如何に居ますか我が主
 何時ものように笑って居ますか我が主
 私は貴女へ歌います 何処でも何処でも

 どうして其処に居るのでしょう どうして私でないのでしょう
 其処に居るのは私だった筈なのに 失敗作の私だった筈なのに
 貴女の傍に居たかった 貴女ともっと話したかった 貴女に感謝がしたかった
 とても厳しくとても優しく そんな貴女が大好きでした
 だからせめて笑います だからせめて歌います
 貴女の代わりになれればと 誰も貴女を忘れぬようにと
 風よ届けて下さい 母の元へ 想いを込めた此の唄を

 如何に居ますか我が母よ
 何時ものように笑って居ますか我が母よ
 私は貴女を歌います 何時までも何時までも

 『桃色の吟遊詩人の唄』


 1.誕生

 生命とは、どこから来てどこへ向かうのだろうか。魂とは、どこから来てどこへ向かうのだろうか。
 古今東西、その問いは人々の間で交わされ続けてきた。生命の誕生と終焉は、すべての生あるものにとって避けられない始まりと終わりであり、同時に最も難解な謎であるからだ。
 その中において、魔法使いが導き出した、一つの解がある。
 彼岸と此岸のあわい、そこに流れる忘却の川の手前に、魂のたゆたう空間がある。そして、人は死ぬとそこに留まり、やがて川を渡る。彼岸へと渡った生命は転生し、そして、転生した生命は再び川を渡り――時が満ちると、それは新たな生命として母親から産まれる。
 これが、魔法使い、特に召喚師と呼ばれるものたちが生命の真理と呼んだ、始まりと終わりに対する回答である。
 それが真実かどうかは、誰にもわからない。転生をするのかしないのかは死んでみなければわからないし、仮にするのだとしても、前世を記憶して生まれてくるものがいないのだから、真実は闇の中だ。
 何はともあれ、魔法使いはその死んだ魂と生まれくる魂がたゆたう空間を、死都と呼ぶ。命なき魂が入り乱れる、始まりと終わりの都の意味だ。
 そこに住まいし魂を、この世に呼び出し、使役する。それこそ、魔の法を自在に操りし魔法使いのたどり着く極致の一つである。
 その死都の中へ、今まさに至らんとするものがあった。ここ数年、ただ一人の男によってのみ開かれ続けていた禁忌の門が、それではない別のものの手で開かれようとしている。
 上下も、左右も。現世で認知しうるすべての感覚が狂う死都へ訪れたその魔法使いは、桃色の髪をしていた。纏ったローブは群青色。その前に立ちはだかる門は分厚く、重く、そして、何よりまがまがしい。
 しかし、白魚のようなか細い手がそこに触れると。決して動くようには見えないその門は、きしむような音を立てて――果たしてその『音』という感覚も、ここにおいて存在するのだろうか?――静かに穿たれていった。
 魔法使いが門をくぐる。ぬばたまの闇の中浮かび上がった空間はあえかな幻。死と生のえもいわれぬ匂いに満ちる死都は、静かに魔法使いを受け入れた。
 魔法使いが、問う。
 彼岸より舞い戻りし無垢なる魂よ。無の境地より出でし光よ。
 死都が、ざわめいた。此岸からの呼び声。それは久しく聞かぬ、清廉なる呼び声だった。
 魔法使いが、問う。
 彼岸より舞い戻りし無垢なる魂よ。無の境地より出でし光よ。
 魂が渦を巻く。死を受け入れられぬ、哀れな魂たちが我先にと魔法使いへ迫る。だが、魔法使いは動じない。かすかにも動かない。
 魔法使いが、問う。
 彼岸より舞い戻りし無垢なる魂よ。無の境地より出でし光よ。
 その問いは、死せる魂の拒絶。その魔法使いは、転生を待つ魂を此岸に呼び戻してはならぬ掟を、知っていたのだ。闇の術法を嫌うものだった。それが知れたのか、集まり逆巻く魂の群れが四散する。
 直後、穢れなき魂が、魔法使いの周囲に漂い始めた。転生を向かえ、再び此岸へ訪れるのを待つ魂。それらは、魔法使いがこれより新たな生命を生み出すのだということを、問いの中に見出したのだろう。
 集まり来た魂のうち一つに、魔法使いが手を差し伸べた。差し伸べられた魂は、まるで初めての恋に戸惑う生娘のように身を震わせると、静かに魔法使いに応える。
 魔法使いが、唱えた。
『無の境地より出でし光よ……我が名、リウリリ・リウリの名の下に、御霊となれ!』
 死都が、揺らいだ。
『我、命名す……汝、リトゥ・カレグ!』
 強烈な閃光と爆発が、そこを満たした。そして、魔法使いと、選ばれし魂の姿が、闇なる死都が揺らいで消えていく。
 そう、そこは観念の世界。肉体が至れぬ、精神のみの世界。その扉が閉まり、二つの魂は現世で、確たる物質の世界で目を覚ます――。

 それは、目を覚ました。目を覚ます、ということがそれに認識できたわけではない。けれども、何か今までとは違うような感覚が、全身に満ちていることを感じていた。
 それは目を開いてみた。まばゆいばかりの光が溢れる世界。思わずそれは、目を細めた。
 光に目が慣れてくると、ようやくその場所を見渡すことができるようになった。そこは広々とそして殺風景な空間だった。
 どうしてここにいるのか、自分は誰なのか。それは、そんなことすらもわからぬ、純粋無垢な魂だった。けれども、それにもわかることが一つ、ある。
 自分は、今生まれた。この世界に、生を受けた。それは思考でもなんでもない、魂に刻まれた心の記憶。
 身体を動かしてみる。手が、腕が、持ち上げられた。
 自身の目の前には、五本の指がついた手のひら。指を動かしてみる。五本の指は滑らかに動いて手のひらに収まり、拳となった。今度はそれをゆっくりと動かして、再び手を開く。どこか、楽しいような気がした。
 身体、今度は手ではない場所を動かしてみる。足が、ももが、持ち上げられた。
 がっしりとした、力のみなぎるような下半身ではない。けれども、それの身体は確かな足取りでもって、歩くことができた。
「うっぎゃああぁぁーっ!?」
 突然の大きな声に、それはびくりと身体を強張らせた。初めて認識した音というものが、悲鳴にも似た叫びだったことは、それに衝撃を与えるには十分すぎた。
 それがその声のした方へ恐る恐る身体を向けると。
「そんな……うそ、あたしの魂と……入れ替わっちゃった……!?」
 そこには、頭を抱えてうずくまる、黄色の丸い物体があった。
 その物体が何者か、それは直感できるものがあった。その声、様子、よくよく考えれば、覚えのあるものだったからだ。
 だから、それは震える目の前の物体に、声をかけることにした。
「みうー」
 そして、それは知る。
 己が、しゃべることができない存在なのだということを。

