時は移ろい 世は廻る
 されど廻らぬその定め
 神とも呼べる時間の上を 人は舞台に踊り咲く
 されど踊れぬその定め
 其れは楔となりぬれど 其れは彼らを導いた
 導かれしは 過去と未来 二つを繋げる絆なり
 端境移ろう今だとて 絆は決して 消えはせぬ
 されば剣も 折れはせぬ
 折れぬ剣を携えて リッシア様は 悪を討つ

 『桃色の吟遊詩人の唄』


 1.聖騎士

 華美な雰囲気を持たない簡素な、しかし威厳と気品を兼ね揃えたその広間は今、静かで、それでいて緊張した空気を漂わせている。
 一段、二段と高くなっている上座には、王冠を戴き、未だ美しさを保つ女王。
 対して下座に控えるのは、美しい緑色の頭髪をたたえた、猫の耳と尾を持つ少女。
 その二人を取り巻き、列となっているのは金管楽器を携える儀杖兵。
「リッシア・フェルナンデス……」
 女王が言う。壇上から静かに下りてきて、リッシアと呼んだ少女の前へと歩み出る。
「……今、貴女に聖騎士の位を、授けます……」
 しずしずと宝剣を頭上に掲げ歩み寄る儀杖兵からそれを受け取ると、女王はそれを抜き放つ。しゃりん、と鞘走る音がりんとそこにこだまする。
「……よりいっそうの、精進を」
 そして女王は、その剣の腹で、そっとリッシアの肩を叩いた。
「はい」
 リッシアは恭しく頭を垂れ、静かに立ち上がる。それに合わせて、儀杖兵たちが、楽器を構えて。
 ――大きく一斉に、そこ、王宮に高らかなラッパの音が響き渡った。
 向きを変えて遥かな空をまっすぐに見詰めつつ、リッシアは王宮を一歩ずつ、儀礼に従い歩く。鐘の音が、鳴った。
 王宮の外からは、人々の歓声が届いてくる。人々に愛される少女の聖騎士、パラディン叙任は、未だ地震と、それに端を発する魔物の出現などの暗い話題の中では、ひときわ明るいものだった。
 リッシアは、堅苦しい儀式に表情を強張らせながらも、人々の声に、若干頬を緩めた。
 その日は、彼女にとっても特別な日だった。
 なぜならば、このパラディンという位は、長く彼女が待ち望んだものだからである。
 そのために、彼女は長く付き添った、師匠とも言える人の下を去った。目指すべきは最高位、三ツ星であり、そして、彼女は自らがいつか、その地位まで上り詰めることを知っている。
 だが、それは決して誇るようなものではない。その地位を手に入れなければ、彼女は将来、自分を助けることができないのだから。
 これは、そのための第一歩。長く険しい道のりを行く、出発。
 だから、ここで気を抜くわけにはいかない。リッシアは、そう、思う。

