いていることに気が付いた。考えるまでもなく、シフォンが魔法を使って防いでいるのだろう。
 やがて、石が降ってくることはなくなった。村人たちが用意していた石が尽きたのだ。投げるものがなくなった彼らは言葉を失って、ただそこに仁王立ちで立ちはだかるシフォンを見つめることしかできなくなる。
 そして一方のシフォンは、それを見計らって一歩を踏み出す。その後ろ姿を、ナナは信じられない心持で眺める。
「……終わりか? 人間ども」
 言いながら、彼は傍らに浮かんだままの石を左手に取った。そして、その瞳を村人に向ける。
 ナナからは見えないが、その瞳はぎょろりと見開かれ、まっすぐに村人たちを射抜いている。ぎらぎらと光っている錯覚すら感じるほどに、その目はすさまじいプレッシャーを放っていた。
「……どこまでも愚かだな、お前らは」
 石を手の中でもてあそびながら、シフォンは言う。その声は、普段の無邪気な彼からは想像もできないほど、抑えきれない怒りに満ちていた。
「楽しかったか? 面白かったか? 満足したか? 気持ちよかったか?」
 石が握られた。そしてその白魚のような手に生々しく血管が浮き上がり、悪魔を思わせる見た目となる。
 そして。
「じゃあ、死ね」
 その一言と共に、シフォンが手にしていた石が、鈍い音と共に砕け散った。と同時に、彼の周辺に可視の風が勢いよく吹き荒れ始める。
 彼の手のひらから零れ落ちる石の破片に、村人たちは一斉に悲鳴をあげながら、蜘蛛の子を散らすようにして逃げ始めた。だが、それと同時にシフォンが右手をかざす。天に、黒い魔法陣が浮かび上がった。
「逃がさないよ……お前たち全員、ナナと同じ痛みを味わえ!」
 そして掛け声一閃、それまで空中にとどまっていた石が、一斉に村人たちめがけて発射された。その勢いは人が投げる速度をはるかに上回り、弾丸となって人々に襲い掛かる。
 眼前で繰り広げられる阿鼻叫喚。その様に、ナナの身体は勝手に動いて、シフォンの身体にすがりついていた。
 そして叫ぶ。ナナにとって、今まで出したことのない大きな声で。
「やめて、やめてシフォン君!」
「ナナ? どうしてさ? あいつらはナナをこんな目にあわせたんだぞ!」
「いいの、もういいの! お願いシフォン君、やめて。このままじゃ、みんな死んじゃうよ!」
「死ねばいいよ、あんな奴ら! ナナは悔しくないの? こんなに傷だらけにされて! あいつらも同じ目にあえばいいんだ! ボク、あいつら許さない、絶対に許さない!」
「それでもだめだよ! だって、死んじゃったら、家族が悲しむよ……、シフォン君、恨まれちゃうよ……、それじゃ、一緒だよ……!」
「……っ、ナナはホントに……!」
 その声と共に、ナナは振り払われた。地面に転がりながら、それでもナナは、突然勢いを失って落下する石を見た。
「……わからないな……!」
 周りには、まだ悲鳴が聞こえる。そんな中、絞り出すようにシフォンが口を開いた。
「わからないよ……! どうしてナナはそんなに自分を殺せるのさ? どうして、そんなに自分を捨てられるのさ?」
「…………」
「ボクにはできない、できないよナナ……!」
「……あたし、なんて、どうせ……」
「ナナ……ッ!」
 気づけば、目の前にシフォンがいた。相変わらず、出来立ての絹かと思うほどに白い肌と、宝石すらかすみそうな翠緑の瞳が美しい。
 しかし今、その瞳には怒りの色があった。緑色のずっと奥に、燃え盛る火炎を見たような気がした。そしてナナは、そのまま彼に肩を思いっきりつかまれていた。
「『なんて』って言うな……! そんなこと、絶対に言うな!」
「……、え、ぇ……」
 今まで見たことのないその剣幕に、思わず押し黙る。
「ナナが自分から『自分なんて』って言ったら、ボクの気持ちはどうなるのさ!? ボクは大勢が一方的に一人を攻めたててたから怒ったんじゃないんだぞ! ナナが攻めたてられてたから怒ったんだぞ!? ナナは、ナナが思ってるほど軽くないんだ! 小さくないんだよ!」
「…………」
「大きいんだよ……ボクの、中では……」
 最後に付け加えられた、そのつぶやきのような言葉が、ずしんと心に響いた。何も、言えなかった。ただ、涙だけがあふれてくる。
「…………」
「……ごめん。さっきのは、やりすぎたよ……」
「…………」
「大丈夫? ほら、おぶるよ。……帰ろう、きっとディーズとララが心配してるよ」
「……う、ん……」
 かろうじてそう言うと、ナナはシフォンの背中に身体を預ける。その背中はひどく小さくて、けれども暖かくて、とても頼りがいのある背中だった。

 さらに数日が経過した。怪我はディーズに治してもらって、もう身体に支障はない。聖職者である彼は、回復魔法の専門家で、腕も確かだ。歩くのにも、口を開くのにも、走るのにも、跳ねるのにも、問題はなかった。
 そしてあの時以来、外を出歩くときは必ずシフォンがそばに付き添ってくれた。
 仕事はいいのかと何度も尋ねたが、彼はもう一段落して、今は命令もなくやることがないのだと答えた。
 本人がそう言っているのだから、実際にその通りで何の問題もないのだろうとは思ったが、一方で、自分のふがいなさのせいで、彼に無理を強いているような気がして、ナナは心苦しくもあった。
 当然だが、あれだけのことをやってのけたのだから、シフォンを見て逃げ出さない村人はいない。今やこの村では、たとえどれだけの人が立錐の余地なく集まっていても、彼の姿を見れば全員が一斉に、水を割るようにして道を開けるに違いない。
 けれども、ナナは周囲のその対応に、やはり苦しい思いをしていた。自分を助けてくれた恩人が、そして自分が一緒にいたいと思う大切な人が、悪く思われているという状況が嫌だったから。
 そんなことを考えては、自己嫌悪に陥る。そしてそのたびに、シフォンに小言を言われるのだった。
「落ち込む必要なんてないよ。ナナは何も悪くないんだから」
 彼はそう言って、微笑みかけてくれた。それはたとえようもなくまぶしくて、そしてたとえようもなく嬉しくて、ナナはその都度、胸が一杯になって、涙がこぼれそうになるのだった。
 何度もごめんなさいと言った。何度も、ありがとうと言った。そして、言った数の分だけ、シフォンともっと一緒にいたいと思う。
 そんなある日のこと。
「ナナ、今欲しいものってある?」
 朝、起きぬけにそう言われて、ナナは面食らった。
「……、え、え?」
 思わずそう聞き返すのが精一杯だった。それを見て、シフォンがもう一度言う。
「今さ、何か欲しいものってあるかな?」
「……え、っと……」
 聞き間違いではないらしい。シフォンはナナに、欲しいものがないか聞いているのだ。
 彼がそんなことを聞いてくる意図は、ナナには見当もつかなかった。が、ともあれ彼がそう言うのだから、少し頭を働かせてみる。
 しかし、これといって欲しいというものはなかった。別に大金持ちになりたいとは思わないし、立派な家が欲しいわけでもない。本の類は結局わからないままで自分には宝の持ち腐れだし、きれいな服を着飾るなんて自分には分不相応だとも思う。
 考えてみれば、自分には物欲らしいものがあまりないということにナナは気付いた。今の暮らしに、満足こそしていないものの、それは物質面ではなく精神面で不満があるだけであり、そしてそれは、シフォンがいてくれさえすれば十分に満たされている。
「…………」
 浮かばない。ナナは助け船を求める心持で、機嫌をうかがうようにシフォンの顔を見た。優しい表情のまま、彼は小首をかしげている。
 シフォンはナナの言葉を待つ時、絶対に急かさない。どれだけ時間がかかろうとも、ナナが口を開くのを穏やかな表情で待ってくれる。最初のうちは、業を煮やして口を開くこともあった。しかし最近は、絶対にそれはない。それは嬉しいことだが、今のように長考を重ねてもなお答えが決まらない時は、とても申し訳ない気分だ。
 欲しいもの。何か欲しいもの。強いて言うなら、シフォンと一緒にいたい。
 けれどもそれは何か欲しい、というよりは、何か――。
「……あ、あの」
「うん?」
「そ、その、欲しい、じゃ、なく、って……したい、こと……じゃ、ダメ、かな……?」
 そしてナナは、意を決してそう言った。
「ああなるほど、そういうのもあるか。うん、もちろん構わないよ。言ってごらん?」
