ぺたし。
 東からの来訪者は錫杖を突きながら、しかし確かな足取りで王都レスティナスの入り口を踏んだ。
「ふううぅー……やっと着きましたねえ……」
 その女、フィレイ・アステリスクは、城下町の奥に見えるもう一つの城壁、そのさらに奥に聳え立つ城の尖塔を見上げて、ため息交じりに呟いた。その額には、うっすらと汗が浮かんでいる。
「長い道のりでした……本当、長い道のりでした。でも無事に着けました! ありがとう神様、愛してます!」
 ああ、と嘆息をもらしながら、フィレイは天を仰いで十字を切った。
 彼女の衣服は教会関係者がまとうローブだったが、彼女自身が長い道のりと言った通り相当の旅路だったのだろう、神聖なるその服はあちこちが泥で汚れ、またところどころは魔物か何かに切り裂かれたかのような痕跡すらあった。十字を切る様はいささか大げさではあったが、それでも神に感謝を捧げたくなる心持なのだろう。
「……さてとー。ひとまず今晩泊まるところを探さないといけませんね。宿屋ー、宿屋……」
 言いながらぽん、と手を叩くと、彼女はそこから街を見渡す。整然と区画分けされた都の街並みは、さすがと言うべきか、非常に広い。少なくとも、彼女のいる場所から宿屋らしき看板を掲げる建物は見当たらなかった。
「……よし、ありません! どうしましょう、私今晩も野宿でしょうか? 石畳の上で眠りにつけと……おお神よ、これも試練なのですか!」
 そして、大空を仰ぐ。当然、返事があるはずもなく、秋の匂いが漂い始めたぬるい風が、ゆるりとフィレイの長い金髪を撫でた。
「……あのー」
「はい?」
 そんな姿を見かねたのか、城門に詰めていた衛兵が頭をかきながら声をかけてきた。フィレイは、十字を切ったままの状態で顔だけそちらに向ける。
「あそこ。あそこに雑貨屋の看板が見えるでしょう。あの店を通り越してすぐにある道を右。そうしたら宿屋がありますよ。ここから一番近いのはそこです」
 く、とそちらに指を向けて衛兵が言う。その言葉に、フィレイは顔を輝かせると。
「ありがとうございますー! 神様はここにおわしました!」
「わあ!?」
 ためらいもなくその衛兵に熱い抱擁を見舞い、ぱたぱたと駆け出した。途中振り返って、彼に手を振りながら。
 後に残った衛兵は、ぽかんとした顔でフィレイを見送るだけ。
「ええとー、雑貨屋さんを通り越してすぐの道を右にー……」
 言われた通りの角を曲がる。先ほどまでと同じような、整然とした街並みがそこには広がっていた。だが見た目は似ていても場所は違う。その先には、確かに衛兵が言った通り宿屋が静かにたたずんでいた。その店先に立つのぼりを見て、フィレイはにっこりと笑う。
「あれですね! 今日は久々にベッドで寝れます!」
 わーい、と子供のように万歳をして、彼女はその旅籠へ足を向けた。
「えっと、お値段はー……一泊八十。うん、足ります足ります。それでは早速入りましょー」
「あ、あんた! そこのあんた!」
「はいな?」
 嬉々として宿屋の戸をくぐろうとしていたフィレイは、突然路地から出てきた若者に声をかけられて、思わずそちらに目を向けた。
 若者は、炎のような赤い髪をしていた。人目を避けているのか、口元はバンダナで覆われている。
「突然ですまんが、かくまってくれ! 追われてるんだ!」
「な、なんですってー。わかりました、私はあなたを見ていません、大丈夫です!」
 ぐ、と拳を握るフィレイの姿を、その若者はやや不安げな目で見つめたが、切羽詰っていたのだろう、それも一瞬でそそくさと宿屋の中に入っていった。
 そしてその直後、数人の騎士と思われる男が先ほど若者が出てきた路地から同じく走り出てきた。彼らは宿屋の前で佇むフィレイを見つけると、荒い息をつきながら声をかけた。
「そこな司祭殿、申し訳ないがこの路地から出てきた方はどちらに行かれただろうか? 赤髪の殿方なのだが」
 それを聞いて、フィレイは待ってましたとばかりに微笑む。
「そのお方でしたら、大通りの方に行かれましたよう」
「かたじけない! よし、追うぞ!」
「はっ!」
