風よ東か樹よ西か
 裂かれし絆は何処かと 聞きて尋ねて流離えり
 月よ南か陽よ北か
 流れに流れて 此は何処 いつしか流浪の名剣士
 されど尾を引く不運症 方々何かと受難あり
 行けば街道行き止まり 渡れば海原大時化と
 旅路は大凶 災難続き
 これは定めか 思し召し
 此度の受難は 如何なるや
 三食子守と なりしかな

 『桃色の吟遊詩人の唄』


 1.到着

 今で言えば、砂漠が大部分を占め、そうでないところも大概が豊かでない土壌を持つ国、というのが、ハンタックスの特徴である。
 とはいえ、この惨状はその昔リサイラスが起こした大地震が原因であり、その時を境にさかのぼれば、実はそれなりに潤っていた場所である。
 そうは言ってもこの時代、既に砂漠の国となりつつあったハンタックスは、やはり人々が集まる場所とは言えなかった。
 こんな荒れた土地にやってくるのは、出稼ぎから戻ってきた若者か、自分の腕を磨こうとする冒険者か、あるいは大きな国から逃げてきた犯罪者か――せいぜい、人探しくらいが関の山。
 そんなハンタックスの大地を、今、踏みしめた若者が一人、いた。
 若者の名はタック・ビーカ。この広いフェイレンワールドを、一人でずっと旅をしているというさすらいの剣士、フリーファイターである。
 彼が旅をしているのは、いわく、自分の腕試し、ということである。それは剣の腕だけでなく、旅をする力そのものも含んではいるが、それでも、その言葉がすべてではない。
「……うっぷ」
 大地を踏みしめた、とは言うものの、その顔にはじっとりと脂汗が浮かんでおり、表情にも力……というか、生気がない。
「……酔った……」
 無理もなかった。
 道中、彼の乗る定期船は嵐に遭遇し、その航行は困難を極めた。おまけに魔物にも襲われて、ひどく不安定な状態の中で彼は孤軍奮闘するはめになった。
 魔物は追い払う事ができたものの、その反動か、船酔い状態がずっと続いている。
 コデアの一つでも習得しておけばよかった、などと彼は思ったが、後悔とは文字通り、後になってから悔いることである。
「……ふー……」
 新鮮な空気をたっぷりと体内に取り込んで、タックは空を仰ぐ。あの嵐が嘘のように、太陽がさんさんと輝いていた。あまりに生命力溢れるその姿は、衰弱した身体にはまぶしすぎた。
「……大丈夫かい、お客さんや」
 そんな彼を心配してか、受付の老婆が声をかけてきた。
「大丈夫、こんなのは慣れてるから。それに、酔い止め持ち込むのを忘れた俺が悪いんだしな」
 ははは、と乾いた笑いをあげて手を振る。まさに空元気である。
「無理しちゃあいかんよ。近くの村はそう遠くはないから、悪い事は言わん、少し身体を休めてから行きんさい」
「や、どーも、ありがとございます」
 老婆の気遣いが、骨身に染みるのだった。タックは反射的に頭を下げた。
 それを見て受付に戻った老婆の言葉に従い、待合を兼ねているだろう椅子に腰掛けて、彼は窓から外を眺める。芝生のように細々とした草が、少々まばらに生えていた。土肌が露出した部分がまっすぐに伸びているが、そこは恐らく旅人たちが何度も通った場所なのだろう。
 フェイレンワールドは広い。とかく広い。だが、様々な場所を見て歩いてきたタックでも、ハンタックスほど荒れている場所はあまり見たことがない。
 しばらくそこで船酔いが収まるのを待ち、なんとか問題なく動けるようになったころ、タックは静かに立ち上がった。
 それから両頬を叩いて気持ちを入れ替えると、船着場を後にする。あの老婆の声が後ろから聞こえたので、振り返りながら手を振った。
「えーっと、ここが船着場で……最寄の……スンメルがここで……」
 歩きながら懐から地図を取り出して、方向を確認する。
「……うーん、森を通るのは遠慮したいトコだな……」
 直線距離にして、そこからスンメルまではさほど遠くはない。だがまっすぐに行くと、途中で森に行き当たってしまう、と地図は告げていた。
 見通しのあまり利かない場所ではいつ魔物に襲われるとも知れない。できれば、開けた場所を通ったほうがいい。
 それが長い間一人旅を続けてきたタックの考えだった。
「ま、多分通らないルートになってるよな、ここ。もし森に入るようになってるなら、そんときに改めて考えればいいか」
 言って、彼は地図をしまいこんだ。
 旅人たちが踏みしめて自然と道となった場所は、元から動きやすい場所であることが大半である。人が行き来しやすいところだからこそ何度も人が通るのであり、それが道になるのは自明の理。
 だからこそ、この道がまだあの災害が起こる前、豊かだった時代からあったのだとするならば、恐らく森は避けるように続いているはずだ。
 先人たちが踏み固めた道を歩みながら、あくびをかみ殺す。見通しがいいので、魔物などは襲われる前にその姿を確認できる。それでも魔物というのは襲い掛かってくる奴が少なくないのだが、ひとまず周辺には、そうした好戦的なものはいないらしい。
 そうして、しばらくは穏やかな時間が過ぎていく。

 スンメルに到着した時、既に日は落ちかかっていた。暮れなずむ村の風景は、やはり今の国情を反映しているのか、どこか寂しげだった。
 とはいえ、今日の道程で見てきたような、荒野の雰囲気は少なくともこの村の中では感じられない。森を切り開いて建設されたらしく、家並みの傍らには切り株たちの姿が見える。遠くからは、小川のせせらぎ。どちらかと言うと、のどかな田舎町、という表現がしっくりくる。
 心配した森は、道中避けて進めるようになっていて、杞憂に終わった。魔物にも襲われなかったし、今日は珍しく、ツイてるなとタックは内心呟いた。
 無事に村までたどり着きはしたが、これからは夜、基本的には活動しない時間だ。身体を休めるために、彼は宿へと足を向けた。
 レンガ造りの宿は素朴で、どこか郷愁が漂っている。その木戸を押して中に入ると、タックはいくつもの視線に迎えられて、思わず一瞬たじろいだ。
 視線の主たちはみな一様に旅装束であり、どうやら彼らもタックと同じく冒険者のようだ。そんな連中から視線を浴びるような覚えはない。
 自分はそれほどまでに有名なのかと自惚れるほど、大したことはしてきていないし、かといって珍妙な風体をしているというわけでもない。
 首をかしげながらも、彼はひとまずカウンターへ向かう。
「一人なんだけど、いいかい?」
 彼がそう言って人差し指を立てると、ひどく申し訳なさそうに縮こまっていた受付の女性は急に嬉しそうな顔になり、いそいそと宿帳を取り出して羽ペンを差し出してきた。
「良かった、これでまた何人もいらっしゃったらどうしようかと思ってましたよう」
 タックがカウンターに身体を預けながら自分の名前を書き込んでいると、上からそんな声が聞こえてきたので彼は思わずそちらに顔を向ける。
「いえね、ここ最近、ちょっとあってね……南に向かうって人たちが足止め食っちゃってるんですよう。だから部屋が空いてなくって、一人部屋ならなんとか一つ空いてたってわけで」
 ほほほ、と口元に手を当てるその女性はしがらみから解放されたかのようにうきうきとしているが、タックは背中に突き刺さる痛い視線をひしひしと感じて、苦笑を浮かべることしかできなかった。
 ――なるほど、だからあの連中は、俺が入った瞬間、一斉に見てきたんだな。
 だとするならば、一体何が起きているのか。自分も足止めされるのだろうか。やれやれ、また自分の不運症が顔を出したらしい。
 部屋に案内される途中、壁で小さくはぜるランタンの火を順繰りに見やりながら、タックは小さくため息をついた。
「おー、なかなかいい部屋じゃんか。結構結構」
 案内された部屋は、調度品から寝具に至るまで、質素にまとめられていた。が、旅に次ぐ旅を重ねてきた彼にしてみれば、それだけで十分である。
「あ、やべー、これもう起き上がれないな……」
 何気なくベッドの上に倒れこんでみて、タックは自分が考えている以上に疲れていることを始めて自覚した。
 せめて汗くらいは流してから寝ようと思っていたのだが、ベッドの魔力は強大で抗えず、そのまま吸い込まれるようにして眠りの底に落ちていく。
 そうした中で、彼は泊まる事のできなかった連中に一応心の中で頭を下げつつも、なんとか滑り込む事ができた、自分にしては珍しい幸運を感じながら睡魔に身を任せるのだった。