 リッシアは、儀式というものが基本的に好きではない。理由は、肩が凝るから、至極単純なものだ。
 とはいえ、王宮は嫌いではない。女王と自分とは親しい友人同士でもあるし、今のところ職場の人間関係も良好だ。
 ただ、どうしても格式を優先させねばならない儀式だけは苦手で、好きではないのだ。
 彼女のそうした性格は、やはりそれまでの人生で苦楽を共にした仲間たちの影響が大きいだろう。誰も彼も、型にはまらない自由な人たちだった。
 自室に戻り、叙任式のためにわざわざ仕立て屋の女将さんが用意してくれた、女性らしさを残しつつも騎士としての意匠を施した礼服を丁寧に脱ぐと、リッシアは普段着を手早く身に着ける。
 白いブラウスに黄色いスカート。やはり、動きやすい服装が一番である。
 騎士としては過ぎるほどに軽装だが、彼女の戦い方は、亜獣人としての高い身体能力を生かした軽業的な方式だ。ゆえに、重い鎧や鎖帷子などは、必要がない。
 一息ついて、彼女は窓から外に目をやった。その先には、王宮の壁がある。そこを超えると、城下町だ。
 彼女が所属しているのは、世界の中心的な場所に位置するレグア王国である。
 先の地震からは真っ先に復興を果たした国であり、それも手伝ってか元々住みやすく人の多かったレグアは更に人が集まり、大きな国家へと成長している。それは偏に、指導力ある女王の賜物であった。
 そんな、多くの人間が希望を求めて集まるレグアの都は、遠めから見ても活気に溢れている。にぎやかに、そして穏やかに微笑んでいる空間が広がっていた。
 瑠璃色の空には雲一つなく、そこで笑う太陽は暖かい。
 この、部屋から眺める平和な景色が、リッシアは好きだった。
 ぼんやりと外を眺めていると、ふと、彼女の猫の耳が、この部屋に近づく足音を捉えた。今日、この時間に来客があることは、聞いていないので、それが誰なのかははかりかねた。しかし、その調子はどこか、聞き覚えのあるような……。
 リッシアが首をかしげる間もなく、ノックの音が部屋中に響いた。彼女が覗き穴から外を眺めると、そこには見知った顔があり、彼女は急いで扉を開けた。
「ライさん!」
「よー」
 ライと呼ばれたその男は、一見するとひどく脱力しているような調子で、右手を上げた。
「パラディン就任、おめっとさん」
「あ……あ、ありがとう、ございます」
 彼は後ろから花束を取り出して、リッシアに差し出した。その行為は、いささか彼らしくない。
「今、時間あるか?」
「ええ、いいですよ」
 よく見れば、ライの手荷物から礼服の一部が顔を覗かせている。気づかなかったが、どうやら、リッシアの叙任式に出席していたようだ。
 だが、彼がそれを身に着けても、恐らく似合わないだろう。
「紅茶か何か、出しましょうか?」
「……いただこう」
 その言葉に、リッシアはくすりと微笑んだ。
 ライ・ベイティクス。かつてリッシアと共に旅をした仲間であり、魔王や暗黒魔道士の野望を打ち砕いた際は、みなを率いていた男である。
 あの時から二十年近い歳月が経ったが、ライの人間性は、少しも変わっていない。
 既に子持ちとなり、壮年期を迎えている彼だが、どこか子供らしい雰囲気を漂わせる姿や態度は、愛嬌がある。
「今日はシレイムさんは?」
 紅茶をカップに注ぎながら、リッシアは聞く。
「うんにゃ、俺だけ。あいつが来たら、またなんかありそーだし」
「……それもそうね、リオリエ様とそっくりだもんね」
 シレイムとは、ライの嫁である。同時に、彼女もまたリッシアたちの仲間でもある。
 が、そんなシレイムは、レグアを収める女王リオリエと、鏡写しかのように瓜二つの外見をしている。厳密には、光として不老の性質を持つ天界人のシレイムには加齢という現象が発生しないため、今となっては親娘ほどの差は生まれてしまっているが。
「それにしても、リッシアもパラディンか……時間が過ぎるのは早えーもんだ」
 差し出された紅茶に早速口をつけてライが言う。
「まだまだ駆け出しのひよっこですけどね」
「謙遜しなくていいものを」
 そうして二人は笑った。
「……ま、それは置いといて、だな……」
 カップを置く音が小さく響く。
「その……実は、リッシアに頼みたいことがある」
「私に?」
「ああ。……その……」
 珍しく、ライが口ごもった。しばらくそうしてばつが悪そうにしていたが、やがて続きが始まる。
「あー……っと、だな、実は今、イムアが俺の冒険記を書いてるんだ」
「はえ?」
 いきなりの言葉に、リッシアは目を点にする。
 イムアはライとシレイムの一粒種。同時に、リッシアからすれば、妹のようなものでもある。
「んで、それがそろそろ完成しそうなんだと」
「はあ……」
 身内に英雄の多いイムアは、父であるライの旅の話をよく周りにねだっていたのはリッシアも覚えている。その時は、父親のことが好きな、平凡な少女だと思っていたものだ。
 しかし、ライが説明したところによると、その少女はそのうちに、ライの冒険を文章にしようと動き始めたらしい。しかも、出版社に持ち込んでみようと思っている、というおまけつき。
「で、その、俺はそういうの、嫌なんだよ。娘が俺のやってきたことを、文字にするってがんばってくれるのは嬉しいけど」
 あまり自己顕示欲の強くないライらしい発言と言えた。
「まあ、ライさんはそうでしょうね……」
「で……完成しそうってーことで。俺としては、出版なんてことは勘弁して欲しいわけで」
「ふむふむ」
「……そこで本題なんだが、イムアから、原稿かっぱらって欲しい。大怪我させない程度になら、戦っても構わないから」
「ふむふむ……って、えぇっ?」
 一般的に父親というのは娘に甘いものだが、ライの発言はそれの斜め上を行っていた。リッシアは思わず頓狂な声を上げる。
「い……いいん、ですか?」
「いい。構わん。なんなら、報酬もつける。二千くらいで」
「本気なんだ……」
「言っても聞かない娘だからな」
 ため息混じりに紅茶を口に含むライだが、その言葉にリッシアは笑う。
「親譲りですね」
「……どっち?」
 ライが苦笑した。

 2.予兆

 翌日、リッシアは北レグアのパッテクスにいた。南部に比べて比較的人の少ない北部においては、中心的な場所である。
 かつては港町として、レグアの北の玄関口として、大いに栄えていたのだが、十四年前の地震で地殻変動が起こり、外海と寸断されてしまったため、今は閑静な町となっている。
 本来ならばレグアの都からは徒歩で数日はかかる距離だが、リッシアは既に何度も足を運んだことのある場所のため、転移のマジックアイテムを用いればものの数分で移動ができる場所でもあった。
 ひとまず宿を取ると、リッシアは町をぶらりと歩いて回る。
 来るたびに景色が変わる。その昔、ライとシレイムが初めて出会った頃の面影は既にほとんどないと言えた。二十年以上の時間は、世界を変えるには十分過ぎる。
 ライからの依頼を受けて、彼と示し合わせてここで待ち伏せする手はずになっている。目標であるイムアが執筆を終え、ここに来るのがいつになるのか正確にはわからなかったが、それはあまり遠いことではないだろう。
 リッシアにしてみれば、あまりにイムアがもたつくようならば、この仕事は継続できない。いくら女王と懇意の仲であり、英雄の一翼であるとはいえ、今は王国のパラディンであり、宮仕えの存在だ。長く城を空けることはできない。
(ま、お城にいてもここにいても、大してやってることは変わらないんだろうけど)
 リッシアは池のほとりにたたずみ、そのきらめく水面にかすかに映った己の顔を見つめながら整った顔を少し崩して見せた。
「おお、リッシア殿……もう来ておりましたか」
「……ニコル町長」
 後ろから声をかけられて、そちらに身体を向けてみれば、そこにはひげをたたえた初老の男性が立っていた。
「お久しぶり。元気だった?」
「ええ、なんとか。リッシア殿は相変わらず、お美しい」
「ほめたって何もでませんよ」
 ニコルとリッシアが呼んだ彼とは、旧知の仲だった。彼は、リッシアを含むライたちの功績をすべてではないが知っている一人であり、またライたちがレグアに住む際には何かと世話をしてくれた人物だ。
 ひとしきり、リッシアは彼と世間話をかわす。一段落して、ニコルが不意に意味ありげに笑みを浮かべて言った。
「ライさんからは聞いております」
「へ? とゆーと?」
「彼女はここに来る算段になっているから、とのことです」
 そこでライが準備を進めていることを察して、リッシアは小さく頷く。既に手は回してあるようだ。ライもああ見えてなかなかにやり手である。
「多分、明日辺りには来ますよ。それまでは、どうぞごゆっくり」
「そうさせてもらおうかな……」
「と言いたいのですが……」
「え、えぇ?」
 頷くリッシアを遮って、ニコルがあごに手を当てた。リッシアは、目を丸くする。
「実は……先日、村の北に洞窟が発見されましてですな、そこからどんどんモンスターが出てくるのです。既に被害が出始めていまして、それで……」
「調べてきて欲しい、ってコト?」
「はい」
 ニコルの返事は即答だった。
 少しだけ考えてみるリッシアだったが、別段やることがあるわけでもない。
「……ま、いっか。どっち道、イムア来るまでヒマだしね」
 ふっと、小さな笑みを浮かべて彼女は応じた。
「ありがとうございます。洞窟は、見てすぐにわかるかと思いますので」
「わかったわ」
 こうして彼女は、半ば退屈しのぎでその洞窟へと足を運ぶことになる。

