「なんじゃこりゃあああ!!」
 レイロール魔導学校に、そんな怒声がこだました。それは威力を伴う攻撃魔法よろしく、壁という壁をびりびりと振動させて回る。
 その大音声に、教師、生徒の別なく大勢が廊下に集まってきた。
「バカなぜよ……」
 大人数に囲まれた、問題の声の主――若き日のメン・ティルリラーンはそんなつぶやきを付け加えて、壁の掲示を見上げていた。
 そこに記されていたのは、先日行われた試験の結果だ。二回生が始まって最初の試験。内容としては前年度の集住度を確認する程度のもので、天才を自負するメンにとっては、はっきり言って楽勝すぎる内容であった。まあただ一か所、凡ミスをしでかした自覚はあったので、全科目満点は逃したとは思っていたのだが……。
「おい……あの点数、全科目満点じゃねえか?」
「ホントだ……」
 メンを抑え、一位に輝いた人物の点数は、野次馬の言うように、全科目満点でなければありえない数字だった。対して、メンの点数はそこから二ポイントマイナスしたもの。つまり今回の二位陥落という事件は、メンが唯一自覚していた凡ミスによるものだった。
 なんということだ、と彼は胸中で叫び、同時に数日前の己をぶん殴りたくなった。しかしそれは不可能である。覆水と同じく、時間は元には戻らない。
 というわけで、メンは即座に思考を切り替える。驚異的なまでのポジティブシンキングは、彼の特技ともいえた。
「おい! この一位のクルーティ・アストラルというのはどこの馬の骨だ!?」
 そして、すぐ隣にいたクラスメイトに怒鳴る形で聞く。突然話を振られた犠牲者の少年は、上ずった声を上げた。
「ファッ!? え、いや、だって、同じクラスの奴だけど……」
 その言葉を聞いて、メンは己の頭脳をフル回転させる。しかし、あまたの知識を内包する天才の頭脳をもってしても、そんな人物の情報には一切心当たりがなかった。
「知らんな!」
「えー!? 今期になって下から上がってきたやついたじゃん、あいつだよ!?」
「…………」
 下から。
 再度、メンは考える。
 歴史古きレイロール魔導学校には、普通学級の他に成績優秀者が集う特別学級がある。天才ことメンはもちろん後者に在籍しているわけだが、年に一度、普通学級の最優秀者が特別学級に昇格する、という制度があるのだ。クラスメイトが言う、「下から上がってきた」とは、その制度により昇格した、という意味である。
 言われてみれば確かに、先日下から一人上がってきた奴がいた。ような気がする。
 首をかしげながら、メンは言い放った。
「……知らんな!」
「ひっでえ!? 確かに目立たないやつだけど!」
「記憶にないな!」
「……お前相変わらずだよな」
「そう褒めるな」
「いや、まったく褒めてねえけど」
 悪びれることなく、むしろ胸を張るメンにクラスメイトはため息交じりに頭をかいた。心なしか疲れているようにも見える。
「どんな奴だ?」
「え? あー……っと……髪と目は青色してて」
「マヂで? ちょうやべえぢゃん」
「どっちも緑色してるお前が言うなよ……」
「そうだな! しかし、ふむ、青……逆月色か。なんで今まで存在に気付いていなかったのか……」
「俺が知るかよ……」
「そうだな! よし、大体分かった。礼を言おう!」
 心底疲れ果てた様子のクラスメイトに、背を向けて、メンは大股で教室に踏み込むのだった。
 教室を見渡せば、見知った顔が大勢いる。選び抜かれた成績優秀者のみで構成される特別学級は、当然普通学級より人数が少なく、いわゆるクラス分けという概念がない。だからそこにある顔は、いずれも入学からずっと勉学を共にしてきたものばかりだ。
 そんな見知った顔の端のほう、人垣から一歩離れた場所に、一つだけ知らない顔があった。
 一人で教科書に目を通すそいつは、前情報通り青い髪と瞳をしていた。そして、その青い髪で一部がぴょこんとはねたアホ毛が、所在なさげに揺れている。
 それを見とめると同時に、メンは内心でうなずく。あーこんなやついた、と。その少年――クルーティに近づきながら、初めて彼に出会った時のことが脳裏をよぎった。