 2.夢幻

 十数日後。
 陰鬱な表情を浮かべて、タックはスンメルの道具屋で旅のお供であるポーションやシェルターを見繕っていた。
 あれから彼は話を聞いてまわり、どうやら南へ抜ける唯一の道である渓谷を通ろうとすると、スンメルまで戻されてしまうらしいという情報を入手した。
 まさかそんなこと、あるはずがないと、半信半疑だったが、やはり百聞は一見にしかずと言う。実際に体験してみれば、それが事実であるとわかった。わかりたくもなかったが。
 実際にその渓谷に足を運んだタックは、他の冒険者たちと同じく、気づけばスンメルのすぐ近くにたたずんでいた。
 まったく、世の中にはわけのわからないことがあるものだ。一体、どうすればいいのやら。
 北の船着場は、レグアにしか通じていない。懐事情を考えると、あまり喜ばしいことではなかった。
 ――それにしても。
 買い物を済ませて道具屋を後にし、がしがしと頭をかきながら彼は空を仰ぐ。
「……誰なんだ、あの声の主は?」
 渓谷からスンメル近くまでにいつの間にか移ってしまっていたあの一瞬、確かに誰かの声を聞いたような気がするのだ。
 どこか切羽詰ったような、そんな色を帯びていた。途切れ途切れだったため、どういうことを言っていたのか、それはわからなかったけれども。
「あの声の主、なのかな……下手人は」
 仮にそうだとしても、恐らくこのままでは手も足も出ない。何せ、何かをされたという認識も持てないまま、スンメルまで戻されていたのだから。
 とはいえ、対処法など浮かばない。だからこの数日、彼は何日も泊まるはめになった宿の代金のために、スンメルの周りで魔物を狩る作業に追われていた。このままくすぶっていては、この村の住人になってしまいそうだった。
「声が、どうかしたのかい?」
 ため息をつくタックの後ろから、声が飛んできた。
「あれ? ばあさん、あんた確か船着場に……」
 振り返ったタックが見たのは確かに、船着場で気遣ってくれた、受付の老婆だった。
「覚えていてくれたのかい、嬉しいねぇ」
「覚えてるさ。あんときは心配させて、悪かったなぁ」
「いいんだよ、年寄りのおせっかいさ」
 思いがけずちょっとした知り合いに出会い、彼は明るい表情を浮かべる。
「……ん? どうしたんだ、その荷物?」
 老婆が背負っている荷物を見て、ふと首をかしげるタック。
「ああこれかい? あの仕事は交代制だからね、しばらくは家で、のんびりさ」
「なるほど。じゃあ、それ持つよ。ばあさんち、どこだ?」
「いいのかい? それじゃ、若者の好意に甘えようかねぇ」
 言って、老婆が背負っていた荷物を下ろし、タックはそれを受け取った。見た目よりもかなり重く、彼は思わず目を丸くした。

「……へえ、あの谷でそんなことがねぇ」
「もうお手上げなんだよー。いっそこのままなら、レグアまで戻るのもありかなって……」
 老婆と並んで彼女の家に向かう途中、タックはやるせない己の胸中を吐露した。誰かに愚痴でも言わないと、やっていられなかったのだ。
「ここだよ。すまないねぇ、ありがとうよ。せめて、お茶でもどうかね?」
「いいのか? じゃあ、ま、偉大な大先輩にならって……『いただこう』」
 案内された席に紅茶が振舞われ、タックはそれを一口すする。久しぶりに、嗜好品を口にした気がした。
「……あー、これうまいや」
「ほほ、年の功じゃな」
 老婆はにこにこと、どこか楽しそうだった。
「時に……件の怪現象、もしかすると、『夢幻』かもしれんのう」
「……ん?」
 いきなり話が変わって、タックはカップに口をつけたままで身体を凍らせた。
「何、古い話なんじゃがな。昔な、幻獣や精霊を呼び出したり、あるいは夢の世界を見せたりといった芸当のできる、『夢幻使い』という一族がいたらしいんじゃよ」
 タックの凝視を受け止めながら、老婆も紅茶を口にする。
「……今もその一族がいるという話は聞かんが、生き残りは色んなところに散っておるとは聞く」
「……そ、その話、もうちょっと詳しく聞かせてくれないか?」
 思わず音を立ててカップを置き、タックは身を乗り出した。
「夢幻を受けた時には、使い手の思念が声になって聞こえてくることがある、らしいの」
「使い手の思念が声に……」
 鸚鵡返しに呟いて、彼は表情を険しくした。
「もしも夢幻にかかってしまったら、とにかく別の事を考えることじゃ。何でもいい、関係のない事を考えるのじゃ。そうすれば、術の効きは悪くなる。そうしたら……あとは、術者を倒すだけじゃ。術者を倒さぬ限り、夢幻は解けぬ」
「…………」
 老婆の言葉に、もはや紅茶のことなど意識の中から吹き飛んでしまったタックは、しばらくその場で顔を伏せて考え込んでいた。
 その様子を見つめながら、老婆はまた紅茶をすする。
「すまん、俺、ちょっと用事思い出した! せっかく呼んでくれたのに悪いんだけど、これで失礼させてもらうよ」
 不意に立ち上がって、タックは荷物を手にかける。
「ん、年寄りのことなぞ気にせんでええ。行っておいで」
 微笑を浮かべる老婆に対して、何度も謝辞を述べながら彼はその家を後にした。
「思わぬところで思わぬ情報が手に入ったぜ……早速明日の朝、出発だ!」
 スンメルの村を走り抜けて、まっすぐに宿へと戻る。
 宿の中も走って自室に戻ると、そのまま荷物の整理を始める。光明が、見えた気がした。