 ニコルの言う通り、その洞窟はすぐに見つかった。パッテクスを北に数キロ、かつての地震による隆起で生まれた小山の端に、ぽっかりと口が開いていた。
 入り口から中を覗いてみれば、確かに魔物の気配がした。だが、さすがに中にまでは光が入らないので、入り口からでは奥がどうなっているかはうかがい知ることはできない。
 あらかじめ用意してきたたいまつの先端に火炎魔法をかけて、リッシアはそこに足を踏み入れた。
 床を形成する岩石層は固く、彼女が歩くと靴の音が鳴り、それは幾重にも重なり合ってそこ全体に響かせる。
 あまりに歩幅を狭めると靴の音が鳴る間隔が狭まり、どこから聞こえるのかわからないような音が常に聞こえるようで、距離感が麻痺してしまいそうだ。
 炎がはぜるかすかな音が、耳を正常に保っていられる清涼剤のようだった。
 前方にたいまつを向けると、奥が弱弱しく照らされる。だが、最奥まではまだまだ距離がありそうである。
 不意に、リッシアの頭上から羽ばたきの音が落ちてきた。彼女はそちらに目を向ける時間も取らず、前方を向いたまま背負った剣を抜き払った。
 確かな手ごたえが、彼女の手に届く。そして、そんな彼女の傍らにどさりと何かが落下した。ケイブバットだった。
「……なるほど、モンスター、ね。言うほど、強いのじゃないけど」
 言うなれば、リッシアは歴戦の勇者。彼女にしてみれば、この程度の魔物は物の数に入らない。
 その後も、ケイブバットや、かつてはレッドスライムとも呼ばれていたグースライムなどが幾度も道を阻んだが、いずれも彼女の歩みを止めるには至らなかった。
 また洞窟自体も、かつて踏んだ魔界のそれや、「虚偽な時間」のように、歪み、荒れ果てた空間ではない。ほとんど無意識に、さながら街道を歩くがごとく進むことなど、わけもない。
 しばしそうして無言のうちに闇の中を歩く。周囲の魔物が、彼女を恐れて手を出さなくなった頃だった。彼女の目の前に、突如として広々とした空間が現れた。
 そこは洞窟というよりは、地下室と言った方がよさそうな趣だった。それまで通ってきた場所と同じように、天然の岩石に囲まれているが、そのところどころには、刃物か何かで削り取ったような形跡が見て取れる。
 そして何よりも、リッシアの気を引いたのは、その中央で薄ぼんやりと光っている、魔法陣だった。ぬばたまの闇に浮かび上がるそれは青く、幽霊のような雰囲気をかもし出している。
「これって……」
 ふちに刻み込まれた魔法文字は、召喚の式を形成していた。
 それの意味するところを瞬時に理解して、リッシアは魔法陣を解除しようと歩み寄る。
 だが、直前のところまで来て、彼女は更に、それが、周囲のマナをゆっくりとこそぎ取るようにして吸い寄せていることを感じ取り、足を止めた。
 ――惜しい。
 声が聞こえた気がした。何かが音を阻んでいるような、くぐもった声だった。
 リッシアが音に神経を集中しようとした矢先、魔法陣が稼動した。
 はっきりとしない、朧だった光が煌々とまばゆく輝き始め、マナが一気にそこの中心へと集まり、凝り固まっていく。
 土気色のローブが、彼女の視界に出現した。ゆらゆらと不規則に揺れる白い手に合わせるかのようにして、魔法陣が明滅する。
「……っ、な、何者!?」
 リッシアはそれに問うた。
 だが、返答は嘲笑だった。ぐわんぐわんと洞窟全体にそれが響き渡り、まるで頭を直接揺さぶられているかのような感覚に襲われる。
 深遠なる魔の法を自在に操るもの、正邪の別なくそこを棲み処とするもの。
 それは、魔道士。
 真夏の太陽がごとく、魔法陣が光った。リッシアは思わず瞳を閉じる。そんな彼女の耳に、魔物の咆哮が飛び込んできた。
 目を開ければ既に何者かの姿は消えており、代わりにそこにあったのは、猪のような巨体と、象のような牙、そして野牛のような角を持つ魔物だった。
「く……っ、これはひょっとして、かなり大きいヤマ……!?」
 その姿にひるむことなくリッシアは魔物から距離を取ると、たいまつを放り投げて背中の剣を抜き払った。鈴の音が鳴る。
 それを敵意の証として受け取ったのか、魔物は一声いなないた。外見に似合わず、随分と甲高い。びりびりと、そこ全体が震える。
 瞬間、魔物はリッシアめがけて駆け出した。尋常ならざる加速を見、即座に彼女はそこを飛び退く。
 猪のごとき体躯に似合う猛進は止まることを知らず、そのまま魔物は壁に衝突する。洞窟がきしんだ。
「マズいなあ……あんまり暴れられると、崩れちゃう」
 剣を構えながらひとりごちる。その正面では、魔物が向きを変えて、再び彼女を圧殺しようと地面を蹴っている。
 動き自体は単純で、回避することはリッシアにとって難しいことではなかった。だが、洞窟そのものがいつまで耐えられるかは、大きな不安要素だった。ゆえに、彼女はできるだけ早く決着をつけることにした。
 今度は魔物の突進を回避することなく、真正面からそれを迎え撃つ。
 持つ剣が、静かに炎に包まれた。かつて会得した技。鋼の刃だけでなく、炎すらも刃として振るう力。そこへ魔物が飛び込んできた。
 するり、と、魔物の真下にリッシアはもぐりこんだ。そして、そこから腹部めがけて火炎の剣を突き立てる。そうしておいて、そのまま彼女は剣から手を離す。
 刃と化した魔法の炎は、弾丸のように魔物の肉体をあっさりと貫いた。そこに、剣本来の切っ先が到達し、肉の裂ける音と共に魔物は大きな悲鳴を上げる。
 下からの強烈な一撃は突進の勢いを殺し、その衝撃で魔物は若干宙を飛んだ。翼の持たないそれが、空中で体勢を変えることなどできるはずもなく、それはそのまま地面に着地する。腹に突き刺さったままの剣が大地に後押しされて、更に深く、それの腹に食い込んだ。
 悲鳴。
 柄まで刺さった剣を抜こうと、魔物は地を転がる。だが、猪のような脚では、それを抜くことはかなわない。おまけに牙と角が邪魔をしており、体勢を整えることもできそうになかった。
 とはいえ、ここで手を抜くわけにも行かない。リッシアは静かに立ち上がると、呪文を口にする。
 言葉は力。紡がれたそれはマナを介して更なる力となり、彼女の両手の中で渦を巻く。大きな魔力の奔流により、ごう、と可視の風が巻き起こる。
 ――そして、臨界点を突破する。
 太陽と見まごうほどの炎が出現し、それは魔物を押しつぶした。魔物は断末魔をあげることすら出来ずに、灰となることをもあたわず、消滅した。遅れて、轟音が響き渡る。