 その申し出は、すんなりと受け入れられた。
「ああ、あの、えっと……」
 欲しいもの。強いて言うならば、シフォンと一緒にいたい。
 それは何か欲しい、というよりは、何かしたい、であって。
「あ、あたし……、う、海が、見て、みたい……」
「海?」
 おうむ返しに問われて、ナナはこくりと頷く。
 シフォンと一緒に読んだ本の中に、それは書かれていた。池よりも川よりも、もっと多くの水が満ちているところ。多くの生き物が住んでいて、それでも人間が足を踏み入れることができない雄大な世界。
 ナナは、このシェラムルの村から外に出たことがない。村以外の景色を知らないのだ。
 だから、もしも可能なのであれば……そうした、見たことのない景色が見たい。そう、思ったのである。できれば、シフォンと一緒に。
「海か。そっかそっか、なるほどなあ」
「あ、で、でも、……遠い、と思うし……」
「ううん、そんなことないよ。お安い御用さ」
「そう、なの……?」
「うん。意外とこの村は海に近いんだよ。潮風が届かないくらいには内陸だけどね」
 しきりにシフォンが頷いている。何をそんなに納得しているのか、ナナにははかりかねた。
 だがシフォンは、そんなナナににこりと笑いかけながら、あっけらかんと言うのだった。
「じゃあナナ、行こうか」
「……え?」
 その申し出は、やはり唐突だった。
「朝飯が終わったら、海に行こう」
「え、えっ?」
「ね?」
 にっこりと笑ったその顔は、反則だと思うほどに愛らしかった。その満面の笑顔に、反論を考える気すらナナの中から消え去ってしまうのだった。

 お安い御用、という言葉の通り、海にはあっという間に着いた。道中の景色を楽しむとか、魔物に遭遇するとか、そんなものが起こる余地すらなかった。
 シフォンはナナをその小さくて細い腕に抱きあげると、すさまじい速度で一気に街道を駆け抜けた。時折跳躍しては、そのひと跳びでいくつもの木々を越えて見せた。
 ナナは、その強靭な脚力に驚きながらも、振り落とされてしまわないように、彼の身体に必死にしがみついていた。そして気づいた時には既に、海に到着していた。
 寄せて返すさざなみの音が、心地よく耳をなでる。鼻をつく独特の匂いは初めての感覚だったが、決して不快ではない。
「…………」
 しかし、ナナは何も言えなかった。どこまでも広がる青い海原は雄大で、初めて見るその光景に、ナナはすっかり圧倒されていた。
「どう?」
 隣に並んだシフォンにそう言われるまで、彼女は呼吸すら忘れて、ただただ目の前の海を見つめ続けていた。
「……、す、すごい……」
「そうだね」
 今日は天気もいい。太陽の光が波間で煌めき、美しい輝きが躍っている。小さく、魚が跳ねたのが見えた。
「……実はさ」
 しばらくの沈黙の後、シフォンが口を開く。
「ボクも、海をこうやって眺めるのは初めてなんだよね」
「……そう、なの……?」
「うん。海自体は何度も見てるんだけどさ。こうやって、ゆっくり海を見る機会は今までなかったんだ。すごいよね、これが感動って気持ちなんだよね」
 それから、もったいないことしてたなあ、と付け足した彼は、えへら、と笑って見せた。
「……あれ? ねえシフォン君、あれ……何かな……?」
 ふとナナは、遠くに見える細長いものを見つけて指差した。それは雲をも貫く巨大なものであり、一体どれほどの高さなのか見当もつかない。
「ああ、あれ? シェラムルからも見えるでしょ、あれが世界樹だよ」
「あれが……」
 世界樹ユグドラシル。世界の中心にそびえると言われる伝説の大樹。その姿は世界のどこにいても確認することができ、旅人にとっては方向を確かめるための道しるべでもあると、最近シフォンから聞いたばかりだ。
「……じゃあ、あたし……」
「そうだね、きっとナナはあそこで生まれたんだろうね」
 そしてそのふもとには、世界樹を守り、四大元素の一つ、夢をつかさどる一族が住まう神域がある。
 夢幻魔法を唯一使うことができる翠の血族――アグラ族。夢幻を無意識ながら使うことができるナナの、恐らく故郷と思われる場所だ。
「夢幻は神域の血族しか使えない。外の人間との混血は、前回のアストーンストーム以来起きてないだろうし、十中八九ナナはあそこの生まれだよ」
「……あそこに、本当のお父さんとお母さんが……」
「きっと、夢幻が暴走したんだろうね。あそこには普通入れないから、本当のところがどうなのかは確かめようがないけどさ」
「…………」
 あれだけ大きく、世界のどこからも見える世界樹だが、こうやって海まで来てもなお、それは遠い。一体、どれくらい離れているのだろうか。ナナには、まるで見当もつかない。
「……行ってみたい?」
 そんなナナに、シフォンが尋ねてきた。その表情は、なんなら行こうか、と言っているかのようだ。
 そして、彼なら本当にそれができてしまえそうで、ナナは思わず頷いた。
「……うん」
 だが、さすがのシフォンでも、不可能はあるらしい。
「……あはは、ごめん。期待持たせちゃったね。さすがに神域まで行くのは無理だよ」
「……そっか。ううん、いいんだ。行けるなら、行ってみてもいいかな、くらい、だし……」
 嘘ではない。行ってみたところで、自分を知っているものがどれだけいるかわからないし、何よりナナにとって両親と呼べるのは、やはりディーズとララだから。
「行けたらよかったなあ。せっかくナナの誕生日なんだし」
「……えっ」
「そうでしょ? 昨夜ディーズから聞いたよ」
「う、うん……」
 誕生日というのは、その人間が生まれた日をさす言葉だ。しかしナナは、己の生まれがいつか定かではない。だからナナにとっての誕生日というのは、彼女が拾われた日のことである。十六年前の今日、彼女は二人に引き取られた。
「だからさ、その……誕生日なら、プレゼントくらいしてあげたいな、って思って」
「……シフォン君」
「えっと。気に入ってもらえたかな? それなら、ボクも嬉しい」
 シフォンにしては珍しく、はにかんだ様子で言った。
 それで十分だった。彼のその気遣いだけで、ナナは嬉しくて、胸がはちきれそうになる。
「う……うん、嬉しい……あたし、すごく、嬉しい……! ありがとうシフォン君……」
「ん。うん、……えへへ、よかった」
 それからしばらく、二人は黙ったまま見つめ合っていた。
 何を言えばいいのかわからなくて、思いつかなくて、ただただ、目の前の美しい瞳を注視する。けれどもそれも恥ずかしくなってきて、ナナはいつものように、しかし上ずった声でシフォンに聞く。
「あ、ああの、もう少し海に近づいても、いい、かな?」
「え? あ……う、うん。……でも気を付けてね。海の波は気紛れだから、たまに大きいのが」
 言葉の途中で、さざなみと呼ぶにはいささか大きな波が寄せてきた。決して、身体をさらわれるような大波ではないし、まして津波などとは比べるべくもない。しかし、それでもひるむくらいには十分な勢いだ。
「……来るから。あんまり近づきすぎないほうがいいよ。ボク泳げないから、もしかの時助けに行けないかもしれないし」
「……う、うん、わかった」
 シフォンの言葉に頷いて、ナナはそろそろと波打ち際へ近づいていく。とはいえ先ほどのような波はなく、ほどなくして海と浜辺の、すぐ境目にまで到着する。
 そっとそこにしゃがめば、寄せては返していく波の様子がよくわかった。砂浜を登りかける波のそこかしこには泡が立ち、その泡だけが砂の上に取り残されている。
 静かに、寄せてくる波の中に手を入れてみる。すぐに、手のひらにひんやりとした感覚が広がった。
 しばらくナナは、そうして波の感触を楽しんでいた。波の間隔はばらばらで、その都度大きさも違う。普段慣れ親しんだ村の池とは、まるで違う様子が新鮮だった。
「……きゃっ」
 不意に、先ほどの大波と同じくらいの波がやってきた。水がはじける音と共に、ナナは尻餅をつく。と同時に、波を全身にかぶってしまう。
 その際に、水を少し飲んでしまった。途端に、塩辛さが口の中に広がって離れなくなる。
「う、……か、からい……」
「大丈夫?」
 顔をしかめたナナの隣に、いつの間にかシフォンがいた。
「だからあんまり近づかないほうがいい、って言ったんだよ。海の水はしょっぱいだろ?」
「うん……なんで?」