 その騎士たちはフィレイの言葉を疑うこともなく、彼女が示した方向へと大慌てで走っていった。そんな彼らの後姿を笑顔で見送って、ぽつりとこぼす。
「……鎧、邪魔だと思うんですけどねえ」
「……あれは制服みたいなもんだから」
 宿屋から様子をうかがっていたのだろう、彼らに追われていた若者は戸口から顔だけを出して、フィレイの疑問に答えた。
「あは、ご無事のようで」
「おかげさまで。あんがとさんよ、助かったぜ」
 ふぃーとため息一つ、その若者はやれやれと首を振った。そのままがたりと戸を開けて、間口に背を預ける。
「困ってる人を助けるのは当然のことですからー」
 いえいえと手をひらひらさせながら、フィレイは応じる。
「いやホント助かったよ。あいつらしつこくってなー」
「……あれ? でもお城の人たちに追われてたってことは……」
「あ」
 はははと笑う若者にはて、と小首をかしげるフィレイ。その様子に、一転して若者は顔をゆがめた。
「……あのー」
「……はい」
「ひょっとして、悪い方ですかー?」
 上目遣いに若者の顔を覗き込んで、フィレイは言う。それに対して、若者はいやいや、と首を振る。
「いや違う、罪になるようなことはしてねーぞ。いやホントに!」
「……じゃあなんで追われてたですか?」
 むー、と眉をひそめてフィレイは詰め寄る。若者はあとずさろうとして、自分が壁にごく近いところにいることを思い出して小さく声をあげる。
「……くそー、なんだよ、抜けたような顔してるからごまかせると思ったのによ」
「むー、私そんなおばかじゃありません」
 ぷう、と頬を膨らませる彼女の頬をぺしゃんとつぶして、若者はもう片方の手でがしがしと頭をかいた。
「あんた、この近辺の住人じゃないだろ?」
「そーですが」
「……じゃあま、別にいいか……」
 いぶかしむフィレイをよそに、若者は周囲を見渡す。少なくとも、今人通りはなかった。それを確認して、若者は口元を覆い隠していた布を取り払う。
 そこから現れたのは、整った口元である。だが、それ以上に人目をひくのは、首から下げられた首飾りだ。双頭の竜の紋章が刻まれた金の台座に青い宝石が飾られたそれは、太陽の日差しを受けて輝いていた。
「……俺はフィリップ・レス・ティオ・アルセルン。一応、ここの王をやってるもんだ」
 若者はその首飾りを示しながら、言った。
「へええー、王様だったんですか」
「……あれ?」
「なにかー?」
「いやさ」
 どこか残念そうに、そしてばつが悪そうにフィリップと名乗った若者はほおをかく。
「普通、もっと驚かねえ?」
「それもそうですね」
 彼の言葉に、おお、と手を叩くとフィレイは改めて向き直り。
「な、なんですってー」
 棒読みで言い放った。あまりといえばあまりのリアクションに、フィリップは頭を抱える。
「よし、わかった。俺が悪かった。ちょっとヘンな期待してた俺が悪かった」
「何か期待してましたかー?」
「いや、いいんだ。もういいんだ。忘れてくれ……」
 あー、と意味のないうめきを上げてフィリップは再度口元にバンダナを巻きつけた。
「ああそうか、自己紹介! 自己紹介ですね? うん、挨拶は基本ですもの。これはうっかりしてました」
「…………」
 自己完結しているフィレイに、ちげーよと言いたげな目を向けるフィリップ。だが、彼自身フィレイのことをずっとあんたと呼ぶのは抵抗があったのだろう、フィレイの自己紹介を止めようとはしなかった。
「私はフィレイ・アステリスクといいますー。旅をしながら具合の悪い人を治したりとかしてます」
「なるほど、教皇領出身なのか。ならその様で司祭の服着てるのも納得か……」
 ほむ、と頷くフィリップ。対してフィレイは、えっへんとない胸を張る。
 教会は孤児救済に力を入れている。親の力や後ろ盾を期待できない孤児にとって、教皇領で成長できることは教会という有力なバックボーンを得ることに等しい。ファミリーネームのアステリスクは、その証明でもある。
「しかしまたなんで旅なんぞ。あそこの出なら、このご時世そんなきついことしなくっても……げっ!」
「?」
 突然フィリップが表情を硬くして言葉を切った。彼の見ている方向にフィレイが顔を向けると、そこには先ほどとはまた違う顔ぶれの騎士たちが。