 漆黒に染まった地面から、黒煙が立ち昇っている。そしてそこには、白銀の輝きを保つ一振りの剣があった。
 ゆっくりとそれを拾い上げて刀身をぬぐうと、リッシアはそれを鞘に収めた。
 最上級火炎魔法の余韻がいまだに残り、そこは若干熱を帯びている。そんな中でも、魔法陣は力を失うことなく、静かに瞬いていた。
 そちらに身体を向けたリッシアの口から、ため息が漏れた。
 急ぎであったとはいえ、久しぶりにこの魔法を放った。強力過ぎるがゆえに、自らへの負担も大きいこの魔法は、使うとしばらくそれに見合った疲労感と、どうしようもない倦怠感に襲われる。
「……とはいえ、この魔法陣はなんとかしないと……」
 あれだけの魔物を召喚できるような魔法陣を、放置するわけにはいかない。このような場所にあるのも、何者かの悪意を感じさせる。
 道具袋からグリフォンの翼と天の輪を取り出しながら、彼女はあの、ローブの姿を脳裏に浮かべた。
 一瞬しか見ることはできなかったが、あれがこの魔法陣と関わっていると見て、恐らく相違ないだろう。
 大事に至らなければ良いのだけれど、と心のうちに呟いて、彼女はそれについて考えるのをやめた。今、そんなことを考えても、どうにかできることはない。
 そうしていても、彼女の手際は見事だった。まるで身体がそうすることをあらかじめ記憶していたかのようによどみなく、手順を間違うこともなく、作業は進められた。
 ほどなくして魔法陣は光を失い、絵としての機能すら果たせずに、地面になじんで消えた。
「仕事のない日にここまで来て、リオリエ様に報告することができるなんて思ってもみなかったわ……」
 額にじっとりとにじんだ汗を袖でふき取り、リッシアはひとりごちる。
「もう危険はなさそうだし、ひとまずパッテクスまで戻ろっかな」
 さらに呟いて、彼女は床に放ってあったたいまつを拾い上げると、そこを後にした。

「パッテクスの北に、魔物を呼び出す魔法陣?」
 女王としての正装を解き、夕日に染まった空中庭園で動物たちと戯れていたリオリエは、表情を固くした。
「はい。誰がどういう目的であんなものを設置したのかはわかりませんけど、魔物が呼び出されていたことを考えると、どうも善意があるようには感じられません」
「…………」
 リッシアの言葉を受けて、思考する女王。その手の上で、リスがそうした顔を不思議そうに注視している。ほどなくして、リオリエは口を開いた。
「……まだ、何かが起きたわけではないので、どうにもしようがありませんが……」
 言いながら、彼女は手に乗せていたリスを静かに下ろすと、立ち上がってリッシアに向き合う。
「早いうちから動いておいて、損はないでしょう。リッシアさん」
「はい」
「少し、都の周辺を調べてみてください。仮に何かあれば、すぐに報告を。その際は改めて、友人としてのあなたではなく、パラディンとしてのあなたに、女王からの命を与えなければなりません」
「御意に」
 リッシアが畏まると、女王はすぐに、柔らかい笑みを浮かべた。
「楽にして、いいんですよ。さ、今日はひとまず、ゆっくり休んでくださいな」
「うん、ありがとう」
 そうしてリッシアは、人懐こい笑みで返した。

