母は言った 忘れる事は時に罪ではありません
 落城の傍ら 逆巻く炎に照らされながら 少女の頬を撫でて
 遠のく故郷 そこに帰ると心に誓い 少女は一時忘れ去る

 妹は言った 忘れる事は時に罪ではありません
 落城の傍ら 凍える水面に映されて 少女の手を取り口づけを
 近づく砦 此処で護ると心に誓い 双つは一時一つへと

 ――其れは夢か幻か

 彼女は走る ひた走る
 今日も今日とて間に合わず 誰が呼んだか遅刻王
 力も魔法も其れ相応 努力は叶うと言うけれど
 いっかな叶わぬ骨折り損
 されど前向き前のめり
 彼女は走る ひた走る
 今日も今日とて間に合わぬ されど笑顔は満点に

 『桃色の吟遊詩人の唄』


 1.颯爽

 街を覆うのは漆黒の帳。その頭上に広げられた天蓋には、ひときわまばゆい光を放つ、麗しの満月。夜の女王たる月は何も語らず、ただ黙したまま今宵も巨大な街並みを見つめ続けている。
 既にものみな眠りに着く頃合。このような時間に動き回るものは、夜こそ自らの時間とする手合いのもののみ。それはたとえば、宿屋のものであったり、酒場のものであったりする以外は、たいていの場合真っ当な手合いではない。
 がさり。
 夜の街、その一角にある家屋の上で、何かがうごめいた。
 それはさやかな月の光を嫌う風もなく、堂々と屋根の上で這いつくばる。金色に照らされたその姿は、青い肉体を持つ有翼の魔物だった。ワイバーンなどに類する姿を持つその魔物はしかし、伝承や物語に語られるほど、巨大なものではない。人間を二回りか三回りほど大きくした程度だろう。
 ぎゃあああ、と魔物は一声吼える。その雄たけびは空を響かせ、大地はびりびりとかすかに震えた。
 それはそのまま何度か咆哮を上げながら、屋根の上をずしり、ずしりと動き回る。大きくないとはいえ、その身体は決して小さくはない。それが動くのにあわせて家屋はそこだけ地震に見舞われたかのごとくぐらぐらと揺れ動き、壁には小さくひびが走った。
 かつて全てが消滅してしまうほど大規模な地震に見舞われたこの世の住人にとって、天災――かつての地震は人為的なものだったが――の中で最も恐ろしいのは地震だ。それに近しいこの状況は、誰もが心の奥底に眠る恐怖を引き出されているような感覚に襲われるだろう。
 そして実際に、その家屋の住人たちは、徐々にきしみ、たわんでいく家屋から、もんどりうって転がるようにして、慌てふためいて飛び出してくる。時間が時間だけに当然誰もが寝巻き姿だが、眠っている場合ではない。
 ぎゃあああ。
 再び魔物が吼えた。そして値踏みしているかのように、ぎらぎらと不気味に輝く双眸で逃げ出た住人たちや、集まってきた野次馬らを順繰りに見やる。
 月を背にして屋根にそびえる魔物の姿は、下から見上げると、とてつもなく巨大なものに見え、同時にそれは果てしない威圧感を放っているようにも見えるだろう。
 その姿を見て、誰もが深い絶望を抱いた。この街も、もはや終わりだろうか、と。だが刹那。
「ホーリー!」
 誰かの声と共に白く輝く光の矢が、何処からともなく飛び出して魔物の身体を撃ち抜いた。たぎる血潮が周囲に舞う中、魔物は悲鳴にも似た叫び声を上げる。
 人々が振り返る。屋根に立つ魔物の正面、住人たちの後ろにある別の建物の屋上に、誰かが立っていた。
「ラビットレディ!」
「ラビットレディだ!」
 その姿を見て、人々は口々に叫ぶ。直前までの姿とは打って変わり、救世主を見出したようだ。
 屋根の上に立つ人影。それは、穢れなき純白の耳を持つ、兎の亜獣人だった。金色の光に照らされるその姿は、決して大柄ではない。女性らしい滑らかなラインを持っている。身に纏うものは、この街に住むものなら誰もが知る、桃色の装束。手にはこれまた誰もが見知った杖がある。
 だがその顔には、恐らく正体を隠すためのものなのだろう、布が巻きつけられており、素兎のような真っ赤な瞳しかうかがい知ることはできない。
 ぎるぎるぎる、と魔物がうなる。仇敵を見たかのようだった。瞬間、それはその翼を広げると、宙に舞い上がる。
「やるか? 来い!」
 それは、凛と響くソプラノ。ラビットレディと呼ばれたその人物は一声上げると、杖を構えた。その先に魔力が集まり、白く光が溢れている。
 魔物は舞い上がった後、ひときわ大きな鳴き声を響かせると、空を切ってまっすぐにラビットレディへ体当たりを仕掛ける。その速度は見た目に違わずかなりのもので、恐らく直撃を食らえば一見華奢な彼女の身体は無事ではすまないだろう。
 だが彼女は動じなかった。まっすぐに向かってくる魔物に、同じくまっすぐに杖を向ける。
「ホーリー!」
 聖なる魔法の矢がそこから発射され、魔物の顔を打ち据える。だがそれでは魔物は動じない。速度も落とさない。猛然と、それは彼女めがけて身体をぶつけた――。
「どこを狙っている?」
 否。ラビットレディは空にいた。杖を下に向けて、一直線に魔物の背中へと突き進む。
「はあっ!」
 落下の速度と合わさって、その杖は剣のようにして魔物の背に突き刺さった。鋭い痛みを感じてだろう、魔物はぎゃんぎゃんとけたたましい悲鳴を上げる。周囲からは、歓声が上がる。
 ダメージを受けた魔物は飛ぶ力を一瞬失い、大地に吸い寄せられていく。それを見て、ラビットレディは大きく跳躍、建物の上へと着地する。それとほぼ同時に、魔物は地面へと衝突して、周りに砂埃が舞った。再び、歓声。
「…………」
 そんな魔物の姿を冷ややかな目で見下ろすラビットレディの瞳が、すっと細くなった。咆哮と共に、またしても魔物が宙に浮かび上がったのだ。
 だが、今度はもはや、相手に動き回るだけの時間は与えない。ラビットレディは魔物めがけて飛び掛る。
 満月を背に、二つの漆黒。方や小さな人の影、方や大きな魔物の影。黄金の真円の中心で、二つの影が交差する。
「連牙舞燕拳ッ!」
 その瞬間に、ラビットレディの透き通るような声が街にこだました。それと同時に、大きな魔物の身体が、急にびくんびくんと跳ね上がって、一気に力を失ったかのように、頭から地面へと堕ちていった。
 一方、ラビットレディは向かいの屋根の上に華麗に着地すると、墜落した魔物の方にゆっくりと振り返る。
 そこには、強力な一撃を何度も受け、無数の殴打痕を無残にさらして地面に横たわる、魔物の姿があった。もはや、動く気配はない。
「やったー!」
 魔物が動かなくなったのを見るや、みたび、周囲から歓声が上がった。それはやがて、ラビットレディを褒め称えるものになり、最後には彼女の名前を叫ぶだけの喝采となる。
 だが当のラビットレディは、それには応じない。ただ一度だけ、先ほどとは違う優しい、そう、慈愛の手を差し伸べる王女のような瞳を静かに彼らへ向けると、大きく飛び上がって、そのまま夜の街の中へと消えていった。
 彼女がそこから立ち去った後も、しばらく彼女の名を呼ぶ人々の声は止むことがなく、静かとは言いがたい、独特の熱気を抱えたまま、夜は更けていく。
 だが、それを見つめる冷たい双眸が、一つ――。