「陛下がいたぞー! 捕まえろー!」
「おおー!」
 王に忠誠を誓っているはずの騎士が言うせりふではないような気もするが、ともあれ彼らは血相を変えてフィリップたちに殺到する。
「うっかり話し込んじまったのは俺の失敗だな、ちくしょう……」
「逃げないんですかー?」
「今日はもういいよ、疲れた。色々と」
 ふう、と遠い目をしながらフィリップ。どういう意味で疲れたのかがわからないのは、恐らくフィレイだけだろう。
 直後、彼はやってきた騎士たちにやれやれと肩をすくめて見せると、両手をあげた。
「陛下! 今日と言う今日は観念していただきますぞ!」
「また勝手に城を抜け出して! 大臣殿がお冠です!」
「へいへい、毎度毎度お勤めご苦労さんですね」
 悪びれる様子もなく言い放つフィリップを、騎士たちは逃げられないよう四方を囲むと、そのまま有無を言わさず歩き出す。
 それをどうこうできるはずもないので、フィレイはただ見送るだけ。
「あ、ちょっと待った」
「なんですか。言い訳は聞きませんぞ」
「そこの司祭さんも城にお連れしてくれ」
 連行されながら、フィリップがフィレイを指差す。ところが、当のフィレイは周囲をきょろきょろするだけ。
「……いや、今のは誰がどう見てもお前を指してたろ……」
「そうかもしれませんー」
「……陛下……」
 不意に騎士の一人が口を挟んだ。
「本当にこの方を?」
 呆れているのはフィリップだけではなかった。
「おう。きっとこういう人間じゃないとダメだと思うんだ」
「はあ……では、ご同行願えますか」
「いいですけど……私今日は早めに寝たいんですけど」
「城で寝りゃいいだろ!」
 どこまでもフィレイだけがかみ合わない。

 アルセルン王国は、千年、七十九代続く、世界のどの国よりも由緒正しい国である。その都たるレスティナスもまた、長い歴史を刻んできた。二重の城壁に囲まれた街はさらに三方を山に守られた要塞でもあり、守るという点においてレスティナスほど堅固な場所は他に類を見ない。レスティナスの奥、王宮はさらに高台となっており、攻め上ってきた相手を迎え撃つには格好の場所だ。
 が、現在は隣国との戦争も国内の反乱もなく、魔物たちの活動も、東の地方に比べてレスティナスのある西地方はそれほど激しくないため、もっぱら展望台として以外にこの立地条件を生かす方法は今のところない。
 そんな王宮の客間に通されたフィレイは、そこからの眺めに夢中になっていた。
「綺麗な景色ですねえー。夕方の景色もきっと綺麗なんでしょうねえ……」
 ほう、とその口からため息が漏れる。客間からの景色は、レスティナスの城下町が一望できた。まだ日が沈むには間がある時間帯、人々が行きかう様子からは、この国の繁栄ぶりが見て取れる。
「気に入っていただけたかな」
 窓から外を眺めるフィレイの後ろ、椅子に座ってテーブルに頬杖をついたフィリップが、彼女に尋ねる。その服装は先ほどとは異なり、王族に相応しい華美なものだ。
「はい、それはもうー」
「それはよかった」
 フィレイがえへら、と笑顔を向けきたので、フィリップは苦笑しながら肩をすくめた。
「……で。本題に入っていいかな」
「はいー」
 切り出すフィリップだが、以前フィレイは窓の外ばかりを眺めている。その後姿を半目で見つめるフィリップは、がしがしと頭をかく。が、開き直ることにしたのだろう、やがて口を開いた。
「あんたを招き入れたのは他でもない。相談したいことがあるんだ」
「相談、ですかー?」
 その言葉に、フィレイは反応する。今まで景色を満喫することに夢中だったが、くるりとフィリップに向き直った。
「おう。……いや、その前に一つ聞きたい」
「はい。私に答えられることならー」
 即答するフィレイ。対して、フィリップは一度頷き、真剣な面持ちで彼女に言葉を投げかけた。
「身分ってもんを、どう思う?」
「身分、ですか……」
 その問いに、フィレイは一瞬目を丸くした。そしてしばらく、口元に手を当てて考える。
「……身分ですかー」
