王妃クレフェールの懐妊を最初に知ることになるのは、当人と担当医を除けば、侍女たちである。そこから多少の伝言ゲームを経て、ようやく夫であるハルディスア――ハルの元へ到着する。
 こうした流れは、何も懐妊に限ったことではない。王妃に関する知らせは、すべて侍女を介して伝えられる。その間、その知らせに触れる人数は決して一人では済まない。
 王としては、それは仕方ないものだと割り切るしかない。約六千三百年の歴史を持つこのクレセント王家には、そうしたしきたりが無数にあるのだから。これでも、ここ五十年ほどでかなり簡略したのである。
 しかし、純粋に父となる身としては一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。何せ、自分が喜ぶよりも先に、臣下が嬉しそうに――それはもう、嬉しそうにしているのだから。
 だが、フルムーン十八世として戴冠して約十五年。生まれてからずっとこの王室に居続けた身には、臣下たちの「嬉しさ」が、純粋な忠誠心から来ているわけではないということは、理解できた。それくらいには、王室に関わる不毛な世界に身を浸してきたという自負が、彼にはあった。
 だが、臣下の懸念も理解できた。それはやはり、彼がひとえに王、フルムーン十八世だからだ。国家の世継ぎの話は、王家に限った話ではないのだ。
 王妃懐妊の知らせを聞いたハルは、その足で謁見の間を出ると、まっすぐに王城の東部にそびえたつ塔の最上階に向かった。
「……グロウよ」
「あ?」
 そして、そこの一室で木刀を構えて向かい合っていた少年たち――そのうち、より質のいい服に身を包んだ少年、グロウに声をかける。その機嫌を損ねないよう、務めて優しく。
 だが声をかけられたグロウは、それでも機嫌を悪くしたのだろう。眉をひそめてハルを……実の父親を睨みつけた。もう一人の青髪の少年は一歩下がって頭を垂れたというのに、実にふてぶてしい。王と王子という関係を考えても、それはいかにもな反抗であった。
 その瞳は、赤い。夜空で輝く青い真円を反転させたそれと等しい、真紅の逆星色。
 それがつかさどる剣に貫かれたような気分を味わいながら、ハルは言葉をなんとかつなげる。王として、そして父としても、息子に怯えるわけにはいかない。
「今、たった今入った知らせでな」
「知らせ……? お前に来た話を、なんで俺が聞かなきゃなんねーんだよ、アホか」
 なんとも横柄に会話をぶった切ると、グロウはハルに木刀を投げつけた。それはまっすぐハルに飛んでくる。弱冠九歳でありながら、実に正確で、遠慮のないいい攻撃だった。
 人間としての全盛期ともいえる肉体にあるハルはそれを軽くつかんで見せたが、これから先彼は老いる。逆にグロウは青年期を迎える。そう遠くない未来に、回避できないほどの一撃を向けてくるであろうことは、想像に難くなかった。
 受け止めながら、ハルはつくづく思う。この息子は、月ではなく星に愛されているのだ、と。
「ぐ、グロウ!? お前、陛下になんてことを!」
 そんなグロウの所業に、真っ先に声を上げたのはハルではなく、グロウの後ろに畏まっていた少年だった。
 名はリック。グロウとは乳兄弟の関係にある。万事につけて敏く、単にグロウの乳兄弟というだけでなく、将来国を担うであろう人材になるとハルは見ている。王子の振る舞いにこうして箴言を口にできるものの存在は、頼もしいものだ。
「知るかよ」
「知るかで済む話じゃないだろ! 陛下にもしものことがあったらどうするんだ!」
「どうもしねーよ」
「するから言ってるんじゃないか! 大体、陛下は……お前のお父上じゃないか!」
「……父親、ね……」
 リックの言葉に、グロウはうっそりとした目でハルを見た。どす黒い色をしていた。この世のすべてに絶望したような目。とても九歳の子供の目ではない。
 だが、その原因がわかるからこそ、ハルにはその視線がつらかった。