 いくつもの呼び名を持つ都市アウアドス。フェイレンワールドの中心とも言えるレグア大陸の南、アウアドス大陸の中心にそれはある。
 一年を通じて安定した気候を保つレグアと違い、アウアドスにはより明確な四季がある。草原は、山は、川は、そして森は、季節ごとにまた違った顔を見せる。そうした、穏やかにして厳しさも持ち合わせる大陸は、自然の力が特に集まる。そのためだろう、この大陸は昔から魔法使いが棲家として選ぶことが多い。そんなアウアドス大陸に、魔法を志すものが集う学校が生まれたのは、必然とも言えるだろう。
 アウアドスは、そうした魔法使いの集う場所として始まった魔法都市にして、周囲の国家からは独立した都市国家であり、そして司祭専門学校を体内に持つ学園都市でもあるのだ。
 そんなアウアドスの中心部、この街の顔とも言える司祭専門学校の校舎内をひた走る少女がいた。
 彼女の名は、ティルエス・ヒレイユ。アウアドス司祭専門学校の三年生で、この学校では有名人である。だがそれは、いい方向で有名なのではない。悪い方向で、だ。
 彼女が今、静謐であってしかるべき学園の廊下を懸命に走っている理由は、この三年間で彼女に与えられた称号が、「遅刻王」である、と言えばおおむね誰もが理解できるだろう。
 彼女、ティルエスは学校始って以来、三年間連続遅刻記録を現在も更新し続けている稀代の遅刻魔なのである。
 そして今日も、彼女が目を覚ましたのは、予鈴が鳴る五分前。朝食を取る余裕など無論なく、顔を洗って慌てて制服に着替え、気休め程度に髪型を整えたら、あとはとにかく教室に向かってまっしぐらである。
 とはいえ、その姿は通いなれた上級生や教師陣からはもはや見慣れた光景だ。だから、彼女が懸命に走る姿を見たところで、誰も何もとがめない。せいぜい、校長辺りが人に気をつけなさいとすれ違いざまに言う程度。
 予鈴が、鳴った。
「ああぁぁーっ、今日も間に合わなかったよぉー!」
 半分泣いたような上ずった声を上げながら、それでもティルエスは走る足を休めない。遅刻は遅刻でも、できるだけ早く教室に行かなければ。そうした思いが彼女を駆り立てるのだ。
「すいません遅刻しましたぁー!」
 言って、教室の扉を勢いよく開けて、彼女は教室の中に入る。
「……あれっ?」
 しかし、そこにいたのは白衣を羽織った赤毛の男が一人、教卓で書類と格闘しているだけ。ティルエスは目を点にして教室の中を見渡すが、やはり普段見知っているクラスメイトの姿は、どこにもなかった。
「おはようございます、ティルエスさん」
 そんなティルエスに、白衣の男がにこやかな顔を向ける。
「あ、お、おはようございます、スリース先生。……あのー……」
「あはは、やっぱり忘れてるみたいですね」
 ティルエスがスリース先生と呼んだその男は、にこやかな顔を若干苦笑の色ににじませながら、頬をかいた。それに対してティルエスは首をかしげる。
 スリースは彼女の担任だ。滅多に怒らない性格と、教師の中ではわりと若い方であるということから、どちらかというと生徒側に近く、それなりに生徒からの人気はあるというように彼女は聞き及んでいる。
「忘れました? 今日から夏休みですよ?」
「……あっ!?」
 大きく口を開けて、ティルエスは硬直した。
 夏休み。なつやすみ。ナツヤスミ……。頭の中で、何度もその単語が反響して止まない。
「ティルエスさんのことですから、今日も必死になって教室まで来るんじゃないかと思って、こうやって待機していたんですが……やあ、どうも正解だったみたいですね」
 あは、と屈託のない笑顔をスリースは向けてくるが、それはティルエスにしてみるとわりと残酷な仕打ちでもある。
「……あ……あうあう……」
 今朝の努力が完全に水泡に帰したことをようやく受け止めたティルエスは、情けない顔で担任の顔を見つめた。
「まあまあ。早起きは三文の得と、どこかの国の言葉にあります。せっかくの夏休み、先は長いですし、今日はゆっくり街ではねをのばしたらどうです?」
「……うー、そうですね……そうしますぅ……」
 まあ遅刻は遅刻だが、夏休みということで今日の分は遅刻としてはカウントされない。遅刻したのに遅刻の数は増えないし、しかも休みだし。
 考えようによったらいいことなのかもしれない、とティルエスは思考を早々と切り替えた。何事もポジティブに捉えることができるのは、彼女の長所と言えるだろう。
「やっほー、ティルエスおっはよー」
「あれ、ミーメル?」
 よし遊ぼう、とティルエスが心の中で拳を握ったその時、後ろから聞きなれたクラスメイトの声を聞いて、彼女は振り返った。
 そこにいたのは、水のように流れる青の長髪をたたえた少女。ティルエスと同じく、学校の制服に身を包んでおり、頭にもティルエスと同じく、学校の帽子が乗せられている。
「ミーメルぅ、今日から夏休みだよ、授業はないよ」
 ティルエスは、少しほっとしていた。この親友が、いつもしっかりしている親友も、今日から夏休みだということを忘れて教室に出向いてきたと考えたからだ。
 しかし、ミーメルと呼ばれた少女はくすっと笑うと、その安心を綺麗に砕いてくださるのだった。
「あははは、そんなことするのはティルエスくらいよ」
「はう……っ」
「ティルエスのことだから、今日もふっつーに登校するんじゃないかなって思ってねー。ちょっと顔出してみたら、案の定ってわけ」
 にっこりとした笑顔を向けて、親友は締めくくった。
「うう……ミーメルのいじわるぅ……」
「あはは、ごめんごめん。後でなんかおごるからさ、遊びに行かない?」
「ホント? 絶対だよっ?」
「わかってるって。ほら、行こ!」
「うん!」
 差し出されたミーメルの手を握ると、ティルエスは笑みを浮かべる。数秒前の出来事は、恐らくほぼ完全に彼女の記憶の中からは消去されたのだろう、邪念の欠片もない、いい笑顔だった。
「じゃあスリース先生、行ってきまーす」
「はい、行ってらっしゃい。二人とも、定時までにはちゃんと寮に戻るんですよ」
「はいはい、わかってますって」
「はーい!」
 担任に手を振って、ティルエスはミーメルと共に教室を出るのだった。

 アウアドスの街並みは、司祭専門学校を中心に放射線状に広がっている。が、北側は主に学生寮が並ぶ住宅街であり、街らしい施設と言えば家くらいしかない。一日を遊んで過ごそうとするなら、南側の繁華街だ。その他、西にはスラム街、東には上下水道の管理施設という形になっている。そうした街並みの外側には、防御魔法も施されている城壁。無骨なそれは魔法都市というにはいささか似つかわしくないが、自治都市国家である性質上は仕方がない。
 そんな街並みの片隅、いつも寄るなじみのカフェテラスで、ティルエスはミーメルと紅茶を楽しんでいた。
「んー、おいしー♪」
「ティルエスはホントになんでも美味しそうに食べるよね。見てて気持ちいいくらい」
「そうかなぁ? でもおいしいのは本当だし、やっぱりそうなっちゃうよ」
「うん、それでこそあんただよ」
 そう言って笑うと、ミーメルはティーカップを手にとって中身の紅茶を少しだけ口に含んだ。その所作は優雅である。
 ミーメルは、多くの司祭学校生徒と同じくアウアドス出身ではない。ここの司祭学校は世界にも名の知られた名門校であり、魔法を学ぶために通う生徒の他、礼儀作法を身に着けるためや、箔をつけるために預けられる良家の子息令嬢も多い。彼女もそんな生徒の一人だ。とはいえ、ミーメルはどちらかというとそんな飾った態度は取らない。誰にでも好かれる明るい性格に、そんなことは必要ないのだろう。
 一方のティルエスはと言うと、実は彼女はよくわからない。わからないというのは、彼女自身にアウアドスに来る以前の記憶がないからである。彼女の一番古い記憶は、スリースの自室で彼と、それから校長の二人に対面しているものであり、それ以前となると、アウアドスで生まれたのか、他の地域で生まれたのかまったく見当がつかないのだ。毎月決まった額の仕送りがあるようだが、家族がいるかどうかすらわからない。
 しかしティルエスは、それについてはそこまで深く考えていない。目下のところ彼女の最大の問題は、あまりにも自分が朝に弱いこと、つまり遅刻癖である。次いで魔法がちっともうまくならないことと、学校の成績がよろしくないことの二つが同率で続く。昔のことがどうかはわからないが、それについてはどうしようもないし、今を一生懸命生きることに、彼女は必死なのである。
 というわけで、ティルエスはひとしきり紅茶を楽しんだ後、目の前にあるチーズケーキにフォークを向けるのであった。
「おー、見なよティルエス。昨夜もラビットレディ出たんだってさ」
「わー、ホント?」
 そんなティルエスに、ミーメルが新聞を向ける。カフェテラスに置いてある無料のものだ。
 ミーメルが見せたところは一面記事で、そこには大きな文字で「ラビットレディ今夜も大活躍!」という見出しが躍っていた。
「んー、かっこいいよね、ラビットレディ。誰も正体を知らない正義の味方っ」
「でもレディって歳でもないよね、多分。うちの学校の制服着てるんだし」
「えー、じゃあ……」
 ミーメルの言葉に、ティルエスは少し考える。
「……バニーガール?」
「それは何か違う気がする」
 びし、と手を向けてミーメルが言った。
「うん、わたしもちょっと違うとは思った、かな?」
 あはは、と笑ってティルエスはチーズケーキに意識を戻す。
「……ふーん、なんでも昨夜被害に遭ったのはスラムに近い家らしいよ」
「最近魔物多いよね、どうしちゃったんだろ」
「多い多い、絶対多い。こないだ新学期始まる時だって、ティルエス船着場まで迎えに来てくれたけど襲われたもんね」
「うんうん。たまたま近くにいた冒険者の人たちが助けてくれなかったら、どうなってたことか」
 ぱくりとチーズケーキをほおばるティルエスに、ミーメルはじろ、と目を向ける。
「……一番慌てふためいてたくせに」
「う」
 フォークを口にくわえた状態でティルエスはうなる。
「だ、だってしょうがないじゃない、実戦なんてしたことないんだもん!」
「それはそーでしょーけどぉー」
「うー、ミーメルのいじわる」
 あの日。春休みの間帰省していたミーメルを迎えに船着場まで行った時、ティルエスたちは魔物に襲われたのだ。襲ってきた魔物は別段それほど強い手合いではなかったが、冒険者でもない彼女たちには、少々手ごわい相手ではあった。
 そこにかけつけてくれたのは、二人組みの冒険者。ティルエスたちより少し年上らしい金髪の青年と、妹と思しきこれまた金髪の少女だった。
 思い出すだけでも、二人の動きはとても軽やかで、とてもしなやかで、そしてとても強かった。大丈夫かと聞きながら振り向いたあの青年の名前は聞けなかったが、それでも日焼けしたりりしい顔を、ティルエスは恐らくこの先忘れない。
「……まあでも、魔物が多くなってきてるのは絶対間違いないわよね。最近は授業で外に出るのも少なくなったもんね」
「ねー。樹海が危なくなって、ピルピラとはもうほとんど行き来できないんでしょ、確か?」
「らしいわね。おまけに街の中にまで出るようになっちゃって……」
「ラビットレディがいなかったら、大変なことになってるよね」
 深刻な顔を突き合わせながら、二人はほぼ同時にティーカップを手に取った。
 ここ数ヶ月の間で、アウアドスの周辺は急に魔物が増えた。学校の先生に聞いても原因はわからないと言うから、学生である二人が知る由はない。だが、魔物の急増により、アウアドスが他から隔離されつつある事態は二人の目にも明らかだった。
 今までは司祭学校の存在と、南部地方の魔法の殿堂であることから、毎日かなりの冒険者が街のいたるところで見ることができたが、最近はそれほどでもない。外からやってくる人間が減っているのは、間違いなかった。
 そんなアウアドスの平和を守っているのが、ラビットレディその人だ。夜な夜な街に現れる魔物たちを、人並みはずれた身体能力と魔法力を駆使して退治する。今や、ラビットレディはアウアドス中の注目の的であり、同時に憧れの的だった。
「やっぱりね、こう……敵らしい敵がいるなら、ボスを倒すべきだと思うのよ」
「人間も頭を取っちゃえば動けないもんね」
「あんたさらっと怖いこと言わないでよ。言いたいのはつまりそういうことだけどさ……」
 ミーメルが少し青ざめた顔で言った。ティルエスに悪気はちっともなく、それゆえ小首を傾げて彼女を見つめる形になる。
「……ってわけで、この夏休み中に、私は色々街の中を調べて回ろうと思うのよ」
「えー、危ないよ、もし何かあったらどうするの?」
「だーいじょーぶ、その時はその時よ」
 ミーメルが言うや否や、ティルエスはすぐに表情を曇らせて彼女の方に乗り出した。それでもティルエスの心配をよそに、彼女はどんと胸を叩く。
 ティルエスは、たまにこういう度胸のあることを言う親友のことを信頼しているが、それゆえに心配で仕方がない。ミーメルがいつか、自分よりもずっと遠いところに行ってしまうのではないかと思うと、心配を通り越して怖いくらいだった。
 しかしティルエスがどれだけ言っても、ミーメルは必ず大丈夫、と言う。その自信がどこから来るのか、ティルエスには不思議でしょうがない。
 それを察したのか、ミーメルは更に一言付け加える。
「大丈夫だって。いざとなったら、きっとラビットレディが出てきて守ってくれるよ」
 そう言うと、ミーメルはティルエスが見ている目の前で、本当に大丈夫そうに、そして意味ありげに、笑った。