 もう一度、彼女は同じ言葉を口にした。フィリップが、それを受けて無言で頷く。
「身分……って、なんでしょうねえ?」
 長考の末出てきたその言葉に、フィリップは脱力し、テーブルに額を盛大にぶつけた。
「……お前……」
「いやあ、だって、正直よくわかんないんですものー」
 赤らむ額をさすってにらむフィリップの心境を知ってか知らずか、フィレイはえへ、と笑う。まるで、いたずらをとがめられた子供が開き直るような、少し困った顔で。
「神様はー、平等に人間をお創りになられたはずなんですよねえ。啓典にも書いてあるんですよ? 現在の版だと、九十五ページです」
「……いや、そんな細かいページ数言われてもわから……いや、聖書渡されてもそんな古めかしい文体なんて読めんからな?」
「あう。……んー、まあそうだと思うのですよ」
 遮られた聖書をしまいながら、フィレイは天井を仰ぐ。
「そうだって、なんぞ」
「偉いとか偉くないとかなんて、ないんじゃないかなー、って。偉い司祭様の中には、世俗の人は文字も読めない愚か者ばっかりだー、なんて、とんでもないこと言っちゃう人もいますけど。私はそんなこと関係ないって思いますし、人に上も下もないって、信じてますよ」
 そう締めくくると、フィレイはフィリップに向き直って、にっこりと微笑んだ。その様子を、しばらくフィリップは意外そうな顔で見つめていたが。
「……へ、やっぱし、柔らかい頭してんじゃねーか」
 やがて、彼は苦笑しながらもどこか嬉しそうに笑って言った。
「それってほめてますかー?」
「ほめてるほめてる。すげーほめてる」
「わーい、王様にほめられました」
 あはー、と笑いながら万歳するフィレイに、フィリップは苦笑させた顔を破顔させた。それが連鎖となってか、フィレイも笑う。しばらく客間は、笑い声で満たされた。
「あんたみたいな人を探してたんだよ。相談って、そういうことなんだ」
「身分のことがですかー?」
 口元をまだほころばせて言うフィリップに首をかしげて見せて、フィレイが返す。それに対しておう、と応えながら、フィリップは立ち上がった。
「実は、俺の縁談についてちょっとあってな。その……会った時なんぞは浮浪者みたいだったもんで、あまり言いたくねーが、俺とは身分が違うって、教会の連中がよ、いい顔しないんだ」
「なるほどお……」
「そういうわけで、その辺りをなんとか上手くやっちゃくれねーかなー、と……そう、思ってな」
「なるほど、よくわかりました。そういうことでしたら!」
 どん、と胸を叩き、フィレイは一歩前へ出た。が、その勢いは一瞬で、ふと口元に手を当てて考え込んでしまった。
「……なんだ、どうした?」
「いえ、お話は大変よくわかりましたしー、ぜひ協力したいんですが、一つ問題があることを思い出しましてー」
「問題?」
 何かあったか、と少し顔をしかめるフィリップ。
「私、破門されてるんですー」
 放たれた言葉に、今度は客間に沈黙が満ちた。
「……何をー!?」
 しばらくの後、フィリップがひときわ大きな声を上げ、後ずさる。
「おま、お前何をしたんだ!? 教皇領の出身で破門とか、魔物に魂売ったのか!?」
「まさかぁー。ちょっと儀式に使うお部屋の鍵をなくしただけですってー」
 思い切り人差し指を向けられるが、フィレイは動じない。ひらひらと手を振って、普段となんら変わらない様子でやんわりと否定した。
「……なんの儀式?」
「世界の日のー」
 悪びれる様子もなく言いのけたフィレイの姿に、力が抜けたのだろう。フィリップは、今度はその場に座り込んでしまった。
「……そりゃ破門されるわ」
 そして、がくりとうなだれる。世界の日はこの世界の始まりとされる、宗教上最も重要な日なのである。
「だいじょぶですよー。破門はされましたけど、こう見えて司祭代理、司祭補佐をしてました。ちゃんと作法はわかりますよー」
「……そういうことじゃなくてだな……」
 教会から破門されることは、社会から追放されるのと等しい。そして世俗の王は教皇からの戴冠で王位を授かるもの、仮にもそんな立場にある人間が、破門された人間の手で婚姻を遂げることは世間が許さない。