 わかっているのだ。そして、自分でも自信が持てない。本当に、グロウ・ナルーンと名付けたこの少年が、自分と、妻クレフェールとの間に生まれた子供なのか、と。
 グロウの肉体は、他とは違う。耳はとがっていない。丸い。おとぎ話に聞く、星の民のように。
 そしてまた、指は五本。四本ではない。これも、おとぎ話に聞く、星の民のように。
 グロウはいつも、その暗い瞳で無言のうちに問いかけてくる。自分は本当に、お前の子供なのか、と。
 決して口には出さない。それによって、もしかしたら今よりも深い絶望の底に落とされるかもしれないと、無意識のうちに理解しているのだろう。
 父として、その問いには応えたい。全力でもって、お前は余の息子だと、応えたかった。しかしできない。できなかった。これでせめて、グロウに魔法の才覚があれば、そんなことはなかっただろうに……。
「……よい、リック。それよりも、一刻も早く聞かせたいことなのだ」
 父親としての責務も果たせぬ、自らのふがいなさを呑み込みながら、ハルは首を振る。
「…………。わかり、ました」
 まだ何か言いたげだったが、王の言葉にリックが静かに頭を下げる。そして、先ほどと同じく一歩下がったところで畏まった。
「……んだよ。そんなに言いてーことかよ」
「そうだ」
「……ふーん。じゃさっさと言え。んで、さっさと出てけ」
「ああ、そうするよ……」
 うなずきながら、ハルは深呼吸をする。どれだけ嫌われてもいい。どれだけ一方的な愛でも構わない。それでも、少しでも息子と同じ空間にいたかった。
「……先ほど、侍女が知らせて参った。クリフが……子を身ごもったそうだ」
「……!?」
 ハルの言葉に、グロウは明らかに姿勢と顔色を変えた。顔色を変えたのはリックも同じだが、グロウのそれはもっと度の強い。
「……母上、が」
「うむ。男か女か……それはまだわからぬが。ともあれ、お前は兄となる」
「行くぞリック!」
「え、あっ!? おい!?」
 ハルの言葉を途中で遮って、グロウは部屋を飛び出した。おそらくは、全力だろう。
 ハルは、残されてこちらの様子をうかがってくるリックに、行けと促して肩をすくめた。
「申し訳ありません! ……おーい、待て、待てよグロウ!」
 一人取り残されたハルは、握ったままだった木刀をそっと近くの机に置いた。そして、深いため息を一つ。
「……またダメか」
 こうあっさりと振られるようだと、悔しいを通り越していっそすがすがしかった。当然かな、という自覚もあった。
 ハルは王だ。月の歴史のほぼすべてに名を残す唯一の国家、クレセントの王だ。その顔しか、人前には出せない。そのように育てられた。息子の前ですらそうしてしまうほどに、彼の心理に深く強く根差している。
 そんな自分に、父の資格などないのかもしれないと、彼は小さくかぶりを振った。
 木刀に刻まれた名前を、そっとなでる。ハルディスア・ムラフィト。彼の名だ。彼が、ちょうどグロウと同じくらいの時、父王に作ってもらった木刀。
 この木刀だけが、今のハルにかすかな喜びと、なぐさめをくれた。この木刀だけが、妻以外の家族に恵まれなかった孤独な父親と、その愛を見ることのできない少年の、たった一つの絆だった……。

 日増しに、王妃クレフェールのお腹は大きくなる。それに比例して、ハルの期待も大きくなる。――不安も。
 もし、と彼は考えてしまう。どうしても考えてしまう。
 もし、今度生まれる子も、グロウと同じように、月の民ではなかったら。もし、グロウと同じように、月に愛されていなかったら。
 今度こそ、臣下の不満は爆発するだろう。魔法使いの名門として、また月の人間の頂に立つものとして、クレセント王家の人間が、よもや魔法が使えないなど、あってはならないのだ。まして、グロウの素行はよろしくない。というより、悪い。臣下の評価は最悪だ。