 2.歯車

 草原に囲まれた穏やかな村ピルピラ。東に樹海、西に川、南が山で北が海という、周囲からはやや隔絶した場所に存在する村だ。生活するには事欠かないが、他地域との接触がほとんどないため、いわゆるよそ者への警戒心はかなり強い。そしてその一方で、村人同士の結びつきも強い。
 そんなピルピラの中央に位置する池のすぐほとりに、村でも特に大きな家が立っている。このような辺境の村であるピルピラにおいて、唯一にして最大の有名人だった故、ダガーン・リウリの邸宅だ。
 彼はピルピラ、ひいては大陸一の魔法使いで、単純に魔法使いとしても、世界中で知られたほどの使い手であったが、それ以上に彼の名を人々に知らしめたのは、ひとえに指向性の遠距離移動用マジックアイテムを完成させたからだ。
 かつて人々が移動する手段といえば陸なら徒歩か馬、せいぜい馬車、海ならば船が精一杯であり、遠隔地に移動する際には非常に多大な苦労とたくさんの時間が必要であった。魔法使いの間では、空間を捻じ曲げ、亜空間を飛行するワースなどの瞬間移動が古くから存在していたが、その性質上空間魔法は高い技術力と魔法力が必要となる高等魔法であり、普通の人間が使うことなど無論不可能な代物であった。
 しかしおよそ六年前、ダガーンはその壁を取り払うことに成功した。空間魔法を得意とした彼は、空間を飛び越えるワースの魔法を特殊な道具に込め、誰でも使えるようにしたのだ。
 その道具はグリフォンの翼と名づけられ、世界中に広まった。ワースの魔法が元であるため、一度行ったことのある場所にしか移動することはできないが、それでもその効果は絶大だった。人々の暮らしに溶け込んだ今、グリフォンの翼はなくてはならない道具の一つである。
 不幸にしてダガーンは既にこの世の人ではなくなってしまったが、彼には一人の娘がいた。
 弱冠二十歳にして既に準一流魔道士の資格を持つ彼女は、ダガーンが残した数々の研究や設備を引き継ぎ、そしてまた、彼がやりきれなかった研究をも受け継いでいる。彼女もまた、ピルピラ出身の人間として、世界に名を馳せるのだろうと言われて久しい。
 寝室と研究室が並ぶ、そんなリウリ家の二階。研究室の前で、群青色のローブに身を包んだ少女が立ち尽くしていた。
 少女の名はリウリリ・リウリ。そう、かの大魔道士ダガーンの一粒種である。
 ……いや、少女というのはいささか正しくない。彼女は既に二十歳の大台に乗っている。人より幼い顔立ちをしているというだけで、立派な大人の女性だ。
「みうー……」
 しかし、そんなリウリリの口から出るのは、言葉ではなかった。それはどちらかというと動物の鳴き声と言った方が適切で、彼女を知る人が聞けば、何か悪い病気にでもかかってしまったのかと思うかもしれない。
「みうー、みうー」
 リウリリは、目の前にある扉を叩く。しかし扉は石でできており、手で叩いたところで扉の向こうまで聞こえるような音は上がらなかった。
 けれども、そんな石の扉はしばらくの沈黙の後、重苦しい音を響かせながらゆっくりと開いた。
「み、みうみうっ!」
 その様子に、リウリリが顔をほころばせる。
 扉の向こうには、得体の知れない物体がいたるところに転がっていた。マホガニーの大きなテーブルには無数の本と紙束が散らかっており、その奥には窯のようなものが、ちろちろと揺れ動く不可思議な色の炎をたたえている。
「あん。お前いたのか」
 そんな、いかにも魔法使いの部屋といった雰囲気に満ちた研究室から出てきたのは、黄色い球体の身体に手足と、兎のように見えなくもない耳をくっつけたような、物体だった。
「みー!」
 そいつはリウリリのちょうどひざくらいまでの大きさしかなく、彼女はそんな物体の前にしゃがみこんで、満面の笑みを浮かべてみせた。
「あんだよ、別にあたしゃお前に合わせて出てきたんじゃないぞ。大体の原因がわかっただけの話」
「みーうー、みうー」
「……寂しかったって? こいつ人の話聞いてねーな」
 はあ、とため息をついて、その物体は呆れた顔をリウリリに向けた。
「まー確かに、一度研究室こもるとぶっ倒れるまでやりこむ性格は直した方がいいとは思ってるけどね。あんたにゃ悪いことしたよ」
 それからそいつは、やれやれとつぶやきながら、リウリリの頭をなでる。
「みうー」
「はいはい、わかったっつーの。とりあえず下降りるぞ」
「みー!」
 そいつの言葉に、リウリリは立ち上がって元気よく挙手をした。その様子を、やはり黄色い物体は呆れるような顔で一瞥すると、先頭に立って歩き始める。
 黄色い物体の名はリトゥ・カレグ。リウリリが生み出した、魔法生物である。ただし、魔法生物とはいっても従来のそれとは仕組みも性質も、大幅に異なる。
 魔法生物とは、死都から呼び出した魂に器を与え、しもべとした人工生命体の総称である。しかし神ならぬ人が造り上げた器は所詮まがい物であり、魂を長く留めておくことができない。そのため、通常魔法生物は使い捨てとされ、長期間使役し続けるには、定期的に新しい器に更新しなければならない不便さが常に伴っていた。また、食事などを取ることはできず、ただ与えられた命令をこなすだけという、文字通りしもべ以外の何ものでもなく、その性質上魔物を召喚することと似て非なるものであり、忌避されがちであった。
 しかしリトゥは、リウリリが父ダガーンから受け継いだ新技術が用いられた、まったく新しい理論体系――ダガーン自身は資料に古代技術と記していたが――に基づいた設計がなされており、理論的には半永久的に使役し続けることが可能となっている。食事も、必ずしも行わなければいけないわけではないが、摂取することはでき、味覚その他の器官も備わっており、より実際の生物に近いという点で、従来とは一線を画した存在といえるだろう。
「あー……ぁぁあああ、ったくもう!」
 階段を下りきったところで、その画期的な代物は不意に歯をがちがちと鳴らしながら、耳をぴんと持ち上げて怒鳴った。
「お父様の遺作を使ったってのに、よりにもよってそこにあたしが入っちゃうなんて顔向けできーん!」
 そして、殺風景ともいえるほどだだっ広い一階の広間をごろごろとのた打ち回る。その様子に、リウリリはあっけにとられてぼんやりとするだけ。
「しかもあっちはあっちで赤ちゃん同然で知識もへったくれもあったもんじゃないし……!」
「みー……」
「どうせいっちゅーんじゃああぁぁー!」
 憤りを抑えるそぶりも見せず、リトゥは勢いに任せて壁に頭突きをかました。えげつない音が家中に響き、そして同時に、かすかに家が震える。
「……い……つうぅー……痛覚入れたんだっけ、そういえば……」
 ややえぐれた壁の前で、頭を短い手でさすりながらとほほ、とつぶやくリトゥ。
「みーみー!」
 そんなリトゥの傍にかけよって、リウリリは心配そうに声をかける。ところが、そんな彼女をじろりとにらむ形で、リトゥは迎えた。
「……心配するなら、せめてキュアの一つでも覚えなさい」
「み、みうー」
「ごめんなさい? だから、謝るくらいならなんか覚えなさいってのに」
 どうやら完全に立ち直ったらしい。やれやれと両手を挙げながら、リトゥは部屋の中央に陣取る。
「アウアドスまで行くぞ」
 そしてリウリリに振り返り、宣言した。
「……み?」
「あうあどす? じゃないよ。あたしらの魂を元通りにする方法を探しに行くんだ。原因は大体わかったかんね」
 そう言うと、リトゥは腕を組む。手が短いので、組むといってもそれらしい形をしているだけだが。
「あそこはこの近辺じゃ一番魔法に関する情報が集まる場所だ。研究者の知り合いも多い、最低限糸口くらいは見つけられるはずよ」
「みう」
「当然だけど、最終的な目標はあたしとあんたの魂を元通り入れ替えること。でもそれ以外にも、あんたを人間社会に慣れさせるって目的もあるから、覚悟しときなさいよ」
「み、みうっ!」
「ってわけだから、先頭は任せたわよ。面倒ごとはあたしが引き受けてあげるから」
「みう!」
 敬礼するリウリリを見つめるリトゥの目は、本当にわかってんのか、と言いたげな色に染まっていた。