 突然それまでのクラスから引き離されてきたのだから、クルーティにとって特別学級は知らない人間しかいない場所だ。そこで自己紹介をしろと言われたのだから、緊張くらいはするだろう。しかし彼の態度は、緊張という枠を超えていた。
 一度も顔を上げることなく、何かの目を気にするようにそわそわとし、ぼそぼそとした小さな声は、メンにはほとんど聞き取れなかった。黒板に名前が書かれていたような気はするが、何分そんな奴だったので、完全に忘れてしまったのだろう。何せメンにとってこの世のすべては、興味の対象物か、路傍の石以下の何か、どちらかでしかないのだから。
 しかし今、メンの中でクルーティ・アストラルという少年の存在が、にわかに急浮上した。それまで一切気にも留めていなかったのだから、現金と言えば現金な話ではある。
 ともあれメンは、相変わらず教科書に没入し続けるクルーティの目の前につかつかと歩み寄った。そして、間髪入れずにクルーティが座る座席の机を勢いよく叩いた。
 彼のそんな威圧的な行為を、もちろん向けられたクルーティは一切予想していなかったのだろう。小さな身体をびくりとふるわせて、恐る恐る彼の顔を上目づかいに覗き込んだ。
 自身に向けられた、逆月色の瞳。その、天空で輝く月を反転させたような丸い瞳に、自身の正月色の瞳を真正面から重ね合わせると、メンは居丈高に声を張り上げる。
「お前が! クルーティ・アストラルだな!?」
「…………」
 その声に、クルーティは怯えた様子で小さくうなずいた。無意識に自分を守ろうとしてだろう、手にしていた教科書を両手で抱え、それでメンとの間に壁を作りながら。
「先日の試験の結果は見たか!?」
「…………」
 青い髪が、左右に揺れる。
「ならば、己の栄光をその目で確かめてくるといい!」
「……ぇっ、……ぁ……!?」
 そして、メンはクルーティを無理やり立たせると、成績が貼り出された掲示板まで、引きずるようにして連れて行く。
 その間、クルーティは終始おどおどと周囲を気にしていた。腕をつかんでひっぱるメンには、何をそこまで気にしているかは見えなかった。見えなかったが、それでもその怯えた様子はなんとなく理解できた。
「見ろ!」
「…………」
「お前が一位だ! この! 大・天・才! メン様を抑え込み! 堂々の、栄えある一位だ!」
「…………」
「何を怯えている。胸を張れ! お前はこの天才を、史上初めて打ち破った男となったのだ!」
「…………」
 メンがどれだけ声を張り上げても、クルーティは返事をしなかった。いや、しようとはしていたのかもしれない。
 ただ、周りの野次の一つ一つにびくりと身を震わせ、身体をたたかれるたびにそこから飛びのき。些細なことでそれほど大げさな反応をしていれば、目の前の人間に返事ができなくなるのも当然であろう。
 とにもかくにも、その日から、クルーティは急に人に囲まれるようになった。それだけ、メンに成績で勝ったということが周囲に与えた衝撃は大きかった。それはすなわち、メン自身の能力も非常に高く見られていたことの証拠でもあるのだが。
 しかし、当のクルーティは、常に周りからの声に怯えていたし、ろくに言葉を発することもできないでいた。

 レイロール魔導学校には、式問答という授業がある。
 魔法の式を相手に示し、その式がどのような魔法を紡ぎだすのかを言い当てるという、シンプルだが非常に奥が深いものだ。
 元来は、式が創りうる結果を見通し、魔法の知識を深めるための授業科目にすぎなかった。しかし、二人いればどこでもできて特殊な道具も使わないため、この学校において式問答は授業の枠を離れ、暇つぶしから相手の力量をはかる探りまで、さまざまな目的で行われる。時には、これで物事の白黒をつけるという、一種の決闘として利用されることもあるほどだ。よりレベルが上がった魔法使い同士ならば、実際に魔法を行使して見せて、それをディスペルしあうという形式でも行われる。
 当然ながら、自他共に天才を自負するメンは、この式問答を特に得意とした。単純に魔法に秀でていることに加え、その極めて優れた発想力、思考力が、最も生かされるのがこの授業だからだ。
 だがそれと同程度、式問答を得意とする生徒がいた。クルーティである。