 2.活躍

 夜、誰もが寝静まる時間帯。一日経って、月は少しだけ欠けている。だが、それでもその光はなお強く、遮るもののないところでは、明かりなど必要ないほどであった。
 そんな中、二人の人影がアウアドスの街を走っていた。片方は、赤髪に清らかな白い兎の耳を持っている。ラビットレディだ。
 そして、もう一人。ラビットレディの後ろに付き従うもう一つの影。それは、ラビットレディとは対照的な、青い長髪。ミーメルだった。
「……おい」
 不意に、ラビットレディが口を開いた。口元にはいつも通り布が巻かれており、その声はややくぐもってはいるが、やはりよく通る声だ。
「あによ?」
「本当についてくる気か?」
「うん。夏休みだから、多少の夜更かしくらいどってことないもの」
 ラビットレディの問いに、ミーメルはあっけらかんと答えた。そして口元に笑みをたたえて、ラビットレディの肩を叩く。
「それに、私ショートスリーパーだから。三時間の睡眠で調子いいわよ」
「……負けた。わたしは十時間でもダメだ……」
 ミーメルの言葉に、ラビットレディはうっそりと目の焦点を遠くした。
「で、ティルエス。今日はどこ行くのよ?」
「スラム……昨夜魔物が出た周辺を洗う。スリースの話だと、どうも近くに召喚特有の痕跡があったそうだ。アジトとまでは行かずとも、何かあるかもしれない」
「なるほど。……先生もああ見えて、曲者ね」
 ふふん、と鼻を鳴らしてミーメルはまたうっすらと笑う。それをちらりと横目で見て、ラビットレディ――ティルエスは、小さくため息をもらした。
 通称ラビットレディ。アウアドスで話題を集める正義の味方、夜な夜な現れる魔物から街を守る勇者。その正体こそ、ティルエス・ヒレイユその人であった。ただし、ティルエスはティルエスでも、普段のティルエスではない。
「……武器はちゃんと持ったか?」
「もちのろんよ。ティルエスとおそろ。大丈夫、自分の身くらい自分で守るわ。どっかの誰かさんとは違うから」
「表のことを言ってるんなら、ノメすぞ」
 じと、とミーメルをにらんで、ティルエスは静かに言い放つ。それに対してミーメルは、ごめん、とだけ言って笑った。
 そう、ティルエスは二重人格者なのだ。彼女自身が「表」と言ったように、普段学校でも遅刻王として有名な、魔法の下手なへっぽこ娘は表の人格。そして今、素早い身のこなしと鋭い目つきを持つ女魔法戦士は、裏の人格だ。
 普段、制服の一部である帽子で隠されている彼女の頭には、今裏である彼女を見てわかる通り、兎の耳がある。二つの人格を繋ぐものは、これだ。帽子を被らない時、すなわち亜獣人の耳を露出させている時こそ、ラビットレディたる裏が出現する鍵、と言うわけだ。
 ただし、表の記憶は裏の人格に引き継がれるが、逆は一切引き継がれない。そのため、裏人格が出ている時のことを、表は一切覚えていない。表からしたら、裏が出ている今は、意識を失っている時なのだ。
 だからこそ、ラビットレディとして巷をにぎわせている裏人格のことを、表は純粋に、正義の味方として認識している。まあ、ラビットレディである裏が、夜中にこうして出回っているせいで、表のティルエスは朝起きることができなくなっているのだが……それについては、恐らく知らない方がいいのだろう。
 そして、ティルエスのそんな特殊な体質を知っている人間は、アウアドスには裏ティルエスを含めても四人しかいない。ミーメルと学校長、そして担任のスリースだ。
 特にスリースは、ティルエスが魔物退治をするに当たって、その下調べや魔物の調査、街の探索などの地道な仕事を一手に引き受けている。彼のサポートなくして、ラビットレディという正義の味方は存在できない。
「スリースの調べによると、どうもあの酒蔵が怪しいということなんだが……」
 スラムの中に入って直後、ティルエスはスラムの中でも特に大きな建物を杖で示して言った。
 夜もすっかり更けた時間帯ではあるが、隣にある酒場はまだ眠る時間ではなく、場所が場所だけに寂しい輝き方ではあるが、それでも周辺は活気に満ちているようにも見える。
「酒場のマスター辺りが犯人……だったとしたら、いい隠れ蓑ね」
「いや、恐らくそれはない。あそこの蔵は団体の所有だから、誰か一人がそんなことをするのは相当難しい。まあ全員グルだったら別だが……」
「んー、でもまあ別の奴がいるって見た方がいいのね。……にしても、あれがアジトだったらなんかイヤね」
 ミーメルの返事に頷いて、ティルエスは足を止めた。すぐそこに、酒蔵の扉が口を開いている。
「でもどうするの?」
「ああ、それについては大丈夫だ。スリースから話が通してあるらしい。好きに入って調べていいそうだ」
「準備のいいことで」
「そうだな」
 再び頷いて、ティルエスは足を踏み出した。
 スリースはサポート役としては非常に優れた人物だ。情報収集能力に長ける上、人と話すのが上手い。回復魔法や補助魔法をバランスよく習得しており、なおかつ治療の上級魔法であるジーニルまで身につけた秀才でもある。直接戦闘そのものはそこまで得意ではないが、それでも魔物退治などを始めた頃は、主に彼を従わせてティルエスは活動していた。ミーメルに正体が露見してからはその役目を彼女に譲り、調査役などに徹しているが、それでも時折彼のサポートが入る時は、安心して戦えるものだった。
「うわあー、随分と広いのねー……」
「そうだな……スラムにあるものとしては相当なものだろう」
 入り口をくぐって中に足を踏み入れれば、そこにはいくつもの巨大な棚が整然と立ち並んでいた。建物自体はかなり古い物のようで、棚の上の方や天井付近には、クモの巣が張り巡らされているのが、小窓から入り込む月光に照らされて、うっすらと見て取れる。
「色んな種類のものがあるわね……お酒については詳しくないからよくはわかんないけど……」
 二人並んでその棚と棚の間を歩きながら、周囲を観察する。棚の各段にはそれぞれラベルが貼られており、どの棚のどの段に、どういった酒が置いてあるのかが一目でわかるようになっていた。
「案外、この街の酒場で提供されている酒は、大半がここに収蔵されているのかもしれないな」
「それはそれで不便そう。まあでも、この規模ならそれもありえそうね……」
 ティルエスが言い、ミーメルがそれに答えた時だ。暗闇の中から、ごごご、という得体の知れない音が響いてきた。
 瞬間ティルエスは一歩前に踏み出して鋭く前を見据え、それにやや遅れる形でミーメルも杖を構えた。
 だが、しばしそうしていても何かが出てくる気配はない。少しだけ警戒を解きながら、ティルエスがそろりと進み始める。
「何かしら……今の音……」
「……少なくとも、人間が発するような声じゃないことは確かだ」
「……それもそうね」
 暗闇の中で恐怖心と警戒心が増幅されているのだろう。ミーメルはティルエスの後ろにぴったりと寄り添って、せわしなく周囲へ視線を動かしている。
 その時、再び暗闇の中から得体の知れない音が、何か大きな重いものが這いずっているような、ごごご、という音が響いてきた。それを受けて、二人はまた歩みを止めて暗闇の向こうを注視する。
「……出てくるなら早く出てくればいいのに」
「しっ」
 ミーメルの言葉を遮って、ティルエスは瞳を閉じて前方に意識を集中させる。白い兎の耳が、ひくひくと動いていた。それを見たミーメルは口をつぐんで音を立てないようにする。