 リウリリが行った、魔法生物の研究。順調に最終過程まで行っていたのだが、その最後で予期せぬ事態が起こった。
 リウリリとリトゥの魂が入れ替わってしまったのだ。
 本来ならば、リウリリが呼び出した魂を器に入れ、そこでリトゥ・カレグという魔法生物が完成するはずだった。しかし、何の因果かそちらに入ったのはリウリリの魂であり、逆に彼女の肉体には、呼び出した魂が入ってしまったのである。
 失敗のその日から、リウリリはリトゥとなり、リトゥはリウリリとして生活することになったのだった。
 しかし当然だが、そんな状況にあって、リウリリ――今のリトゥ――ほどのものが、諦めるはずがない。彼女はここ数日研究室にこもり、原因追求に没頭した。
「原因は恐らく、神石不足で死都に干渉したことだ」
 ピルピラの村を歩きながら、リトゥがリウリリに講釈する。
「そのせいで肝心な場面で死都との接続がごっちゃになって、結果あたしらの魂が入れ替わったんだと思うんだ」
「みうぅ……」
 なるほど、と言いたかったが、リウリリが声を発すると、言葉にならない。リトゥには意図するところが伝わるのでさして気にすることではなかった。とはいえ、これから人間社会に慣れていくならば、やはりちゃんと発声できないと、と心のうちで密かに誓うリウリリだった。
「……なるほど、ってねえ。まあ、あんた物覚えだけはいいから、そこは救いか……。魔法に関してはしゃべれんから、無詠唱で出せる力量に達してる基本三属性とバーンくらいで後は役立たずだけど……」
 リトゥが言ったように、リウリリは物覚えが早い。この世に生を受けてまだ半月ほどだが、それでも彼女は最低限必要な知識を既に覚えてしまっている。
 それ以上のことは、教わる前にリトゥが研究室にこもってしまったのでまだわからないが、それでも知らないことをもっと教えてくれるなら、ちゃんと全部覚えられるだけの自信が、リウリリにはあった。
「みーう」
 だから、彼女はにこりと笑った。その毒気のない笑顔に思うところがあるのか、傍らを歩くリトゥが頭をかく。
「ほれ行くぞ。まず手始めに道具屋で買い物をする。店ってもんがどういうもんか、しっかり見とくんだぞ」
「みうっ」
 先を歩くリトゥに元気よく返事をして、リウリリも続く。
 しかし歩き出した瞬間、なにやら気持ちの悪い感覚が全身に駆け巡り、リウリリは足を止めた。その初めての感覚がどういうものか彼女にはよくわからなかったが、それでも何かよくないことが迫っているということは、なんとなく理解できた。
「……ん? どした、気分でも悪いか? ……なんだ、悪寒でもするのか?」
 そんな彼女に気づいたリトゥが近づいてきて、見上げてくる。糸のように細い瞳が、心配そうに見つめていた。
「……み……みみう!」
 刹那、リウリリがぶるりと震えながら、声を上げた。彼女の本能が、何か得体の知れないものが近づいてくるのを感じ取っていた。
「何か来るって? 何かって何さ……」
 リトゥが首をかしげながら眉をひそめた時だった。
 ピルピラの村に、獣の咆哮が響き渡った。
「!?」
 それを聞いた瞬間、リトゥは聞こえたほうへ身体を向けて身構えた。彼女が向いた先に視線を向けて、リウリリもなんとかそちらに顔を向ける。
 二人が見つめる先。そこには、巨大な化け物がいた。
 その姿は、おおよそ規則性のないものだった。獅子の頭に悪魔の翼、熊のごとき前脚と、竜のような後脚。いずれの様式も、リウリリには初めて見るものだったが、それでもそうしたパーツのすべてが、よこしまで威圧的な力に満ちていることは、理解できた。
 しかし、その異形は特に暴れるそぶりを見せなかった。いつでも魔法を唱えられるように身構えるリトゥには一度、不気味に光るまなざしを向けたが、すぐに興味がなさそうにそっぽを向いてしまった。
 それはそのまま、突然の出来事に怯える村人たちのまなざしを一身に浴びながらも、悠々と村の中を歩き回る。その様子は、まるで何かを探しているようにも見えた。
「あいつは……確かこの間アウアドスで……」
 リトゥがつぶやく。それに対してリウリリが問いかけようとした瞬間だ。その異形が大きく吼え、口から火炎を放った。
 その先には、うずたかく詰まれた樽の山。数はかなりのものだったが、化け物の放った火炎はそれらをいともたやすく燃やし尽くしてしまい、中にあった穀物やワイン、水が飛び散った。
「! あんにゃろ、何しやがんだ!」
 表情を硬くしたリトゥが飛び出そうとした、その時。
「あっつ、熱い熱い熱いー!」
 下のほうでかろうじて灰になるのを免れていた樽の中から、少女が一人飛び出してきたのである。リウリリの髪色よりは明るい基調をした桃色の服と帽子を身に着けた、赤髪の少女。
「今度はなんだ!?」
 それを見て、さすがのリトゥも目をむいた。彼女でさえそれなのだから、まして人生経験のほとんどないリウリリは、もはや口をだらしなく開いた状態で、ただ呆然と見つめることしかできない。
「わ、わわわわ……」
 そんなリウリリの見ている中、その樽から出てきた少女は手にした杖をやたらと振り回しながら、後ろへ後ずさる。
 しかしそんなことではまったくひるむ気配を見せず、異形がぐるる、とうなり声を上げながら少女に迫る。
「こりゃどうしようもないな……おい、やるぞ!」
「み、みうっ!?」
「何が、じゃないよ! 助けるんだよ!」
「みー!?」
 リウリリが驚きの声を上げ、無理ですよと続けようとするのも待たず、リトゥは駆けていく。
 リウリリにとって、リトゥは主だ。それに加えて、保護者でもある。そんなリトゥがやるといって、化け物に向かっていくのだから、彼女も行かざるを得ない。身体がぞわぞわと粟立った。
 それが恐怖によるものか、果たして武者震いだったのか、本人にもわからない。けれども、とにかくリウリリは覚悟を決めると、リトゥの後に続いて、今にも少女へ襲い掛からんとする異形めがけて駆け出した。
「エス、お願いっ!」
 二人が助けに入ろうとした直前、少女はそう言い放って、自らの帽子を取り払った。そこから、素兎のごとき穢れのない純白の耳が姿を現す。
「……ちっ、こんな白昼の村ん中で……」
 兎の耳をあらわにした少女は、一転して落ち着き払った口調で呟くとゆらりと立ち上がり、鋭い目つきで異形をにらむ。
「がああうっ!」
 異形が吼えた。大地を強く蹴って少女を囲い込む。その動きは幻のようでとらえどころがなく、次第に数を増していく。どこからどう攻撃が始まるのか、リウリリには見当もつかなかった。
「その動きはもう見切ってんだよ!」
 しかし、兎耳の少女はそう啖呵を切ると、傍目には何もない空間に杖を突き出した。
 鈍い音が響き、何もなかったはずの空間に、異形が出現した。それに合わせて、周りを走り回っていた異形の姿が掻き消える。
「ほー、やるじゃんやるじゃん」
「み、みうう」
 強かに攻撃を受けた異形がやや間を取った瞬間を見計らい、リウリリとリトゥが少女の隣に駆け寄る。
「……あんたらは?」
「そうヘンなものを見るような目で見ないで。味方だから」
「……すまない、恩に着る!」
 少女は、リトゥの言葉に一瞬だけ眉をひそめた。けれども何か思うところがあるのか、即座にそう言って、異形に意識を戻した。
「ぐうぅうぅ……」
 敵が増えたことを認識したのだろう、異形が低い声でうなる。地の底から響いてくる地鳴りのようだった。
「! 散れっ!」
 不意に、少女が叫んで跳んだ。取り残された二人は一瞬何事かと少女のほうへ目を向けたが、直後異形の周辺の空気が急激に膨張するのを感じ取り、リウリリはリトゥをつかんでそこから飛びのいた。
 そしてそれとほぼ同じくして、異形が馬一頭がまるまる入りそうなくらいに大きく口を開くと、そこから灼熱の火球が放たれた。
「みーっ!?」
「うっはー!? すごっ!」
 その勢いはすさまじく、膨張した空気がはじけてリウリリの身体を跳ね飛ばす。勢いで地面を転がるその懐に抱かれたリトゥが、あんぐりと口を開けた。
「大丈夫か? あのうなりは火炎弾の前兆なんだ……」
「……なるほど、そゆことかい……」
 リウリリの身体を抱きとめて、少女が言う。だが、そこで言葉を交わすだけの余裕など、彼女たちに与えられてはいなかった。
 大きな翼を羽ばたかせて異形が宙に舞い、そこから勢いよく急降下してくる。
「おいリウリリ、あたしを掲げな!」
「みみ!?」
 地面に横たわったままの状態でいるリウリリの胸元で、リトゥが言う。いきなりのことにリウリリは混乱しかかるが、じれったそうにリトゥが彼女に視線を向けて叱咤する。
「なんでじゃない、早くしろ!」
「……み、みっ!」
 了解、マイマスター。リウリリは、言われるままにリトゥを空で赤々と燃え滾る太陽にかざした。
「……エアロム!」
 リトゥの言の葉が、魔法の力をほとばしらせて朗々と村に響き渡った。
 瞬間、石をも刻むかのごとき真空の烈風が異形を襲い、その肉体を切り刻んでゆく。そのまま烈風は暴風となり、大空の狩人のように落ちてきていた異形の身体は虚空に投げ出される。
「なるほど、風か!」
 額を伝う冷や汗をぬぐう少女の隣で、リウリリが身体を起こす。
「もういっちょ行くよ……フレアム!」
 そのリウリリに抱かれて、再びリトゥの言霊が空を貫く。
 風にあおられ中空で体勢を崩していた異形の身体が突然爆ぜ、青い空の中に一点の赤い染みが広がった。そこから異形が力なく落下していき、柱のような水しぶきを上げて池の中に沈んでいく。
「……ふっ、どーだ。姿変われど我が力変わらず」
「みー、みー」
 青をかき消す赤黒い煙を得意げに見やり、リトゥが勝ち誇ったように笑った。彼女を抱くリウリリは、ただすごいと主を褒め称える。
「……いや、まだ来るぞ!」
「あんだって?」
 そんな勝利の気分に緩む場の雰囲気を引き締める少女に、リトゥがしかめた顔を向ける。
「バンジュレスには高い自己治癒能力がある……消滅させて、そこで初めて終わりだ」
「なんちゅーハイスペックな召喚獣だ……が、そういうことならこのあたしに任せなさい」
「……何?」
「みうう?」
 やはり勝ち誇るような笑みを浮かべるリトゥに、二人はきょとんとした目を向ける。その刹那、池の水を割って、再び異形――バンジュレスが姿を現した。
「……うわー、ホントに回復力すごいなあ。こりゃあ使役者の魔力は化けモンね……」
 リトゥが思わず呟いた先。バンジュレスの身体は、フレアムの魔法で大きく穿たれ、焼け爛れた臓物がだらりと垂れ下がっているのが見える。しかし、それが飛び出したと思われる場所は、半ばふさがってしまっていた。
「み……」
 その様子に、リウリリが口元に手を当てる。
「……わかった、任せてみる。わたしはどうすればいい?」
 バンジュレスを見据えながら少女が一歩前に出る。そんな中でも、バンジュレスの身体はじゅくじゅくと泡立ちながら傷がふさがっていく。
「一発でかいのをかますわ。その後、トドメの一撃を食らわせてやんなさい」
「……わかった」
 リトゥが周囲のマナをかき集めているのを一瞥すると、少女はいつでも行けるように身構えた。
「……みー」
「大丈夫、任せなって。それより、お前も少し働いてもらうぞ」
 リウリリの心配そうな声に笑って返して、リトゥは彼女に耳打ちする。
「わかったな?」
「み!」
「よっし。……じゃ行くぞ!」
「みぃぃー!」
 リトゥの合図を受けて、リウリリはなんと彼女をバンジュレスめがけて投げた。そのまま彼女は球技のボールのように、くるくる回りながらバンジュレスへ迫る。
 それを見たバンジュレスはあざ笑うかのように、うなり声を上げた。それは、大地を揺るがさんばかりの地鳴りのごとく。空気が、膨れ上がる。
「ばっか、させるわけないでしょ――」
 そんな呟きが、リウリリには聞こえた気がした。
 火球が飛び出す直前、リトゥの身体が大きな魔法陣に包まれた。否、リトゥが特殊な魔法を行使したのだ。召喚術の式が余すことなく記された魔法陣――そこから飛び出した魔力のつぶてがバンジュレスを襲い、そして、バンジュレスが動きを止めた。
「リウリリ、今だ!」
 放物線の頂点を越えたリトゥは、落下しながらも叫ぶ。その声を受けて、リウリリが両手を掲げる。
「みーうー!」
 バーン。心の奥底で、リウリリは唱えた。
 すると真紅の炎が巻き起こり、バンジュレスの全身を包み込んだ。その身体が見る見るうちに焼け爛れていく。
「そいで……今だよ! 何かどでかいの一発っ!」
「おうっ!」
 ぽてんと地面に転がったリトゥが叫ぶ。刹那、亜獣人の少女が地面を蹴った。
 太陽を背に、二つの漆黒。方や小さな人の影、方や大きな魔物の影。煉獄の真円の中心で、二つの影が交差する。
「行くぞ……連牙舞燕拳ッ!」
 ピルピラに、どこまでも透き通るソプラノの声が響き渡った。それに続いて、無数の殴打音。
 やがて音は止み、少女はふわりと着地する。その後ろに、治癒力と生命力の限界を超える打撃を受けたバンジュレスが、墜落した。
 少女はそんなバンジュレスへと振り替える。その隣に、リトゥとリウリリが駆け寄った。
 三人が見守る中、やがてバンジュレスは息絶え、その肉体は静かに光の屑となって虚空に溶け込み、消滅した。
「……勝った……」
 溜め込んだものを放出するようなため息と共に、少女は呟いた。