 当然ながら、授業で行われる式問答は、実力の近い者同士が組となる。先の試験で一位と二位だった二人は、次の式問答で早速対面させられることになった。
「火炎、最上級!」
「……うん」
「次はこちらだ!」
「……治療、上級」
「正解だ」
「…………」
「いかづち、氷雪、上級!」
「……あたり」
 二人はどちらも、与えられた式の解を即座に答え続けた。そして、それと同時に次の式を相手に与える。その速度は次第に上がっていき、また互いが示す式も、複雑になっていった。
「……夢幻魔法。創造、机」
「古代烈風、上級!」
「……光。炎の性質を再現。殺傷能力は皆無。炎霊石、光霊石の使用が前提」
「なん……だと……? ……ふっ、やるな! ……神聖! 定着を有することから、媒体に魔法を固定し、効果をより高めると見た!」
「えっ。……う、うん……正解……」
 やがてそれは、学校で教えられる体系化魔法の枠を超え、古代魔法や夢幻魔法、独自の魔法理論まで飛び出すようになり、教師ですら見守ることしかできなくなる規模にまで発展する。
 そして、ついには決着がつかないまま、この日の授業は終了となった。最後まで互いに一歩も譲らなかった二人には、拍手が巻き起こったのは言うまでもない。だが、得意げに胸を張るメンに対して、クルーティはどこまでも控えめで、そんな拍手にすら萎縮していた。
「待て、クルーティよ!」
「……っ?」
 業後、メンはのろのろと帰宅の準備をしていたクルーティに詰め寄った。その態度は相変わらずで、悪くいってしまえば横柄だ。メンほどの頭脳をもってすれば、その行為がクルーティを怯えさせていることくらいわかるはずだが、これが周囲から天才と褒めそやされて育った彼の平時であり、いまさらそれを変えるのは難しい。
「先ほどお前が示した式……非常に、ああ非常! に! 興味深い!」
「…………」
「詳しく話が聞きたい! お前が組み立てた魔法の固定、解いてみたい!」
「…………」
 メンのその申し出は、意外だったのだろう。クルーティは丸い瞳をさらに丸くして、何度か瞬きをしながらメンを見つめていた。しかしだんだん恥ずかしくなったのか、顔を伏せると小さくうなずいた。
 それを了承の合図とみて、メンはクルーティの正面にどっかとすわりこむ。そして机の腕で手を組んで、そこに顎を乗せた。
「…………」
「魔法の効果を固定させる効果の、実践的な利用としてはやはり、現代でも実現が難しい転移魔法陣の半永久的な使用といったところか! 魔法を定位置に固定させる方法としては、長らく陣を描くことで安定させる方法が採られてきたわけだが、それではまず何より正確に真円を描く必要があるうえ、魔法の規模に比例して、陣の大きさが……」
「……あ、の」
「なんだ?」
 珍しく、他人の言葉を遮ったクルーティに、今度はメンが目を丸くした。そもそも、普段なら自分からは一切発言をしないクルーティが、自主的に発言したというのも極めて異例のことだ。
 しかし、そこから先が長かった。クルーティは、何を言えばいいのか決めあぐねているのか、口を開きかけたり、意味のない発声をしてみたりと、まごついている。
 メンは、待つという行為が苦手だ。ただじっとしているなんて、まったくもって天才には似つかわしくないからだ。
「……何か言いたいことがあるのならば、早く言え! 長々と待っていられるほど、俺様の気は長くないぞ!」
「ふぇ、っ、あ、う、うん……」
 ただ、人間は急かされると何かとミスをするもので。
「あああ、あの、その」
「…………」
 結局、クルーティはさらにまごつき言葉を発する機会を見失い、メンは頭を抱えることになる。
「……えっと、その、め、メンくんの、お話も……」
 クルーティがようやく、そう話し始めたとき、既に日は暮れてしまっていた。
「き、きき、たい……。ひ、光の式……すごかった……」
「ほう」
 しかし、そんなまごまごした賛辞だけで、あっさり機嫌をよくするメンは、実に得な性格と言えるだろう。
「あの式が何たるか、理解できたというのか?」
「あ、あの……その、あ、……灯り、だよね……? ……火が出ない式、だったから……ランプ、とかと違って……火事にならない、かな、って……」