「……いや、しかしお前よく今まで生きてこれたな……?」
「丈夫なんでーす」
「……なるほど神経タフそうだもんな……」
 それだけ言うと、フィリップは深い深いため息をついた。小首をかしげながらその様子を見つめるフィレイの顔は、珍しく困っているようだった。

 数日後。フィレイは、レスティナス王宮の尖塔、その最上階にいた。最上階と言ってもそこは時刻を告げるための鐘が下げられた鐘楼で、王宮併設という立地から通常より大きくはあるものの、せいぜい定員は数人といったところ。景色はこの上なく素晴らしいが、絶景を楽しめる人間は限られている。
 そんな場所で彼女は、この間のような、汚れたローブではなく、清められた純白の法衣を身にまとい、手には分厚い聖書を持って立っている。
「……本当にいいんですか?」
 そして彼女は、そう言って目の前にいるフィリップの顔を覗き込んだ。
「ああ。俺はもう開き直った」
 ふん、と鼻息も荒く彼は言う。そんな彼の服装はフィレイと同じく純白。そして――彼の傍らに寄り添う少女も、同じく穢れのない白いドレスをまとっている。
「……陛下」
「大丈夫だ。今日のことは誰にも知らせてない、バレやしねーよ」
 心配そうな顔を向ける少女は、フィリップとは反対に、流れる水のように美しい青い髪と瞳。
「まあいざって時はただじゃ済むまいが……その時はその時だ」
 不敵に微笑む顔を彼女の瞳に映し込ませて、フィリップは応えた。
「……うん」
 少女がこくりと頷くのを確認して、フィレイも微笑む。
「こほん。それではー、これよりフィリップ・レス・ティオ・アルセルン、ルーリィ・エディック両人の、婚礼を執り行いまーす!」
 そして、聖書を胸に当てて高らかに宣言した。それに慌てたのは、フィリップだ。
「このバカ司祭、声がでけーんだよ!」
「おお、これは失礼しました……」
「お前、絶対間者にはなれないタイプだよな……」
 慌てて声を潜めるフィレイを、フィリップが冷や汗をぬぐいながらにらむ。その横では、フィレイにルーリィと呼ばれた少女が同じく動揺した様子でフィレイを見つめている。
 あれから数日。フィリップは自ら言った通り、すっかり開き直っていた。教会に何度も交渉を重ねたが返事は芳しくなかったため、結局破戒僧に頼んで秘密裏に婚姻を遂げることにしたのだ。
「うん、大げさに言いましたけどもー」
 その破戒僧は、聖書をぱらぱらとめくりながら、二人に言う。
「ここでちゃんとした儀式をするなんて無理なのでー、すごく簡単にやります。それでもいいですかー?」
「……まあ、それは仕方ないな」
「うん。あたしも大丈夫」
「はーい、わかりましたー。ご協力、感謝感謝です」
 二人の返事を受けたフィレイが微笑むのと、聖書をめくる彼女の手が止まるのは、ほぼ同時だった。
「えー……っと。フィリップさん、ルーリィちゃんのことは愛してますかー?」
「厳かな雰囲気の欠片もないストレートな問いだな!?」
 あまりにも単刀直入な問いに、フィリップは思わず声を上げる。そんな彼を、横目で見上げるルーリィ。
「いいじゃないですかー、こういうのはヘンに気取らない方がわかりやすくて」
 あは、と邪念の欠片もない笑顔を向けて、フィレイが改めて問う。
「フィリップさーん、ちゃんと答えてくださいねー? ルーリィちゃんを愛してますかー?」
「……ああ、愛してるよ」
「はーい。それではルーリィちゃん、フィリップさんのことを愛してますかー?」
「うん……、あ、えっと、はい」
 二人の返答に満足そうに頷くと、フィレイはもう一度口を開く。
「ではー、誓いの口付けをー」
 そして言いながら二人には背を向けて、鐘から吊るされた縄を持つ。そんな彼女の後ろで、フィリップはルーリィを抱き上げると、その小さな唇に、己の唇を重ね合わせた。
 それを合図に、フィレイは手にした縄を思い切り引く。その力は巨大な鐘をゆっくりと揺らし、そして――。
 レスティナスの街一杯に、鐘の音が高らかに響き渡った。それは、時を告げる音。予定通り定刻だ。けれども同時に、祝福の音でもあった。
「……指輪もなくって、本当に簡単に終わらせちゃいましたけど。おめでとうございます」