 魔法ができないだけでなく、昼間はいつも貧民街で過ごしている。城下町では浮浪児たちの頭目を気取り、繁華街での泥棒にも手を染めている。城に戻らず、そこらの路地裏で一夜を明かすことも珍しくない。
 今度生まれる子が男の子であろうと女の子であろうと、万が一そんなグロウと同じようなこととなれば、長きにわたって存続してきた王家の、ひいては王国そのものの存亡に関わる反乱が起きてもおかしくはない。それほど、今の王家を巡る継承問題はみなの頭を悩ませていた。
「あなた、どうされたの?」
「ん? ……ああ……いや、……うん」
 クレフェールに問いかけられ、ハルは弱弱しく首を振った。正直に答えていいものかどうかもわからなかったし、また答えたとしても、夢幻の民ならともかく、ただの人間でしかない二人にはどうしようもないことだから。
 後宮の最奥、王妃が住まう間。そこにしつらえた大きなバルコニーから外を、城下町を見下ろして、ハルはため息をついた。
「……またグロウのことを考えておられるのね」
「……グロウのことだけではないよ、クリフ。お腹の子のことも……」
 隣に寄り添ったクレフェールの肩をそっと抱いて、ハルは苦笑する。それから、そっと彼女の膨らんだお腹をなでる。まだ、中の子が動く気配はなさそうだった。
「お聞かせになって、あなた。あなたの苦しみ、悩みを分けてくださいな。わたくしたちは、夫婦でしょう?」
「……いつも苦労をかけるね」
「いいのよ。嫁いだ時から、ずっと覚悟していたわ」
 くす、と笑って、クレフェールは外に顔を向けた。ハルもそれにならう。
 太陽の暖かい光が降り注ぐクレセントの城下町。そのあちこちから、かまどの煙がいくつもたなびいている。それに乗って、食欲を刺激する暖かい匂いがこの城にまで届く。そんな真昼の空の彼方で、トンビがゆらゆらと飛んでいた。
「……継承問題のことだ」
 ハルが重い口を開く。
「生まれる子が男だろうと女だろうと、その白紋が星の形をしていることはないだろう」
「……それなら、いずれあの子を廃嫡しなければなりませんね」
「そうだ。……それはまあ、よいとしよう。本人も……王になることは望んではいまい。だが……あの子を担ぐ連中がまったくいないわけではない……」
「……下層階級の方々ですね? いろいろと噂はここにも届きます」
「ああ。口惜しいことだが、まだまだこの国には生まれによる差別や出世の可否が決まってしまう部分も多い。そうした虐げられる立場にいるものたちが、王家や、上流階級から虐げられた王族……グロウを担ぎ上げ、反乱を起こ可能性は否定できない……余が至らぬばかりに」
 ハルがそう言うのと同時に、眼下の城下町で男の怒声が響き渡った。
「待てこのくそ餓鬼どもー! いつもいつも店のもん盗みやがって!」
「やっべ、ずらかるぞユウ!」
「あ、おい、待ってくれよグロウ!」
 続く子供たちに声を聞いて、ハルとクレフェールはそろって苦笑する。
「……ああいう感じに、ですか?」
「うむ……あれをもっと、かな……。なぜか、ああした人々からは人気があるらしい……かわいい子には旅をさせろと言うが、やれやれ……」
「後で叱っておきますよ」
「……頼む。余の言葉はまるで聞かぬからな……」
「そういえば、あなた」
「うん?」
「お腹の子の名前は、考えていただけましたか?」
「ああ」
 クレフェールの問いかけに、ハルは力強く頷く。
「ティライラ。ティライラ・ネレイスにしようと思う」
「まあ、かわいらしい。楽しいお話が聞けるといいですね」
「……君や余だけではない。グロウにとっても……よき話し相手になってくれればと……そう、思ってね」
「……あなたは本当に優しいのね。そんなところが、わたくしは一番大好きですよ」
「ありがとう、クリフ」
 そっと、二人は口づけを交わした。そろそろ、仕事に戻らなければならない……。

 それからしばらくの時が巡った。表面的には何も変わらない毎日が続いていた。唯一といえば、子をなしたクレフェールのお腹が大きくなっていくこと、そしてクレフェール自身がどんどんやつれていくことくらいだ。