「さあ……いろいろ本は読んだけど、はっきりとしたことはわかんないよ。無難に、神様って奴がそう創ったんだって考えるしかないんじゃないかな」
「……そっか……」
 そうこうしている間にも、依然として口の中は塩辛さが自己主張してやまない。海というものは、思っていたよりもずっと厳しい場所らしい。
 そういえば、普通の水をかぶった時よりも、身体がべたつくような気もする。これも、塩辛さと関係しているのだろうか。
 そんなことを、ぼんやり沖合を眺めながら考えていると、また大きめの波が寄せてくるのが見えた。
「ナナ、また来るよ。早いとこ離れよう」
 すぐに、シフォンがそう言って手を差し伸べてくれた。
「う、うん」
 とっさにその手を取って立ち上がりながら、ふと、ナナの脳裏にある考えが浮かんだ。
「? ナナ?」
「……えいっ」
「わあっ!?」
 そしてナナは、それを実行に移した。取ったシフォンの手を、そのまま引っ張ったのである。
 シフォンは、高い身体能力の持ち主である。普通ならば、この程度を回避することは造作もないだろう。
 しかし今、彼は彼なりに相当気を緩めていたのだろう。そのまま特に抵抗を見せることなく、彼の身体はナナに引き寄せられて、そのまま二人仲良く波の中に倒れこむ。
「……、げほっ、げほっ」
「…………」
 通り過ぎて行った波の中から現れた二人は、当然全身ずぶぬれで、潮水にさらされた顔は、不快なこと極まりない。
 潮水がしみて痛む目をなんとか開くと、すぐそこにシフォンの顔があった。濡れそぼった髪からは、水がしずくとなって滴っている。
「……ナナ」
「ふえ、う」
 そう呼ばれて、ナナは思わず身体がこわばるのを感じた。悪気は確かにあったが、相当怒らせてしまっただろうか、と考える。
 シフォンなら避けてくれると思ったからこそやった行為で、それに、こんなことをしても、きっと許してくれるだろうと、それくらいの関係になっていると思ったから……いや、信じたかったから。
 ナナが最悪の事態を考えて怯えていると、不意にシフォンに抱えられて、彼女の身体が宙を舞った。
「――え?」
 そして、その視界がぐるりと反転する。目の前に、海が迫る。
 次の瞬間、大きな水柱が上がった。
 しばらく、水の中を漂う。泳いだことなどないので、泳ぎ方もまったくわからなくて、パニックになる。実は足がつくほどの浅さではあるのだが、突然のことにナナは思わず、すぐそこにある小さな体にしがみついた。
 そして、ほどなくして空気の中へ解放される。
「ぷはあっ!」
 何度も荒い息をついて、呼吸を整える。水の中は思っていた以上に冷たく、苦しい場所だった。何より、普段何気なくしている呼吸という行為が、いかに重要なものかが、身に染みた。
 彼女が顔を上げれば、先ほどと同じようにして、シフォンの顔が目の前にあった。先ほどと違うのは、二人がしっかりと抱き合っていることか。けれども、今のナナにはその体勢を気にする余裕はない。
「……お返し」
 シフォンはそう言うと、にやりと意地の悪い笑みを浮かべた。絶対に許してもらえるとわかっているいたずらっ子が、それを確認するかのような仕草である。
「びっくりしたよ。まさかナナにあんないたずらされるなんて思わなかった」
 それから、今度はそっと抱きしめられる。一気に身体が熱くなるのがわかった。
「……ま、おあいこってことでね。ごめんよ、苦しかったでしょ?」
「う……、う、ううん……だい、じょうぶ……」
 それだけ答えるのが、精一杯だった。

「……いやあ、参ったね。我ながら後先考えない行為だったね」
 たき火――とは言っても魔法によるものであり、薪は一切存在しない――を挟んだ向こう側で、シフォンが頭をかきながら言う。
「う……う、うん……」
 いつも以上にぎこちない調子で返事をしたナナは、服を着ていなかった。正確には、シフォンのマントで身体を包んではいる。が、その下は全裸であった。
「早く服、乾くといいんだけど」
「…………」
 たき火にかざされているナナの服を見ながら言うシフォンに、ナナは肩をすくめた。
 一度は、ちゃんと乾かしたのである。ナナが、と早く乾かないかなあ、と口にしたらたちまち、二人の服は乾いた。はからずも、自身の夢幻が役に立った形だ。しかし、潮水に使った服はただ乾いただけでは、着用に難があった。
 仕方ないので、シフォンが水の魔法を使って洗浄してくれたのだが、その後がいけなかった。
 もう一度、夢幻を用いて服を乾かそうとした。しかし乾かすことができたのは、シフォンの服だけであった。それからは、どれだけ乾いてと口にしても、何も起こらなかった。
 シフォンが言うには、マナが切れたらしい、とのことである。
 一人の人間が一度に内包できるマナの量には限りがある。魔法や、一部の騎士が使う技などは、そうした個人が持つマナを消費して発動する技術だ。夢幻もその例に漏れない。発動すればするだけ、マナは消費される。逆に言えば、発動するに足るだけのマナがない場合は、どんな大魔法使いであっても、魔法を使用することはできないのである。要は、今のナナは燃料切れの状態にあるらしい。
「でも、ナナは相変わらずだよ。ボクの服から乾かすんだもんなあ。自分のからやればよかったのに」
「…………」
 返す言葉もなかった。ただ、こうなるとは思っていなかっただけではあるのだが。
「ま、そこがナナのいいところでもあるんだけどね」
「…………」
「大丈夫? 寒くない? もうちょっと火、強くしようか?」
「う、ううん、大丈夫……」
 これは本当だ。ちっとも寒くない。そういう素材でできているからなのかわからないが、シフォンのマントはその薄さに反して非常に暖かい。あるいは、何か魔法の加護があるのかもしれない。
 ただやはり、マント一枚で裸を覆っている、という状況は恥ずかしいもので。
「…………」
 普段から無口なナナは、いつにも増して無口になっているのである。
「太陽が星になる前に乾くといいんだけどな。それかエーテルでも持ってれば、ナナのマナを回復できるんだけど」
「…………」
「……そうもいかないね」
「…………」
「…………」
 しばし、沈黙が周囲に満ちた。ただ波の音だけが静かに、しかし確かに響き続ける。
「……あ、あの」
「うん?」
「……、あ、今日は、……ありがとう……」
「いいんだよ」
 ナナの言葉に、シフォンはくすぐったそうに笑って言った。
「最初に言ったろ? ナナに喜んでもらいたかったから」
「……ねえ?」
「なあに?」
「シフォン君は……どうして、そんなにあたしに優しくしてくれるの?」
 その質問に、シフォンは首をかしげた。それから少し間を空けて、口を開く。
「……さあ、どうしてかな」
「……あたしは、その……嬉しい、の。シフォン君とお話できて……とっても……楽しい、し、嬉しい……。でも……」
「ボクに、そんなことをするメリットがない、ってことかな?」
「…………」
 シフォンの切り返しに、ナナは頷いた。
「うーん、言われてみればそうだね。でも……そうだな、きっと理由なんてないんじゃないかな」
「……?」
「ただボクが、ナナと一緒にいたいってだけなんじゃないかな。無理に理由をつけるなら、きっとそれくらいだよ」
 それだけ言うと、シフォンはにっこりと笑った。赤い炎に照らされたその顔は、いつものようにかわいくて、そして優しい。そんな彼の表情が、たまらなく愛おしかった。
「……なんだか、夢……見てる、みたい」
「夢か」
「……うん」
「……いいんじゃない、こういう夢も。たまには楽しい夢見なきゃ。ナナにはそれができるんだし」
「…………」
 シフォンの言葉に、ふとナナは顔を上げた。そして、そのまま彼の顔をじっと見つめる。
「どうかした?」
 その表情が、普通ではないと思われたらしい。シフォンが首をかしげる。
「……え、と……」
 ナナの脳裏に、ある可能性がよぎっていた。
 最近はほとんど忘れていたが、そもそもナナは口にした言葉を現実にしてしまう。それが夢物語であっても、可能なこともある。
 もしかして、シフォンがここにいるのは、自分に付き合ってくれるのは――。
「……あー。わかった。大体わかった」
「……っ」
 自分で思いついたことに恐怖を覚え始めるナナを尻目に、シフォンがおもむろに立ち上がった。そして、炎の脇を通り抜けてこちらにやってくる。