 ハン渓谷はハンタックスを南北に分ける山脈に唯一穿たれた天然の道であり、昔から多くの人間がここを通って南北を行き来してきた。
 だが、ここも荒廃の一途をたどっている。
 南部は既に砂漠と化しており、その影響は徐々に広がっている。この渓谷も、草木のほとんど生えない、荒れ果てた姿をタックの前にさらしていた。
「…………」
 そんな渓谷の入り口で、タックは目を閉じて呼吸を整えている。
 同じ手は、食うものか。決意を固め、彼は一歩を踏み出した。
 ほどなくして、彼はあの、奇妙な感覚にとらわれた。何かに取り憑かれ、意識がぼんやりとかすみ、身体が浮き上がるような感覚。
 それに続いて、あの声が頭の中に響く。
『…………は…………だもん…………。なのに…………して…………?』
「ここだな! ここで何か、別のことを……!」
 ぐんぐんと身体が浮き上がっていくような錯覚をこらえながら、タックは断続的に思考を繰り返した。
 好きな食べ物の事、戦いたくない相手の事、それから、さらわれてしまったあの日から会っていない姉の事……。
 姉がさらわれて、もう何年になるだろうか。あれ以来、タックの人生は決まったと言ってもよかった。
 姉を見つけ出すために、ただそれだけのために家を飛び出し、ただ一人で腕を磨き、ここまでやってきた。彼女を取り戻すまでは、終われないのだ――。
 出し抜けに景色が変わった。それまでは確実に渓谷にいたはずだが、しかしスンメル周辺の景色でもない。
 それは考えるまでもなく明らかで、なぜならそこは、極彩色が入り乱れ、交じり合う、不可思議な場所と変じていたからだ。
「……な、なあっ? なんだここ?」
 周囲を見渡す。見渡すために身体を動かして、意外にもこの空間が上下左右がしっかりしており、普段通りに足で立っていられることがわかって、多少落ち着く事ができた。
「……よくここまで来れたね」
 タックがきょろきょろと周りに目を配っていると、これまた出し抜けに声が響いてきた。今度は頭の中に響く声ではない。直接に耳に伝わってくる声だ。
「…………」
 その声に思わず身構えるタックをまったく意に介していないように、彼の目の前に少年の姿がじわりと浮き上がった。水の中から浮かび上がってきたような、そんな雰囲気だった。
「……誰だ?」
 現れた人影が子供のものであることを認識して、タックは構えを解いた。だが、そんな彼とは対照的に、少年の手には剣が握られている。
「ボクの名前はティレッティ。れっきとした、男の子だよ」
 少年は、名乗った。言いながら、にっと笑う。
「……はあ……そですか……」
 そんな状況ではないはずなのに、妙に和やかな雰囲気を感じながらタックは頬をかく。ティレッティと名乗った赤髪の少年の言葉に、強烈な違和感を感じて、首もかしげた。
 だが、次に紡ぎだされた言葉は、タックの度肝を抜いた。
「……生かしては帰さないよ」
「……は!?」
 彼が唖然としている間にも、ティレッティは剣を構え、一歩、また一歩と近づいてくる。
「問答無用だよ! ボクが、ボクが本当に男の子だってこと、証明してやるんだ!」
「ま、待て、俺は子供とやりあうつもりなんてこれっぽっちも……うひょおぉぉ、人の話を聞けえぇー!?」
 まさに問答無用だった。一気に距離を詰めると、ティレッティは容赦なくその刀身をタックめがけて振り下ろす。かろうじて後ろに跳んで回避するが、無論それで終わるはずはない。
 剣がぐいと持ち上がり、そのままの勢いで横に飛んでくる。一撃が、タックの身体をかすめた。
「やめろ! なぜこんなことをする!?」
 だが怪我はほとんどない。横からの攻撃に合わせる形で、その流れる方向へ跳んだのだ。
 なんとか自分の剣の柄に手をかけて、タックは叫んだ。
「なんで……? さっき言ったじゃない!」
 言って、またティレッティが駆けてくる。剣を振りかぶっての攻撃だ。
「ボクは男の子だって、証明するんだよ!」
 金属音が、その何もない空間にこだました。
 一瞬で抜き払ったタックの剣が、まっすぐ正確にティレッティのそれを受け止めていた。
「……やるね!」
 それを見て、ティレッティは数歩退く。だが、戦う気は消えていない。どこまでも、目が本気だった。
「これはどう!?」
「くそっ、話も聞いてくれやしない……こうなったら不本意だが……」
 また突進してくるティレッティの攻撃に備えて、タックは剣を構えなおす。
 再び金属音、今度は二回。
「……仕方ない、黙らせるしかなさそーだ……!」
 素早いティレッティの二段攻撃をいともあっさりと受け止めて、それを弾き返す。
「や、やるじゃん……」
 ティレッティは二段斬りを受け止められたことに、少なからずショックを受けているらしい。先ほどよりも距離を取っている。
「それじゃあこれは!?」
 だが、やはり戦意は失っていない。なおも向かってくるティレッティに、小さく舌打ちをこぼしながらタックは身構え、来る攻撃の動きに集中する。
 タックの目の前で、ティレッティは横に剣を薙いできた。だがタックがそれに合わせようとすると、するりと剣が下に抜け、逆袈裟に剣が振り上がってくる。フェイントだ。
「…………」
 ――が。
「な……っ!?」
 タックとて、伊達に旅をして回っているわけではない。確かに、ティレッティのフェイントは見事だった。何歳かは知らないが、これだけの動きを見せる子供はそうはいない。
 だが、いかんせん、力が足りない。速さが足りない。
 まだ身体の出来上がっていない子供の攻撃は、修羅場を潜り抜けてきたタックから見れば、ぬるいものだった。
 そして、ティレッティが攻撃を防がれて気を取られているその隙に、タックは剣と剣をあわせたまま更に一歩深く踏み込み、ティレッティの首筋に手刀を入れた。
 利き腕ではないのでそれほどの威力はないが、それでもティレッティには大きなダメージとなったようだ。剣を取り落とし、そのままがくりとひざと両手を地に突いた。
「……う……そ……」
 これでもまだ襲い掛かってこられたらたまらないと、タックは己の剣を鞘に収め、ティレッティの持っていた剣を拾い上げながら、ふう、と大きく息を吐いた。
 子供と戦うなんて、不本意にもほどがある。それも真剣でやりあうなんて、まったくどうかしている。
 そんなことを考えながら、ひとまずどう声をかけようかと決めあぐねていると、タックの目の前でティレッティの姿が急にゆがんだ。
 そして、そのまままるで消滅するかのように、ずぷりとこの不可思議な空間の中へと沈んでいってしまった。
「な、えぇっ、ちょっと、は、何で!?」
 あまりの出来事に、タックは意味のない言葉を連呼するしかできない。
「…………」
 しばらく、沈黙が場を支配した。
「お……俺は……俺は子供を殺めてしまったのかあぁー!?」
 手にした剣をその場に転がして、タックは両手で頭を抱える。彼のどうにもやるせない叫びだけがそこに響いた。
 が、そんな彼のことなど至極どうでもよさそうに、また出し抜けに世界が揺れた。一瞬、強い光が彼の後ろから放たれて、思わず彼はそちらに向き直る。
「あ……ああ? 今度は女の子が……」
 そこには、金髪の少女がくずおれていた。しかし服は着ていない。タックの頭はますます混乱の度を極めようとしていた。
「女の子って言うなーッ!」
 しかしその瞬間、タックの頭の中に大音声が響き渡った。耳からも同じ声が聞こえているのだが、それと同時に、そしてそれ以上に、脳に直接、音が鳴り響く。頭を思いっきり殴られたような感覚に陥り、タックは思わず片ひざを突く。
「どぅおおぉぉ……! なんだこりゃ、頭ん中に声が……!」
 船酔いとはまた若干異なる頭痛とめまいをこらえながら、彼は前方の少女に目を向ける。
「女の子って……言うな……! 女の子って……言うなぁ……!」
 少女は泣いていた。その言葉は、今度はちゃんと耳にだけ届き、その声が、先ほどまでいた少年の声と同じであることに思い至り、タックはなんとか立ち上がると、数歩少女に――ティレッティに、歩み寄る。
「……お前か、んなこと言うのは……」
「……女の子、て、……言うな……」
「あんなぁ……」
 まだ痛む頭をさすりながら、タックはため息をつく。
「お前はどう見たって女の子だろーが」
 刹那、涙を目にためた顔をきっと向け、ティレッティが叫ぶ。
「だまれええぇぇー!!」
 するとその声はまたタックの脳内でこだまして、ぐらぐらと視界が揺らいでまたひざを突く。
「そ……それはやめぇい……!」
 頭の中に直接何か刺し込まれたような強烈な痛みに必死で耐えながら、なんとかそう搾り出す。
 だが、タックの言葉は届いておらず、ティレッティは顔を伏せて涙をこらえている。
「ぐ……く……、し、……っかたねぇなぁ……!」
 どうにも埒が明かないので、タックはまた歩み寄る。ティレッティの目の前までたどり着くと、彼女はまた、涙をこらえて口をへの字にした顔を向けてきた。
「……な、……んだよ……」
「お前なぁ……なんでこんなことしたんだよ?」
 言ってから、ティレッティが一糸纏わぬ姿であることを再認識して、タックは思わず目線をずらした。
「……お前に……言ったって、わかる、もんか……」
 そう答えて、ティレッティはまた顔を伏せる。
「……いいか? あの谷が通れないと先に進めないって、大勢の人が困ってるんだぞ? わかってんのか?」
「…………」
 若干言葉にとげを入れてタックが言うと、ティレッティはびくりと肩を震わせた。
「……ふ……ぅ、……う……うわああぁぁーん!!」
 そして、弾けたように声を上げて泣き始めた。それまでなんとか涙を押さえ込んできた堤は決壊したらしく、彼女の瞳からはとめどなく涙が溢れ、止まらない。
 そんな彼女を前にしてどうしたらいいのかわからず、タックはとりあえず、その場にしゃがむと彼女の頭をそっと、優しく撫でる。
 タックはしばらくそのまま、彼女が泣くのに任せてあえて何を言わず、ようやく彼女が落ち着いてきた頃合を見計らって、静かに声をかけた。
「……あー……、まあ……なんだ……。なんか事情があるってんなら、俺でよければ聞くよ」
「…………」
 ティレッティはまだ鼻をすすっていたが、やがてぽつり、ぽつりと言葉を口にし始める。
「ボ……ク……知ら……なかったんだ……。自分が……女の子……だって……こと……」
 そう言って、またティレッティが涙を流すので、タックは急かすことなく、ただ黙って彼女の頭を撫でて、無理に続きを促さないことにした。
「ボク……孤児で……。……親分に、拾われて育ったんだ……。……ボクを、ホントの……子供みたいに、育ててくれて……楽し、かった……」
 親分、という言葉が若干ひっかかったが、まずは話を聞こうと、タックは静かに相槌を打つ。
「でも……っ! でも……急にできた、新しい……ところと……なわばりの、争いになって……! そしたら……そしたら、急に……」
 そこまで言って、ティレッティは黙り込んだ。いや、言葉を出せないのだろう。しばらくそのまま泣きじゃくる。タックはただ、待ち続けた。
「親分、急に……! 『縄張り争いに女はいらねぇ』……って、言って、ぇ……! ボクを……ボクを……ここに……捨てたんだ、よぉ……!」
 感情が爆発したのだろう、それだけ、なんとか搾り出して、ティレッティはまた、声を上げて泣き始める。
「ボク、はぁ……っ! ボクはっ、か、帰りたかった……! 帰りたくって、でも、でもっ、……女の子じゃ、帰れないからっ、だから……だから……。……だからぁ、ボク……男の人、に、勝って……! その人……みたいになって……なり、きって! 男の子に、……男の子になりたかったんだぁっ!」
 泣きながら叫んで、そして、もう一度ティレッティは泣いた。
 早くから家を飛び出し、流浪の旅を続けていたタックに、子供を育てた経験などあるはずはない。無論、子供をあやしたこともない。
 それでも、彼はティレッティがとにかく落ち着けるように、静かにその言葉を正面から受け止めて、彼女の小さくて頼りない肩を抱きすくめた。心の底から泣くくらい悲しい時、人は自然と人のぬくもりを求めるものだから。
 どれほどそうしていたかは定かではない。見る人が見たら犯罪者扱いされかねない、いや、むしろ確実にそうされる構図になっていることは置いておき、ひとまず泣き止んだティレッティの視線に自分の視線を重ねて、タックはおもむろに口を開いた。
「……これはさ、俺の勝手な推測だぞ。推測だけどな……ひょっとしたら、その親分ってのは、お前を戦いに巻き込みたくなかったんじゃねーか?」
 泣き濡れて潤むティレッティの瞳が、大きく見開かれた。
「な……なんで、わかるんだよ……」
「だから推測だって。……でもさ、俺が親なら、男とか女とか関係なく、育てた子供をんな血なまぐさいところに連れ込みたくないぞ。だからその人も、そうだったんじゃねーかなって思ったんだ。よく見なくたって、お前可愛いツラしてるし、な」
「…………」
「『親の心子知らず』って言うしな。ん? これはちょっと違うかな……まあ、それはいいや。とにかく、俺はその、お前を捨てたってのは、ちょいとばかし強引で雑ではあるけど、その人なりの愛情があるからこそだと、そう思うわけだ」
 タックの言葉に、ティレッティは黙り込んだ。
「……そうだと、いいね……」
 それから、寂しげに視線をそらす。
「いっそ、戻ってみたらどうだ? 実際のところがどうなのかはわかんねーし、責任持てって言われてもアレだけど……かといって、こんなところにずっといたって、どうしようもないだろ?」
「…………」
「世の中なるようにしかなんねーけど、こっちから動かないと、結果だってついてこないだろ。やってみたら、意外といけたってのは結構あるぞ?」
「…………なさい」
 うまく聞き取れなくて、タックは首をかしげる。
「ん?」
「ごめんなさい……」
 今度はしっかり聞こえたので、彼はふ、っと表情を崩すと、ティレッティの金髪をわしわしと撫でて、立ち上がった。
「いーよ、もう」
 その瞬間、周囲の景色がぐらりと揺れた。極彩色が失われ、それに合わせるようにして、見たことのある景色が徐々に浮かび上がってくる。一瞬、身体が大地に沈み込むような錯覚に襲われた。
 気がつけば、そこは前後を失った場所。ハン渓谷の、入り口だった。どうやら、夢幻による世界は消えたらしい。
 とにもかくにも、不思議、という言葉をそのまま表現したような現象だった。あまり心臓にはよろしくないが。
「お、おおー、すげーなぁ」
 そう言ってタックがティレッティへ振り向くが、彼はその瞬間言葉を失って硬直した。しばらくの後、なんとか言葉をひりだす。
「……お前……服は……?」
「…………あ」
 ティレッティは、言われるまで気がついていなかったようだ。タックの言葉を受けて自分の身体を見下ろし、それから慌てて胸に腕を回す。
「……あ、あそこと一緒に、け、消しちゃった……」
「うひょー!?」
 わけのわからない言葉を発して、わけのわからない格好をして、タックは固まった。ティレッティは、赤面して視線を泳がせている。
 二人の間を、わびしい音を奏でながら一陣の風が吹き抜けていく。砂煙がそれに伴って舞い上がる。
「……し、しゃーねぇな、スンメルに戻って、服、買おう……」
「……ふ、ふえぇ……ありがとう……」
「こ、こんなものしかないが、まあ、何もないよりは……」
 言って、タックは荷物袋から止血用に残しておいた新品のタオルを差し出した。
「う……うん……ガマンする……。ボクの心は、いつだって男の子だもん……!」
(それはどこか何かが違うと思うなぁ……)
 心の中でティレッティの発言に突っ込みながら、タックはきびすを返して彼女に背を向けた。