「ブラボー……おおブラボー!」
 クルーティの指摘は、的を射ていた。あまりに的確で、思わずメンは手を叩いていたほどだ。
 そうなのだ。そのつもりで組んだ式だったし、この式を活用すれば、人々はランプによる不慮の火事を回避できるはずだと、メンは考えていた。しかし、これまでこの式を見たすべての人間は、そこまで考えが及ばなかった。大抵は、炎の疑似式に気を取られてそもそも光だとすら思わない。光だと見抜いたとしても、逆に炎の疑似式の必然性に首をかしげるものばかりだった。
 だがクルーティは、その式の意図するところを一度見ただけで見抜いた。今まで誰にも理解されなかった式の理解者出現は、メンにとって突然すぎる僥倖だった。
「よくぞ見抜いた! しかし、よく炎霊石と光霊石の使用まで見抜いたな? 式はあくまで机上の空論であって、その行使において補助となる素材が必要かどうかまではわからんだろう?」
「え……。だ、だって……。その……あの式、すごく複雑で、マナも、たくさん使うし……絶対、術者一人で行使するのは無理、でしょ……?」
「イグザクトリー(その通りでございます)」
 もう一度拍手。利点から欠点まで、すべてお見通しらしい。
 この時、メンの中の、クルーティに対する評価が固まった。人として、誰かと会話する能力には欠けるが、その頭脳は、この天才に比肩する、と。会話する能力に欠ける、という点ではメン自身もいい勝負ではあるが。
「その通りだ。あまりにもコストがかかりすぎる。それに式が複雑で、その辺の一般人どもには扱いが難しかろう」
「……メンくん、頭いいから……みんなついてこれないんだよ……」
「それほどでもない!」
「……すごいな。憧れちゃうな……」
「謙遜するまでもあるまい!?」
「……でも。ボク……こんなだから……」
「お前の実力は素晴らしい! この天才が言うのだから間違いない。誇っていいことだぞ!」
「う……うん……」
 メンのその自信は一体どこから来るのか、それは本人の言葉を聞いても凡人には理解できないだろう。
 しかし、クルーティはその非凡な才を理解できたのか、それとも、単純にメンの激励が嬉しかったのか、ぎこちないながらも、うっすらと微笑んだ。
 既に日は暮れ、灯りはほんんどない。だがメンには、なぜかそれがはっきりと見えた気がした。闇の中で、クルーティの青い瞳が、夜空に輝く緑の真円のように、輝いた気がした……。

 レイロール魔導学校は、全寮制である。どこの国家にも属さない孤島に存在するのだから、ある意味でそれは当然だ。それは生徒に限った話ではなく、勤務する教師陣もみなそうである。レイロール魔導学校は、それ自体が一つの街でもあるのだ。
 男子寮、女子寮といった区別もあるが、その中でも寮棟ごとに規則は若干異なる。それぞれが、独立した組織のようなものだ。
 メンが所属する男子寮三番館は、数ある寮の中でも規則は緩いほうである。特別学級の生徒が多いために、彼らを優遇するあまり規則が弛緩したという見方もあるが、ともあれ多くの生徒にとっては、規則は厳しくないほうがいい。天才といえど、それはメンも同様である。
 その日は、国許からの仕送りが届いた日で、久しぶりに遊んできた帰りだった。遊んできた、と言っても凡人を凌駕する天才であるところのメンにとって、遊びというのは娼館通いやショッピングのようなありふれたものではない。
 実験機材や素材を買い込み、学校の実験室にこもって魔法の実験に明け暮れる。それが、メンにとっての遊びだった。たまに爆発事故なども起きるし、マナが暴発することもあるし、そういえば実験室が密林になったこともあったが、あくまで遊びである。誰が何と言おうと、遊びである。遊びから生まれる成果もあるだろう。
 そんな優雅なひと時を過ごして寮に戻ってきたとき、既に夜も更け、多くの寮は眠りについている時間だった。しかし、消灯時間が定められていない三番館は、まだいくつかの部屋に灯りがともっているのが外から確認できる。