 3.遭遇

 それからしばらく、リッシアはレグア国内を視察の名目であちこち飛び回った。
 別段、難しいことではない。指向性遠距離移動マジックアイテム――グリフォンの翼は、一度行ったことのある場所ならば、瞬時に移動できる代物なのだ。
 理屈は、移動魔法ワースのそれと同じだ。それを、魔法に関する能力のない人間でも簡単に使えるようにしたこと、そしてその量産を確立したこと、この二つにより、グリフォンの翼は類まれなる大発明となった。
 これが開発されておよそ六年。不幸にも、開発者のダガーン・リウリは一年後にその隆盛を目にすることなく彼岸に渡ったが、結果的に世界は確実に一体感を増した。それは偏に、世界を揺るがした人為的な大災害に対する、人類の抵抗に他ならない。
 そうした利器を用い、リッシアは飛んだ。文字通り、光の矢となって。
 だが結局のところ、ほとんど得られるるものはなく、費やした時間のほとんどは徒労に終わった。
 得たものがあるとするならば、ライたちの娘――イムアとの接触。これ以外にはないだろう。
 彼女とは、今一度あの洞窟を確かめようとパッテクスまで赴いた時に出会った。初対面ではないが、最後に彼女と顔を会わせたのは随分前になる。記憶にある姿よりも、彼女は大分大きくなっていた。しかし、人ではない、エルフと酷似した天界人譲りのとがった耳朶は、否応にも目立つ。彼女を見分けるのは、まったく容易なことだった。
 一つ誤算があったとすれば、出会った場所が件の洞窟であったことか。まさか、こんな場所で遭遇するとは、思ってもみなかった。
 何を思って彼女がそんなところに来たのかは、いくつか言葉を交わして――先の依頼はまだ取り消していなかったので、リッシアはシャドウマジックを使っていた――すぐに理解できた。
 彼女は、イムアは、何か困っている人がいたら見過ごせない正義感と、こうと決めたら突き進む向こう見ずな性質を、それぞれ父と母から受け継いでいた。
 そしてそんな彼女は、いかに正体を隠していたとはいえ、リッシア相手に物怖じすることなく、持っていたはずの原稿を出さず、むしろ果敢に挑んできた。
 旅に出たばかりの娘を一人、いなすのはリッシアにしてみればわけのないことだった。しかし、それではない何か別のもの――言葉では上手く表現できない高揚を、彼女は感じていた。
 数打、刃を交えて、彼女は手を引いた。その時はその行動に疑問を感じたが、今は正しい判断だったと思っている。
 それ以来、リッシアはイムアを執拗に追った。虫のような扱いを受けた――無意識な毒舌は、確実に父の遺伝だ――り、少し調子に乗って高いところから飛び降りてみたら足を捻挫したりしたが、その中で、イムアが確実に、成長しているのを肌で感じていた。
 結果として、自分を信頼し依頼を出してきたライの期待を裏切ることになってしまったが、そもそも実在の人物、しかもまだ五体満足で十分な生活を送っているような人間を主人公とした伝記など、本人の許可なしに出版できるはずがない。
 もしかしたら、ライの思惑はそこではなく、獅子が子を谷底に突き落とすくらいのつもりだったのかもしれない。
 事実、イムアの成長は著しい。
 戦闘向きの体裁を取ってはいるものの決して剣ではないナイフ――ライが異世界でもらったという伝家の宝刀――しか武器は持っていないが、少しずつレベルを上げて、より実戦的な剣を手にしたら、さぞ華麗な動きを見せてくれるだろう。剣の腕は確実に、父や叔母譲りである。
 一方で、魔法の腕も申し分ない。治療に攻撃に補佐にと、様々な種類のものをなんなく使い分けてみせる姿は、やはり天界人、母から譲り受けたものに相違ない。
 今はまだ、力を上手く扱えない、小さく頼りない雛鳥かもしれない。しかしそれは確かに、いずれ大空を舞うであろう不死鳥の仔であった。
 そして、そんなイムアを追ってリッシアは、レグア南端にぽっかりと口を開けた、海辺の洞窟にいた――。