 3.胎動

 ハンタックスの南部は、そのほぼすべてが砂漠である。ハン渓谷を抜けたら、そこから先は生物の営みを拒む、過酷な場所なのだ。
 だが、そんな場所でも人は住んでいる。どれほど劣悪な環境下であろうと、それに適応してしまうのが人間という種の強さであり、生き残ってきた所以と言えるだろう。
 そうした南部砂漠のおおよそ中心付近、唯一のオアシス地帯にこれまた唯一残った街、タルアがある。かつては湖畔にたたずむ保養地だったタルアだが、今は人々が集う砂漠の交易地点としてにぎわっている。
「なるほど、今の南部はこんな感じなのか……」
 道具屋で地図を買い換えて、早速それを確認しながらタックが言う。彼の持っていた地図は若干古く、道中道に迷ったりしたのだが、彼にしてみればそれは、ある意味普段通りと言えるかもしれない。
「で? お前の家はここから南西だって?」
「……うん、半島の真ん中くらいにあるんだ」
 彼が地図から視線を移した先には、旅装束を身にまとい、金髪をポニーテールにまとめたティレッティがいる。強く照りつける太陽の下にあって、彼女の大きくて丸い瞳は輝いていた。
 結局、タックはティレッティを家まで送り届ける事にした。この広い砂漠を子供一人で行け、などと突き放せるほど、彼は冷血漢ではない。道中で、彼女のいた家というのがどうも盗賊団らしい、と言う話を聞いて若干心が折れそうにもなったが。
「半島の真ん中ねぇ……さすがに今から行くにはちょいと遠いな……。乗り物でも借りられれば別だろうけど」
 地図を見直して、タックはうなる。
「ま、想定の範囲内だな。今日は諦めて、宿に戻るか」
「うん」
 言って地図をしまい、タックは大きく伸びをした。まだ日は高いが、たまには息を抜くのも悪くない。
「あいよー、どいたどいたー!」
 そうした二人の前から、荷馬車を連れたキャラバンがやってきた。どうやら、久しぶりに北部から物資が届けられたようだ。
「ねえ、荷を見てきていい?」
「そうだな、なんかめぼしいものがあるかもな」
 その物資の流通を滞らせていた下手人が、よもやここにいるとは誰も思うまい。
 苦笑を浮かべて、タックは小さな身体ですいすいと人ごみを掻き分けて進んでいくティレッティを追いかける。
 キャラバンが到着して、タルアの市はさらに活気を帯び始めた。レグア地方との交流がある北部からもたらされるのは、食料や旅には必須の携行品が多い。また、冒険者にはかかせない武器、防具やその原材料などなど、そのどれもがこの砂漠では自力で入手するのは困難なものばかりである。
 タックはできるだけティレッティを見失わないような位置を確保しながら、早速競り始められるものたちに目を通す。
 旅に必要な食料や水は既に買ってあるが、ここのところ若干剣が刃こぼれをしてしまってきている。そろそろ買い換えるか鍛えなおすかしておかないと、いざと言うときに役に立たないかもしれない。
 とはいえ、今使っている剣はそれなりに長い間使ってきて愛着があるし、おまけに手持ちの金ではどれも手が届きそうにない。
 金欠については、スンメルで十日以上足止めをくったのが響いているが、それについては別にティレッティを恨もうなどとは思わない。
「……んん……?」
 次々にさばかれていく売り物たちを見送りながら、タックは首をかしげた。
 かなりの間流通が寸断されていたにもかかわらず、荷の量が随分と少ないのだ。と言うよりも、荷馬車の数からして、あからさまに少ない。もう少しあってもいいと思うのだが。
「……なあ、やけに数が少なくないか?」
 その疑問を、タックは手近なところで荷を開けていた一人の男にぶつけてみた。
 その男は荷を解く手を休めることなく、しかし渋い表情を浮かべてぶっきらぼうに返してきた。
「……盗賊に襲われたんだよ」
「うげっ、マジか? なるほど、そりゃあ仕方ないな……」
 もしかして、ティレッティの親分じゃあるまいなと、嫌な想像が脳裏をよぎる。盗賊からしても、ここしばらくはものが不足していただろうし、可能性としてはゼロではないと思われた。
「……けどよ、それが不気味だったんだよ……」
「ん? 不気味?」
 タックが冷や汗を浮かべて続けていた想像を遮るように、男が再び口を開いた。
 思わずそれに聞き返すと、男は思い出すのも嫌だと言わんばかりに顔を伏せ、はき捨てるように言う。
「なんか、どいつもこいつもまるで死人みてーな、無表情な顔してやがってさ……目なんか死んだ魚みてーに、にごっててよ……」
「うわぁ、そりゃ本当に不気味だな……」
 げ、と声をあげて、タックも表情をひきつらせる。
 一応、経験上ではいわゆるアンデッドと呼ばれる類の魔物と戦った事はあるが、確かにそうした奴と戦うのはできれば遠慮したい。生き物らしい所作がなく、見ていてどこか不安になるような、気分が落ち込むような、そんな雰囲気を持っているのである。
 しかしそうなると、ひょっとしたらこのキャラバンを襲ったのは、最近新しくできたという盗賊団だろうか。
 タックが思案顔でいると、ティレッティが彼の元へやってきた。そうした彼の表情を覗き込んで、ティレッティは首をかしげる
「? どうかしたの、タック兄ちゃん?」
「ん? いや、なんでも。……それより、もういいのか?」
「うん。欲しいのは色々あったけど、どれもボクには使いこなせそうになかったし」
 ちらりと後ろを振り返るティレッティの視線を追えばなるほど、そこにはタックですら使うのが難しい大剣や鎧といったものが並んでいた。
 こうしたものを欲しいと言うのは、やはり彼女なりに、男性に対する劣等感があるのだろう。
 とはいえ、これらを使いこなすのは別に男であっても難しいわけで、もう少し低いところを見てもいいのではないかと考えるタックであった。
「……そろそろ宿に戻るか」
「うん」
 返事を受けて、タックは市に背を向けて歩き出す。その背中を追いかける形で、ティレッティが続く。
 砂漠の太陽は、未だに熱く燃え滾っている。