 グロウを懐妊した時、彼女はここまでやつれることはなかった。今回も、別に食欲がないわけでもないのだが、日に日に彼女は衰弱していく。
 魔法使いとして相当量の腕前を持つハルは、その原因がなんとなくわかっていた。だが、それを止めるわけにもいかない。
 原因はおそらく、お腹の子がクレフェールの生命力を、魔力を、精神力を、吸い続けていることだ。その勢いはすさまじく、この国一番の魔法使いであるウェルリをして、お腹の子はもしかしたら月の子なのではないかと言わしめるほどの魔力を既に蓄えている。
 母親の灯を少しずつ奪い、灯りつつある炎。愛する妻か、それともこれから生まれてくる、二人の愛の結晶か。どちらかを守れば、おそらくどちらかの火は消える。ハルには、どちらを守ればいいのかわからなかった。
 そんな葛藤に怯えていたある日、彼はグロウに呼び出された。それまでろくに会話をしたこともなかった。恨まれているとすら思っていた。だから、彼はどういった理由でグロウが自分に声をかけてきたのか、まったくわからなかった。
「入るぞ」
 扉を叩き、断りを入れる。そろそろ難しい年頃だ。こうした配慮はするに越したことはなかろうと思いながら。
 やや間をおいて、中から入れよ、とぶっきらぼうな声が飛んでくる。ハルは、もう一度入るぞ、と告げながら戸を開けた。
「…………」
 自室の中央で、グロウは入り口に背を向けて腕を組んでいた。何を考えているのか、その背中からはうかがい知れない。
 ともあえれハルは、グロウが話す気になるまで待つことにした。
「……なあ」
 待つこと数分。グロウが、ようやく口を開いた。
「なあ。母上は、大丈夫かな……。最近、ずいぶんやつれちまった……」
「グロウ……」
 その言葉に、ハルは内心安堵した。この子は、自分を忌避している。だが、母のことは認めている。身重の母を心配する、年頃の少年……ようやくハルは、息子の素顔を見た気がした。
 だが、自分にはその心配を払拭してやるすべはない。むしろ、逆だった。その心配を、不安を、最も抱いているのは、自分だという自負があった。それほどまでに、彼は妻を……クレフェールを愛していた。
「……わからない」
「わからないってどういうことだよ!? お前は親父になるんだろ!? 魔法使いなんだろ!? 母上の身体のことくらい、わかれよ!」
 気づけば、ハルはグロウに胸ぐらをつかまれていた。年齢にしては大柄だが、それでもグロウはまだ九歳の子供だ。精一杯伸ばした腕が、逆に健気に見える。
「……わからない。正直に言って、わからない」
「ああ!? お前寝てーのか!? 寝言言ってんじゃねーぞ!?」
「わからんのだ! まるで、まるでわからんのだ!」
 胸ぐらをつかまれたままで、ハルは声を荒らげた。言ってから、これだけ声を大にしたのはいつぶりだろうかと、少し見当違いのことを考えてしまう。
「……単純に健康についてなら、こう言える……悪い。もしかしたら、最悪クリフも赤子も死ぬだろう……」
「な……」
「赤子が、クリフの力のすべてを奪っている。吸い取っている……強大な魔力の持ち主が、あの腹の中にいる。ウェルリの見立てでは、伝説の月の子と言わなければ納得できぬほどの……」
「…………」
「余も魔法使いだ。だから、力が吸われているのがわかる……日に日にクリフは衰弱していく。だが……だからといって、堕胎せよと、そんなこと言えるはずがない。あれほど、あれほど楽しみにしているのだ……お前に、家族を増やしてやるんだと、そう言って笑うクリフに、オレはそんなこと、口が裂けても言えやしない!」
「…………」
「なあグロウ、オレはもうわからないんだ……赤子が生まれる日が来るのが、恐ろしい……! 赤子は、ティルは、クリフの命を奪って命を灯そうとしている! そんなティルを、オレは憎んでしまうかもしれない……! 王にも、父にもなれそうにないんだ、オレは!」