「ナナ、そっち行っていい? ……拒否されても行くけど」
「え、へっ? ええっ?」
 そして、シフォンがすぐ隣に座った。それもただ隣に座るのではなく、こちらを向いて、である。そこには、有無を言わせない雰囲気があった。
 何を言われるのだろう。もしかして……、と、ナナの頭の中では最悪の展開ばかりが浮かぶ。だが一方で、一度こうした負の連鎖に入り込むと、とことん転がり落ちるこの性格はつくづく損な性格だと、妙に冷静に考えている自分もいた。
 そんなナナの目の前で、シフォンは何かを考えているのか、しばらく目を閉じていた。
「……ナナ」
「……う、ん……」
 シフォンがようやく目を開けて、ナナの名前を口にする。その目は、いつにも増して力強く輝いているような気がした。
「あのね? ボクはね、ナナのことが好きだよ」
「……!?」
 突然のことに、ナナは思わずのけぞった。マントが身体からずり落ちそうになって、慌てて手で止める。
「ナナの顔を見てたいし、声を聞いてたいし、それにね、ずっと一緒にいたいって思うんだよ」
「……! !?」
「この気持ちのことを『好き』って言うなら、ボクはナナのことが好きだよ。ボク、感情のことはあまりわからないんだけど、でもね、この気持ちが特別なものだってことはわかる。アーサー様とも、アティスとも違う。もっと大きくて、もっと大事な気持ちなんだ。だからナナ……」
 シフォンに引き寄せられる。そしてマントごと、その小さい身体に抱きすくめられた。
「……ボクは、ナナのことが好きなんだよ」
「…………」
 何も言えなかった。申し訳ないという気持ちと、それから感動とで。
「ねえナナ? ナナはボクのこと、どう思ってる?」
「へ……」
「聞かせてよ。ナナは、ボクのことどう思ってるの?」
「……そ、れは……」
 それは。
「…………」
「…………」
「……し、シフォン君のこと、……いつも、考えてる……。もっと話がしたい、し……一緒にいたい……、し、……さ、触って、たい、し……」
「じゃあ同じじゃないか。……ナナ、気にしなくていいんだよ。夢幻であろうがなかろうが、今の状態はナナが望んでたことじゃないか」
「で……、でもっ……、でも……」
 そうだ。確かに、こうしてシフォンから愛の言葉をささやかれることは、ずっと望んでいたことだ。
 身体を寄せ合って、呼吸すら感じられるくらいの距離で、この蠱惑的な声を、瞳を、感じたいと何度思ったことだろう。
 けれど。
 もし、彼の好意が創られたものであったのなら――。
「……あ、あたしが……創っちゃったんだったら……、シフォン君の、き、気持ちを創っちゃってたら……、きょ、強制、しちゃってたら……そん、なの、そんなの……!」
「……ああ、もう!」
「きゃ……っ!?」
 突然、ナナは押し倒された。そして、顔を挟む形でシフォンの両手がすらりと伸びる。太陽で温められた砂の熱が、マント越しに伝わってくる。
「……ナナ」
「……っ」
 太陽を背にしたシフォンが、眉を吊り上げてこちらを見ていた。逆光にも関わらず、翠緑の瞳がひときわ輝いて見える。
 そしてその瞳を湛える美しい顔が、しびれを切らした様子で、ゆっくりと近づいてくる。
「もっとわがままになれよ。ナナは、ボクのこと好きなんだろ? だったら、そう言えよ。ボクのこと、好きだって言えよ!」
「……え、う」
「ボクの気持ちが創られたものかもしれないって? 上等だよ。それだって構うもんか。もし仮にそうだったとしても、ボクは後悔しない。ボクはそれだけ、ナナのことが好きだから!」
「…………」
「さあナナ。言えよ。ほら!」
 ずい、と彼の顔が目の前に迫る。
 胸が、いつも以上に高鳴っている。どくどくという音が、自分でも聞こえるくらいに。
 喉が、ひりひりと渇いている。潮水を飲んでしまったから、というよりも、これは精神的なものだろう。
 頭が、うまく働かない。ぐるぐると、世界が回っているようにも感じる。
 彼の言葉が、詠唱の文字列のように、何度も脳裏で反芻される。それは眠りのうちにいざなう睡魔のように、快楽へ導く淫魔のように、ナナの思考を奪っていく。
 それでいいのか。自分に問う。
 これでいいのだ。自分が言う。
 そう、これでいいのだ――。
「し、シフォン、くん……」
「うん」
「す、……好き。あ、あたし、シフォン君のことが、好き、……大好き……!」
 それは、本当に彼女の本心だったのか。誘惑に負けた結果だったのか。それは、誰にもわからない。
 しかし確かに、彼女が今までずっと心の中に押し留めていた、本音であることは間違いない。それは、彼女が初めて口にした本音。
 それを聞いて、シフォンはようやく、満足そうに笑った。
「……ナナ。ボクも、ナナのことが大好きだよ」
 そして唇に、シフォンの白い指が這わされる。ぞくぞくと、全身が粟立つのがわかった。しかしそれは決して不快だからではなく、むしろ逆だ。
「物の本に書いてあったんだけどね。人間は、恋とか愛とかを確かめる時、こうするんだよね?」
 その言葉と共に、淫靡な笑みを浮かべたシフォンの顔がさらに近づく。そして――。
「……っ」
 ――ナナは唇を、奪われた。

 それから、どのようにして帰宅したかは記憶にない。
 気が付けばナナは、自分の部屋で横になっていて、窓から入り込んでくる朝日に照らされていた。
「…………」
 思わず、勢いよく身体を起こす。とても甘く、そして刹那い夢を見ていたような気がした。
 周りを見渡してみる。いつもと変わらない、特に飾り気もない殺風景な部屋だ。
 自分の手のひらを見つめてみる。何も変わらない、少し乾いた自分の手のひらがそこにある。
「…………」
 まるで普段と変化がない。あれは夢だったのだろうか。異常なまでに現実感のある、夢だったのか。
 シフォンと唇を、そして身体を重ねたあれは、夢だったのか――。
「…………」
 いいや、と首を振る。
 あんな、痛みも快楽もある夢なんて、そうはあるまい、と。
 ナナはそこまで考えて、のそりと寝台から降りる。そのまま、眠さをかみ殺しながら部屋を出る。
「おはよう、ナナ」
「っ」
 そして、食堂の手前でたたずんでいたシフォンにそう言われて、ナナは思わず身構えた。
「どうかした?」
 その様子を不審げに眺めて、彼はいつものように小さく首をかしげる。
「な、なんでもない、よ」
「そう?」
「う、うん……」
 何度も頷きながら、昨日のことをもう一度考える。それから、やはり本当のところを聞いてみることにした。
「あ、あの……」
「あのさ」
 そして二人は、同時に声をかけた。
 しばらく二人はそのままの状態で見つめあっていたが、やがてまた、二人同時に譲り合う。
「あ、い、いいよ、シフォン君、先……」
「先に言っていいよ、ナナ」
「え、あ、で、でも」
「いいんだ、ボクのほうは後にしたほうがいい内容だから」
「そう、なの……?」
「うん、だからナナ、先に言いなよ」
「う、うん……」
 頷いて、深呼吸をしてから、顔を上げる。
「あ、の、さ……ゆ、夢じゃ……ない、んだよね……?」
 その問いに、シフォンは小さく笑った。そして、そのままナナを抱き寄せる。
「夢じゃないよ、ちゃんと現実さ」
 それからそっと、口づけをされる。
「……好きだよ、ナナ」
「う、う、うん……」
 やはり、夢ではなかった。
 シフォンから、その気持ちを告白されたこと。自分の気持ちを告白したこと。それから、そのまま肌を重ね合わせたこと……そのすべてが、ちゃんと現実なのだと、ようやくナナは納得する。
「……でね? その話のあとでこれを言うのはとっても心苦しいんだけど」
「……?」
「……さっき、部下から連絡があった。急ぎの仕事が入ったって」
 抱き合った形のまま、シフォンが耳元で言う。その声は、それまでと違って抑揚が小さく、決して本意ではないという雰囲気が伝わってくる。
「だから、ごめん。ボク、すぐに戻らないといけないんだ」
「…………。そ、……そ、っか……」
「……そんながっかりしないで。もう……ナナはホント、すぐ顔とか雰囲気に出るんだから……」
「……う、うん……」
 苦笑したシフォンの背中に手を回して、ナナは小さく頷く。
「大丈夫、仕事終わったらすぐ戻ってくるから。ね」
「……う、ん。大丈夫だよ……あたし、待ってる……」