 翌日、まだ太陽がほとんど顔を出していないくらい早い時間に、タックたちはタルアを発った。
 砂漠は昼暑く、夜は寒い。できるだけ動きやすいうちに動いておかないと、それだけ苦労を強いられる事になる。
 ティレッティの家、すなわち盗賊団のアジトは、遠目から見てすぐにわかるところにあった。周囲には何もなく、少し小高い丘に立てば、その姿は一目瞭然だった。
 だが、遠くからでもタックは、その周囲に漂う異常な気配を感じていた。近づけば近づくほどにそれは強くなり、そこに到着したとき、それは確信に変わった。
(血の臭い……)
 外から見ただけではわからないが、確かに臭う。何度嗅いでも決して慣れる事のない、嫌な臭い。
「やけに静かだな……」
「……みんなで出かけてるのかなぁ……」
 静かなのは恐らく出かけているわけではなさそうだ、と考えながらも、タックはそれは口にしない。頭に浮かんだ想像が、恐らくは間違いないだろうと思いながらも、できれば違っていて欲しいと、そう思いながら。
「とりあえず、入ってみるか?」
「うん」
 ティレッティはこの血の臭いの意味を目の当たりにして、果たして無事でいられるだろうかと、大きな不安を抱えながらタックは彼女を連れ立って、その大きい建物の入り口をくぐった。
 そしてその瞬間、タックの想像が現実のものとして出現した。
「え……?」
「こいつは……」
 二人の目に飛び込んできたのは、身体のあちこちを引き裂かれた男たちの死体だった。それらとともにその場所に転がっている、倒れた棚や割れた甕などが、そこで戦いが行われた事を物語っていた。
 そして周囲には、タックの予想通り無数の血が、既に空気を吸ってどす黒く染まった血が、一面を覆っていた。
 あまりにも凄惨な状況に、ティレッティの目は釘付けになっている。彼女からしてみればありえない、あってほしくないその光景はしかし、悲しいかな現実である。
 タックは、そんな彼女の肩に手をやる。それが慰めになるなどとても思えなかったが、それでもそうしなければ気がすまなかった。
 やがて、ティレッティはがたがたと震え始めた。そして、堰を切ったように叫ぶ。
「い……いやああぁぁぁーっ!!」
 これ以上などないくらい悲痛なその叫びを聞くものは、無論タックしかいない。彼は取り乱すティレッティの身体を、暴走してしまわないように抱きすくめる。
 それから彼女は、何人もの名前を叫び、泣いた。それらは、そこで人生を終わらされてしまった男たちの名前だろう。どれもみな、彼女とは親しかったものに違いない。
 彼女がどれほど、孤児である自分を拾って育ててくれたこの盗賊団を慕っていたかを、タックは改めて思い知った。
 やがて日が沈む頃。ティレッティは精根尽きたのか、涙を流したまま静かに眠りに落ちた。
 彼女を腕の中に抱えて、タックは改めてそこに向き直る。
「……ひでぇこと、しやがる……!」
 彼は目を閉じると、黙祷をささげた。
 既に暗くなり確認は難しいが、死体には、その乾ききったその身体のあちこちに、無数の切り傷、刺し傷があった。どれもこれも致命傷と呼べるほど深いものではないので、恐らくは長い間苦しんだ末に失血死したのだろう。
 それは一つに限らず、どの死体も一見していくつも傷を負わされていることがわかった。これだけ残忍なことをする魔物はそれほど多くない。人間か、もしくは知性を持つ魔物、あるいはそれらに操られたものの仕業と見るのが、妥当なところだろう。
 また、死後どれほどの時間が経っているのかまったくわからないほど、すべての死体に乾燥が進んでいた。無理もない。砂漠にあって死体が放置されれば、腐ることなど、なかなかできるものではない。
 だが、この場合それはよかったのかもしれない。腐敗が進んでしまっていたら、それこそまだ幼いティレッティの心に、とてつもなく巨大な傷を作ってしまうだろう。どちらにしても、五十歩百歩かもしれないが……。
 自分の腕の中で眠り込むティレッティの寝顔を見て、タックは胸が痛んだ。
 一体、どうしてこんな小さな子供がこれほどの目に遭わなくてはならないのかと思うと、今にも頭がカッと燃え上がりそうだった。
 感情の欠片もない残忍な所業に激しい怒りを感じながら、静かにその感情を研ぎ澄ます。
 ――こんなこと、絶対に許しちゃならねぇ。
 そのまま、彼らはそこで一夜を過ごした。

 翌朝、タックが目を覚ました時、ティレッティはまだ眠っていた。彼はティレッティが起きないように静かに荷物をあさり、一応食事の用意をする。
 とてもこんな場所で食事という気分にはなれないが、それでも食べなければ、この砂漠を越える事はできない。
 一回分に小分けしてあった携行食を二つ開け、小さい鍋にあける。それをアルコールランプの上に取り付けた台に乗せて、ランプに火をつけた。
 しばらくそのままにして、煮詰まるのを待つ。その一方で、雑多に使っているタオルを広げてカーテンのように天井から垂らした。こうすれば、多少は嫌な気分も緩和されるかもしれない。
 そうしている途中、とある死体が床に記された文字を示していることに気がついた。昨夜は暗かったので、わからなかったらしい。
 その文字は黒いが若干赤みがあり、血で書かれていることがわかる。
『親分すまねぇ、俺たちはここまでみたいです、親分がいない間に、あいつらが攻めて』
 文字は、そこで途切れていた。恐らく、これを刻んだ主はここで事切れたのだろう。文字を示していたわけではなく、文字を書いていて、そこで亡くなったのだ。
「あいつら……だと……? まさかこれは、最近できたっていう、例の……?」
「ん……」
 タックが考え込んでいると、ティレッティが目を覚ました。
「……タック兄ちゃん……?」
「ん、おう、起きたか」
 それを受けて慌ててカーテンをつるし終えると、タックはティレッティの隣に座る。そんな彼の顔を、ティレッティはぼう、と眺めていた。
「…………」
 良い言葉が浮かばず、タックは黙り込んでランプにかけてあった鍋の中身をかき回す。小さな音が響いた。
「……あー、その……どうする? これから……」
 しかしそのままではどうしようもないので、彼は口を開いた。あえて婉曲にせず、直接的に尋ねる。
「…………」
 返事はない。無理からぬことではあるが。
「……お前が起きる前に、遺書、みたいなもんを見つけた。そこには、『あいつらが攻めて』きたみたいなことが書いてあった」
 ティレッティの身体が、ぴくりとはねた。
「多分あいつらってのは、もう一つの盗賊団だよな?」
「……ボク……」
「……どうする?」
 表情を硬くして呟いたティレッティに改めて聞きなおして、タックは彼女の顔を見つける。
「ボク……行く……!」
 口を真一文字に結んで、ティレッティはタックを見つめ返した。それはひどく悲壮な顔だった。
「……わかった。なら、俺も手伝おう」
「……タック兄ちゃん……」
「こんなことするような連中を、のさばらせておいちゃいけねぇ。絶対に!」
 拳をきつく握り締めて、彼は静かに言い放つ。窓から差し込んだ朝日が、その顔を薄く照らした。
「……ありがとう」
「いいんだよ。……そうと決まったら、飯だ。腹が減ってちゃ戦はできないからな」
「……うん」
 言って、タックはやや煙の上がりかかっていた鍋をランプから下ろして、中身をカップに移した。
 決意の朝は、静かに過ぎていく。