 兎の亜獣人であるため、ティルエスは他の人間――亜獣人も含む――よりも音に対する感覚が非常に鋭い。目で相手を捉えることができないならば、音で探ろうというわけだ。
 ティルエスがそうしている間にも、ある程度一定の間隔で、あの不気味な音は酒蔵の中に響いてきていた。それを何度か聞き続けているうちに、彼女はその音がどこからどのようにして聞こえているのかを把握する。
「……地下だ」
 目を開いて、ティルエスは言う。
「え、うそっ」
「どこかに下に降りる階段なり梯子なりがあるはずだ。手分けして探そう」
「……わかったわ」
 ティルエスが言うや、ミーメルはきびすを返して静かに動き始めた。闇に掻き消えていくその後姿を見つめながら、ティルエスは少しあっけに取られていた。
 自分からこういうことに首を突っ込むだけあって、度胸は随分すわっているらしい。まあ、そうでもなければラビットレディなる存在の正体を暴こうとはしないだろう。
 ミーメルが消えた方とは反対の方向に向きを変えて歩き出しながら、ティルエスは誰にともなく苦笑した。
 およそ一ヶ月ほど前、いつも通りスリースを伴って街に繰り出していたティルエスは、魔物との戦いの最中に、顔を隠す布を剥ぎ取られてしまった。幸いその場に居合わせた野次馬連中は彼女の顔をはっきりと見たものはいなかったようだが、一人別の場所からそれを見てしまったものがいる。ミーメルだ。
 その翌日、彼女はいささか強引ではあるがティルエスの帽子の下に隠された秘密を暴き、ラビットレディの正体に迫った。まあ強引に、ではあったものの、それでもティルエスの部屋という誰もいない場所だったことは、彼女なりの気配りだったのだろう。
 以降、ラビットレディのサポート役はミーメルに交代となった。しかし、実戦経験がないにもかかわらず、ミーメルのサポートは、ラビットレディ――ティルエスにとってはなぜか安心して背中を預けられるものだった。それは恐らく、表のティルエスの感情が影響しているのだと裏ティルエスは考えている。
「……本当ならば、誰一人として巻き込んではいけないはずなのだがな」
 誰にともなくつぶやいて、ティルエスは棚の隙間をすり抜ける。その先も同じく闇の中だが、やはり何かが出てくる気配はなかった。
 ひとまず敵がいないことを確認して、彼女は小さく息を吐き出す。そのまま棚に背中を預けて、少しだけ歩みを止めた。
「……またか」
 再び地鳴りのような謎の音が響いてきた。その音は遠くなったり近くなったりしていて、不安をあおるような余韻を残して消える。一体何がこの音の原因なのか、まったくもって謎だ。
「ティルエスー! あったよ、下に降りるの!」
 音に反応して再度動き始めたティルエスの耳に、ミーメルの大きな声が飛び込んできた。
 どうやら先を越されてしまったか。彼女はしてやられたと、少しだけ微笑む。しかしそれも一瞬、亜獣人特有の、しなやかな肉体に力を込めて、彼女は闇の中を駆け抜けた。あの音とは違い、そこまで遠くないミーメルの声がどこから来ているかはすぐにわかった。
「あ、ティルエスこっちこっち!」
 ティルエスが石の床に腰を下ろしたミーメルを発見するのと、そのミーメルがティルエスを見つけて手招きするのはほぼ同時だった。
「バカ、そんな大きな声出さなくってもいいんだ。わたしは兎の亜獣人だぞ」
 ミーメルの隣に駆け寄ると、ティルエスは口元に人差し指を当てる。それを見て、ミーメルはおっと、と口に手を当てた。
「ごめん、敵に気づかれちゃったかな。次から気をつける」
「……まあ、それはともかく……」
 ミーメルに頷きながら、ティルエスは彼女の隣に片ひざをついた。二人の目の前には、暗闇の中にぽっかりと浮かんだ穴だった。石床はごっそりと砕かれていて、露出された地面にでかでかと穿たれている。ただでさえ光のない闇の中にあって、その穴はまるで、冥府への入り口のようにどこまでも深い黒色をしていた。
「どうする? ……って聞いても、そりゃ降りるのは間違いないだろうけど」
「そうだな。しかし……どれだけ下まで続いているのか、どういう風になっているのか、さっぱりわからないな……」
 穴の中を覗き込んでみるが、それでもその穴の先に何があるのかはまったくわからなかった。
「とりあえず、深さだけでも調べてみようか」
「……おいおい、それを落とすのはまずくないか?」
 ミーメルの言葉にティルエスが隣を向けば、ミーメルはいつの間にか酒瓶を手にしていた。
「いいじゃん、一本くらい。この一本で敵のボスまで一歩迫れるってんなら、安いもんでしょ」
 言って笑うミーメルの顔を半目で見つめて、ティルエスは思わず口をぽかんと開けた。
 この娘は、たまに良家のお嬢様なのかと思えるくらい思い切った行動に出ることがある。いくらスラムにあるとはいえ、酒は数や状態などを常に把握しておかなければならない。それを悪びれもせずに穴の下に落とすなんて、ティルエスはまず選択肢として浮かびもしなかった。
 ……が、他に手段がないというのも事実である。しかめっ面を直して、ティルエスは額に手を当てる。
「……仕方ないな、何十メートルも深さがあったりしたらただじゃすまないもんな」
「でしょ?」
「……ええい、やってやれ!」
「合点!」
 ティルエスが言って、ミーメルは穴の上で酒瓶を持った手のひらを大きく開く。支えるものを失った瓶は、当然ながら重力という大いなる自然の摂理に従って下の方へと引きずられ、そのまま穴の闇へと消えた。
「…………」
「…………」
 二人の耳には、しばらく瓶が風を切る音が聞こえていたが、やがて闇の中からガラスの割れる音がはっきりと響いてきた。
「……いったわね」
「ああ。……感覚だが、大した深さじゃなさそうだな」
「よっし、じゃあ降りてみますか」
「ああ」
「じゃ、いつも通りお願い」
「わかったわかった」
 笑顔で言うミーメルに苦笑を向けながら肩をすくめると、ティルエスはミーメルに背中を向けてしゃがみこむ。そこに乗って、ミーメルは前へ手を回した。
「たまに思うが、本来後ろにいるべきは姫様……」
「ん? なんか言った?」
「別に。……降りるぞ、しっかり捕まってろ」
 ミーメルの返事を待たず、ティルエスは床を蹴った。小さな弧を描くと、二人はそのまま穴の中に吸い込まれていく。ほどなくして、彼女は足に大地の感触を得て、大きく身体を沈み込ませた。
「……着地成功、と」
「ありがと、ティルエス」
 ティルエスの背中から降りながらミーメルが言う。
「……それにしても、思いっきり洞窟ね」
「そうだな。わりとどこにでもありそうではあるが」
「や、そうそうないでしょ、こんな酒臭い洞窟」
「……それもそうか」
 そこに降り立った二人は着地する直前あたりから、つんと鼻を突くアルコールの臭いを感じていた。それはかなり強烈で、酒蔵の下にあるとはいえ、少し異常なほどだった。
 その瞬間。また、あの得体の知れない音が響いてきた。地下に来たからか、その音は先ほどよりも大きく
そしてはっきりしており、洞窟内で若干反響してはいるが、どこからどう来ているのか想像しやすかった。
「とにかく行きましょうか」
「……ああ……」
 歩き出すミーメルに続こうとして、ティルエスはしくん、と頭が痛むのを感じた。何だ、と一瞬足を止めるが、その頃にはもう痛み治まっていた。気のせいだったかと思い直すと、彼女は足を速める。