 3.変転

 数日後。二人は村で知り合った亜獣人の少女を連れ立って、アウアドスの街を歩いていた。まこと、グリフォンの翼とは便利な代物である。
「なるほど……ティルエスも大変なんだな」
「みみうみう」
「そうなんですよぅ……」
 そう言って顔を伏せる少女――ティルエスに、バンジュレスに止めを刺した時のような気迫はなかった。
 彼女が語ったところによると、人工的な二重人格者なのだという。帽子を被っていない時にだけ裏の人格が現れるという構造は、研究者肌の魔法使いであるリトゥには興味深いようで、しきりにティルエスの頭を気にしていた。
「……でも、そういう先生も大変だったん、です……ね……?」
「そうさね……」
 リウリリの腕に抱かれながら、自嘲気味に笑ってリトゥは街の中央に聳え立つ司祭学校に目を向けた。
「まだ全然信じられないです……」
「あたしだって信じられないよ。ってか、信じたくないし」
「みうー……」
 リトゥの言葉に悪意などないことはリウリリもわかっているのだが、どうしても主たる彼女からそうした旨の発言が出ると、自分が悪いように思ってしまうリウリリだった。
「で、でも先生、その姿もかわいいですよ、ほら、うさみみ、わたしとおそろいですよねっ」
 励まそうとしてなのだろう、ティルエスはそう言って、自分の頭に手をやる。帽子で隠されているので当然今の彼女に兎の耳は見えないが。
「可愛いっても、ティルエスの場合とあたしの場合じゃ多分意味合い違うよね。マスコット的な……」
「あ、あうー、そ、そうかもでした……」
 本人からの的確すぎる言葉を受けて、ティルエスはしゅんとなる。その様子をリウリリは、苦笑して見つめるのだった。
 ティルエスとリトゥ――要するに、中の人であるリウリリ本人――は、図らずも顔見知りだった。アウアドス司祭専門学校に身を包んだティルエスに対し、リトゥは一対多数という講義の形で、臨時の教鞭を振るったことがあったのである。
 無論そんな関係だったため、顔見知りとは言っても、リトゥの方はこのなんとも頼りないヘッポコ娘のことなどほとんど記憶していなかった。やたらと成績が低い生徒がいるということは、常勤の講師たちから聞いていたが……。
「……でも先生はやっぱりすごいですよね」
「んあ?」
 改めてティルエスが顔を上げてそう言うので、リトゥは糸のように細い目を少し見開いて、彼女を見つめる。それにつられるような形で、リウリリもそちらに目を向けた。
「……わたし、先生みたいに立ち向かえないです。……エスみたいに強いわけでもないし……一人じゃ何もできないし……」
「み……」
 ティルエスの言葉に、リウリリは口をつぐんだ。そして、懐に抱く主へと静かに視線を落とす。彼女の主は、無機物といってもいい耳を、生物のように動かしていた。
「んなすぐに立ち向かえっかい」
 そして、突き放すような口調で言う。
「誰だって現実を受け入れるまでは、日々思考の堂々巡りだわさ。でもそのうち落ち着くのよ。いつまでも現実から逃げ続けるわけにはいかないからね。けどね、苦難っていうボスに一人で挑まなきゃなんない道理なんて、どこにもないのよ? そりゃ最後にそれを張り倒すのは、自分にしかできないけどさ」
「…………」
「あたしだって、他人におんぶにだっこよ。今だってここまで協力仰ぎに行ってるんだし。ねえティルエス、親友が言ったんでしょ、一人じゃないんだって。その子の力、頼んなさいな。余裕がありゃ、あたしらに頼ってもらったっていいんだし。それにほら、大体あたしとティルエスって、大して歳も違わないしね」
「先生……」
 最後に締めくくったリトゥの言葉に、ティルエスは瞳に雫をためて、口を一文字に結んだ。
「……うん……そうしてみます……ありがとうございました」
 その言葉を聞いて、リトゥは照れを隠すようにもぞもぞと動く。それが妙におかしくて、リウリリはくすりと笑った。
「ま!」
「はい?」
「協力仰ぐ前に、ちゃんとみんなに謝んなさいよ。エスちゃんにもね」
「……はいっ」
 視線をティルエスからずらしたままでそう言ったリトゥに、ティルエスは笑顔で頷いた。
 その様子に、リウリリは思う。自分はいい主にめぐり合えたのだと。
 リトゥの言い方はざっくばらんで、時に厳しい。けれどもその形に隠れてはいるが、彼女なりの優しさが込められている。そして、正鵠を射ている。だからこそ、彼女の言葉は人の心に響き、みなが慕うのだろう。
「……おいそこ、何がおかしい」
 リウリリがリトゥのことを考えていると、不意に下からその本人が声をかけてきた。
「みー」
「どこがなんにもなもんかい」
 どうやら、自分でも知らないうちに笑っていたらしい。リトゥの、おおよそ生物らしからぬのっぺりとした手が、リウリリの頬をつまんでのばす。
「みうっ、うー、うー」
「おにょれぇい、造物主に対して手を上げるとは、不埒者めぇ〜い」
 リトゥが何度も頬を伸ばしてはこねくりまわすので、リウリリも反撃とばかりに彼女の頬をつまんだ。しばらくそうしてじゃれあっていると、ティルエスがくすくすと笑うのが聞こえて二人はぴたりと動きを止めて、そちらに顔を向ける。
「お二人、仲いいんですねぇ」
 そして、もう一度笑った。その様子に二人はそろそろと顔を合わせる。
「……もー、こんなトコで立ち往生してないで、さっさと行くぞ!」
 それから、リトゥは耳を怒らせて手を上げた。
「みーう」
「はーい」
 そして三人は、司祭専門学校の正門をくぐるのだった。