 それから二人は男たちを埋葬し、一旦タルアに戻った。そこで情報を手に入れ、準備を整えて東に向かう。
 その盗賊団は、いつも東から来ると言う。砂漠は広いが、人間が行き来できない範囲にアジトがあるわけもなく、案の定、それはすぐに見つかった。
 複雑に並んだ砂丘に囲まれていて、見つけた時は突然現れたかのように錯覚したが、それでもそこは、まるで見つかる事を恐れていないかのように、タルアに近い場所だった。
 その入り口に立ってタックは、敵の本拠地らしからぬ雰囲気に首をひねっていた。
「おかしい……いくらなんでも人の気配がなさすぎる。本当にここがアジトなのか?」
 中をうかがうが、そこには下に降りる階段が見えるだけで、それ以外のことは何もわからない。
「ここじゃなくたっていいよ……とにかく中に入ろう!」
「……そうだな、見てみないことにはな」
 キッ、と険しい表情を見せるティレッティに頷いて見せて、タックは背中の剣を抜き払う。そうして先頭に立ち、その入り口をくぐった。
 外から見た通りそこには下り階段しかなく、彼らは慎重にそこを降りる。
 下りきった先での奇襲に備えて油断なく剣を構えながら、まずはタックが地下に足をつけた。
 周囲に目を配り、ひとまずの危険がないことを確認してからティレッティに合図を送り、ほどなくなくして彼女がタックの横に並ぶ。
「な、なに、ここ……」
 地下という事もあって、お世辞にも明るいとは言えないそこを闇に慣れた目で見通すと、どうにも人が生活をする空間とは思えない光景が広がっていた。
 右を見ても左を見ても、そこにあるのは通路だけ。どこまで続いているのかわからないその光景は、迷宮を想起させるには十分すぎた。
「なんか、迷路みたいだね……」
「だな……」
 侵入された際に備えて、城砦や遺跡が入り組んだ造りになっているのはよくあることだが、それにしても、盗賊の一アジトでここまでするのは、どこかやりすぎのような気もした。
「……とりあえず、あっちから当たってみるか……」
 一方を示してタックが言う。ティレッティは、それに無言で頷いた。
 しばらくそこを進んで、やがて曲がり角にたどり着く。それまで何もなく、若干気が抜けていた。その瞬間だ。
 何かがその角から躍り出て、鋭い突きを放ってきた。
「うおっ!? っと!」
「タック兄ちゃん!?」
 なんとかその攻撃を弾いてタックは数歩後ずさり、改めて剣を構えた。
「大丈夫だ、問題ない。……それより、どうやらおいでなすったようだぜ」
「……うん!」
 タックの言葉に、ティレッティも剣を構える。
「…………」
 二人の前には、ダガーナイフを構えた賊がいた。浅黒い肌は、砂漠での生活が長いことをうかがわせる。だが、その顔には生気がなかった。顔についた二つの眼はまるで飾り物のようで、表情のないのっぺりとした顔と相まって実に不気味だった。
 なるほど、とタックは得心する。この間キャラバンの男が言っていたことを思い出したのだ。確かにこの賊からは、生き物という雰囲気が感じられない。賊の瞳は、彼が「死んだ魚のような」と評した、まさにその通りである。
 ぼんやりと立っていたかのような賊が、急に動いた。顔や雰囲気には生を感じられないのに、その動きは正確で機敏、まるで正反対だ。
 ダガーナイフの連撃を、タックは一つ一つ丁寧に受け流す。そのどれもが急所を狙った的確すぎるものだったが、見切れないほどではなかった。
 そして、タックがそうやって賊をひきつけている間に、ティレッティが後ろから斬りつける。賊は、見事にその攻撃を見切って回避したが、体勢を大きく崩してつんのめった。
 そこをタックは見逃さない。鋭く、賊が武器を持つ手に突きを入れた。肉が切れる音が鳴り、刃が賊の手首に若干めり込む。その瞬間剣を引き、賊のみぞおちに遠慮のない蹴りを打ち込んだ。
 からん、とダガーナイフが床に落ちるのと、賊ががくりと気を失うのは同時だった。
「よし、行くぞ」
「……殺さないの?」
「バカ言え、んなことしたら、こいつらと同じになっちまうだろ」
「……そっか……」
 一瞬、腑に落ちないとでも言いたげな表情を浮かべたが、すぐにそれをしまいこんで、ティレッティはタックの後ろに続いた。
 それを合図にしたかのように、賊たちが二人を襲い始めた。隠れる場所が用意してあるのか、彼らは幾度となく行く手を阻まれることになった。
 必殺の一撃を繰り出してくる賊に対して、タックは極力相手を無力化させる戦い方を選んだ。人によっては甘いと言うかもしれないが、それでも彼は、他人の命を奪う行為が許せないのだ。
 彼の意向を受けてか、ティレッティもそれに合わせた立ち回りを演じて見せた。恨みはあるはずだが、それでもそうした感情を抑える事ができるだけの理性を持ち合わせていることに舌を巻く一方で、心が痛むのも、彼は感じていた。
 とはいえ、ティレッティの動きは見事だった。最初彼女と対峙した時も、彼女はその歳に相応しくもない動きを見せたが、そうした技は、やはり盗賊団という特異な環境で身に着けたものなのだろう。
 剣だけではない。賊たちから奪ったナイフや、そこらに転がっているものなどをなんでも巧みに扱う姿は、タックを驚かせた。
「……妙だな」
 ようやく見つけた、更なる下り階段を見つめながらタックは呟いた。多くの敵と戦ってきて、さすがに少し、息が上がっている。
「……何が?」
 呼吸を整えながら、それにティレッティが聞き返す。タックはできるだけ彼女に負担をかけないように動いていたが、やはり体力の差は歴然だった。
「倒しても倒しても、やけに敵が出てくると思わないか?」
「……そういえば……」
 タックの言葉を受けて、来た道を振り返りながらティレッティは眉をひそめる。
「大分広いところだが、それでも部屋とかはなかった。あれだけの人数が入るなんてとてもじゃないが思えないんだが……」
「……もしかして、人間じゃないとか……?」
「ありえるかもしれないな……何百歩譲っても、連中に生き物らしさは感じられないし……」
 タックがそう言ってあごに手をやった時である。
 ――ギイイィィィッ!
「!?」
「な、なに!?」
 得体の知れない音が、下から聞こえてきた。それはどこか恐ろしげで、邪悪な雰囲気が漂っている。
「行くぞ!」
「うん!」
 駆け出した二人の耳には、先ほどの音が何度も届いてくる。その階も入り組んだ造りになっていたが、その音はどちらに進めばいいかを教えてくれた。
 そして先に進めば進むほど、その音に混じる剣戟の音も聞こえるようになってきた。どうやら、誰かが戦っているようだ。
「! 光が見える……広間だ!」
 前方に、青白い光が見えた。そこは彼らが走る通路よりも広いようで、光は一部が途切れて見える。そして、遂に二人はそこに足を踏み入れる――。
「ぐああぁぁーっ!!」
 悲鳴と共に何かが砕ける音が響き、そして別の何かが地面に落ちる音に続いた。
『ギイイィィィ……』
 そこに踏み込んだ二人が見たのは、青白く光る魔法陣の上で仰向けに倒れる壮年の男性に、大きな鎌を向ける青黒い異形の姿だった。
 二人の姿を認めた異形は、男に向けていた鎌をはずすと、ひどく緩慢な動作で二人の方に身体を向けた。
 黒い翼に尾、針葉樹のような尖った耳、凶悪な爪のある手足。それの姿は一目で、悪魔とわかるものだった。
「なんだこいつは……!?」
「お、親分!」
 油断なく剣を構えるタックの隣で、ティレッティが声を上げた。
 彼女の言葉にタックは思わず異形の後ろで倒れる男と、彼女とを見比べる。しかしその瞬間、異形は容赦なくタックに襲い掛かった。
「ちぃっ! ……ティレッティ、ここは俺に任せろ! 早くあの人のところに!」
 振り下ろされた鎌を真正面から受け止めて、タックは叫ぶ。ぎりぎりと金属のこすれる嫌な音が鳴った。近くで見ると、異形の身体にはいくつもの傷が走っていた。どうやら、あの男がつけたもののようだ。
 ティレッティは一瞬躊躇したが、すぐにタックたちの横をすり抜けて、男の下へ駆け寄る。それを見届けて、タックは異形の鎌を受け流した。
 ――消えろ、我が計画を妨害する者よ。
「!?」
 突然、どこからともなく声が聞こえてタックは刹那、硬直する。受け流された異形はしかし、その隙を見逃すことなく、鞭のようにしなやかな尾を振り払って、タックをなぎ払った。
「ぐ……ッ! ……!?」
 とっさに受身を取りながら地面を転がるタックの目に、信じがたいものが飛び込んできた。
 中空でばさばさと舞う、土気色のローブ。そこにゆらゆらと不規則に漂う白い手のようなもの。その動きに合わせるようにして、床の魔法陣が明滅した。
「な……何者だッ!?」
 転がる勢いで起き上がりながら、タックはそれに叫ぶ。だが返事は、嘲笑だった。ぐわんぐわんとそれは鳴り響き、周囲にこだまして不気味なまでに大きな音になる。不快な音はタックの脳髄を刺激し、彼は思わず顔をしかめた。
 ――殺れ、ヘッドハンター。
 もう一度、その声が響いた。男の声だ。低く、しゃがれた声。その声に合わせて、異形――ヘッドハンターの身体にあった傷が、見る見るうちに癒えていく。やがて全快したそいつは、身体の調子を確かめるかのように、勢いよく鎌を振り回して見せた。
「……くそっ!」
 その瞬間に、ローブの何者かは消えていた。まるで、初めからそこにいなかったかのように。
 歯噛みするタックめがけて、ヘッドハンターが飛び込んだ。肉薄しながらそいつは、鎌の柄を思いきり突き出す。
 かろうじてその攻撃を受け流すと、今度はタックから攻撃を仕掛ける。剣をするりと脇に抜いて、流される勢いがあるヘッドハンターに逆袈裟で斬りつける。手ごたえはあったが、血は出なかった。
 舌打ちするタックに、またも尾による攻撃が飛んでくる。鞭のような動きを見せるそれを見切るのは難しく、彼は左腕に一撃を喰らう。
「おりゃああぁぁー!」
 ヘッドハンターが向きを変える前に、タックは痛みをこらえながら接近する。下から振り上がる鎌をすんでのところで回避して、彼はそいつの右脚に剣を突き立てた。
『ギイイイィィィーッ!』
 やはり異形でも痛覚はあるのだろう。ヘッドハンターは悲鳴のような声を上げて、張り付いたタックを振り払おうと、暴れる。