「……ちょっと、大丈夫?」
 歩き始めて数分、相変わらずごごご、という地鳴りのような音が半ば定期的に響く中、ミーメルが振り返った。
 そこには、普段なら前を歩くはずのティルエスが、壁に身体を預けてしゃがみこんでいた。
「……ごめんなさい……」
「なんか従順だし……ねえ、もしかして、酔った?」
「……かもしれない……ごめんなさい……」
 ミーメルに顔を向けるティルエスは、真っ青だった。血の気がなく、今にも倒れそうなくらいにふらふらしている。
「……酒の臭いだけで酔うなんて……」
 ミーメルは頭を抱えた。そんな彼女に、ティルエスが蚊の羽音のような声でまた、ごめんなさい、とだけ言った。
 ティルエスに対して、ミーメルは何事もない。普段通りだ。彼女がアルコールに強いのか、それともティルエスが弱いのか、それは二人にもわからない。が、恐らく後者だろう。
「どうしよう、これで何か出てきたら」
 かなり危険かも、とミーメルは言おうとしたが、最後までセリフが続くことはなかった。
 ぐおごごご……という、重低音を響かせながら、巨体がぬっと二人の前に現れたのだ。
「……うっそー!?」
「……勘弁してください……」
 その姿にミーメルは後ずさり、ティルエスは頭を下げた。
「いや、謝ってる場合じゃないでしょ! どうするの、戦える!?」
 ティルエスの隣まで来て、ミーメルが言う。そんな彼女にティルエスはまた真っ青な顔を向けると、今にも泣きそうな震えた声を搾り出した。
「……がんばる……」
「無理そうー!?」
 胸中で抱いた、一抹どころかすさまじく大きな不安を爆発させながらミーメルが叫ぶ。が、その目の前に巨体がずずず、と這いよってきて、叫びは悲鳴に変わった。
「……サポート……頼む……」
「だ、大丈夫!? サポートはいいけど……無理しちゃダメだからね!?」
 ティルエスはミーメルをかばうような形で前に出るが、相変わらず顔は真っ青で、杖を持つ手もだらりとたれさがっており、誰がどう見てもまともに戦えそうな状態ではない。
 そんな二人の目の前で、その巨体はむくりと立ち上がった。思わず二人はそれを見上げる。
 二人の前に現れたその巨体は、ごつごつとした、石のような身体を持っていた。大きさはゆうに人間のそれを超えており、暗闇の中にある天井に頭でもぶつけたのか、ぱらぱらと土が降り注いでくる。そして、あの音。地鳴りのような、不気味な音が、それの身体から響いてくる。鳴き声だろうか。
「ゴーレムの一種……? っていうか、酒臭っ! 何よこいつ……」
「…………」
 その巨体から放たれる、強烈すぎるアルコールの臭いにミーメルが眉をひそめるが、普段なら彼女に何らかの反応を返すティルエスは、今回に限っては無言。何か言うだけでも辛いのだろう。
 だが、そんなティルエスが不意に声を張り上げた。
「……ジョーマ!」
「え、何? 何が?」
 その、恐らくは名前だと思われる単語に、ミーメルは目を白黒させる。が、次の瞬間その目はしっかりと開かれ、ある一点に向かって視線を注ぐことになる。
 闇の中に浮かび上がった、土気色のローブ。その中心で、まるでボールか何かを弄んでいるかのように宙をゆるやかに動き回る白い手。それが、ミーメルの視線を釘付けにしていた。
 ――もう少し……もう少しだ……!
 漆黒の空間の中に、男の低い声がぐわんぐわんと鳴り響いた。しゃがれた声だった。それは大きく何度も反響し合い、まるで怪音波のように、ミーメルやティルエスの脳髄を刺激する。
「……ぐ、くっ、……くそ……っ!」
 それが酔いの回る身体には大きなダメージとなったのだろう、ティルエスはその場に片ひざをついてしまう。
「ティルエス!」
 ミーメルが、せめて酔いの軽減になればと、コデアを唱えようとした時だった。
 ――行けドブロック……扉を穿て!
 再び、男のしゃがれ声が洞窟に響き渡った。その瞬間、それまでまったく動かなかった石の巨体――ドブロックの顔と思しき場所に、一つの赤い光が宿ったかと思うと、大きく一歩を踏み出してきた。
「きゃあっ!」
「うぐうっ!?」
 ドブロックの足が大地を踏みしめた瞬間、洞窟が揺れた。相当な重量があるようで、壁や天井から、小さな砂が零れ落ちる。
「……う……う、気持ち悪い……」
 酔った身体に大地の揺れは相当効いたらしい。ティルエスは地面にぐったりと身体を横たえたまま、動けない。
「ティルエス! しっかりして!」
 なんとかドブロックの巨体をすり抜けるようにしてティルエスの元にやってきたミーメルだが、彼女が抱き上げたティルエスの身体は、今にも消え入りそうに、小刻みに震えていた。
「……す……すまない……」
「バカ、そんなこと言ってる場合じゃ……っきゃあぁぁ!?」
 ティルエスを叱咤しようとしたミーメルはとっさに頭を下げた。その上を、ドブロックの重く野太い腕が通過していく。
「……あ、あぶな……」
 頭上を通り過ぎた敵の腕が壁を思いきり砕くのを見て、ミーメルに戦慄が走った。一撃でもこの魔物の攻撃を食らったら、絶対に無事では済まない。
「と、とりあえず逃げるわよ!」
「……あ、あ……ごめん、なさい……」
 言って、ミーメルはなんとかティルエスの身体を持ち上げると、その腕を自分の肩にかけて引きずるように歩き出す。
 だが逃げるとは言っても、この洞窟は広くない。おまけに、なんとか逃げ切れたとしても抜け出す手段が見当たらない。せめてレイミスが使えるならすぐにでもここから脱出ができるのだが、まだミーメルはその技量には達していない。
「うわわわ……走るだけで十分攻撃じゃない!」
「……揺れ……うう、は……吐きそう……」
「ちょっと!? やめてよ、こんなところで吐くのは!?」
 後ろから追いかけてくるドブロックが地を踏みしめるたび、洞窟内が大きく揺れる。そして、その揺れは今のティルエスにとっては強力すぎる攻撃だった。
 幸いにしてドブロックの動きは緩慢で、逃げ回ることはさして難しくはなかったが、ドブロックが時折上げる、あの地鳴りのような声がさらに洞窟を揺らし、周囲の壁はばらばらと砂と石を散らしながら削れて行く。このままでは、洞窟全体が崩れ落ちるのも時間の問題だ。
 そして、それはわりと早く訪れた。ドブロックが大きく腕を振りかぶった、その時だ。持ち上げられた腕は、洞窟の天井を大きくえぐり、轟音と共に無数の土砂が洞窟内に降り注いできたのだ。
「きゃああぁぁー!?」
 それは例外なく二人の上にも降り注ぎ、ミーメルは足をとられて転倒した。そして彼女と共に倒れこんだティルエスの頭に、土砂が降り積もる。
「てぃ、ティルエスー!? 大丈夫!? しっかりして!」
 頭をすっぽりと土に埋めたティルエスのそばに這いよりながら、ミーメルは声をかける。だが、ティルエスからの返答はなかった。
「ど、どうしよう……ホントにどうしよう……!」
 そしてミーメルは、目の前まで追いついてきたドブロックの巨体を見上げて、蒼白になった。ドブロックの目のような赤い点が、ミーメルとティルエスを交互に見つめている。
「……う……うー、うううー、やああぁぁ……ったなあぁぁー……」
「……ティルエス?」
 突然、ティルエスがひどく間延びした声を上げながら立ち上がった。頭は未だに土にすっぽり埋まっていて、鼻から上は隠れてしまっている。そんなティルエスの様を見つめるミーメルは、何が起きたのか理解できず、呆然とするだけ。
「やったなあぁー、おこったぞぅ、おこっちゃったもんねえぇー、きゃはははーっ」
「……あ、あっれー……? ティルエス……さん……?」
 ミーメルの目の前で、ティルエスは笑っていた。それも、普通の笑い方ではない。どこか川の向こう岸に到達してしまった境地の人のような、壊れた笑い方だった。
 その様子を前にうろたえているのは、ミーメルだけではなかった。ドブロックさえ、目のような赤い点を明滅させて、攻撃をしかけるでもなく、ただその場に突っ立っている。
 そして、どうしようもできずにいる一人と一匹にただ見つめられる中、ティルエスは高々と両手を頭上に掲げた。
「わるいこにはぁー、おっしおっきだあぁー♪」
 そんな、どこか間の抜けた声とは裏腹に、ティルエスの手の中には、膨大にして濃密なマナの力が急激に集まってきていた。それはやがて渦を成し、可視の風となって洞窟の中にごうごうと吹きすさぶ。
 ドブロックが、たじろいだ。
「いーっくぞぉー♪」
 言いながら、ティルエスは大げさな動作で、手の中で練り上げられた強烈な魔力をドブロックめがけて投げつけた。
 その魔力の塊は無慈悲にして慈悲深い、そして天使の翼のような純白の破魔矢となって、空気を切り裂く猛烈な音を響かせながら一直線に、ドブロックの身体を貫いた。
 自身の巨体よりも更に巨大な穴をその身に穿たれたドブロックは、耳を劈くような、これまた猛烈な音を発しながら、爆発するようにして消滅した。
「どっかあーん♪」
 未だ激しい音と魔力の余韻が残る中、ティルエスは妙に明るい声を上げて、けらけらと笑った。そして笑ったかと思うと、突然糸が切れた人形のように、その場に仰向けに倒れこんだ。
 その拍子に、彼女の頭を覆っていた土砂がどさりと落ちて、彼女の顔がようやくあらわになる。
「…………」
 その様子をただ見つめるしかなかったミーメルは、どうすればいいのかわからず、ただその場で身体を硬直させていた。
「……ほ……ホーリー……リエン、ス……? うそ……」
 ぽつりとつぶやいたミーメルの言葉を聞くものは、誰もいなかった。