「…………ッ!」
 職員室に足を踏み入れてすぐ、扉に一番近い席に座っていた赤髪、白衣の男性は信じられないものを見たかのように目を見開いて、椅子が倒れるのも構わずに勢いよく立ち上がった。
「あ、スリース先生久しぶり。ちょうどいいや、あんた担任だったわよね」
「…………」
「それにあたしもちょっといくつか聞きたいこととかあったし、相談しやすい人がいて助かっ……」
「すいません、ちょっと、こちらへ!」
「ぬおっ?」
 リトゥの言葉もそこそこに、彼女がスリースと呼んだ男はリウリリとティルエスの手を取って職員室から引っ張り出した。そのままぐいぐいと引っ張りながら廊下を進んでいく。そして、相談室、の札がかかった無人の部屋に押し込んでしまった。
「……ちょいと、なんのつもりなのよー」
「みうみーう」
 その強引さに、リトゥとリウリリは抗議の声を上げる。そんな二人に対して、ティルエスは終始無言。
「……リウリリさん……ですよね? すみません、この件については、あまり周囲に知られたくないのです」
「お、おお、そうやったんか。そりゃ悪かった。……ってか、既にバレてんのね」
「そりゃまあ、リウリリさんの魔力は独特ですから……」
「みうう……」
 あっさりと自分たちのことに感づいてしまう人がいることに、リウリリは驚いた。彼女は主であるリトゥこそ一番すごい人物だと思っていたが、世の中はどうやら彼女が思っている以上に広いらしい。
「……ティルエスさん」
「……はい」
 そんなリウリリたちのことを、ひとまずと断ってスリースはティルエスに声をかけた。
「……あの、先生……ごめんなさい……わたし、その……」
「……いいのです。もういいんですよ、過ぎたことです……無事に戻ってきてくれただけで、それだけでいいのです」
 優しい表情を浮かべて、スリースはティルエスの肩に手をやった。
「エスさんもお元気ですか?」
「……はい……」
「……そうですか……よかった」
「……あの二人ってどういう関係なんだろなあ……」
「みう?」
 そんな教師と生徒の様子を眺めていると、不意にリトゥがささやいてきた。
「……みーう」
 そんなことを言われても、この世に生を受けて未だ一月に満たないリウリリには、リトゥの言葉の意味がそもそもよくわからなかった。逆に、リトゥはリウリリの短い言葉に込められた真意をすべて見透かしたらしい。
「……それもそっか」
 それだけつぶやいて、頬をかいた。
「ええっ、ミーメルが!?」
「んお?」
「み?」
 突然ティルエスが震えた声を上げた。思わず二人とも彼女に目を向ける。
「……ええ」
「そ……そんなぁ……ミーメル……」
 ミーメルという名前は、リウリリも聞いていた。アウアドスに来る前、自宅で事情を聞いた際に出てきた名前で、ティルエスにとって親友のそれだとリウリリは記憶している。その親友に、何かあったのかと彼女は首をかしげた。
「……どうしたのよ?」
 その彼女より先に、リトゥが好奇心を抑えきれなくなったらしい。細い目を見開いて、スリースたちに視線を注いでいる。
「…………。……実は、ですね……」
 リトゥの問いかけにやや逡巡したスリースだったが、決心したのか口を開いた。
 まあおかけくださいと椅子を進められ、リウリリはリトゥを胸に座る。隣にはティルエス、正面にはスリース。
「……な、なんだってー!?」
 語られた内容に、リトゥは目を剥いて声を上げた。
「……このヘッポコちゃんがお姫様とな!? ……しかも、スラウトのって……そういやあそこは数年前に」
「ええ、そうなんですよ……」
 世界的にも珍しい、亜獣人たちによる魔法国家スラウト。ティルエスはそこの姫なのだという。三年前に国が崩壊しかかり、その際同盟国であるアウアドスまで逃げてきたのだと、スリースは語る。しかし、姫としての記憶と魔力は現在封印されており、それでもなお彼女を付け狙うものがいるというのだ。
「……そりゃまた」
 しゃべり終えたスリースと、渦中の人物であるティルエスにどう声をかけていいのか、さすがのリトゥも判断しかねているようだ。それだけ言って、やや間を空けた。
「……とんでもないことになってるんだなあ……。こりゃ、あたしらの魂云々なんて、言ってる場合じゃないかも」
「みうう……」
 色々な単語が出てきて、リウリリはそれらの情報整理で一杯一杯だ。しかし、リトゥが言うように、とんでもない事態になっていることは理解できた。
「ひょっとして、最近モンスターが多いのってそのジョーマとかいう魔法使いのせい?」
「恐らくは。アウアドスを周辺から孤立させた上でやろうというのでしょう」
「……うっへ」
 頷いたスリースを見て、リトゥが顔をしかめる。
「……そして、街を飛び出した姫様を探すために、ミーメルさんもアウアドスから出て行きました」
「……そーかあ……」
 ちらり、とティルエスの横顔を見て、リトゥは押し黙った。どうすればいいのかわからず、リウリリもそれにならう。
「……ミーメル……」
 ぽつりと親友の名前を呟いて、ティルエスは目にためた涙を零す。
 しばらく、部屋の中に雨季のようなどんよりとした空気が沈黙と共に満ちる。
「……みっ!?」
「なんだ、どうした急に?」
 突然一方を向いたリウリリに、全員の視線が集まる。しかし、そんなことは今はどうでもよかった。彼女は、何か得体の知れない気配のものが近づいてきていることを、感じ取っていたのだ。
「み、みうう、みうっ、みうっ!」
「なんかやばそうな気配だあ? ……おいおい、まさかとは思うけど、それって」
 リトゥが何を言おうとしたかは、リウリリもわかった。リウリリ自身も、己が感じ取った存在が、件のジョーマなる魔法使いなのではないかと思っていたからだ。
 だがそれは、伝わって欲しくない人にも伝わってしまったようだ。リトゥが続ける前に、ティルエスは決意した悲壮な表情を浮かべると、部屋から飛び出してしまった。
「姫様っ!」
「んが、ホントだ、こいつはやばそうだ!」
 出て行ったティルエスを追わんと部屋を飛び出したリウリリたちだったが、まるでそれを見計らっていたかのように、突然巨大な魔力が膨れ上がるのを誰もが感じていた。それは、リウリリが先に感じていた気配とほぼ同じ位置。つまり。
「みうみうー!」
「そうだな、こりゃどう考えても罠だ!」
「学校には結界が張ってあるはずなんですが……!」
「結界が弾くのはモンスターだけだろ! この調子だと、本人が直接来てるってことも考えられるぞ!」
「……なるほど!」
 三人はティルエスを追って廊下を疾走する。しかし、やはり元々亜獣人であるためなのか、ティルエスの走りは速く、なかなか追いつけない。そうこうしているうちに、学校全体が大きく揺れた。
「み、みーっ!?」
「おわあ、コケるなあ!」
 足が短く速度の出せないリトゥを抱いて走っていたリウリリが、その揺れでバランスを崩して転倒。
「け、結界が消えていく!?」
 なんとか柱にしがみついてこらえたスリースだったが、学校全体を覆う結界の力が急激に弱まるのを感知して、天井を仰いだ。
「み、みうみう……」
 ようやく揺れが収まり、よろよろと立ち上がるリウリリ。その胸元で、リトゥが声を荒らげる。
「とにかく、このままじゃティルエスが危ない! 行くぞ!」
「ええ!」
「みうっ! ……みうう?」
「なんだよ、おい止まるなって!」
 リトゥの号令で再び走り出そうとして、しかしリウリリは、何かおぞましい気配が一瞬背後を通り過ぎたような気がして思わず後ろを振り返った。
「……みみう」
 しかし、そこには感じたような何かはなかった。気のせいだったかな、と思い直して、改めてリウリリは走り始めた。