 一方タックは、そのまま弾かれる前に、暴れる勢いに乗る形でさっと離れた。粘りに粘って吹き飛ばされるよりも、早々に退いた方が得策と判断したのだ。
 ぎりぎりと歯軋りを鳴らしながら、ヘッドハンターがタックをにらんだ。おおよそ情けの色の欠片もないその瞳に、しかし怒りの色が見て取れる。
 そして、それは勢いよく床を蹴った。脚部の負傷があるからか、速度はそれほどでもない。また受け流してカウンターを浴びせてやろうと、タックは身構えた。
「タック兄ちゃん、違う! そいつ、左手に魔力をためてるよ!」
「!?」
 突然後ろから飛んで来たティレッティの声を受けて、タックは反射的に迫るヘッドハンターから距離を取った。
 跳び退った彼には、冷気をまとったそいつの左手が、床を穿って凍結させる光景が見えて、体勢を整えながらも彼はぞっと凍るような気持ちになった。
 だがそのヘッドハンターの後ろに、剣を持って立っているティレッティの姿が見えた。遠くから見ても、その顔は怒りで染まっているのがわかる。
「許さない……絶対に許さないぞっ!」
「よせ、ティレッティ! お前だけで勝てるような相手じゃ……」
 しかし、ヘッドハンターはティレッティの姿を見て、子供などいつでも殺せるとでも言うように一瞥をくれると、改めてタックの方を向いた。
 だが、無論それでティレッティが黙っているはずはない。
「お前の相手はこのボクだぁっ!」
 背を向けたヘッドハンターに、彼女は切っ先を向けて突進する。
「やめろ、そいつは尾っぽでも攻撃ができるんだ! それじゃ思う壺だ!」
 あからさまに、怒りで我を忘れたティレッティの無謀とも言える攻撃を見て、タックも慌てて走り出す。
 当のヘッドハンターは、まったく、そいつの言う通りだとでも言うかのようににたりと不気味な笑いを浮かべると、正面のタックに氷をぶつけるべく左手に魔力をため、その一方で尾を鞭のようにしならせる。
「ちぃ……ッ!」
 恐らくは必殺の威力で飛んで来るであろう氷の矢に覚悟を決めるタック。ヘッドハンターの勝ち誇ったような顔が見えた。
 ――が。
 次の瞬間、ヘッドハンターの顔は、驚愕の色に染まっていた。そして、死への絶望すらも。
「な……!?」
 タックも、さすがにそれには驚いた。
「これで、どうだっ!」
 ヘッドハンターの背後にいたはずのティレッティが、いつの間にか横にいた。そして、彼女が突き出した剣は、深々とそいつの胸に刺さっていた。
 ――そうか、夢幻か!
 彼女の持つ能力を思い出して、タックは思わず笑みがこぼれた。夢幻の効果は、実際に受けたタックもよくわかっている。この場にあって、ああした使い方を思いつくなんて、彼女はどうやら、我を忘れるほどに憤っているわけではないらしい。
「お前なんか……お前なんか全部燃えちゃえ!」
 彼女が言うと同時に、唐突にヘッドハンターの身体が火に包まれた。これも夢幻によるものかと、タックは思わず圧倒された。
 火が収まっていくのに比例して、ヘッドハンターの左手から収束した魔力が散っていく。集中させていた意識が途切れたのだ。
「――よしっ!」
 火が消えたのを見て、タックもそいつの懐に飛び込む。そして、上にあるそいつの喉もとめがけて、勢いよく剣を振り払った。
『ギイイィィイィィィィーッ!!』
 とてつもなく大きな悲鳴を上げて、ヘッドハンターは全身に火傷を負った身体をびくりびくりと痙攣させる。しばらくそれが続いたが、やがて力尽きたのか、ゆっくりと背中から地面に倒れこんだ。少しだけ、床が揺れる。
「……っしゃあ!」
 タックは、思わずガッツポーズを取った。
「……やった……勝った……」
 対照的に、ティレッティは気が抜けたのか、ぺたんとその場に座り込んでしまった。
「やー、お前のおかげだな。助かったよ」
「…………」
 タックの言葉に、ふるふると首を振ってティレッティは静かにある方を向いた。そこには、倒れたままの男の姿があった。
「……親分……」
 ああそうか、とタックは苦い顔をした。こうして敵を討てても、死んだ人間は戻ってこないのだ。
 這うようにしてティレッティが男――親分に近づく。そんな彼女が見ていられなくなって、タックは彼女の身体を抱きかかえて、親分の元へ行く。
「…………」
「…………」
 ティレッティが何も言わないので、タックも口を開いてはいけないような気がして、ただ静かに横たわる親分の身体を見つめる。
 がっしりとした、躍動感のある身体はしかし、動かない。あちこちに恐らく鎌による切り傷が走り、今でも血が流れているところもあった。そんな状態でも、右手にはしっかりと剣が――折れてしまっているが――握られている。
 どこか穏やかな表情を宿す顔はこれまた豪快で、いかにも盗賊団のお頭と呼ぶに相応しい顔つきだった。その姿は男らしいという言葉が似合うもので、ティレッティが目指した男とは、彼のような人なのかもしれない。
『ギイイイィ……ィィイイイーッ!』
「ひゃあっ!?」
 突然背後から、不気味な声が沸きあがった。振り向けば、すぐ近くでヘッドハンターが首をもたげ、今にも襲い掛かろうと右手を掲げていた。
「しまった、まだ生きてたのか!」
 間に合え、と祈りながらタックは剣の柄に手を当てる。だが一手遅く、ヘッドハンターの右手が、魔力の溜まった右手が振り下ろされる――。
『ギ……ッ、イイィィィゥゥゥ……!』
 ――否。
 ヘッドハンターは、そのまま右手を掲げたまま、後ろに倒れた。今度は、先ほどよりも大きく地面が揺れる。その額には、投擲用のシュートダガーが深々と刺さっていた。
「……バぁカ……ヤロォ……。モンスターにゃ、遠慮はいらねぇ……仕留めるまで、気ィ抜くなって……教えたろ……!?」
 突然の事に呆然としかかる二人の後ろから、息も絶え絶えな、男の声が聞こえてきた。
「お……親分……!?」
 見れば、そこには武器を投げたままの体勢で、不敵に微笑む親分がいた。
「ティレ……ッティ……。この……大バカが……! ここは……女の来るところじゃねえって……言ったろうに……」
 言いながら、ごふ、と咳き込む親分の身体をティレッティが支える。
「だって……! だって、アジトがめちゃくちゃにされてたから……! ボク、ガマンできなくって……!」
「……るせえ……! だからって……来るこたねぇだろう……! お前だけは……巻き込み……たく、なかったってのによ……!」
「親分……」
 今にも泣きそうなティレッティに対して、親分は満身創痍の身体で、顔を怒らせて言う。その言葉に、彼女は目を丸くして、タックはやっぱりな、と内心で頷いた。
 そして、彼はティレッティとは反対の方に回って、親分の身体を支える。すると、不意に親分の身体から傷が消え始めた。流れた血の跡は消えないが、その大元、傷口は静かにふさがっていく。
 一瞬何が起きたのかわからず目を見張る彼だったが、思い当たるものがあってふと呟いた。
「……これも夢幻か……?」
 だが、やがてその現象は止まってしまった。傷は完全には治りきっておらず、これが限界のようだ。
「治りが……浅い……。そんな、もっと、もっと……!」
 はらはらと涙を零して懇願するティレッティを見て、タックは荷物袋からポーションを取り出して、応急処置を試みる。しかし、それは親分その人の手で、押し留められた。
「いい……よ……。どうせ……助からねえ……」
「し、しかし……!」
 タックの手を抑えるその手は、とても瀕死の人間とは思えないほどの力が込められていた。
「……ティレッティ……すまねえ……。お前を……もっとちゃんと……育ててやれりゃあ、良かった、んだが……」
「……お……やぶん……」
「本当……すまねえ……。まったく……ちっとも……いいことして、やれなくて……」
「……そんな……そんなことない……! ボク、親分や、みんなと、一緒にいれて、楽しかった、幸せだった……!」
 親分の身体にすがりつくティレッティ。親分は、タックの手をゆっくり押しのけると、震える、しかし大きくて頼りがいのある太い腕で、彼女の身体を抱きとめた。
「バカ……オレぁ最初……お前を拾っ、た、とき……。いつか売るつもり……だったんだぞ……。本当なら……もっと……ちゃんと……女として扱ってやるつもりだった……。けど……オレぁ、大バカだ……愛着、湧いちまって……そんな気、失せちまったんだ……」
「…………」
「それまで……子供なんざ、使えねえ……何の役にも立たねえ……って、……思って、毛嫌い……してたのに……な。よそに、なんか……やりたくねえ……そう思っちまった……。だからお前に……戦い方……とか……狩り……とか……教えた……。……こんな、ことに……なるなら……やめとくんだったなァ……」
 寂しそうに笑って見せる親分に、ティレッティは首を振る。
「はは……ありがとうよ……。……なあ……アンちゃん……」
「ん、俺か?」
 急に話を振られて、タックは目を丸くする。
「……あの奴ァ……お前さんを狙ってたぜ……。シェーラが……どうこう……ってな……」
「!? まさか……あのローブの野郎は……!?」
 思いがけず飛び出した姉の名前に、タックは色めきたつ。
「……詳しくは知らねえ……。……が、きっとお前さんにゃ、有益……なもんだろ……?」
「……ああ、ああ! すまん、恩に着る!」
 すぐに目的を果たせるほどのものではない。だが、それまで何年も世界中を巡って、それでも何一つ情報が得られなかったことを考えると、これは大きな前進に違いなかった。
「へへ……礼はいらねぇ……。その代わり……ティレッティを……オレの娘を……頼む……ぜ……」
「親分……」
「……! ……わか、った……」
 自分に向けられた、死を受け入れた瞳を見て、タックは静かに頷いた。
「……自慢の……娘だ……。何かあったら、承知しねえからな……」
「大丈夫だ、任せてくれ」
 力強く答えたタックを見て安心したのか、親分はティレッティの頭を、その無骨な手でそっと撫で。
「……いい……もんだな……。子供に……看取られて……死ぬってなぁ、よ……」
 それからそう言うと、すう、と瞳を閉じて――ゆっくりと、腕を床に投げ出した。
「お……おやぶ……ん……」
 そしてティレッティはしばらく、安らかな表情を浮かべたまましゃべらなくなった親分の身体を抱きしめて、しかし静かに泣いていた。