 3.暴露

 数日後。アウアドスはやや騒然としていた。あの晩酒蔵の地下で起きた事件の話でどこも持ちきりで、報道関係者や治安関係者がせわしなくスラムの辺りを動き回っているのだ。
 そんな街の喧騒を聞きながら、ティルエスはミーメルに声をかけた。
「怖いよね、街の地下で魔法が大爆発したなんて……」
「そうね……」
 どこかよそよそしいその反応に、ティルエスは少し首をかしげる。普段ならもう少し何かコメントをつけたりしてくれるのがミーメルの常なのに。
 だがミーメルがそうなるのも無理はない。彼女は、その「地下で魔法が大爆発した」瞬間に居合わせた唯一の人間であり、同時にその下手人を知っているのだから。
 知っているどころか、そいつはちょうどミーメルの隣でしきりに首をひねっているが、当人には一切自覚がないようなので、どうしようもない。
 結局あの後、騒動を聞いて駆けつけたスリースの手によって、二人とも事なきを得た。ティルエスは最上級魔法を使った反動と、二日酔いのため翌日は一日中寝込んでいたが、ミーメルはほぼ無傷だったので、普段通りの生活を送ることができた。今となってはティルエスの方が元気だが。
「それにしても、スリース先生もいじわるだよね」
 まだ若干引きつった顔をしているミーメルをよそに、ティルエスは頬を膨らませながら腰に手を当てた。
「補習があるなら、もっと早く言っておいてくれてもいいのに」
「……それについては謝ってたじゃない、不手際って」
「そうなんだけどー、そうなんだけどー!」
 先ほど、ティルエスはスリースに呼び出されて、補習を言い渡された。完全に夏休みモードで浮かれていたところに、絶妙なタイミングで釘を刺された形だ。
「まあまあ。相方を連れてってもいいって言われただけ、マシでしょ」
「……うん、それはね。ごめんね、ミーメル」
「いーのいーの、困った時はお互い様ってね」
 ティルエスはすまなそうに横目でミーメルを見るが、親友はどうということもなさげに、笑って見せる。その姿は、なんとも頼りがいのあるように見えた。
「でもさあ、補習で魔物退治ってのもなんかおかしな話よね」
 その親友が、一転首をひねりながら腕を組んだ。同じことを思っていただけに、ティルエスもうんうんと頷く。
「だよねぇ? そういうのって、普通はプロの人に任せるものだと思うけど……」
「大体、真昼間からそんな話をしてくるってこと自体いつもと違うわ……」
 そこまで言って、ミーメルは何かしでかしたような顔をした。彼女が言ったことと、その表情の真意がわからずティルエスは目を点にする。
「え、どゆこと?」
「あは、あはは、ううん、なんでもない。ただの独り言」
「?」
 しきりに首を傾げ続けるティルエスの前で、ミーメルは硬い笑いを浮かべながら、両手をぱたぱたと振る。
 ミーメルの言葉をティルエスが理解できないのは無理もない。彼女は、正確には今表の人格が出ている彼女は、夜のことを何一つ記憶していないのだから。
「そ、それより、補習なんてさっさと終わらせてさ、ジェラートでも食べに行こうよ」
 ミーメルの提案は、魅力的だった。その効果はてきめんで、ティルエスはあっさりと抱いていた疑問を放棄すると、手を掲げる。
「うん! 行こう! がんばろー!」
「おー」
 ティルエスが言って、ミーメルも続く。そうして二人は、喧騒を離れて上下水道の管理棟へとやってきた。
 しかし二人がそこに入ると、まるで人の気配がなく、ひっそりと静まり返っていた。思わずティルエスは、その静穏な雰囲気に不気味なものを感じて、歩みを止める。
 スリースから与えられた補習は、下水道に住み着いた魔物を退治することだった。詳しい話は係員から聞いて欲しいとのことで、どういう魔物がいるのか、どれだけの数がいるのかは一切二人には知らされていない。
「奥の水門になんかでっけえのが住み着いちまって、困ってたんだ。退治してくれるなんて、ありがてえ話だ」
 しばらく歩き回ってようやく見つけた、屈強な身体を持つ男の係員はそう言うと、下水道に入る扉を開け放ってくれた。
「ひゃあ、暗い……怖いなあ……」
 その奥を見て、ティルエスは身体びくりと振るわせた。
「大丈夫だって、慣れたら案外暗くないもんだからね」
「うう……ミーメルなんかすごい……」
「あはははは、そうかしら?」
 怯えることなく中に足を踏み入れたミーメルを見て、ティルエスは目を大きくする。本当に、ミーメルは頼りになる。ティルエスは、彼女が一緒に来てくれたことが、嬉しかった。
「それじゃあえっと、行ってきます」
 ミーメルを追おうとする前に、ティルエスは振り返って係員に頭を下げた。
「奥の水門になんかでっけえのが住み着いちまって、困ってたんだ。退治してくれるなんて、ありがてえ話だ」
「……ぅえ?」
 ところが、先ほどとまったく同じ言葉が飛んできて、ティルエスは目を点にした。
 しばらくそうして彼女はその係員のどこかうつろな瞳を見詰めていたが、後ろからミーメルの呼ぶ声が聞こえてきたので、慌ててそこを後にするのだった。
「ねえティルエス、おかしいと思わない?」
「な……何が……?」
 薄暗い下水道を、油断なく周りに目を配りながら先を歩くミーメルが振り返りながら聞いてきた。下水道の雰囲気に圧倒されて、迷える子羊のようになっていたティルエスは、上目遣いに彼女へ聞き返す。
「施設の中よ。いくらなんでも人がいなさすぎると思わない?」
「……ちょ、ちょっと思った……」
 ミーメルの指摘を受けて、ティルエスは少し考えながら言う。怖くていささか頭は回っていないが、それでも確かに、ミーメルが言う通り、施設に人がいないように思う。
「で、でもさ、お休みってことは……?」
「今日平日よ? そんなことってあるのかなあ……」
 ふと浮かんだことを口にしてみるが、それでもミーメルは納得しないし、彼女の言う通り、普通の日にたった一人で施設全てを管理しているなんておかしい気もした。
「……周り、誰もいないわよね」
「え? ……う、うん、いない……わたしたちだけ……」
 周囲を見渡しながら、不意にミーメルがよくわからないことを言うので、ティルエスもつられて周りを見渡す。少なくとも目で見える範囲に、誰かがいるような感じはしなかった。
「じゃ、ちょっと交代して」
「え?」
 ミーメルの、さらにわからない言葉を受けてティルエスは彼女の方を振り返ろうとするが、それより早く、ティルエスは頭が少しだけ軽くなるのを感じた。

「ってわけでさ、あなたはどう思う?」
 ティルエスがかぶっていた帽子を後ろ手に持ちながら、ミーメルはにこりと笑う。
「……おんどりゃ。楽しんでないか?」
「えー、そんなつもりはないわよー?」
 えへへ、と笑うミーメルの顔を、ちょっとひっぱたいてやろうかと思いながら、ティルエスはため息をついた。
 しかし、それでも彼女は目つきを鋭くして、今まで歩いてきた道を振り返る。
「……おかしいな」
「やっぱり? そうよね、天然の表ちゃんがそう思うんだから、よっぽどよね」
「…………。……まあ、確かにな。第一、スリースがこんな真昼間にこんなことを言ってくることがまずおかしい。そんなことはしないという約束だったはずなのに」
「そうよね。それは私も絶対おかしいって思ってた」
「さっきの職員も、様子がおかしかった。表が声をかけても、同じことしか言わなかった。何かあるとしか思えない。目も造り物みたいにうつろで……」
「……そりゃ相当ヘンね。どうしよう?」
「とりあえず、原因を探ってみるしかないだろう。とはいえ……」
 半目で、ティルエスはミーメルの顔を見やる。
「……こんな時間帯に、いきなり交代なんてさせてどうするつもりだ。ひ……表はわたしが出ている間の記憶がないんだぞ。長時間わたしが出ているのはできない」
「……そこはまあ、なんとかするわよ」
「……どうしようもならなくなったら、その時はミーメル……一発ひっぱたく」
「…………」
 ティルエスの言葉に、ミーメルは若干顔を青くしながら頷いた。
 そんな彼女から帽子をひったくると、ティルエスはそれを、兎の耳がはみ出ないように慎重に、頭へと乗せた――。

「……あれ?」
 ティルエスは、目をしばたたかせた。なんだか、少し眠ってしまったような感じがしたのだ。
「どうかした?」
 目の前では、ミーメルが小首をかしげて視線を重ねてきている。それに対して同じように首をかしげながら、ティルエスは頬をかいた。
「……えっと、なんだったっけ?」
「先に進むんでしょ?」
「え……あ、う、うん、そうだったね……」
 ミーメルの言葉に頷きながら、ティルエスは思い出した。ここがどこであるのかということを。
「……ほ、本当に行くの?」
「当たり前でしょ、だってこれやらないと成績出ないのよ?」
「あうー、それは……そう、だけど……」
 なんと言われようと、怖いものは怖い。ティルエスは、うっすらと涙を浮かべて、ミーメルにすがりついた。
「……もー、仕方ないなあ。わかったわよ、私が先歩くから」
「う、うん……ごめん、ありがとう……」
「いーって。じゃ行きましょ、日が暮れないうちにね」
「うん……」
 そして、二人はそろそろと進み始めた。
 この下水道は、アウアドス全体から汚水などが集められた場所だ。さすがに入り口近辺は既に処理が終わったものが巡らされていてそこまでではないが、奥に進めば進むほど、汚れや臭気が目立つようになってくる。要所要所には、設備の設けられた小部屋があり、そこいらに入るとそうしたあまり見たくないものから一時的に目をそらすことができた。
 ところがある程度進んだ時である。突然何もないはずの中空に、青白い炎が浮かび上がった。
「っきゃあー!?」
 それを見て、ティルエスは思わずしりもちをつく。一方ミーメルは、杖を構えながら炎を注視している。
 その炎は、一定の間隔を保ちながら、奥へ奥へと増え続けている。そのたびに火炎が爆ぜる音が鳴り響き、青い光と相まって、不気味でおどろおどろしい雰囲気が満ちていく。
「……やっぱりおかしいわね。こんなのが、下水道にあるわけないもの」
「ううう、怖いよぉ! やっぱり帰ろう、ねっ?」
 ミーメルは冷静だが、ティルエスはそうもいかない。元々あまり度胸の据わっている方ではない上怖がりだから、こんな、いかにもな雰囲気をかもし出す場所に長時間いるのは怖くて怖くてたまらないのだ。
「だからー、帰ったって下手したら落第よ? 怖くっても進まなきゃ!」
「ええぇーん、なんでミーメルそんなだいじょぶなのぉー……」
 涙を浮かべながら言うティルエス。その様子に深い深いため息をついて、ミーメルは頭を抱えた。
「……もうこうなったら仕方ないわ。出てきてもらうしかないわね……」
「ぅー……出るって何がー……」
 ティルエスが顔を上げる。その直前、ミーメルが彼女の帽子をさっと取り払った。