 今行っている実験が成功すれば、油を燃やすランプであろうあの灯りを、危険のない炎霊石ランプに差し替えることができるのだなあ、などと考えながらメンは寮の門をくぐる。ちなみに三番館、警備員はいるが門限はなく、どれだけ遅い時間でもとがめられることはない。
「むう?」
 だがメンは、眉をひそめた。さすがの三番館でもいるはずの警備員が、いなかったからだ。そこには、主のいない空っぽの警備室があるだけ。
 さては夜勤担当者が寝坊でもしたのかと、メンは苦笑する。そしてもしそうなら、いくらなんでも怒られる。
 ただでさえ規則の緩さが寮長会議でやり玉にあがりがちと聞く。何か問題でも起ころうものなら、この自由な寮生活に縛りが生まれてしまいかねない。一部のバカのせいで、真面目に過ごしている連中が痛い目を見るのは実に理不尽な話だ。
 そう考えて、メンは夜勤担当者を呼びに行くことにした。警備室内の勤務表に目を通し、今日の担当者を特定する。そして、寮の一階奥へと向かう。警備員や寮長などの管理者たちは、全員が寮の一階で生活しているのだ。
 目的の部屋にたどり着き、ノックする。だが返事はなく、扉に手をかけてみれば、鍵がかかっていなかった。
「これはもしや、スリル・ショック・サスペンス……!?」
 不自然な状態に、メンは心が躍った。躍ったのだから仕方がない。天才とは大様にして、凡人の理解が及ばない発想をするものである。
 そして彼は、取締りの憲兵よろしく足を忍ばせ、部屋へと入り込むのだった。無論、天才様の発想が間違っていれば、不法侵入である。
 中に入ってすぐ、彼の耳には男の声が飛び込んできた。鼻息荒く、興奮した様子の声。きしむベッドの音を加味して考えれば、つまりはそういうことなのだろう。
 それだけならば、さすがのメンもお邪魔だったかと考えて退散するところだ。しかし、問題はその声に含まれる名前に、メンは耳を疑わずにはいられなかった。
 男は、クルーティの名前を言っていた。どういうことだと、メンの灰色の脳細胞が一斉に活動を開始する。
 まず、そもそもの話として、クルーティは男だ。筋肉はあまりなく、しかし骨ばったところのないなめらかな体型、そして産毛も見当たらない整った顔立ちは、どこからどう見ても女に見える。声変わりもまだ遠く、高いまま。が、クルーティは男である。悲しいまでに男だ。
 そして、この部屋の主であるはずの警備員も男だったはずだ。というか、あんな野太い声の女がいてはたまったものではないので、必然的に男だ。
 つまりは、二人は男同士でありながら、そういう関係にあると……。
「否! 断じて否!」
 だがメンはその可能性をきっぱりと否定した。男の声に反して、聞こえてくるクルーティの声があまりにも悲痛で、とても望んでのものとは思えなかったからだ。そして何より、別の男の声が二つもした。それは男が一人ではなく、よってたかって行為に及んでいると考えるには十分すぎた。
 そしてそう思ったら、行動せずにはいられなかった。
「ちょーーー……っと、待ったあッ!」
 彼は、叫びながら扉を蹴破った。突然の闖入者に、その場にいた全員がメンに顔を向ける。
「天が知る! 地が知る! 乙女が知るッ!」
 それと同時に、メンは大仰に身振りを交えて語りだす。
「いたいけな少女……もとい! 少年をその欲望で蹂躙する、愚か者どもよ! たとえ太陽と夢、そして星と月が許したとて、この! 地上に立つ至上なる大! 天! 才! メン様が許さあーん!」
 謎のポージング。決まった。
 いや、実際のところはそのあまりにぶっ飛んだ登場に、メン以外の全員が思考停止に陥ったにすぎないのだが。
「この天才の目が黒いうちは、ここでの勝手は許さぬぞ!」
 ともあれ、その隙にメンは複数の詠唱を一気に紡ぎあげると、問答無用でそれをぶっ放す。
「天ッ罰! 覿面ーッ!!」
 釈明の時間は、一切用意されなかった。それを若気の至りと呼ぶべきか、正義感の暴走と呼ぶべきかは定かではない。ただ、とりあえずやりすぎなのは誰の目にも明らかであろう。
 ほどなくしてメンは、やってきた寮長に拿捕されることになる。

「……女の子に、なりたかったんだ……」
 懲罰部屋に閉じ込められたメンを訪ねたクルーティは、そうつぶやいた。
「はあ?」