 その洞窟は、パッテクス北の洞窟とは違い、海辺にあるということを自己主張してやまない場所だった。
 磯風が漂い、周囲は潮の香りで満ちている。地面は、うっすらと染み出している海水によって、半ば泥のような様相を呈していた。
 リッシアは無論、このフェイレンと呼ばれる世界の大半に足を運んだことがあるし、洞窟や塔、山に至るまで、おおよそダンジョンと呼ばれる場所なら、たいてい踏み入ったことがある。だから、この程度はまったく苦にもならない。泥の不快さは、それとはまた別物ではあるが。
 だが、イムアはそうもいかない。半ば箱入り娘だった彼女は、洞窟はおろか歩いて長距離を移動することすら、ほとんど経験がなかったに違いない。そんな彼女がこんな場所を歩けば、牛歩になるのは仕方がなかった。
 その後ろを、リッシアが影のようについて進む。速度がかみ合わず、何度か追いついてしまいそうになったものの、シャドウマジックで存在を隠している、全身黒ずくめの彼女は、まさに影だった。
 とはいえ、そうして張り付いているリッシアも、イムアがどうしてこんな場所まで赴いた真意を理解しているわけではない。ライに、半ば形ばかりの失敗報告を終えた彼女が都まで戻ってきた時、偶然に街を出て行くイムアの姿を見かけただけだ。
 イムアがここを訪れた理由、それはわかりかねる。しかし、彼女を追いかけて良かったとリッシアは思う。
 前方を四苦八苦しながら行くイムアは気づいていないようだが、リッシアにはわかる。それは無論、長い経験によって研ぎ澄まされた感覚によるもので、彼女にかかればよほどの達人か、あるいはそもそもからして気配を持っていない手合いでもない限りは、位置と数くらいは認知できてしまう。
 ただし、そうして感じ取れる気配がリッシアを若干困惑させた。それは、かつて対峙――あるいは退治――した、魔族のものとよく似ているような気がするのだ。
 その何かわからないものは、先ほどからまるでねっとりとへばりつくような視線をリッシアに向けている。相手の意図など知ったことではないが、ずっと見続けられていて愉快な人間はそうはいない。
 内心、舌打ちをしながらリッシアはイムアを追いかける。
 そんな状態が、果たして何刻続いただろうか。いい加減でイムアも音を上げるだろうと踏んでいたリッシアだったが、彼女は諦めていなかった。大した根性である。
 そしてイムアは、遂に洞窟の最奥、何やら不可思議な機器が並ぶ空間へとたどり着いた。
 なかなかどうして、やるじゃない。リッシアは嘆息する。旅を始めて日は浅いと言うのに、随分とタフネスではないか。
 しかし、さて、どうする? ここには、素人にはどうしようもできそうにない複雑怪奇な物体、それから、あからさまな監視を続けてきた何者か、少なくとも二つの厄介ごとがあるのだ。
 影法師となって後ろに付き従っていたリッシアが、初めて動いた。後ろからその何者かの気配を感じて、天井へ跳んだ。別に、ここで大立ち回りを演じても彼女は負けはしないだろう。しかし彼女は、イムアがどう対応するのか、それが見たかった。
 現れたのは、そこそこに歳を食った男が二人。どちらも、何やら白いビンのようなマークが入ったものを身に着けている。それには見覚えがあり、記憶を探れば、そのマークはレグアでも有名な、デガッチャ牛乳のそれであると思い立って、リッシアは小さく首をひねった。
 そんな連中がこんな場所に何の用があるというのか。それはリッシアたちも同じではあるのだが、それにしても、旅装束でもない男たちが白昼訪れる場所としては、明らかに不自然である。
 リッシアの、黒い猫の耳がひくひくと動く。亜獣人である彼女は、普通の人間よりも聴力に優れている。男たちとイムアのやり取りを、生身の人間では聞き取りにくい場所でありながらも一語一句、逃さず取得する。そして、理解した。
 イムアがこんなところにまで出向いた理由。それは、どうしても売り上げ一位を誇るロンメル牛乳を蹴落とすために、毒を混入させて評判を落とす、という非情なる手段に打って出たデガッチャ牛乳を、成敗するため。
 それを聞いて、リッシアは納得した。そして、うっすらと笑み――いまだシャドウマジックを解いていないため、それは傍目には見えないが――を浮かべる。
 イムアが知っているかどうかは知らないが、どうやら大義ある戦なのは間違いないようだ。
 ロンメル牛乳は、王宮にも牛乳を卸している。しかも、その製品は女王のお気に入りだ。これがリオリエに伝われば、デガッチャ牛乳の命脈が完全に断たれるのは間違いない。が、それを遠慮する必要はないようだ。
 とはいえ、リッシアはまだ動かない。遅れてやってくる正義の味方を気取るわけではない。ここであの程度の連中にやられるようなイムアではないと判断したのだ。
 連中を打ち負かし、続いて、今もリッシアたちをしつこく監視しているこの気配の主が出現する。その時までは、動かない決心で。
 果たしてリッシアの思惑通り、イムアは男たちを蹴散らした。人間相手に少しは遠慮するかとも思ったが、まったくの杞憂であった。ふふん、と得意げに鼻を鳴らしている。
 優秀ね。ちょっと、すぎるくらい。
 リッシアが若干眉をひそめた、その瞬間だった。それまで彼女にも向けられていた視線が、まっすぐにイムアに向けられた。タールのようにねばねばした感触が遠ざかる。しかしそれは同時に、目標が完全にイムアに定められたことでもある。
 リッシアも気づかないうちに、それは出現していた。何もなかったはずの場所には今や、ほとんど黒と見分けのつかないような苔むした緑の、骨ばった身体があったのだ。人間らしさどころか、生物らしさすら感じさせないそれには、笑っているのかいないのか、判断しかねる不気味な表情を浮かべた顔が乗っている。背中には、邪悪な意匠の翼が一対。
「せ、先生……!」
『…………』
 男二人に先生と呼ばれたその異形は、しかし彼らに目もくれずに、一歩前へと進み出た。
 邪悪な容貌は巨大で、ただれだけのことでも十分過ぎるほどに威圧感があった。イムアは、恐らく無意識だろう、異形の一歩にあわせるようにして、一歩、下がる。
 一見、死神と見まごうほどの迫力と姿を持つその異形を、リッシアは知っていた。直接会ったわけではない、知識としてではあるが、しかし確かに、彼女はその姿を知っていた。
『……成る程、此は良き素材かな。此れなるを選りしは、慧眼至極、一応は褒めて遣わす』
 地の底からわき上がってくるような、低くおぞましい声だった。地鳴りを想像させるようなその声が洞窟中に響き渡り、耳障りな反響音が尾を引いた。
 その邪ま極まる様相に、さしものイムアも気圧されている。刃を構え、いつでも戦えるという体勢ではあるが、それは恐らく些細な抵抗にもならないだろう。
「せ、先生、やっちまってくだせぇ!」
 そんな様子に気をよくしたのは、先ほど煮え湯を飲まされた男たちである。異形の後ろに隠れ、卑屈な笑みを浮かべている。
 しかしそんな観衆の言葉には何も返さず、異形はどこからともなく長く巨大な鎌をその手に構えた。その鋭く銀色に光る物体は、いかにも空気すらも引き裂きそうである。
『然れど現下、その力量如何程にや? 時少なかるが、其の軽重、我が目にて判断せん』
 言うや否や、異形は大きく鎌を振りかぶった。黒い風が吹きすさぶ。
 次の瞬間、鎌は下りていた。だがそれと同時に、イムアの後ろの壁が真一文字に切り裂かれていた。岩が引き裂かれる音が激しく、洞窟に響き渡る。
 イムアはそれを、恐る恐る振り返る。恐らくはそれで、悟っただろう。相手との間にある、絶望的なまでの力の差を。
 それを見て、リッシアは剣の柄に手をかけた。一度くらいは痛い目を見た方が彼女のためにはよいと考えていたが、これはいくらなんでも相手が悪すぎる。
 しかし、リッシアは同時に、目を見張りもした。イムアがなおも武器を構え、その戦意を失っていない様子が飛び込んできたのだ。剣を握る体勢のまま、リッシアはしばし沈黙を守る。
 幾度目かの黒い風が吹く。それにより、再び新たな傷が床に刻まれた。
 イムアはそれを引き起こした異形に対し、氷の魔法を投げつける。だがそれは空しくも、鎌の一振りでかき消された。
 その動作から生じる一瞬の隙を逃さず、イムアは果敢に飛び掛った。しかしそれは見透かされており、異形は呪いの言葉を口にした。邪悪な力がわき上がり、それはイムアの命を奪わんと、彼女に襲い掛かる。
 ――ここまでね。
 リッシアは、跳んだ。
 横からイムアの身体をしっかと抱きすくめて脇へと退く。闇の一撃は彼女の頬を掠め、虚空で散った。
 着地と同時に床にイムアを座らせると、リッシアは静かにその異形と向き合う。
『此は何事ぞや』
「あら、私のことを見てたじゃない、何を今さら言ってくれるのよ」
 異形は鎌を持つ手を下ろし、構えを解いた。だがリッシアは逆に、剣を抜き払って構える。
『黒き姿、其はシャドウマジックなりや。先客ありと目したが、汝、其処な娘が防人か?』
「違うわよ。そりゃ、ここでこの子に死なれるのは勘弁だけどね」
『……汝、大層猛者なりと見た。目下、汝と戦を交えるは我に益無し。良きかな、此度、我より退きて収めよう』
 言いながら、異形は鎌を収めた。表情のわからない不気味な顔が、にたりと笑ったような気がした。
「待ちなさい。ドッペルマスターは魔界でもかなり上級の悪魔のはずよ。それがどうして、人間なんかに?」
 剣の切っ先を向けて、詰問する。その言葉に、ドッペルマスターと呼ばれた異形は目を剥いたような表情を浮かべた。
『魔界の知識を持ちし亜獣人……? 若しや汝、何時ぞや魔王を討ちし、リッシア・フェルナンデスか?』
「だったら、どうする?」
 沈黙が返ってきた。だがそれも一瞬、異形は不快な笑いを漏らすと、もう一度彼女に向き合う。
『如何ともせず。固より我は彼奴が所業に関知せず、彼奴もまた我には関知せず。協力なぞは以ての外、我らは互いに利し合うのみにして、何れは殺し合わざるを得ず』
 そして、かたかたと、骨ばった顔を歪めて笑い声を上げた。
『故に我は、彼奴が汝らに滅ぼされんと欲す。されば、我に汝と戦う所以はあらざるなり』
「彼奴……って……? あなた、一体何を企んで!?」
 一歩踏み出して、リッシアが声を荒らげる。
『我はリュイオス、汝が言いし通り、ドッペルマスターが一柱なり……』
 だが、既に異形は消えていた。まるでそこには存在していなかったかのように、一切の痕跡を残さずに、忽然と。
 しかしその声はいつまでも余韻を残して鳴り止まず、リッシアの耳に残り続けていた。