 4.目標

 ハンタックスを発ったタックとティレッティは、そのまま最寄のアウアドスに向かっていた。
 道中ティレッティはずっと、船上から自分の故郷を名残惜しむかのように、ハンタックスの方角を見つめていた。その傍らで、タックは決意を新たにしたのである。
 ようやく彼は、明確な目標ができた。それまで、ただ姉の情報を求めてさすらうだけの毎日だったが、かすかではあるが、光が見えてきたのである。
 犯人が、どういった名前なのかはわからない。何をしている奴なのかもわからない。
 しかし、土気色のローブと、白い手。あの姿は、きっと生涯忘れないだろう。
 そこまで考えて、とっくに見えなくなったハンタックスを未だ見つめるティレッティの横顔に目を向ける。
 成り行きとはいえ、とんでもないことを引き受けてしまった。親分にああは言ったが、一体どうしたものだろう。
 基本的に自分がツイていないのは、タックも自覚している。だから、こうしてすべてを失った少女を引き受けるというのは、ある意味そうした不運の一部かもしれない。
 しかし、旅の仲間ができるというのは、どうも悪い事ではないようだ。
 それまでずっと一人だった彼にしてみれば、道中で会話する相手がいるというのは楽しいことだし、いざという時に頼れる仲間がいるのは実に心強い。
 現状が、果たして幸運なのか不運なのか。タックにはわかりかねた。
 そうした船上での時間は矢のように過ぎ、そろそろアウアドスの姿が見えてきた頃である。
「……なあ、ティレッティ」
「ん、なぁに?」
 タックが声をかけると、ティレッティはいつもの顔を向けてくる。悲しくないはずはないのに、それを出すまいとする彼女のけなげさは、タックの胸を突く。
「んー。俺は姉貴を助けるために旅をしているわけなんだが、お前はこれからどうする?」
「んー……。タック兄ちゃんのお姉ちゃんをさらったのって、親分を殺した奴でしょ……?」
「ああ、多分、そうなるな」
「親分の敵を取るんだ。ボク、タック兄ちゃんとこのまま一緒に行くよ」
「そうか」
 一瞬、タックですら驚くくらいの怒りを顔を浮かべたティレッティだったが、すぐにそれを静めると、小さく微笑んだ。
「んじゃ、その後はどうする? 一応、俺は姉貴を助けたらそこで旅はやめるつもりなんだが」
「うー……ん……」
 今度はかなりの時間、思考して、やがて彼女は何か閃いたように、口を開く。
「……ボク、自分の生まれたところに行ってみたい。ボクのこれ……夢幻、だっけ。誰かに教えられたわけでもないのに使えるし……ボク以外の人は使えないし……」
「なるほど。じゃあ、俺の旅はまだまだ続くってことだな」
「え、ううん、いいよ。だってタック兄ちゃんにもお姉ちゃん、いるんだし、せっかく……」
 だんだんか細くなっていくティレッティの声。それに対して思わず笑って、タックは彼女の頭を撫でた。
「いいんだっつーの。気にするほどのことじゃない。それに、親分に頼まれてるしな」
「……ありがとう」
 タックの言葉に、ぎこちなくも笑顔を見せて、ティレッティは頷いた。
「アウアドスに着いたぞー!!」
 突然、上の方から海の男の荒々しい声が落ちてきた。
「お、どうやら到着したみたいだな。善は急げだ、早めに降りるとしようぜ」
「うん!」
 手早く荷物をまとめて、二人は船を下りる。船着場に着けられた桟橋を渡りながら、ティレッティが声を上げた。
「うわぁ、こっちは草がたくさん生えてるんだね」
「ハンタックスみたいなところの方が珍しいんだぜ? まあ、アウアドスが豊かな土地ってのもあるんだろうけど」
 周囲の景色は、砂漠育ちのティレッティには珍しいのだろう。音を立てて風にそよぐ草原や、静かに歌う鳥の声、それらを宿す木々たち。それらはいずれも、砂漠では見られない。タックも、レグア以来、随分久しぶりに見る。
「アウアドスって、どんなところなの?」
「俺も初めて来るから詳しくはわかんないけどな、確か司祭の学校があるはずだ。魔法が発達してるところだから、もしかしたら夢幻についてわかることもあるかもな。……一般人がそういうところに入れるかどうかは、知らんけど」
「へぇー、そうなんだ」
 船着場の受付を通り、いよいよ二人は新天地を踏む。
「お、あの服、多分さっき言った司祭専門学校の制服なんじゃないかな?」
「へぇー……」
 二人の前に、恐らくは誰かを待っているのだろう、看護婦のような桃色の衣服で身を固めた赤い髪の少女が、そわそわとした様子で椅子に座っていた。
 そんな少女の姿を、ティレッティはじ、と見つめる。
「……あ、あの……私が、何か……?」
 さすがに少女の方もそれに気づいて、ひどく怯えた様子で声を上げる。
「あ、いや、なんでも。それ、司祭学校の服じゃないかなーって思ってただけ」
 ぱたぱたと手を振って、タックは弁解する。その間も、ティレッティはやはりその少女を見つめていた。
「そ、そうだったんですか。確かに私、司祭学校の生徒ですよぅ。あの、あんまり観光、できないかもですけど、その、アウアドスへようこそ、ですぅ」
「ああ、ありがとう。……よし、ティレッティ行くぞ!」
「あ、う、うん」
 司祭学校の生徒という少女に手を振って、タックは船着場を後にする。
「いくら物珍しいからって、あんまし知らない人をじろじろ見るもんじゃないぞ」
 歩き出して、タックはぽん、とティレッティの頭に手をやった。
 そこから上目遣いにタックを見やり、ティレッティは口を尖らせる。
「……タック兄ちゃんはああいう服、好き?」
「はあ? お前は一体、何をゆっとるんだ?」
「……なんでもない。なんでもないよ!」
 水を飛ばす犬のようにばたばたと身を震わせて、ティレッティは言う。そのまま歩く速度を速めると、ぐんぐんタックを置いていってしまう。
「おいおい、なんなんだよ、一体? こら、待てって!」
 そんな彼女を追いかけるべく小走りになって、タックは声を上げた。
 やっぱりこれは不運かな、などと考えながら、彼は追いついて、歩き始める。小さなパートナーと共に、共通の目標目指して。