 思わずメンの口からはそんな、聞き返す短い言葉がついて出ていた。
「……ボク……。ずっと……ずっと小さい時からね……女の子になりたかったの……」
「…………」
「化粧したり……スカートはいたり……かわいいぬいぐるみ抱いたり……髪の毛のばしたり……。ずっと、そうしたいって……思ってた……。でもできなかった……ボク、ボクは、男の子だから……」
「…………」
「どうして、ボクは男の子なんだろうって……ずっと考えるんだ……。ボク、友達いないから……気持ち悪い、女男って、いじめられてたから……だから……ずっと……一人でいるとき、ずっと、考えるの……。でも……そんなの、どうしようもないよね……」
「なるほど、把握した」
「……ごめんね、ボクが……ボクなんかのせいで。メンくんは、悪くないのに……」
「気にされるようなことをした記憶はないぞ。俺様の美学に反するものを除いたまでよ」
「……ううん、謝らせて……。ボクが全部悪いんだ……悪いことだって、わかってたのに、でも……あの人たちは、あの人たちだけは、ボクを女の子扱いしてくれた……だから……ボクがしてることもさせられてることも……しちゃいけないことなんだって……わかってたけど……でも……自分じゃ止められなかったの……。痛かった……苦しかった……気持ち悪かった……でも……」
 クルーティの青い瞳から、大粒の涙があふれ出す。ずっと抑えていた感情が止まらない、といった様子だ。膝の上でぎゅっと、血がにじむほど拳を握って、はじけそうな心を、胸を押しとどめながら、泣いているのだろう。
 その様子を見ながら、さすがのメンもどう反応すればいいのか決めあぐねていた。いつものような、常人の斜め上を行く言動で迎えていいものかどうか、さすがに悩む。
 クルーティが吐露し続ける、心と身体の性別の乖離という問題は、普通の人間には理解できるものではない。さしもの天才でも、いや、むしろ自分のことしか基本的に考えていない天才様だからこそ、他人の心の問題は理解が及ばない。だが、理解が及ばないからそれへの理解を諦めることは、メンの矜持が許さない。それこそ、彼の美学に反する行為である。
 だから、今はひたすらクルーティの吐露を受け止めることだけに専念することが、正しい解だろうと考えた。満足するまで、その言葉を聞き続ける。それがメンの出した結論だった。
「でも……かわいい、って……女の子みたい、って……そう……言われるのが、嬉しくて……。嘘、でも……嬉しくて……」
「…………」
「……ごめん、ね……。……でも……ありがとう……。……あのね、来てくれたとき……嬉しかった、よ……」
 泣きじゃくるクルーティの顔を見たとき、メンは電撃魔法を浴びたのと似たような感覚を覚えた。ぐしゃぐしゃで、とても見れたものではない顔だったが、それを見てしまったら、言葉を聞き続けるだけでは止めていられなかった。そしてメンは、そんな感覚を跳ね飛ばすように、クルーティに言い返す。
「礼を言われるようなことをした覚えはない!」
「……そう、かな……」
「まったく、そこまで泣くな! お前は、この天才メン様に唯一肩を並べられる存在なのだ! 言うなれば、お前は俺様のライバルだというのに!」
「ライバル……」
「そうだ! お前は月だ。朔の月、反転した青い月だ! お前は、自ら輝くだけの力がある! 今は雲に隠れているかもしれないが……いずれ誰もがお前の光をたたえるだろう。この俺様と同じくな! だから、それまでくじけるな。そんなことは、太陽と夢、そして星と月が許しても、この大天才が許さない!」
「…………」
「ついでに……どうせ聞かれるだろうから先に言っておくぞ」
「……?」
 咳払い一つ、謎のポーズ一つ。
 これで励ましになっているのだから、人間というものは不可思議な生命体である。この場合、どちらも。
「お前が男だろうが女だろうが、俺様にとってはどちらでもいい話だ。くだらん、実にくだらん! この天才の前において、性別など問題ではない! そんなものは、天才の前では無きに等しいのだ! ……お前はこの世に一人だけだ。お前はお前しかいない。お前は、お前という生物なのだ! だから、気にするな。俺様が気にしないと言っているのだから、気にする必要などない。微粒子レベルも存在しない!」