「……そんなに強い悪魔なんですか?」
 夜の帳に包まれるレグアの城、御簾の下りた寝台から、女王は顔を出して言った。
「はい。私も本で得た程度の知識なのですが……髪の毛一本からも分身を作り出しうる技術を身に着けた高等悪魔、その力量は並大抵のものではありません」
「そのような悪魔が、一体そんな場所で一体何を……」
「わかりません。逃げる手段は確保されていましたし、こちらの問いには答える気配すら見せなかったので……」
 床の絨毯を見つめながらそう答えるリッシアを見やり、女王は天井を仰ぐ。
「どうやら……何かが起きているのは間違いないようですね……」
「それだけは断言できるでしょう。……リオリエ様、私は準備も覚悟もできています。ご命令とあらば、今夜にでも」
「……わかりました。国を治めるものとして、これだけの予兆を前にして黙っているわけにもいきません。……リッシア・フェルナンデス」
「はっ!」
 不意に語調を強くしたリオリエに応え、リッシアはその場に傅いた。その目の前にやってくると、女王は静かに詔勅を下す。
「世界の動向を探りなさい。そして異変あらばその原因を調査し、また可能であればそれを排除せよ」
「御意に!」
 そう答えたリッシアに、立ち上がる事を促すリオリエ。
「……そういえば、ライさんの娘さん……イムアさんでしたか? 彼女も今回、関わってしまっているとか?」
「ええ。聞いた話では、レグアプレスのほうから紀行文を書く仕事を請けるようです」
 促されて立ち上がる彼女に微笑みを向ける女王の顔は、窓から差し込むさやかな月明かりを受けて、まるで少女のようにほのかに輝いている。
「……では、あなたもそれに合わせて?」
 その問いには頷くだけにとどめて、リッシアも微笑んだ。しかしそれは、いささか寂しそうな色を帯びている。
「……また、しばらく会えなくなりますね」
「……はい」
 リッシアがそう応じると、リオリエは彼女の身体を抱いて、静かに目を閉じた。
「どうか気をつけて。力になれない私を、許して」
「リオリエ様が気に病むことなんて、ぜんぜんないですよ。……行ってきます、リオリエ様も、どうかお身体にお気をつけて」
「……ええ」
 答えと共に、女王はリッシアから離れた。そんな女王に一礼をして、リッシアは女王の間から退室する。
「あ、そうだ……デガッチャ牛乳処分の命令を出しておかないと……」
 リッシアを見送って、女王は半ば私情の挟まった、決断を下すのであった。