 服の袖でぐい、と目をぬぐうと、ティルエスは静かに立ち上がる。
「……まあ、仕方ないな、こればっかりは」
「でしょ。……でもなんか不思議、さっきまで泣いてたのにもうけろっとしてる」
「うるさい」
 泣き濡れた……のとはまた違う赤い瞳を尖らせて、ティルエスはミーメルをにらんだ。
「でもあれよ、ほら、絶対おかしいって、これ」
「……そうだな」
 ミーメルの言葉に気持ちを切り替えると、ティルエスは虚空でぼんやりと浮かぶ青白い炎を手前から奥に、順繰りに見やった。それらは、まるで彼女たちを気にしていないかのように、ただ静かに燃え盛っている。
 しばらく二人はそのまま炎を見つめていたが、やがて杖を握りなおして、ティルエスが一歩前へ出る。
「行くぞ。ついてこい」
「……完全にさっきまでとは立場逆転ね」
 ミーメルは苦笑を浮かべるが、それも一瞬、すぐに顔を引き締めると、ティルエスの後ろに続いた。
 炎は、進むべき道を示しているかのように、まっすぐに通路を照らしていた。それに従って歩み続けていると、やがて二人は広い空間へと迎え入れられる。
 そこは、アウアドス内の下水が交わる、合流地点の一つだった。ごうごうと水が水槽へ流れ落ちるのを、上から眺めるような形になる。一番奥には、恐らく下水の水量を調節する、水門を動かす装置が見える。
「……別に何もあるようには見えないけど……」
「だな……しかし、油断はしない方が……、――ッ!?」
「な、あ、あれってこないだの!?」
 そこにたどり着いた二人の目の前に、突然土気色のローブが舞い上がった。先ほどまではそこに存在しなかったはずのものが確かにそこにあり、そして、やがてそれは一つの明確な存在を形どる。
 土気色のローブの中に、ぼんやりと浮かび上がる真っ白い仮面。そこに表情は一切なく、ただ雪のごとき白が、冷徹に二人を見つめていた。
「ようこそ……」
 それは、言った。しゃがれた男の声。仮面と同じく真っ白な手袋のはめられた両手を滑らかに、そして大げさに動かして、それは恭しく頭を垂れた。
「あ……あんた……は……」
 その得体の知れない男に、ミーメルは表情を強張らせながらかすかに声を絞り出す。そんなミーメルを庇うようにして前に立ち、ティルエスが杖を構えた。
「本来なら……貴女を迎えるに当たってこのような場所は相応しくないのですが……我輩にも事情と言うものがありますのでね……ご理解いただければと存じ上げます……」
 男は頭を下げたまま、慇懃無礼に言う。そして顔だけをのそりとティルエスに向けた。そこには何も表情はないはずなのに、その白い仮面が、にたりと笑ったように見えた。
「……ふざけるな」
 ティルエスが、言う。
「ふざけるな、ジョーマ! これ以上、貴様の好きにはさせない……!」
 杖の先に魔力を込めて、彼女は男――ジョーマへと杖を向けた。
 しかしジョーマは、くつくつと、押し殺すようにして乾いた笑いを上げると、静かに身体を起こし、両手を広げる。
「いえいえ……我輩、至極真面目ですぞ、姫様……」
「ひ、ひめさま?」
 ジョーマの放った言葉に、ミーメルが上ずった声を上げる。ティルエスが、舌打ちを漏らした。
「我輩、待ちましたぞ……全てを御自ら封印なされた殿下の力が、解放されるその日を……」
 ぐるり、ぐるりとジョーマは手を回す。そこに、瞬時のうちに魔力が濃縮されていく。
「ティルエス・ヒューレン・レイトーユ殿下……時は満ちました……さあ、我輩の元へ……」
「はっ!? ティルエスが!?」
 ミーメルが、思わずティルエスを見た、その時だ。
「リディレム・オ・エ・ゾンダ……我は真実の神イェオニークと契約せし者……この者にうち秘めたるものを映し出せ……アズレンズムス!」
 ジョーマが、その両の手をティルエスめがけて大きく突き出した。その瞬間、合わさった掌から猛烈な光が溢れ、一条の光線がティルエスの身体を貫いた。
「うあああぁぁっ!!」
「ティルエス!?」
 光線を受けたティルエスの身体が、揺らいだ。ワースやレイミスのような、移動魔法を使った後の景色のようにぐにゃりとたわみ、きしみ、そして、彼女の身体が分裂する。
 次の瞬間そこには、まったく同じ服装をした、まったく同じ顔の、まったく同じ兎の耳を持つ少女が二人、うずくまっていた。
「……え、ええ……? え…………?」
 その光景に、ミーメルは言葉を失う。そこには、ティルエスが二人いた。
「……あ、あれ? ここ……どこ……? わたし……」
「く……くそ、いきなりこう来るとは……!」
 二人のティルエスが、口々に言う。
「……あれ? …………。……えー、と……?」
 自分とまったく同じ姿の存在を目にして、ティルエス――表ティルエスが、硬直する。それを認めた裏ティルエスは、表の身体を引き寄せると、ジョーマから守らんと身構えた。
「アズレンズムス……多重人格者の人格を召喚する高等魔法です……」
「え……? す、スリース先生!?」
 ミーメルが振り返ると、いつの間にか後ろにスリースが立っていた。だが普段身に着けている白衣はところどころが切り裂かれており、彼自身の身体にも、無数の切り傷が走っている。
「ちょっと、先生大丈夫!? 傷だらけじゃ……!」
「ほう……スリース教諭……無事でしたか……? あの偽者を負かしてしまうとは……どうやら貴方を見くびっていたようだ……」
 ほほほ、と冗談めかした声をあげて、ジョーマがそんなスリースをあざ笑う。
「やってくれましたね……本当に……。おかげでまんまと二人はここにおびき出されてしまったわけだ……」
「その通り……もう遅いですな……。姫様は、我輩がいただきますゆえ……」
 言うや、ジョーマはぐるり、と手のひらで陣を描いた。妖しい輝きと共に、そこから獅子の頭がぐちゃり、と飛び出てくる。
「……くッ!」
「姫様! ……いえ、エスさん! 姫様を頼みます!」
「スリース、お前は!?」
 混乱して完全に思考が停止した表ティルエスを両手で抱き上げながら、裏ティルエスは入り口へと駆け寄る。
「僕はしんがりをいたします! ……ミーメルさん、あなたも早く逃げてください!」
「え……あ、う、うん!」
「ミーメル早く! こっちだ!」
 スリースの言葉を受けて、ミーメルも二人のティルエスに駆け寄る。
 刹那、粘液を泡立てるような不快な音を響かせて、魔法陣からそれが出現した。獅子の頭に悪魔の翼、熊のごとき前脚と、竜のような後脚を持つ、巨大な化け物。
「行け、バンジュレス……地の果てまでも、ティルエス姫を追い続け……そして我輩の元へ!」
 ジョーマが手を掲げる。ティルエスたちが駆け出すのと、バンジュレスと呼ばれた異形が駆け出すのは、それにあわせたかのように、同時だった。
「ふふふふふ……はははははは……!」
 暗い下水道の中に、ジョーマのあざけるような笑い声が、ぐわんぐわんと鳴り響いた。

「どどどどど、どゆコト!? ねえ、何!? どゆコト!?」
 自分とまったく同じ姿の人間に抱き上げられ、親友と担任と共に下水道の中を、化け物から逃げているというわけのわからない状況の中で、表ティルエスはとりあえず、疑問がたくさんあることを主張していた。
「知らないわよ! 私だって聞きたいわよ!」
 ティルエスのよくわからない問いに、一応形ばかり答えてミーメルはちらりと後ろを見る。
 彼女たちからやや後方では、剣を持ったスリースが、バンジュレスの攻撃をいなしながら、彼女たちに攻撃が届かないように奮闘していた。
「ねえミーメル、わたしって誰? この人は? ドッペルゲンガー? わたし死んじゃう!?」
「違います! わたしはそんなんではありません!」
「みなさん、そこを右に!」
 スリースの声が後ろから飛んできて、三人はとっさに道を右に折れた。
 そこにスリースが続き、バンジュレスが続いた――が、道が狭く、バンジュレスの巨体では、そこを潜り抜けることができなかった。バンジュレスは何度も狭い道に頭をぶつけていたが、やがて通れないことを悟ったのか、ぎるぎる、と悔しそうな鳴き声を上げた。
「スリース、振り切ったか!?」
「一時的ですがね! あ、そこ左です」
 スリースの言葉に従って三人が三叉路を左に曲がると、その先には梯子があった。ほどなくして、そこにたどり着くと、またスリースが言う。
「この梯子を上ってください、学校の中に入れます! 学校なら結界があるので、よほどのことがない限りは無事でいられるはずです!」
「わかった! 姫様、どうぞ!」
「えっと、えっと、よくわかんないけど、とにかく上ればいいんだねっ?」
 よくわかっていないながらも、表ティルエスは梯子を上り始める。そこにミーメルが続き、次いで裏ティルエス、そして最後にスリースが上る。
 短いようで長いその梯子を抜けた先は、その場の誰もが見知った、学校の噴水のほとりだった。