「……ごめんね、ありがとう。……仕事、終わったらさ。ボクの家に行こうよ。一緒に、……一緒に暮らそう」
「本当、に……?」
「ボクが今まで嘘ついたこと、あった?」
「…………。……ない」
 首を振る。それに応じる形で、シフォンが頷いた。
「でしょ。大丈夫、きっと色々言われると思うけど……なんとかしてみるから」
「……うん。……でも、お義父さんとお義母さんが」
「……そっか。そうだね、それも大事だね。うーん……そう、だな。……わかった、今度来たら、ボクから話してみるよ」
「うん」
「…………」
「…………」
 それから、二人はもう一度口づけを交わす。
 この瞬間が永遠になれば、どれだけいいだろうかと、ふと思う。しかし時間は止まらない。ナナは、名残惜しさを噛みしめながらシフォンからそっと離れた。
「……じゃあナナ、行ってくるよ。ディーズとララには、よろしくって」
「うん、わかった。え、と……い、行ってらっしゃい」
「うん。行ってくる、無茶しないようにね」
「うん!」
 踵を返すシフォンにそう頷けば、彼は手をひらひらと振って、それから走り去っていった。
 その姿を見送って、ナナはしばらくその場に立ち尽くしていた。しかしやがてゆっくりと一歩を踏み出し、食堂へ向かう。
「あら、おはようナナ。昨日は随分遅くまで出かけていたのね」
 食堂では、食事の準備を整えたララが待っていた。入るなりそう言われて、ナナは頷く。
「……シフォン君は?」
「さっき、……ホントにさっき、帰ったよ。急にお仕事が入っちゃった、って……」
「あらら。仕方ないとはいえ、寂しいわね」
 テーブルには、シフォンを含めた四人分の食事が用意されている。当然、シフォンが帰ってしまった今、そのうちの一つは無駄になってしまう。
「……お義父さんとお義母さんに、よろしくって言ってた」
「……そう」
 ララも寂しそうだ。ここ最近は、ずっと四人だったから無理もない。ディーズもきっと、寂しがるだろう。
 ナナはテーブルの上の、食べるものがいないパンケーキをしばらく眺めていた。

 それから数日後の夜。ナナはけたたましく鳴り響く半鐘の音で目を覚ました。
 村に危機が迫った時に鳴らす半鐘。それは、村で最も高い建物――すなわち、ナナが住む教会の鐘楼に設置されている。だから彼女は、その音がほぼ真上から浴びることになるので、半鐘を鳴らす人物を除けば、村で最初に危機を知ることができる立場にある。
 とはいっても、ナナの記憶にある限りでは、半鐘が使われた記憶はない。そのため、彼女は突然の騒音に、驚いて飛び起きた。
 延々と続く半鐘の音に、思わず窓から外を見る。
「…………っ!!」
 そこには、赤く塗りつぶされた村があった。その赤を背負って、無数の魔物の影が見える。空を飛ぶもの、得物を振り回すもの、あるいは魔法を放つもの。よく耳を澄ませば、人々の悲鳴と共に、それらが上げるおたけびが半鐘に交じっていた。
「ナナ!」
 目の前の光景にナナが呆然としていると、ララが勢いよく部屋に入り込んできた。
「お義母さん!」
「逃げる支度をなさい、早く!」
「う、うん!」
 だが逃げる支度と言っても、さほど大事なものは持ち合わせていない。ナナはとりあえず靴を履くだけ履いて、ララの後ろに付き従う。
 よくよく見ると、ララが普段着ている聖衣の下に鎖帷子を身に着けているのが見えた。嫌な予感しかしなかった。いつの間にか、半鐘はやんでいた。
「起きたね、ナナ」
「お義父さん……」
 礼拝堂まで行けば、そこには同じく鎖帷子を着込んだディーズが、メイスと盾で武装して立っていた。
「魔物が村を襲ってきた。ナナは急いで避難しなさい」
「さあナナ、こっちへ」
 ララが、礼拝堂の隅の床を持ち上げる。その下の、さらに二重蓋となっていた石を動かせば、そこには階段が顔を見せた。
「ここを降りてしばらくまっすぐ行けば、避難用の隠し部屋があるわ。そこにいなさい」
「……で、でも」
「いいから、行きなさい。さあ、早く」
「ナナ、私たちは大丈夫だ。神が見守っていてくださるよ」
 力強くディーズが頷く。しかしナナには、とても大丈夫には思えなかった。
「……おとう」
 その声は、建物を襲った衝撃により、途中で遮られた。振り向けば、礼拝堂の扉が破られようとしているのが見える。けたたましい音が、連続する。
「ナナ、早く行くんだ!」
「さあ早く!」
 ディーズとララが言う。だがそれでもナナは二人が心配で、動くことができなかった。
「……ナナ」
 そんな彼女に、ディーズが視線だけを向ける。
「お前にだけは死んでほしくないんだよ。今までずっと……ずっと、苦労をかけた。だから、幸せになってほしいんだよ」
「お義父さん……」
「シフォン君がいてくれれば、心強いんだけれど、ね」
「……ディーズさん」
「ああ。……ナナ、さあ早く行きなさい。シフォン君と会えることを祈っているよ……どうか幸せに」
 言葉の途中で、遂に扉が破られた。そこから、数匹の魔物が入り込んでくる。
「お義父さんっ!」
「行きなさいナナ! ここは絶対に通さない! 行くぞララ!」
「はいっ!」
 その声と共にディーズはメイスを振るって魔物へ向かい、それを援護する形でララが光の魔法を放つ。もう、二人は振り返ってくれなかった。
 二人の後姿を、ナナはしばらく見つめていた。魔物が、一匹ずつコインへと変わっていく。その様子は、なんとか自分を無理やりにでも納得させることができるくらいには、頼もしかった。
 まだ後ろ髪をひかれる思いはあったが、ナナはなんとか思いを振り切ると、隠し階段を降りながら、その入り口をふさぐ。表から床板を乗せれば、完全に隠れてしまうだろう。
「お義父さん……お義母さん……お願い、無事でいて……!」
 そしてそうつぶやくと、ナナは暗い地下道を走る。
 しばらく行けば、道は三つ又に分かれていた。一瞬どこに進めばいいか迷ったが、ディーズがまっすぐ、と言っていたのを思い出し、真ん中の道へ進む。
 果たしてその先には、頑丈な扉が鎮座ましましていた。
 それは非常に重く、ナナの力ではなかなか動かなかった。だが、何度も押したり引いたりしているうちに、なんとか自分一人がすり抜けられるくらいの隙間を開けることに成功する。
「……ふう」
 にじむ汗をぬぐいながら中に入り、今度は今し方開けた隙間を閉じることに注力する。こちらもなんとか終わらせると、それまでの疲れがどっと押し寄せてきて、ナナは壁に身体を預けて天井を仰いだ。
「…………」
 灯りはない。暗闇に慣れた目でも、ほとんど中の様子はわからなかった。しかし、上のほうから、地鳴りのような音は聞こえてくる。それだけ激しく、村が蹂躙されているのだろう。
 しかしほっとしたのもつかの間、閉めたはずの扉が開く音がして、炎の光が部屋の中に入り込んできた。
 魔物か。一瞬そう思ったが、現れたのは人間だった。手にはした松明に照らされて、ナナは思わず目を細める。
「……なぜこいつがここにいるんだ!」
 人間の姿を見て、ナナは少し安堵した。だが、その瞬間浴びせられた言葉に、彼女は耳を疑った。それも刹那、今度は入ってきた男に胸ぐらをつかまれ無理やり立たされる。
「なんでお前がここにいるんだ! ここは村の避難所だぞ!」
「……っ、え、ぅ」
「失せろ! どうせこの魔物も、お前とあの不気味な小僧が呼んだんだろうが!」
「あんな化け物を村に入れやがって! つくづくろくな奴じゃねえな!」
「きゃあ……っ!?」
 そして今度は、勢いよく部屋の外に放り投げられる。
「消えろ化け物! 忌み子は忌み子らしく、魔物と仲良くしてればいいんだ!」
「……っ、ま、待っ……!」
 反論はおろか、口を挟むことすら許されなかった。すべてを拒絶するかのように、扉が閉まる。
「…………」
 しばらく、ナナはそこに立ち尽くしていた。だが、すぐにそれすらも許されないことを知る。
 次々と、村人が避難してくる。村中に張り巡らされた地下道を通じて、避難所に避難してくる。そしてその村人全員が、部屋に入る際にナナを罵倒するのだ。罵倒どころか、思い切り殴られもした。
 ここにいたら、みんなの迷惑になる。何より、殺されてしまうかもしれない。ナナは、涙をこらえながらそこを後にした。