 花咲き乱れる学校の中庭。普段なら恐らく、学生たちでにぎわっているだろうそこは、夏休みであることもあって、人影はほとんどない。今そこにいるものは、命を狙い狙われるものだけ。
 土気色のローブを身に纏い、表情を隠すかのように、血も涙も無い白面を顔にあてがう野望の魔法使い。リウリリたちがそこに駆けつけたとき、まさにその男が出現したところだった。空間魔法の発動に伴う、魔法の風でたなびくローブの衣擦れが、静かな中庭に響いている。
「ジョーマ!」
 その姿を認めたティルエスが、声を上げた。
 そんな彼女に駆け寄りながら、リウリリはジョーマと呼ばれた仮面の魔法使いに、なんとも言いがたい嫌な気分になる。底知れぬ闇を、見た気がした。
「……やあ姫様……またお会いできましたな……」
 一方、ジョーマと呼ばれたその男は、儀礼的に頭を下げた。そのくせその言葉には敬意の色は一切なく、慇懃無礼にもほどがある態度だ。
「……ジョーマ……わたしの国を壊滅状態にしただけじゃなく……この街まで……! わたしはあなたを、許さないっ!」
「ほお……?」
 そんなジョーマに言い放ったティルエスを見て、彼は肩をすくめ機嫌を伺うかのように、あるいは言葉の真意を問うているかのように、小首を傾げて見せた。が、それもすぐにやめると、尊大に胸を張って片手を開く。
「……大層な口が利けるようになったのですね……ご立派なことだ……」
 そうして、今度はあからさまにあざ笑った。その所作はいちいち鼻につく。ティルエスの後ろにたどり着いた頃、リウリリは胸元のリトゥが額に青筋を浮かべているのを目にして息を飲んだ。
「……それにしても、姫様も悪運がお強いですな……。まさかバンジュレス相手にピルピラまで逃げおおせることができるとは……」
 そして、リウリリたちを一瞥して、それでもなおジョーマは余裕たっぷりに言葉を続ける。
「リウリリ・リウリが我輩の思惑の中にいずれ入るであろうことは想定していましたがね……これほど早くなるとは、思っておりませんでしたな……」
「そいつはやっぱりあたしの魔力目当てって意味でかい、死都の常連さん?」
「先生……!」
「ジョーマとやらがどんなのかと思ってたけど、まさかあんただったとはね……あのバンジュレスの強さも、死都から持ち出した死人の魂が元ってんなら納得だわ」
 不機嫌を隠すそぶりもみせず、いつも以上につっけんどんに言い放つリトゥ。
「……ふふふ、やはり……この間至ったのはあなただったのですね……? そして……随分と強力な魔法生物を従えましたなあ……」
 ジョーマの返答は嘲笑だった。リウリリにすらそれは理解できた。バンジュレスのような召喚獣を使役できるほどの魔法使いが、リトゥらを見て何があったのか察せぬはずがないのだ。
「……が、我輩の計画は誰にも邪魔させない!」
 しかし、その嘲笑も一瞬。今度は一転させて憤怒の色を言葉に上塗り、ジョーマは両手を開いた。魔力がそこに集中していく。対して、リトゥもその手の中に力を集わせる。
「ティルエス、一旦こっちに引っ込んで!」
「え、あ、は、はいっ!」
「させるか! バーストム!」
「トルネードム!」
 一気に魔力が解き放たれた。力を得た二つの魔法は破壊の姿となって、そこに出現する。
 校舎の壁が、石畳が、噴水が、爆ぜて崩れた。壁の破片が、砕けた石畳が、水が、風で虚空を舞った。
「ちっ、やっぱり化けモン級だな……!」
 破壊の風を前に踏ん張るリウリリの胸の中で、リトゥが歯噛みする。一方のジョーマはびくともせず、嵐の中ローブが風に揺れるだけ。
「ふふふふふ……どこまで耐え切れるかな……?」
 加虐的な笑みが、仮面に浮かんだようにも見えた。高く掲げられたジョーマの右手から、光が放たれる。
「スパークム!」
 蜘蛛の糸を思わせる広域の雷が一斉に広がった。それを見て、リトゥも魔法を放つ。
「ウェイブム!」
 津波を想起させる高波が起こり、雷を飲み込んでいく。波の向こう、新たな魔法を構えるジョーマが、はっきりと見えた。
「ジーニル!」
 不意に、リウリリたちの身体が淡い光に包まれた。
「スリース先生!?」
「リウリリさんだけに戦わせるわけにもいきません……僕も護衛の身ですからね、やりますよ!」
「スリースさんナイス。支援役としてあんたがいるなら心強いわね」
 しかし、そういうリトゥの息は乱れ始めている。元々の肉体ではないことが、大きな負担になっているのかもしれない。その姿に、リウリリは胸が痛んだ。
「わ、わたしも戦う! 足手まといになるなら、いつでも帽子を取ってください!」
「み、みみう!」
 ティルエスが帽子に手を当てて言い放ち、リウリリも拳を振り上げた。それを見たリトゥは満足げににやりと笑うと、彼女の腕から飛び降りる。
「くくく……四人がかりなら我輩に勝てると思ってますかな……?」
「ゼロパーセントじゃあないでしょ? それに、ティルエスっていう狙いがあるあんたと違って、あたしらはあんたをノメしちゃえばいいんだからね」
 上級魔法以上の巨大な魔力を纏って笑うジョーマに対し、あくまで勝気な態度を崩すことなくリトゥが笑い返した。彼女に応えるように、全員が身構える。
「……くくく、くくくくく……浅はかですな……! 確かにティルエス殿下の魔力は欲しい……が、しかし、殿下に匹敵する魔力の持ち主の目星は、まだいくつもあるのだ……!」
「!?」
「ゆえに、殺してしまっても差し支えはない! ……戯れはここまで、フリーズリエンスッ!」
 呪文の名と共に、ジョーマは両腕を天へと掲げた。刹那、夏の空が極地の冬に支配される。
「みううーっ!?」
 吹雪というには生易しい、破滅的な冷気が極太の柱となって雲を突き破り、巨大な氷柱が霰か雹のごとく降り注ぎ始めた。その全てが必殺の威力を秘め、アウアドスの街を埋めていく。
「ちい……! レキュアヘイズ!」
 リトゥの唱えた魔法が、その極寒からのダメージを緩和させる。しかし、断続的に続く冷気を前に、それは徐々に弱くなる。ジーニルと合わせても、その効果は足りなかった。
「マイア!」
 スリースが支援魔法を唱える。展開された目に見えない壁が、冷気を遮る。それでも完全ではない。ないよりは幾分ましだったが、それでも十分すぎるほど氷は威力をたたえていた。
 吹き荒れる風の中で、ジョーマの笑い声が響き渡る。それはぐわんぐわんと壁という壁に反響し、不気味なまでに大きな音になった。
「ホーリーム!」
 突然、その笑い声を突き破って、光の矢がジョーマの身体を貫いた。
「な……!?」
「そ、その声……!」
 みなが、声がした方へと顔を向ける。
 ごうごうと氷が吹き荒れる中、杖をまっすぐジョーマへと向ける少女がいた。桃色の制服に身を固めた、青髪の少女。その名は。
「ミーメル!」
「へへ、待たせたわね!」
 にっと笑って見せて、ミーメルはティルエスに駆け寄る。
「……ぅおのれえぇぇい……! 光ある新世界を築き上げるべき我輩の身体を……! 許さぬ……! 全員この場で浄化してくれるわあぁぁ!!」
 だが、二人に再会を喜び合う暇などなかった。
 ローブを大きくたなびかせて、ジョーマが狂ったように魔法を乱発する。炎や雷、あるいは巨石や鉄砲水が飛び交い、瞬く間に周囲の様子が地獄絵図と変わった。
「……みんな、今のうちにグリフォンの翼でここから逃げるぞ!」