 4.疾走

「さて……どこからお話すればいいものやら……」
 なんとか学校内に戻った四人は、そのままティルエスの自室に落ち着いた。テーブルを囲み、頭をかいてスリースが苦笑する。
「…………」
 その正面には、未だ混乱は残るものの、多少落ち着きを取り戻したティルエス――表――がいる。
「まず、あなたについて話すのが筋ですかね……」
 こほん、と一つ咳払いをして、スリースは居住まいを正した。
「ティルエスさん……あなたの本名は、ティルエス・ヒューレン・レイトーユと言います。ここから遥か北……アイシクルの隣国、亜獣人の国スラウトの王女にして、王位継承権第一位の姫でした」
「…………」
 スリースのその言葉に、ミーメルが目を見開いた。それからその視線がまっすぐティルエスに注がれて、ティルエスはやめて、と言う代わりに首を振る。
「およそ三年前のことです……スラウトは、あのジョーマと名乗る魔法使いにより、崩壊寸前にまで追いやられました」
「奴は姫様が持つ、極めて高い魔力に目をつけて、その魔力を我が物にせんと企んだのです。しかし……当然そんなことを陛下が認められるはずもなく、ならば腕ずくでと、大量の魔物と共に攻め込んできたのです」
 スリースの言葉を裏ティルエスが継ぎ、そして彼女の言葉をまたスリースが継ぐ。
「陥落寸前、陛下は姫様をこのアウアドスまで逃すようにと、僕と、こちらのもう一人のあなたに命じられました。スラウトとアウアドスは北と南の魔法国家、親交は深く、有事の際は協力し合うと同盟を結んでいましたので……」
「わたしは元々、人工的に産み出された魔法生物でした。長く身体の持たない魔法生物でありながら、姫様の護衛として、何度も肉体を更新しながら姫様をお守りしてまいりましたが……陥落により新しい身体を作ることができなくなり……やむを得ず、陛下の判断により、わたしはその人格だけを抽出され、姫様に埋め込まれました」
「そして……ここに着いて間もなく、姫様は記憶と力を自らの力で封印なされ……ティルエス・ヒレイユとして、この学校の生徒となったのです……」
 途方もないスリースと裏ティルエスの話を、ティルエスはひたすら信じられない面持ちで、しかし静かに聞いていた。
 彼女の脳裏には、二人が言ったようなことは何一つ浮かばない。記憶がないのだ。今の彼女にある記憶は、学内でもヘッポコで知られた、遅刻常習犯としての記憶であって、王女だのなんだの、魔物がどうのといった記憶は、まったく欠片も浮かんでこない。
「……わ……わたし……そんなこと、できたん、ですか……?」
 おずおずと言ったティルエスに、裏ティルエスが頷く。
「ええ。姫様は、本来ならばここに来る必要のないほど、高い魔力をお持ちです。……だからこそ、ジョーマに狙われてしまったのですが……」
「アウアドスに来てからもそれは変わらず、よりにもよって奴は街を魔物で孤立させ、あまつさえ街にまで手を出し始めたため……姫様の裏人格であるこちら――僕たちスラウトのものはエスさん、と呼んでおりますが――は、街を、ひいては姫様を守るために、ラビットレディとして人知れず戦いを続けてきたのです」
 街を守る勇者の名を聞いて、ティルエスは裏ティルエス――エスの顔を見た。それを受けて、エスは済まなさそうに顔を伏せる。
「……ミーメルも……?」
「え? あ、いや、私は違うよ。途中参加って言うか……あんたが亜獣人って知っちゃって、それで……まあ、ずるずると一緒に守ることになったって言うか……」
「強引に暴いておいて、何を言う」
「それは言わないでよっ」
 ジト目で口を挟んだエスに、口元に人差し指を当てて見せるミーメル。
「と、とにかく、私はティルエスが王女様だなんてことは知らなかった。……まあ、その、裏ちゃん……エスさん? のこと、黙ってたのは悪いと思う、けど……」
 だんだんと小さくなっていくミーメルの言葉。ティルエスは、頭を抱えてうつむいた。
「……わたし……怖い……」
「姫様……」
「何もかも……ぜんぶぜんぶ怖い……! わたしなんかのために、この街がそんなことになってたなんて……嫌……! そんなの……そんなの嫌……!」
 がたがたと震えるティルエスを見て、三人は言葉を失った。
 実は王女で、命を狙われていて、しかもそのために、いろんな人が犠牲になっている。理解できない以上に、理解したくなかった。今まで当然のように学校で生きてきた、学生としての自分しか持たないティルエスにとって、それは重すぎる現実だった。
 しかし、それはどこまでも現実であり、避けようのない激流の中たった一人でさらされているような苦痛が、彼女の小さな身体を押しつぶしそうだった。
「……バッカモォーン!!」
 突然、テーブルを強く叩いて、ミーメルが立ち上がった。その様子を、三人が三人とも、半ば唖然とした顔で見つめる。
「何さあんたは! こうやって周りがあんたのためにがんばってるって言うのに! くよくよくよくよしやがって!」
「お、おいミーメル……いくらなんでも言いすぎ……」
「あんたは黙ってなさい!」
「うお……」
 啖呵を切ったミーメルを制止しようとしたエスは、ミーメルのあまりの勢いに気圧されて言葉を失った。そして、ミーメルは再びティルエスに向き直る。
「そりゃ厳しい話だと思うわよ! いきなり王女様だなんて言われて、命狙われてるなんて言われて、ビビるなって方が無理よ! でもね! 私の知ってるティルエスは、どんなことにも負けなかった! 成績が悪くっても、魔法ができなくっても、今日みたいに怖いところに行っても! どんなことがあっても、最後はちゃんと、『やった、できた!』って言って、笑ってこなしちゃう根性のある子だった!」
「……う……」
 違う。そんなんじゃない。ティルエスは、言おうとした。けれども、その言葉が出ることはなかった。
 それは違うのだ。いつも最後に笑うことができたのは、それが大きな事態になるようなことじゃなかったから。そして、そこに必ず、からかいながらも笑って、背中を押してくれる親友がいたから――。
「エスさんがいるじゃない! スリース先生だっているじゃない! 私だって……私だっているじゃない! 一人じゃないのに……それなのに! ジョーマの手から逃れて生き残る! そんなこともできないって言うの!? ティルエスの……ティルエスの弱虫っ!」
 まくし立てるミーメル。その顔を、口を、ティルエスはただ見つめることしかできない。
「ティルエスなんか、もう……もうっ、もう知らない……!!」
 最後の方は、震えてほとんど聞き取ることは出来なかった。それを隠すようにして、ミーメルは勢いよく部屋から飛び出していく。
「ミーメル!」
 飛び出していくミーメルを、エスが呼び止めようとする。しかし、それすらも振り払って、ミーメルはそのまま部屋の外へと消えた。
「…………」
 ティルエスは、その親友の姿を涙で濡れた瞳で追いながら、見えなくなってもそれでも彼女の幻影を負いながら、頭の中で彼女の言葉を反芻していた。

 夜のアウアドス。みなが寝静まった時間。人影が一つ、大通りを南口に向かって駆けていた。
 桃色の装束と帽子は、この街のものなら誰もが知る司祭学校の女生徒の制服。手にした杖も、学生が持つトレードマークの一つだ。
 彼女の名前は、ティルエス・ヒレイユ。未だレイトーユの記憶を持たぬ、器であるだけの王女。
「……ごめんね……みんな……」
 彼女は、走りながら後ろを振り返った。そこには、夜の闇の中に聳え立つ、学校の姿がある。中には、この三年間で親しんだ、多くの人がいる。けれど、そんな人たちが、自分がいるというだけで傷ついてしまうなんて、考えたくなかった。
 だから。
「ごめんね……わたし、今のわたしには、これしか……」
 だから、彼女は走る。
 相手の、ジョーマの狙いが自分なら、自分がいなければいい。自分がいなければ、彼が、あるいは彼女が傷つくことはないはずだから。大好きなこの街が、壊されることはないはずだから。
 みんなが知ったら、やっぱり怒るかな。ティルエスは、苦笑する。何せ、エスにさえ相談せずに飛び出したのだから、怒られても仕方がない。
 いささか飛びぬけた発想ではあった。しかし、それでもジョーマ相手に一矢報いるには、これしか浮かばなかったのだ。
 アウアドスの南門を潜り抜けて、ティルエスは最後にもう一度だけ、三年間を過ごした街を振り返った。
 楽しかった日々が脳裏をよぎる。
 一緒に、紅茶飲んだね。ありがとう、ミーメル。あなたがいたから、わたしはがんばれた。あなたがいたから、わたしは戦える。
 ティルエスは、街の外へと顔を向ける。夜の闇の中、そこに広がっているはずの草原は、ほとんど目で見ることはできない。
 しかし、それでも彼女はためらうことなく、その中を走っていく。
 誰かとすれ違った気がした。魔法使いのような格好をしていたような気がするけれど、今はそんなことを考えている余裕はなかった。
 刹那、獣の咆哮が聞こえた。獅子に似ているが、決して獅子のそれではない、異形の叫び声。空から、兎を追いし四の身体持つ獣が迫ってきていた。バンジュレス。
「来た、やっぱり来た……!」
「ファイアム!」
 女性の声と共に、爆音が響いた。最上級ではないにせよ、上級クラスの魔法が夜の草原に冴え渡ったらしい。何事かとティルエスは振り返るが、未だ熱風収まらぬ夜空に、バンジュレスが火炎を突き破って現れる。
「……誰かわかんないけど、助けてくれたのかな……?」
 そう思ったら、なおさら追いつかれるわけにはいかないと、ティルエスは思った。
 一人じゃない。ミーメルの言葉が脳裏をよぎる。そう、一人じゃないのだ!
 暗闇の中にあってただ一つ、煌々と輝くバンジュレスの双眸を睨み返して、ティルエスは声を張り上げる。
「そんなに欲しければ、捕まえてみなさい!」
 それは、ひどく危険で、そして長い鬼ごっこの始まりだった。