 灯りを持っていないので、暗い地下道を進むのは困難だ。それも、先ほどと違って精神的に打ちのめされた後である。足元すらおぼつかず、ナナは何度も転倒した。
 シフォンさえ、彼さえいてくれれば。
 何度も彼女は、彼の名を呼んだ。その姿を求めた。しかし、それでどうにかなることはなく、現実がいかに夢よりも恐ろしいか、冷酷であるかを実感することしかできなかった。
 ほうほうのていで地下道の出口を見つけ、なんとか這い出たまではよかったが、どうすればいいのかわからず、途方に暮れる。
 幸い、この出口は村の外に繋がっていたようで、魔物の姿も近くには見られない。ナナは、身体を投げ出すようにしてその場にへたり込んだ。
「……どう、して……」
 それは、己の立場への怨嗟でもあり、またこの理不尽な闇の軍勢への糾弾でもあった。
 だが、それに対して答えてくれるものはいない。ただ、激しい殺戮の音だけが、絶え間なく続いている。
 ざり、と。土を踏む音が聞こえた。慌てて、ナナは身体を起こして周囲をうかがう。
「……シフォン君!」
 そこには、彼がいた。血のように空が染まってもなお、夜の闇にあってなお、美しい月の色をまとった少年の顔は、いつものように、二つの性の間に揺れる儚い光を湛えていた。
 シフォンは、そっと人差し指を口に当てて、首を振る。
「……静かに」
「…………」
 その意味するところを察して、ナナは頷く。
 そうだ。今ここは、戦場なのだ。
「……よかった、ナナ……」
 頷くとほぼ同時に、ナナはその言葉と共に抱きしめられた。いつものように、少しひんやりとしたシフォンの身体が、心地よかった。
「う、うん……な、なんとか……」
 しばらく、二人はそうして身体を抱きしめあう。だがやがて、ゆっくりと身体を話しながらシフォンが口を開いた。
「……ナナ、今すぐここを離れるんだ」
「……え……?」
 その言葉に、ナナはディーズとララの最後の姿が浮かんだ。
 まさか、シフォンもそうやって、行ってしまうのではないかと、一気に心細くなる。
「大丈夫、ボクは死なない。ここで何があっても、絶対に死なない。だから、今はとにかく逃げて」
「……で、でも」
「いいから。できるだけ遠く、村から離れておいてほしい」
「…………」
「……ごめん。一緒にいられればいいんだけど、そうもいかないんだ」
「……わ、わか、った……」
「ありがとう。……ごめんよ、ナナ。本当に……本当に、ごめん……」
 シフォンの言葉に、ナナはふと首をかしげた。
 どうしたのだろう、と疑問を持ったのである。これほど真摯に謝られる覚えなどないのに、どうして彼は、そこまで謝罪を繰り返すのか、と。
「……シフォン、君……? なんで、そんな……」
「…………。……、ごめん」
「……ら、らしくない、よ? いつもなら、シフォン君は……」
「……! ナナ、隠れて!」
「えっ?」
 不意に、ナナは地下道の中へ押し込められた。一気に視界が暗く、狭くなる。土の香りが、鼻を突いた。
「……シ」
「静かに。絶対に音を立てちゃダメだからね」
 シフォンの意図することがわからず、しかし彼が言うことならばと、ナナは口に手を当てた。それから、できるだけ動かないように、身体を硬直させる。
 直後、何か重いものが地面に落ちたような音が響いた。それが何かわからず、ナナはもう少し身体を縮める。
「トーカリウス様、こんなところにいらしたのですか。探しました」
 それから、聞いたことのない声が響いてきた。それは妙に甲高く、どうにも耳障りな声だった。不快さに、思わず肌が粟立つのを感じた。
 だがそれよりも、その内容が気にかかった。トーカリウス、とは、一体何を意味しているのか。
「ああ、ちょっとね。それより、首尾は?」
 返事をしたのは、シフォンだった。どういうことだろう。ナナの頭の中に、大量の疑問符が浮かぶ。
「順調です。抵抗もほとんどないですし、制圧も時間の問題です」
「そうか。破壊のほうは?」
「こちらも順調です。順次灰にしています」
「わかった。報告は、他には?」
「はい。オルトゥス様が、トーカリウス様をお探しです。教会の書庫に、興味深い書物があったとのことで」
「……そう、か。わかった、すぐ行く。ご苦労だったね。お前は自分の持ち場に戻れ」
「はっ!」
 一連の会話を聞いていて、ナナは絶対に本当であってほしくない考えが浮かんでいた。
 オルトゥス、という名前には聞き覚えがあった。二回目にシフォンと会った時に、彼が部下と呼んでいた人物だ。
 ということは、トーカリウス、というのはシフォンのことで……。
「……ナナ、もう、いいよ」
 鳥がはばたくのと似たような音の後、シフォンが言った。ナナは、それを聞いて恐る恐る穴から顔を出す。
 シフォンは、背中を向けていた。彼がいつも纏っている青いマントが真っ先に見えた。だがそこには、赤黒い染みのようなものがべったりと付着している。
 ゆっくりと、ナナは顔を上げた。炎で照らされた黒い夜空。その中に、獅子の頭、大鷲の翼、山羊の身体を持った異形が飛んでいるのが見えた。見えて、しまった。
「…………」
「……ごめん」
 愕然としたまま硬直してしまったナナに、シフォンが言う。
「……ボクの名前は、シフォン。称号はトーカリウス……魔物たちを統べる闇の王……魔王、だ」
 そして、残酷な現実が告げられた。ナナの目が見開かれ、徐々にその表情が、絶望に染まっていく。
「……う、そ、でしょ……?」
「ボクが嘘を言ったことが……今まであった?」
「……じゃ、じゃあ、じゃあ、シフォン君が……全部シフォン君がやったの!?」
「そうだよ」
 奇妙なほどに、シフォンの言葉によどみはなかった。弁解するつもりはないということか。それとも、開き直っているのか。
 ナナに向き直る彼の表情の中に、その頬に、最初は気付けなかった赤黒いものがこべりついているのが見えた。それが何を意味するのかは、もはや歴然であった。
「だ……だまし、てた、の……? ずっと……あたしを……あたし、たち、を……」
 腰砕けになりながら、地べたを後ずさる。
 今まで、ずっと頼りにしてきた少年の小さな身体が、急に恐ろしいものに思えてならなかった。
 思えばあの石を投げられた日、素手で石を砕いた彼の行為は、どう考えても人間ができることではない。けれどもナナには、そんなことが気にならなかった。それはひとえに、それだけ彼のことを――。
「違う。それは違う」
 彼が、口を開いた。
「違う、違うんだナナ。騙すつもりなんてなかった。ただ、ただいつか言わなきゃって……言い出せなかっただけなんだ。本当だナナ、信じて!」
「じゃあ、……じゃあ、やめてよ……今すぐやめてよ……村、を……村を……」
「できない……できないんだ……! ボクだってやめたい、今すぐにでも! けど、これがワイズドシーユ様が望まれたことだから!」
 ワイズドシーユ。創造神へ反逆し、魔物を生み出し、世界を崩壊と混沌に導く邪神。教会で育ったナナにとっては、唾棄こそすれ、敬称で呼ぶなどとんでもない。
 それを、様と呼んだ。彼は確かに、様、と。
 恐ろしい。そう、思ってしまった。今までずっと、慕ってきた彼を。
「……ボクは、所詮ワイズドシーユ様の道具に過ぎない。卑小な道具でしかない。命令には逆らえないんだ。……本当なんだよ、ナナ……」
「…………」
「どうしたら信じてくれる? ボクは、ボクはナナを失いたくない。わかってる、人間の、しかも夢幻の血を引くナナは、ボクたち魔物にとっては忌むべき存在だ。そんなのと、一緒にいていいはずがない。そんなことはわかってるんだよ。……でも、でもボクはナナのことが好きだ。一緒にいたい……ねえナナ、信じて。お願いだよ、ナナ……」
「…………」
「確かにボクは魔物だよ……何人も……いいや、何千人と殺した、今だって、たくさん。でも、……でも、ナナは、ナナだけは。……だから逃げて、このまま一緒にいたら、ボクはナナを殺さなくちゃならなくなる……だから」
「……シフォン、君……」
「……信じてくれなくってもいい、ナナが生きていてくれれば、それで」
 シフォンの言葉は、切実な色を帯びていた。そんな彼の言葉に、ナナは少しでも彼を疑い、恐れた自分を殴りつけたくなる。
 信じる。そう、心に決めた。
「……シフォン、君。ちゃんと……ちゃんと、迎えに来て、ね……?」
「ナナ」
「……うん」