 所構わず飛び回るジョーマの魔法をスリースと二人でなんとかいなしながら、リトゥが言う。ことここにいたって、ようやくフリーズリエンスの効果が薄れ、冷気は収まりつつあった。
「な、なるほどです!」
「それなら私が持ってるわ!」
 ティルエスが頷き、ミーメルが懐からグリフォンの翼を取り出した。空間魔法を発揮するこの道具なら、瞬時に遠隔地へと移動できるはずだ。
「み……!? みみー!」
「きゃあっ!?」
 ところが、それを使わんとミーメルが魔力を込めようとした瞬間、リウリリがそこに飛び掛って使用を中断させた。それを見たリトゥが、怒声を張り上げる。
「お前は何してんだ! 今はそんな場合じゃないだろ!」
 リウリリは、思っていた。先ほど感じたおぞましい気配は、気のせいではなかったのだと。だから、彼女も声を張り上げて、主に意見する。
「みうみう! みーみ、みみみうっ!」
「なんだとぉ!?」
 リウリリは感じ取っていた。ある意味で、ジョーマよりも深い闇の底からはいずりあがってくる、異界の力を、存在を。
 二人の会話を理解できない三人は、とにかく二人を注視しながらも、なんとかジョーマの狂ったような攻撃に備え続ける。
『……小さきものにも五分なる魂此れに在りと見受けたり』
 その五人の中央に、それは出現した。今まで何も存在していなかったはずの場所で、ゼロだったものが確かにイチとなり、確たる姿を現したのだ。
「な、な、な、な……!?」
「み……、みう……っ、みう……!」
 黒とほとんど見分けのつかない緑色の身体は、あちこちが角ばり、骨ばっていて、不気味極まりない。その背中に背負われているのは巨大な翼。死神と見紛うような、威圧的な姿の異形が、そこにいた。
『我が潜みし中、転移を行うは甚だ危険……良き判断なり』
「きゃあッ!?」
 リウリリに一瞥をくれて、異形の手が伸びる。その人間ではない無骨で邪悪な腕が、ティルエスの身体を掠め取った。
「ティルエスッ!?」
「は……離して……! 離してください……!」
 ティルエスはその手の内でもがくが、骨ばった見た目に反して、それは相当の力が込められているようで、まったくびくともしない。
 彼女を助けようと、リトゥやスリース、リウリリも身構えてはいるが、このような状態では迂闊に手出しができず、黙って見上げることしかできなかった。
『現下におきて、彼奴に抗し得た能力、我より褒めて遣わそう……。なれど、今なるは時に非ずと我は見たり……』
 そんな彼らに対して、闇がそのまま音になったような、不快極まりない声が浴びせられた。その声を認めたのか、ジョーマが攻撃を休める。
「……リュイオスか」
『我思う、貴公の行為こそ浅はかなりと。貴公が目的、我の関する処に非ざれど、殿下を欲するは貴公のみに非ざる事、努々忘れぬよう……』
「ふん……良いでしょう……」
 自らがリュイオスと呼んだ異形の言葉に居住まいを正すと、ジョーマは仮面に手を当てる。
「今回は、あなたの働きに免じて潔く退きましょう……」
『良き哉。然らばもはや、此処に留まるは我らに利在らずして、疾くと去るべきと見たり』
 言いながら、リュイオスがジョーマの隣に並ぶ。
「姫様!」
「ま……待ちなさいよ! ティルエスを離しなさい!」
「……ふふふ、お前たちには世話になったな……さらばだ」
 ティルエスを手中に収めたからか、もはやジョーマの言葉に僅かの礼儀正しさもなかった。そして、笑い声をあげて、腕を掲げた――。
「……う……が……あ、あ……あああ……!」
 ジョーマがまさに転移魔法を発動せんとした瞬間。不意に、ティルエスが獣にも似たうめき声をあげた。その声に、彼女を手にするリュイオスがいぶかしむ。
『む……!? ジョーマ、転移を中止せよ!』
「があああっあ、あああぁぁぁぁッ!!」
 野獣の咆哮がごときティルエスの叫びと共に、膨大な魔力が彼女から吹き出した。それは、周囲に残る魔法の気配に反応してか、破壊の波動となってそこにいる全員の身体をなぎ払う。そしてそのまま戒めから解き放たれたティルエスの身体は、天使のように中空で制止した。しかし、その様子はむしろ、地上に最後の審判を下しに来たかのようであった。
「今度は一体なんなのさー!?」
「みみうー!」
「ど、どういうことなの、ティルエス!? ティルエスしっかりして!」
 魔法の波動に吹き飛ばされて、リウリリたちは荒れ果てた地面を転がる。それでもただ一人、ミーメルがティルエスに声をかけるが、ティルエスからの反応はまったくない。そんなミーメルのすぐ横を、ティルエスの帽子が転がっていった。
 それどころか、ティルエスの身体から放出される魔力はまるで尽きることを知らぬがごとく、津波のように次々と周りを打ちのめしていく。
「く……ッ! これは一体どういうことだ、リュイオス!?」
『……わ、我思う、魔法生物に時折見られし暴走なりやと……ジョーマ、此は如何なる事ぞ!』
 ティルエスに突然起きた事態が想定外なのは、ジョーマたちも同じのようだった。放ち続けられる魔力の砲弾に耐えながら、なんとかティルエスに近づこうともがいている。
「魔法生物の暴走だと……!? まさか、裏人格か!」
 リュイオスの問いに、ジョーマが答えた瞬間だった。
「……姫様……は……誰にも……渡さない……」
 ティルエスが、口を開いた。
「え、エスさん……?」
 露出した兎耳を見ながらスリースが、搾り出すように言う。
「……誰にも……姫様は渡さない……誰にも……!」
 そう繰り返すティルエスの瞳は、死んでいた。光を反射しない、負の色に満ちた目。その目が、近づくミーメルの姿を認めた。
「ティルエス! 私だよ! ミーメルだよ! わからないの!?」
「……! ミーメル、危ない!」
「みうー!」
 リトゥが言った瞬間、ティルエスの身体から衝撃波が放たれた。主の言葉にリウリリが飛び出し、かろうじてミーメルを衝撃波から守る。
「誰にも……誰にも姫様は渡さない……!」
『……! ジョーマ、大事を我に伏したる事後々追求されんと覚悟せよ! 然れど、斯くなるは一時退散すべし!』
 言いながら視線をジョーマたちに向けたティルエスを見て、リュイオスが言う。
「……く! あと一歩のところだというのに……!」
 しかし、さすがのジョーマも自分に向けられた魔力の膨大さが尋常ではないことを感じ取ったようだ。
「渡さない……! 姫様は……お前たちには渡さない……!」
 そう言ったティルエスが攻撃を放つ寸前、その矛先からジョーマとリュイオスの姿は掻き消えた。そして、直後二人のいた場所を純粋な破壊力が直撃し、クレーターがそこに穿たれた。
「な、なんつーバカ力よ……」
「姫様が秘める強力な潜在能力まで暴走しているのでしょう……!」
 その様子を眺めて、まだ余力を残す教師コンビが言う。
「てぃ、ティルエス……!」
「み、みうー!」
 その後ろから、なおもミーメルが前へ出ようとするのを見て、リウリリはその身体にしがみつく。今のティルエスに近づくのは、危険だ。行ってはいけない。
「離してくださいっ! ……ティルエス!」
 それでも、リウリリを振りほどこうとミーメルがもがく。そして、それでも親友の名を叫ぶ。しかし。
「……誰にも……姫様は渡さない……」
 返ってきた言葉は変わらなかった。そして、その言葉を最後にティルエスの身体は光に包まれ――そして、掻き消えた。
「姫様っ!?」
「ティルエス!」
 スリースとミーメルが口々に声を上げるが、二人に応えたのは、廃墟を渡る黒い風だけだった。