「……メン……」
「ほう、呼び捨てにされることになるとは。だがそれがいい! いやそれでいい!」
「う……うん……っ」
 目をこすりながらうなずくクルーティを見て、メンもうなずいた。不思議な満足感と達成感に満ちていた。
 だがそれは、空気の読めない寮長により、台無しとなった。
「こらメン、懲罰部屋でそう叫ぶんじゃない!」
「……解せぬ!」
 メンが懲罰部屋にいる時間が伸びたことは言うまでもない。解放後、クルーティが何度も頭を下げたことも。

 それから、数年が経った。レビック暦594年の世界の日が、少しずつ見えてきた頃。
 大空の只中、この世界で唯一空を飛ぶことを許された神の船、魔導艇。その客室で、なおも天高く輝く緑の真円を眺めながら、メンは静かに笑っていた。
 わずかでも魔導学校時代の自分との邂逅が許されるならば、彼は今、己が身を置いている環境をとくと語って聞かせたかった。それほど、今のメンが置かれている状況は、彼にとって愉快極まりないものだった。
 魔導艇を駆り、世界に仇なす邪神ワイズドシーユを倒す旅。運命に導かれた神の御子に伴って、闇を討つ。なんとも小気味いい、なんとも痛快な旅ではないか。
 日常の日々はあまりにも退屈で、あまりにも代わり映えがなく、あまりにも静かだった。
 天才は、退屈を嫌う。天才は、変化を求める。天才は、喧騒を好む。
「わーっはっはっはっはー!!」
 今という非日常が、楽しくて仕方がないメンだった。傍から見れば、明らかに向こう岸に行ってしまった人だ。
「楽しそうだね」
「無論だ! 俺様は今、神話になろうとしているのだからな!」
 不意に背後から飛んできた声にも動じず、メンは振り返る。そこには、クルーティがいた。常に何かに怯えてるように、伏し目がちだった顔はまっすぐメンに向けられていて、あの日からの精神的な成長は目を見張るものがある。
 そして何より違うのは、その耳。針葉樹の葉を思わせる長い耳は、彼が――否、彼女が、月の人間であることの証左だ。
 そして、その肉体。外見からは変化はわからないし、今や人妻となった彼女の身体に触れることは倫理的に問題があるのでできない。が、その肉体は、今は完全に女性のものとなっている。二年前――当時のことをメンは詳しく知らないが、邪神による呪いを解いたことで、元の姿、つまり女性に戻ったのだ。
「神話、か……。ワイズ倒さなくても、メンなら絶対語り継がれる存在になれると思うけどな」
「ふっ、あっまーい。甘すぎるぞクルーティ! 神話と歴史では格が違うのだよ!」
「あはは、そうかなー。そうなのかも」
 笑いながら、クルーティがメンの隣に並ぶ。星の形のイヤリングが、彼女の耳で静かにきらめいた。
「……ね、メン? ボクたちが初めて会った時のこと、覚えてる?」
「一切記憶にないな! 当時のお前は、ただの根暗だった!」
「耳が痛いなあ。……メンはいつも光り輝いてて、まぶしかったよ」
「お前もいつも輝いていただろう。逆に、だがな」
「そう言ってくれるのはメンだけだよ」
 手すりに身体を預け、クルーティがくすりと笑う。その隣で腕を組み、メンは窓の外から月を見た。
「……ね、メン?」
「なんだ?」
 クルーティの声にそちらを振り向けば、彼女と目が合った。真正面から、くすんだ紫の瞳に色を変えたメンの瞳をいつかのように見つめる瞳は、いつかのように美しい月の逆色――青だ。
「……ありがとう」
「はあ?」
 不意打ちのありがとうに、メンは顔をしかめる。一方クルーティは、待ってましたと言わんばかりに鈴のような声で笑った。
「礼を言われるようなことはしていない、でしょ? 変わんないなあ、ホント……嬉しい」
「お前は変わったな。いい意味で。ああ、実にいい意味で!」
「……ありがとう」
「またか! が、それでいいのだがな。あの頃のお前は、口を開けばごめんなさいだったからな!」
「あはは、それは言いっこなしだよ……。でも、さ」
「うむ」
「それだけ感謝してるんだよ。だって、メンはボクのヒーローだから」
「なにそれかっこいい。二度目だけど」
「そうだよ、かっこいいんだよ。……何度も言うよ」