 言いながら、ハルは何を言っているんだと自分に叫んでもいた。頭の中の、妙に冷静な部分が、そんなことをして何になるんだと問いかけている。相手は九歳の子供だ。自分を敵視している息子だ。そんな相手にこんなことを言って、何になるのだと。
 だが、言わずにはいられなかった。王の顔も父の顔も捨てて、ただ愛に生きる、一人の男にどうしても戻りたかった。その衝動に、どうしても勝てなかった。
 だが。
「親父……お前……」
 グロウの、恐らくはうっかり漏らしてしまったであろうその言葉に、ハルは我に返った。そして彼は、すぐ目の前でハルの胸ぐらをつかんだまま、涙をかみしめている息子の顔を凝視する。
「……バカやろうかお前は……! なんでお前がそれを言っちゃうんだよ……それは、それは俺に言わせろよ……!」
「グロウ……」
「俺だって嫌だよ……! 母上が死ぬなんて、そんなの嫌だ……! 俺に味方してくれたのは、守ってくれたのは、母上だけだ……!」
「…………」
「そんな母上を! ちゃんと生まれるかもわかんない、そんなのに殺されてたまるかよ! 絶対嫌だよ! だ……だから……! お前に! お前に聞こうって思ったのに……! 母上は、やっぱりお前を愛してるから……お前も……! なのに……」
 グロウの手から、力が抜けた。そのまま、全身の力も抜けたらしい。彼は、その場に座り込んだ。
「なんでだよ……なんでお前もわかんねえんだよ……。俺もわかんねーよ……恨みてーよ……憎みてーよ……。……なんだよ……なんでお前と一緒なんだよ……」
「一緒……」
 その言葉に、目からうろこが落ちた気がした。
 今こうして向かい合っている自分と、グロウの、なんとよく似たことか。同じ人を想い、同じ人を憎み、同じ過ちを犯そうとしている。
 なんということはない。どれだけ見た目が違おうと、自分たちは大げさすぎるほどに親子なのだと、妙に腑に落ちた気がした。
「……グロウ」
 ハルは、そんな息子の手を取った。そしてその手のひらをぐっと握らせて、言う。
「グロウ、オレを殴れ」
「……は?」
「思いっきりオレを殴れ。道を外しそうになったこのバカ親父を、思いっきり殴れ」
「…………」
 しばらく、グロウはハルの顔を見つめていた。
「……マジで手加減しねーからな」
 立ち上がって指の骨を鳴らしながら、グロウが言う。らんらんと輝くその瞳は、まさに朔の日の星だった。
「構わない。全力で来い、我が息子よ!」
「……っ。ふん。……おらあああぁぁぁあー!!」
 雄叫びと共に、グロウが左拳を突き出した。狙いは腹。来たるべき痛みに備え、ハルは腹筋に力を込める。
 そして、予想通りの衝撃が彼の全身を襲った。腹から全身に拡散する痛みは、一瞬ではなくじわじわと広がっていく。真綿で首を絞めるような、弱弱しくも確実な痛みが体内で反復するのがよくわかる。宣言通り、実に遠慮のない一撃だった。星に愛された少年王子、グロウのボディーブローは、非常に重かった。
「……っ、はっ、が、ぐ、……ううう……」
「……大丈夫かよ?」
 思わずせき込みよろめいたハルを、グロウが支えた。
「あ、ああ、大丈夫だ。……いい、パンチだったよ。効いた」
「…………」
 どうやら、グロウは照れているらしい。ハルの身体を支えたまま、あさっての方向を向いている。
「……グロウ。これからもオレが道を外しそうになった時は、こうやって殴って止めてくれ。……オレだけじゃない。この国がおかしなことになったら、その時は……お前がその拳で止めてくれ」
「…………」
「頼む」
「……ああ」
 少しだけ考えてから頷いたグロウは、それからおもむろに懐に手を入れた。
「……親父」
「ん?」
「これ……返すよ」
 そう言って差し出されたもの。それは、一切の穢れもない、金色に輝くペンダント。月を模した翠緑の宝石が、星を模した赤い宝石を包んでいる。