「……ん、まあ、うん。あんがとさんよ」
 鐘の余韻が続く中視線をそらして、フィリップは答えた。その腕の中で、ルーリィが幸せそうに笑っている。
「ありがとうございます、フィレイさん」
「どういたしましてー」
 ルーリィの言葉に応じて会釈したフィレイは、達成感に溢れているようだった。だが、他の二人はそうした気分に浸っている時間はない。何せ、この結婚は身分に天と地ほどの差のある、許されざるものなのだから。
「じゃあ陛下、あたし着替えて部屋に戻るね」
「おう。俺も仕事に戻んねーとな……大臣にまた怒られる」
 だから、あわただしいのは、仕方がない。
「うふふ、気づかれないようにがんばってくださいー」
「……フィレイはどうするんだ?」
「私は、せっかくなのでこの景色をもうちょっと満喫していようと思いますー」
「そか。うん、落ちないようにな」
「あはは、フィレイさんならありえそう」
 へん、と皮肉っぽい顔で言うフィリップに、ルーリィが笑いながらなびいた。
「はい、ありがとうございますー」
 が、皮肉はフィレイには通じない。彼女は本当に心配されているのだと受け取って、深々と頭を下げた。
「……うん。まあ、気をつけとけ……」
 まるで捨て台詞のようにそう言い残すと、フィリップはいそいそとそこから退出した。彼を見送ったルーリィも、フィレイの手伝いでドレスを着替え終わると、こっそりと出て行った。
 最後に一人残ったフィレイは、小窓から外に目を向けた。眼下に広がる城下町には、豆粒よりも小さな人々が、喧騒の中で楽しそうに動き回っている。
 彼らの中に、今日の鐘の音に二つの意味が込められていたことを知るものは、一人もいないに違いない。誰からも祝福されない、ひっそりとした儀式だったのだから当然だ。けれども、当人二人は幸せそうだった。誰も見ていなくとも、神様はご覧になっているはず。だから、きっとこれで良かったのだ。
 誰にともなく頷いたフィレイの顔は、満足げだった。なぜなら、彼らの選択も、己の選択も、間違っていただなんて微塵も思っていないから。
 そのまま彼女は清々しい表情で高い青空に目を向けると、そのどこまでも美しい空の彼方におわすと信じる神へ、十字を切る。
「……神様、どうかお二人をお守りください。お二人が、いつまでもいつまでも、幸せでありますように」
 そして、笑った。見るもののいないその笑顔は柔らかく、限りなく深い慈愛を湛える女神のようだった。



◆フィレイ・アステリスク(Filey Asterisk)
星の世界北部、メンシェ大陸のいずこかの出身。
レビック歴五百六十九年、山猫の輪十四日生まれと伝えられるが、詳細は不明。
聖都カエリァに捨てられていた孤児であり、教皇領の孤児院で育つ。
若くして司祭代理となり、末は司祭にもなれるだろうと目されていたが、世界の日における儀式の重要な品を紛失した咎により、破門される。以降は、放浪の旅に、行く先々で人々を治療する旅医者となる。
一時期は、世界の子らに随行し、その信仰心から邪神ワイズドシーユとも戦ったとする記録があり、実力のほどがうかがえる。この際の功績により、破門は解かれている。
のち、妖精界へ渡り精霊への道を目指したとのことで、人間界にはそれ以上の記録は残されていない。
だが、筆者が閲覧を許された妖精界の史料によれば、生命の倫理に反した咎により幽閉罪に処され、レビック歴五百九十九年に衰弱死した、とある。享年は二十九歳とされる。
人間界を去ったのが、アティスの死と同じく世界が安定期に入る以前のことであり、やはり彼女の記述はほとんど残っていない。
妖精界には詳しい史料があるようだが、詳細については閲覧許可が下りなかったため不明。
一部の関係者の精霊に取材も試みたが、みな彼女については固く口を閉ざしてしまい、詳細は誰も教えてはくれなかった。
罪人の……秩序に反したものの記録は伝えるべきではないということだろうか。史実を志す碩学として、この点については首をかしげざるを得ない……。

筆、コルファ・クレイアス





お手数ですが、ブラウザバックでお戻りください。