 そう言うと、クルーティはもう一度、今度はにこりと満面の笑みを浮かべる。ガラス越しに届く、さやかな月明かりを受けたそれは、それこそ月のような柔らかな笑み。
 二人は、そうしてしばらく見つめ合っていた。
 そこにある感情は、郷愁に似ている。いつか帰るところ……いつかいた場所……そう感じさせる懐かしさを覚えるのは、ひとえに二人が同じ学び舎で、同じ魔法を学んだからだろう。
「……あ、ねえ、メン? まだ起きてる?」
「次に来るお前の提案次第だな!」
「……久々にさ、式問答しない?」
「ほう」
 クルーティの提案に、メンは不敵な笑みを浮かべる。組んでいた腕を解くと、謎のポーズを決める。
「よかろう! この大! 天! 才! メン様の、無尽蔵な発展を続ける才能を見せてやろうではないか!」
「うん、胸、借りるね。でも……ボクだって、負けないよ。これでも一応、月の子だもん」
「その意気やよし! 参るぞ!」
 その叫びと同時に、客室全体に巨大な魔法陣が浮かび上がる。ありとあらゆる要素が練りこまれ、極めて複雑怪奇なその式を、しかしクルーティは一目見るや、ディスペルする。
「見事だ! ひとまずはさすがと言っておこうか!?」
「それほどでも。じゃあ、今度はボクの番だよ」
 今度はクルーティの声と同時に、巨大な魔法陣が客室内を支配する。その中身は、形式や仕組みは違えど、超々難度を誇るものであることはメンが出したものと同じだ。
 そして、その式すら、先ほどと同じく簡単にディスペルされる。
「……あはは、準備運動にもならないって感じだね」
「ふっ、必然だ。さあ、続きだ! まさかこの程度で終わりとは言わんだろう!?」
「もちろん。どこからでもいいよ!」
「はーっはっはっはっはー! 行くぞマイベストライバル!」
 月明かりに照らされた神のゆりかご、魔導艇。その客室に満ちては消える魔法の光は、月が光を失い、太陽にその姿を変えるまで続いた――。



◆メン・ティルリラーン(Men Tyllryroune)
星の世界中北部、今は亡きインティス王国の港町、ウィグエに生まれる。
レビック歴五百七十三年、麒麟の輪二十日生まれ。
史料によれば、成立浅いインティス王国の上級官吏の出身とされる。
生まれた直後に七歩歩き、右手で天を、左手で地を示して「天上天下唯我独尊」と語ったとか、生誕直後に邪神復活を予言したとか、超常じみた逸話が多く残されているが、それらはいずれも後世のねつ造とされる。
しかし、そうした逸話が遺されるほど彼が優れた才能を持った人間であったことは疑いようがない。
現在でも世界一とされる魔法使いの養成機関、レイロール魔導学校へ主席入学を果たし、準首席卒業を果たした経歴が示す通り、特に魔法に関しては他の追随を許さない域にあったという。
また、魔法体系の整理、世界地図の作成や火薬の発明、インティス王国内の紛争調停など、その生涯であらゆる分野の功績を遺しており、「パーフェクト」「万能の大天才」といった通称が現代に伝わっている。
一か所にとどまっていなかったためか、入手できる史料に彼の没年は見つけられない。しかし、彼の名を冠した大森林のティルリラーン記念修道院創建がレビック歴六百五十年であることから、その前後だと思われる。
彼の死後およそ三十年後、インティス王国は滅亡。トゥール大陸は再び群雄が割拠する戦国時代に突入することになる。
なお、彼があらゆる分野で活躍した天才であることは疑う余地がないが、その性格についてはかなり人の好き嫌いを分けるものだったようで、奇行や意味不明な発言が多く、その考えを理解することができた人間はごく少数だったようだ。

筆、コルファ・クレイアス

確かにメンさんはヘンな人なんだよね。
何言ってるかわかんないときはよくあったし、なんていうか、まるで別の世界の言葉言ってるみたいなトコはあったな。
でもね、そんなトコがかすむくらい、すごい人だったよ。
本当に……なんでもできる人だったから……。

加筆、クレア・リルリラ・アストーン





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