 オルトクレセンティア。次の王であることを示すもの。正統なる後継者であることを示す、クレセントの至宝。
「……ティルはさ。そんだけ魔法の力吸ってるなら、俺よりはきっと魔法もできるだろ。ならもう……これ、いらない。ティルにやるよ」
「……そうか。わかった、預かろう」
 オルトクレセンティアを受け取ったハルが見たグロウの顔は、穏やかだった。憑き物が取れたように、重い枷が外れたように。
 赤々と燃え盛る瞳が、今は静かに、しかし力強く瞬いている。それはまさに、夜空に輝く朔の星。
 この日、長年保留されていたグロウの名賜の儀がひっそりと執り行われた。その御名、流星の赤太子。落ち珠(※流れ星のこと)のごとき一瞬の煌めきを残して、彼は初めて、歴史の一幕を横切った。

 ――後クレセント暦二千五百七十二年、銀狼の輪二十一日未明。王妃クレフェール、出産。



◆ハルディスア・ムラフィト・クレセント(Halddisa Mulaphit Crescent)
月の世界北中部、クレセント王国の王都クレセントに生まれる。
ディオクレティアン十六世の三男。後クレセント暦二千五百三十年生まれ。レンデフェルン侯爵の娘、クレフェール・レンディオルネを正室とする。
当時すでに六千三百年、現在でおよそ六千九百年続くクレセント王国第百十九代国王。歴史的にはフルムーン十八世と呼ばれる。諡号は慈愛王。
最も王家の紋章に近しい白紋(※王族に必ずある、紋章の形をした白い痣のこと)を持つものが、嫡子として国を継ぐというしきたりに従い、生誕の日に立太子。
以降、弟や妹は誕生するも、いずれも彼以上の白紋を持たなかったため、後クレセント暦二千五百五十七年、死を控えた父王より禅譲を受け二十七歳で即位。フルムーン十八世となる。
在位の間、諸処税率の軽減や失業対策となる開拓地の造成、国営診療所の設置など、福祉政策に重点的に取り組んだ。邪神ワイズドシーユにより世界が混乱した際は、数年の納税を免除しており、民からの信頼厚い賢君と伝えられる。
その善政をたたえ、彼の統治時代は「博愛の徳治」と呼ばれる。「親善の賢治」を行った父王ディオクレティアン十六世、「悠久の英治」を行った子王クレセント三十六世の二人に彼を挟んだ三代は、まとめて俗に「黄金時代」と呼ばれる。
しかし、対外的には新大陸への民間進出を規制するなどやや消極的であった。そのため、魔族が台頭し国を建設し、一世界一王国を保ってきた伝統を中絶せしめたのは、彼の失策によるものだとする歴史家も多い。シェラムルやアルトシュタット、フェイルフェニスが魔物の侵攻を受け、防ぎきれなかったこともマイナス評価となっている。
また、側室を持たなかったため、成婚から嫡男ティライラ・ネレイス(のちのクレセント三十六世)の誕生までが長かったことと、子に恵まれなかったこともあって、王位継承問題を常に抱えていた。幕臣の、嫡子ティライラを推す一派と、その従弟を推す一派により政争が頻発し、重要案件の決定には「躍る王議」と揶揄されるほどの長考を要したことも指摘されている。
晩年は下半身に障害をかかえ、足先が壊死するなど歩くことも困難であった。視力の低下も顕著だったようで、直接の死因は糖尿病と考えられる。
そのため、後クレセント暦二千五百九十六年の初頭、王位をティライラ・ネレイスに譲り退位。息子の戴冠を見守って数日後に意識を失い、半年後に逝去。享年六十五歳。その死は、まるで自分の役目はすべて終わったと言いたげな、満足そうな寝顔だったという。
温厚な人柄で、特に家族には優しい性格だったと思われる描写が、嫡男ティライラ・ネレイスの日記に何度も登場する。この他、ラルレック=ルナティリア氏の祖、セフィスの随想録をはじめ、多くの史料で思慮深く慎重な王だったことがうかがえる記述がある。

筆、コルファ・クレイアス





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