 目を見開いたシフォンに、ナナは頷いて見せた。それを受けて、シフォンも頷く。
「うん。絶対迎えに行く。だから、それまでもう少しだけ、我慢してほしい」
「……うん」
「じゃあ。ボク、少しだけ戻るよ」
「うん」
 それから二人はそっと口づけを交わして、そっと離れた。
 シフォンは村のほうへ。ナナは森のほうへ。
 できるだけ魔物に見つからないように、できるだけ音を立てないように。
 後ろは振り返らなかった。どんな目に遭ったとしても、あそこはナナにとって故郷だ。それが燃え落ちるところは見たくなかった。そこに、大切な人も巻き込まれていると、知っているから。
 走って、走って、森の中に紛れ込んでいく。そして。
 そして――。
「――!?」
 鋭い衝撃が、ナナの身体を襲った。
 そのまま、ろくに受け身も取れないまま地面に転がる。
「――っ、――っ!」
 声を上げることもままならない。全身を、金色に輝く電撃が覆っていた。痛みは引くことなく、永遠に続くと錯覚しそうなほどだ。
「クククク……」
 そんなナナの耳に、低くもあり高くもある、気味の悪い笑い声が届いた。
 なんとか視線を上げれば、そこには夜の闇に溶ける、くすんだ紫色の巨体があった。その四肢は野太く、少し振るわれるだけで、どんな城塞も崩れてしまいそうだ。
「この女か……あの小僧が現を抜かしているというのは……」
 鈍く光る、飾り物のような瞳が、ぎらりとこちらを向いた。
 恐ろしい。素直にそう思った。先ほど、シフォンに一瞬でも感じたものとは違う。もっと本能的で、もっと原始的な恐怖だった。
「理解できぬな……否、する必要もなし、か」
 異形が言う。
「……処分は任せる。我輩はそろそろ狭間に戻らねば……世界の子連中に、まだ気づかれるわけにはいかぬからな……」
「御意」
 気づけば、その異形の傍らには、悪魔をそのまま彫像にしたような姿の魔物がいた。まるで、石が生きているかのように動いている。その様子は、あまりにも不気味だった。
 そして、ナナがおぞましいと思う間もなく、紫色の巨大な異形の姿が掻き消える。最初からそこに存在していなかったと思わせるほど、一瞬の出来事だった。その際かすかに生じた黒いオーラは、かつてシフォンが使うのを見た、遠くのものと会話する魔法と、同じ色をしていた。
「ヒヒヒヒヒ……」
 石の異形が、下卑た笑いを浮かべながら、歩み寄ってきた。どう見ても、その外観は石だ。石でしかないはずなのに、そこに浮かんでいる表情は、あまりにも下衆い。
「……っ!」
「お前か……お前が、トーカリウス様を狂わせたのだね? 許さない、許さないよ……?」
 石の異形が言う。笑った表情のまま、しかし感情の一切見えない瞳だけが、うつろにナナをにらんでいた。
「トーカリウス様は魔物の王……! 最も気高く、最も優れた、最もお優しい、最高の魔王……! そのトーカリウス様をッ……、人間如きがッ!」
「――――」
 悲鳴を上げることができなかった。まだ全身にまとわりつくいかずちが、声すら奪っている。助けを呼ぶことが、できない。
「んふ……ふふふ、ヒヒヒヒ……お前など! お前のような! 奴はこうだ! こうしてくれる!」
 そして。
 ナナの腹部に、強烈な一撃が放たれた。
「――ッ!! が……、ッッ」
 肉が裂ける音が響く。悲鳴は、ほとんどあげられなかった。代わりに、喉の奥から血が湧き上がってくる。鉄の味が、口いっぱいに広がる。
「んふふふふ……痛いか、痛いだろぉ。ヒヒヒヒ……今度は、どこだ? どこがいい? ここか、ここにしようか? ヒヒヒヒ……!」
 次いで、手首に鋭い痛みが走る。気を失いそうになるほどの衝撃。鋭くとがった石の刃が、手首を貫いて地面に刺さっていた。
「ヒヒ、ヒヒヒヒ! まだまだ……まだ終わらないよ! 小娘……気絶なんてするなよお。ヒヒヒヒヒ……お前の、おォまァえェのォ、その顔が見たいんだから、な!」
「――、――――ああああああああッ!!」
 骨の砕ける音が、下半身から響く。それと同時に、いかずちの呪縛が解けた。それまでずっと抑圧されていた魂の叫びが喉をつき、夜の森にこだまする。
 だが、それで痛みから解放されるわけではない。むしろ、それまで電撃で感覚が麻痺していた分、断続する痛みが増幅し、ナナの身体をより一層強く、苛み始める。
 足が、膝が、逆に曲げられていた。砕けた骨が、肉を突き破る。骨折の痛みと、肉が裂ける痛み。ナナの意識が、急速に遠のいていく。
 脳裏に、彼の顔が浮かんだ。魔王だと名乗った、愛しい人の顔。
 違う。彼がこんなことを命令するはずがない。
 そうした想いをなんとかつなぎとめながら、それでもナナは死を覚悟した。
「キヒヒヒヒヒ! そうだ、その顔だ! ふふ、ふふふふふ……次は、そうだな、ここか? ここがいいか? ここが――」
 舌舐めずりをしながら鋭い爪を煌めかせた魔物の声が、途中で途切れた。
「――ヒ?」
 そうして、その石の腕が宙に舞う。それはぐるり、とゆっくりと一回転して、近くの木に突き刺さった。
「ヒ、ぎ、いいいいっ!?」
 魔物が悲鳴を上げた。失った腕を抑え、狂ったように叫び続ける。
 その後ろで、ゆらりと小さな影が立ち上がる。
 月に愛された、翠緑の髪がさあ、と夜風になびく。血に染まりながらもなお、青黒い生地が映えるマントがそれに続いた。そして、漆黒に輝く刃が首をもたげるその後ろで、満月と同じ姿の瞳が、ぎらりと閃く。
「ひ、ぎ、と、トーカリウス、さま……」
「お前……!」
 驚愕に顔を染めた魔物をシフォンがひとたび睨めば、もはや魔物は動けない。絶対的な強者を前にして、抗うことすら諦めた獲物がそこにいた。
「よくも……ッ! よくも、よくもナナをッ! 許さない……! 絶対にお前は許さない……ッ! 殺してやる……ッ、殺してやるッ!!」
 闇に染まった双子宮の剣が、幾重にも奔る。それは瞬きの刹那。一つに十が重なり、重なった軌跡がさらに重なって二十重に、さらに、さらに、重なり続けていく。
 暗黒の月が全てを穿つ――新月。
「……ッ、……ッ」
 シフォンが己の剣を収めた時、死んだ魔物が遺すコインすら細切れになり、塵となって宵闇に吸い込まれるところだった。
「――ナナッ!」
 その声がナナにとって、どれだけ嬉しかったことか。
 ずっとその姿を求めていた。ずっとその声を求めていた。
 薄れゆく意識をなんとか、か細くもつなぐことができたのは、彼という存在がいたからに他ならない。
「…………。シ……、……、ン、……く……」
「ナナ……ダメだ、しゃべっちゃダメだ……!」
 それはわかっていた。けれども、それでもしゃべりたくて。
 またあの日のように……幸せだった、あの日のように、ずっと、二人で。
「あた、……し……。あ……」
「ナナ! もういい、もういいから……! ……戻ろう、すぐに戻ろう! ディーズなら、きっとディーズなら、…………」
 そこまで言って、シフォンは絶望的な表情をした。
 それは、ナナが初めて見た彼の、本音が出た表情だったかもしれない。
 そうだ。ディーズは、きっと、もう。
「……、で、でも、この傷はまだ、回復魔法が……使えれば、きっと、きっと……! ……ッ、く、う、ううううう、くそおッ!」
 シフォンが、叫んだ。空を仰ぐ。
 そこには星がある。満星は既に通り過ぎた今日、その色は青と赤が半々に輝いていた。
「くそお……なんで、なんでだ、どうしてだッ!」
 その叫びと共に、ナナは、自分の頬に、雫が零れ落ちるのを見た。
 それはまっすぐ、シフォンの瞳から零れ落ちている。純白の瞳を従えた、翠緑の月。その月が、泣いていた。
「……、なんでだ……、どうしてだ……!」
 シフォンが、泣いている。
 あのシフォンが、何があっても、いつもナナを支えてくれた彼が。
「……ボクは! ボクは、魔王トーカリウスだ……! どの、どんな魔物にだって負けない、絶対に負けない、世界で一番強い、魔王だ! なのに、なのに、なんでだ、どうしてだよ、なんで、なんでボクは、ボクは……! 一人だって……、たった一人、好きになった、大好きな女の子一人だって、助けてあげられないんだ……!? なんで、どうして……っ!!」
 泣きじゃくる彼に、ナナはきつく抱きしめられる。もはや、痛覚も死んでしまったらしい。いや、あるいは触覚すら。