 4.暗幕

「み……みうみうみう……」
「おい、あんまり乗り出したら落ちるって。そうなったらどうにもならんぞ」
 縁から身を乗り出して好奇の目を外へ向けるリウリリをたしなめるようにして、リトゥが言う。二人の目の前には、紺碧の大海原が広がっていた。
「だから。もー、ちょっとは落ち着きなさいってーの」
「みーう、みーう!」
「そりゃまあ、海を見るのは初めてなのはわかるってばさ……」
 聞き分けのない子供に手を焼く親の心境なのだろう、リトゥは深いため気をついた。その一方で、リウリリは相変わらず、船が砕いていく波頭と、その上を通り抜けていく渡り鳥たちに心を奪われていた。
 アウアドスの司祭学校が、ジョーマと暴走したティルエスにより壊滅状態に陥ってからおよそ二週間が経っていた。
 あれから二人は崩れた学校で、ことの仔細を知る校長とスリースの二人と意見や情報を交し合った。
 その結果、施設の大半が壊れてしまった中で、リウリリたちの魂をどうこうするような方法を探ることは難しく、二人は北の魔法国家、スラウトへ向かうことになった。
 三年前、ほぼ国としては体をなしていないほどに瓦解したスラウトだが、三年が経った今、少なくとも現在のアウアドスよりはましな設備が整っているだろう、というのが校長らの意見だ。
 また、周辺に残っていた空間魔法の残滓から、リウリリはティルエスが北へ転移したことを察知した。元々気配や魔力に対する感覚が鋭いらしい。今までの実績もあって、彼女のその感覚は、リトゥに信頼されているようだ。
 そのリトゥは、港に向かうまでも、そして船に乗ってからも、ティルエスがなぜ暴走してしまったのかを考えているようで、リウリリにあまり話しかけてこようとはしなかった。それもあって、リウリリは彼女の気を引こうとわざと危なげなことをしているのだ。自覚もある。
 ところがそれもしばらく経つと心配もしてくれなくなったので、仕方なくリウリリは、自分から話を振る。
「……みうー」
「ん? ……ああ、ミーメルなあ……あの子のことも心配だーな」
「みうう」
「似たもの同士かー、確かに二人とも結構突っ走りがちなところはあったね」
 言って、リトゥは苦笑を浮かべる。
 ミーメルは、ティルエスが北に向かったと知るや、傷の治療もそこそこに、真っ先に出発してしまった。それはリウリリたちがアウアドスを発つ数日も前のことで、目的地が同じだとしても、恐らく彼女は既に北の大地トレッポスに着いているだろう。
「……しっかし、ティルエスやミーメルのことも気がかりだけど、ジョーマのことも気になるな」
「みーう?」
 最近にしては珍しく、リトゥから話題が投げかけられたので、リウリリはようやく船の中、リトゥ本人に目を向ける。
「ここ数年、何度も頻繁に仮面の魔法使いが死都に出入りしてたのは、知ってたんだ。あたしもお前を創るための下準備として何回か行ったからね」
「み」
「死人の魂ばっかり持ち出してたから、よからぬ奴だとは思ってたけど……まさかあんなのとは想像以上だったわさ」
「みうー……」
 天候すら変えてしまうほど強烈な、広範囲の最上級攻撃魔法を思い出して、リウリリは思わず身震いした。
 しかし、同時にジョーマの姿は、彼女に畏敬の気を起こさせなかった。破壊に特化したその力は、確かにすごかった。リトゥですらほぼ手も足も出なかったのだから、ジョーマの実力は世界でも屈指のものだと思う。
 しかしリウリリは、けれども、と思うのだった。あの男は、何かが違う。決定的に、人として道を外してしまっている。主であるリトゥに対する判官びいきは恐らくあるだろう。しかしそれでも、リウリリの中でのリトゥは、ジョーマごときでは揺らぎようのない崇高な存在だった。
「……だからこそ、気になるんだよな」
「みう?」
「あれだけの実力を持ちながら、ひたすら膨大な魔力にばかり固執してるのは、一体なぜなのか、ってね……。そりゃまあ、上を見ればきりがないけども」
「……みうみう、みー」
「……新世界を築き上げるべき? ……そういえば、なんかそんなこと言ってたな。ミーメルに不意打ち食らったときだな」
 リウリリは、ジョーマが所構わず魔法を放っていたときに叫んでいた言葉を記憶していた。新世界、という単語が果たしてどういう意味合いで使われたのか、彼女にはどうにも理解しがたかったが。
「みうーみ」
「……まあそうだな、あれは不意打ちっつーか、油断しまくってたジョーマが悪いだろうけど」
 言って、リトゥは笑った。つられてリウリリも笑う。
「……気になることはまだあるけどな。リュイオスだっけか……なんでまた魔界屈指の高等悪魔、ドッペルマスターがあんな男とつるんでるんだろう……」
「みーう」
「あいつもティルエスを狙ってる、みたいなこと言ってたからなあ……ひょっとして、ティルエスクローンでも造って、人間界に侵攻するなんて野望でもあったりして」
「みうっ、みう!」
「うん、困るな。すごく困るな」
 リトゥが漏らした今度のため息は、誰かに対するものではない。恐らくは、この世界を、フェイレンワールドの行く末を案じてのものだろう。まったく、世の中はわからないことだらけだ。
 しばし二人は沈黙する。船が波を砕いて進んでいく音だけが周囲を支配した。
 リウリリは考える。自分は、幸運にもこの世に生を受けた。この、フェイレンワールドと呼ばれる世界に、素晴らしい主に恵まれて、生まれた。そんなこの世界に何か起こるというなら、なんとかしたい、と。
 リトゥは、どう考えているのだろう。彼女の本来の身体を使っている身の上からしたら、彼女に何か意見するのはためらわれた。それでも、もし彼女がジョーマたちのことを見過ごせないなら、そのときは――。
「ん……空がかげってきたな。こりゃ一雨来るかもしんないなあ」
 不意に光が弱まり、リトゥが空を見上げる。彼女が見上げた空の上、太陽は分厚い雲に覆われて、その尊顔を仰ぐことはできそうにない。
「天気が荒れるかもしれない、部屋に戻るぞ」
「みー……みうみう!」
「おいおい、そんなに海の景色気に入った? ……まあいいや、これ以上天気が悪くなる前に、ちゃんと部屋まで戻ってこいよ。それから、人に話しかけられても自分でなんとかすること。いいな?」
「みう!」
 了解、マイマスター。リウリリは満面の笑みで、リトゥに応えた。
「……やれやれだわ」
 そんなリウリリを見て、仕方なさそうに、しかしどこか楽しそうに苦笑を浮かべると、リトゥは彼女に背を向けた。ふと、あの小さい身体で部屋の扉を開けられるかなあ、と彼女は思ったが、深く気にしないことにして、海へと向き直る。
「…………ッ」
 が、その直後、背後からリトゥのうめき声が聞こえて、リウリリは慌てて振り返る。そこには、階段を前に、身体を押さえながらうずくまっているリトゥの姿があった。
「みうみうみーっ?」
「……あ、ああ、だいじょぶだ。この階段の奴が急なのがいけないんだ」
 駆け寄ったリウリリに一瞬だけ苦しそうな顔を見せたリトゥだったが、すぐさま頬を膨らませると、階段を指差した。確かにその段差は急で、リトゥの身体で上るのはかなりの重労働だろう。
「みーうー」
「うるさいなー、こうなったからには絶対お前の力は借りん!」
 持ち運んであげようとしたリウリリの手を振り払い、リトゥは決意の表情で階段を見上げる。耳を怒らせて、身体を沈ませると、掛け声一つ、彼女は大きく跳躍した。
「どーよ」
 最上段で振り返り、得意げな笑顔を見せるリトゥに苦笑を向けて、リウリリは立ち上がった。
「みうみーう」
「うっさいな、お前に心配されるほどあたしゃまだ落ちぶれちゃいないよ。お前こそ、騒動起こすんじゃないぞ」
「みーう」
 び、と指を向けてくる主に挙手して応じ、リウリリは再度海へと向き直った。後ろからリトゥがぶつぶつ言っているのが聞こえたが、何を言っているのかまでは聞き取れず、リウリリはひとまず意識を海の彼方へと向ける。
 地平線の向こう。その先に一体何があるのか、好奇心の塊であるリウリリの心は躍った。魂を元に戻して、ちゃんとリトゥ・カレグになる日がそこにあるのだろうか。主の身体を借りているのだから、そんな日が早く来るといいのに、と思いながら、彼女はもっと遠くに目を向ける。
 海と空が交わるその場所では、彼女の気持ちとは裏腹に、雷鳴がとどろき、嵐の気配が漂っていた。