 いつもならば感じる、少しだけひんやりとした彼のぬくもりは、一切感じなかった。
 ただなんとなく、薄らぼんやりと、彼の存在がそこにあると……それだけしか、ナナには感じることができなかった。
「嫌だ……! ナナ、嫌だ、死んじゃ嫌だ! ナナ……!」
 終わりなんだ。
 はっきり、そう思うことができた。
 もうこれで、自分は誰も感じられなくなるのだと。もうこれで、自分は何も感じられなくなるのだと。
 無意識に、本能でナナはそれを察した。今目の前で泣く、彼とも、もうこれで。
「…………し、シフォン、く、ん……」
 思わず、彼の名前を口にする。血が口内で絡まり、うまく発音することもできない。そもそも、それだけの気力すら、ほとんど残っていない。
 それでも、彼の名前を言う。彼を呼ぶ。
 シフォンが、それに応じるようにして、ナナをさらに抱きしめた。無力な魔王の細い腕が、彼女を覆っている。
「……あ、……、あた、し……」
 散り散りになっていく意識の水底で、シフォンの笑顔が泡となって浮かんで、消えていく。
 初めて出会った時のあの笑顔。名前を聞いた時のあの笑顔。水浴びをしていた時のあの笑顔。一緒に本を読んだ時のあの笑顔。共に海を眺めた時のあの笑顔。たった一度だけ、肌を、身体を重ね合わせた時のあの笑顔――。
 それらが順に、一つ一つ消えていく。文字通り泡のように、儚くはじけて消えていく。
 大切な思い出をなんとか取り戻そうと、ナナは何もない空へ手を伸ばす。石で貫かれた手首からあふれる血で塗れたその手を、誰かがつかんでくれたような気がした……。
「い、……い、や……あ、たし、あたし、……まだ、……まだ、死にたくない……や、だ……シフォン、く、ん……しに、たくな、い……よ、お……」
 そうして、ナナの身体から完全に力が抜けた。絶望にあってなお、それでも宝石を超えた輝きを放つ紫紺の瞳から、光が消える。
 炎が消えた、瞬間だった――。
「――――ナナアアあああぁぁぁぁぁーッッ!!」

 小さな少年が、雨の降りしきる中で、穴を埋めている。白く細い彼の手は土に汚れ、ところどころに切り傷が走っている。
 それでも彼は、穴を埋めることをやめない。濡れそぼった髪は乱れ、頬に刻まれた血色の逆三角形が泣いている。
 穴の中には、少女の身体が横たわっている。もう動かない、動いてくれない、愛しい人。
 少年は、時折彼女の名前を苦しそうに呟きながら、穴を――墓穴を、埋める。
 穴の傍らには、大きな古い切り株。かつて、二人で並び腰かけた古株。
 そこからの眺めはもはやない。なみなみと水をたたえた池は干上がり、周囲に点在していた家は、すべて灰燼に帰している。
 それでもここが、こここそが、二人が出会ってからずっと、一番長い時間を一緒に過ごした場所だ。
 だから少年は、唯一残る村の面影の中に、少女を埋葬することにした。
 古株には、ひとひらの木板を突き刺して。
 その表に、自分の血ではっきりと書き上げる。
 ナナ・ティルケット。
 彼が愛した人の名前。
 神に祝福された夢幻の申し子でありながら、忌み子と呼ばれた薄倖の少女の名前。
 彼はただ、純粋に彼女を愛した。
「……ナナ、ボクの気持ちは、夢なんかじゃなかったよ」
 できたばかりの墓標に、彼が言う。
「ナナ……ナナが死んでもボクは、こんなにもナナのことが好きだよ……。ずっと、ずっと一緒にいたいって思うよ……」
 雨を嫌うことなく、彼は墓標を見上げ続ける。その表情を濡らしているのは、雨だけではない。
「……ナナ……」
 雨がやむ気配はない。それどころか一層激しく、彼の身体を打ち据える。
 と。
 ぼんやりと立ち尽くす彼の後ろに、闇が広がった。
 その中から、下半身を土と石に覆われた人型の異形が現れる。
「……トーカリウス様」
「…………」
「お取込み中のところ、失礼いたします」
 少年は、それでもそちらに振り向かない。
 ただ雨に身を任せたまま、目の前の墓標だけを見つめている。
「……急ぎの報にございます。先ほど、魔導艇が王都クレセントを発ち、魔王城へ向かったとの由」
 土の異形の声が響く。まさに、地の底から大地をふるわせて湧き上がってくるような声だ。
「……来たか」
 少年が、ようやく口を開いた。
 雨水を限界まで吸い、すっかり重くなったマントがぐらりと揺れる。
「トーカリウス様……」
「……ボクは……もう、大丈夫だよオルトゥス……。ありがとう、心配、かけたね……」
 その顔に、まるで表情はなかった。凍りついた白面はすべての感情を拒絶し、己の愛すらも否定したまま、眼前の異形――オルトゥスの、空虚な瞳を見据えている。
「……もったいないお言葉」
 オルトゥスの声音は、暗く淀んだ闇に沈みながらも、慈愛に満ちていた。
 魔物でありながら自我を持ち、少年への忠誠と、絶対の服従を誓った異形。四天王に名を連ねるその表情は、主たる少年を心配する父親のよう。
「……行こうオルトゥス。もう、……この村に用はない……」
 だが少年は、それを意に介さない。閉じてしまった少年の心は、異形の……闇の言葉では開かれない。オルトゥスが、無念を感じさせる表情のまま頭を垂れた。
 そうして、歩き出した少年の身体が闇に包まれる。彼に付き従うオルトゥスも、一歩遅れて闇に飲み込まれていく。
 ほどなくして、二人の姿は闇の中へ掻き消える。まるで、最初からそこに存在していなかったかのように。
 雨が、降りしきっている。
 そんな雨の中に、うっすらと少女の姿が浮かび上がった。
『……行かないで……』
 死を全霊で拒んだ少女。死してなお、魂魄となってこの世に縛られることを選んだ少女の魂だ。
 彼女はどんな姿となってもなお、彼と、同じ時間を過ごしたいと願った。
 それ以外の望みはない。富も、地位も、名声も、美も、何もいらない。
 ただ、彼と。
 親愛なる魔王様の隣にいることだけを望んだ彼女の声は、しかし彼には届かない。
『……行かないで、シフォン君……』
 彼女の――ナナの声が、やむ気配のない雨の中で掻き消えた……。


◆ナナ・ティルケット・リ・エル・ワイゼリス(Nana Tillcket Li El Wiszerys)
月世界の中心部、アグラ島は神域ラル・エツォック出身と思われる。生年は不明。
闇の国ブレイジアの初代国王、新月王シフォニアの正室。
同王の名が歴史に初めて登場する後クレセント歴二千五百八十三年、既に彼の正室として書物に記されており、それによれば、シェラムルで育ったとされる。
シフォニアを除く歴代の魔王もまた夢幻の力を持つことから、彼女が夢幻の民だったとする説に疑う余地はないが、なぜ夢幻の民である彼女が、神域外のシェラムルで育てられたか、その経緯は謎である。
ただし、無意識による夢幻の発露が幼い彼女を神域外へいざなったか、あるいは彼女の親が夢幻により育児放棄した結果、神域外へ放逐されたという考えが一般的。
歴史的には、二世魔王、夢魔王アルテアを初め、今日のオブシディアン三血や、四魔貴族の一つ、水のカルナック家の始祖らの母であり、国母とも呼ばれる。
ただし、彼女自身は己の能力を把握したうえで政治や外交などには一切立ち入らず、ただひたすら夫に従う妻であり続けた。
これは、クレセント三十六世の正室であり、同じく夢幻の民でありながら政治家としても活躍したシファム妃とは対照的である。
史料によれば、その性格は人見知りが激しく、自己主張が極端に少ない弱気なものであったようで、その点もシファム妃との対比性が目立つ。
なお、筆者が近年入手した、クレセント三十六世の邪神討伐の旅を記録した日記によれば、一度シェラムルが滅んだ際に、彼女も死亡したとのことである。
にもかかわらず、彼女が後年の歴史に登場するのは、アストーンストームにより蘇生したからと、王は記している。
この記述は大変興味深く、あらゆる願いをかなえるとおとぎ話に伝えられるアストーンストームが、真実「あらゆる願いをかなえる」ものであるという証左であると筆者は考えている。
没年は後クレセント暦二千九百三十一年。
彼女の葬儀ののち、偉大なる初代、新月王シフォニアは魔王位を嫡男アルテアへ譲り、歴史の表舞台から姿を消すことになる。

筆、コルファ・クレイアス




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