 4.出立

 地平線が彼方まで延びる紺碧の海と、その上で優しく風を運ぶ瑠璃色の空の向こうには、それ以上に広々とした世界が広がっている。船着場は、そうした無限の世界へと飛び立つ雛の、巣のようなものなのかもしれない。
 初めて見るのだろう、先ほど着いたばかりの貨物船からこちらへやってくるはしけの姿を興味深そうに眺めているイムアの後姿から、何気なくリッシアはそんなことを思った。
 あれからさらに幾日かが矢のように過ぎた。彼女は、紀行文の仕事を渡されたイムアの護衛のような立ち回りで、レグアを旅立とうとしている。今は、そろそろ到着する南方行きの定期船を待っているところだ。
 リオリエからの密命を受けている彼女からしてみれば、イムアの護衛というのは願ってもない仕事だった。利用しているようであまり気分はよくないが、出発に際してはライからもシレイムからもよろしくと頼まれたこともあり、心情はともかく、その立場はなんら問題を生み出さない。
「リッシアさん、アウアドスって確か、魔法が盛んなトコよねぇ」
 若い冒険者の後姿を眺めて、年甲斐もないこと――実年齢では相応かもしれない――を考えていたリッシアは、その突然の言葉に若干面食らった。
「……ま、そうね。何度も足を運んだわけじゃないから、私もしょせん本の受け売りだけどね」
「で、レグアと一緒で災害からはわりかし早く復興したところ、と。うん、最初の場所としちゃあこれくらいが適切かしらね」
 ほう、とリッシアは今度は目を丸くした。この娘にも、段階的にステップアップしていこうという殊勝な考えはあるらしいと思えたので。
「どんなところかしらねー。楽しみ楽しみ」
 その態度の違いはあるものの、そうしたイムアの姿は、かつて、まだリッシアが僧侶――あるいは巫女?――だったころの、ごくごくかすかな記憶の中にある、若き日の剣聖を彷彿とさせた。その人物はイムアの叔母であり、なればこそ、こうしたイムアの姿と重なるのは、ある意味で当然かもしれない。
 それにしても、と潮風を受けてなびく髪を押さえながらリッシアはあの邪悪な姿を思い浮かべる。
 リュイオスと名乗った異形――ドッペルマスターの思惑は何なのか。そして、パッテクスに存在した魔法陣が意味するものとは何なのか。
 彼女は思考する。
 かつて自分を陥れた、そして将来の自分が倒すべき暗黒魔道士が復活を果たすのは、今しばらく先のはずである。だとすれば、ああした一種の異変は、ただの杞憂なのだろうか。そうならば、どれほどいいだろう。
 さてさて、それにしても、己は随分と厄介なことに好まれるたちのようだ。
 切り替えた思考の果てに、苦笑を浮かべる。そんなリッシアたちの耳に、けたたましい鐘の音が響いてきた。先に停泊していた、ハンタックス行きの船がそろそろ出るようだ。あれが出れば、次はいよいよ自分たちが待つ船がやってくる。
 待ち遠しそうに、そしていまだ続く音をさもうっとうしそうに、顔をしかめるイムアを見て、リッシアは深く考えるのを中断することにした。
 考えたところで、仕方がない。物事はなるようにしかならないのだ。それをなすために、なそうとするために努力することが肝要なのであり、仮に何かが起きたとしても、その時はその時だ。
 ふっと、リッシアが表情を柔らかくした直後である。
「待て待て待て待て、待ってくれぇぇーい!」
 ひどく慌てた調子で大音声を響かせて、金髪の青年が船着場に踊りこんできた。
 何事かと二人だけでなくその場に居合わせた人全員が彼に視線を向けるが、彼はそんなことは意に介さず、腕で額を一つぬぐうとまた走り出す。
「待ってくれぇ、まだ乗客が一人残ってるから! もう一寸待って!」
 そんなことを口走りながら、その青年は二人の前を通り過ぎていった。どうやら、ただの遅刻者らしい。
「ちょーっと待ったぁー! 大事なモンを忘れてるぞーぃ!」
 そしてそんな青年が通り過ぎた後、やおら地面にかがんだかと思うと、イムアもまた走り出した。
「チケット落としたら、船にも乗れないっしょーが!」
「おおう!? すまねえ、感謝するぜ!」
 そんなやり取りを半ば唖然として見つめていたリッシアだったが、不意に笑いがこみ上げてきて、それをおさえるようにして口元に手を当てた。
 目的を果たして戻ってきたイムアを笑いながら迎えた彼女を見て、イムアは少し、頓狂な顔を見せるのだった。
「何、どうしたの、リッシアさん?」
「あはは、別に、なんにもよ」
 汽笛が鳴り響いた。どうやら、件の青年も無事に乗船を済ませたようだ。やがて海の男たちの荒々しい声と共に、静かにハンタックスへと船が巣立っていく。
 そして、それとは入れ違いに、アウアドス行きの船がやってくる。
「それじゃ、行きましょ、リッシアさん」
「うん、お互いがんばろうね」
「? リッシアさんは何を……ああ、わたしの世話とかか」
「ま、そんなトコかなぁ?」
 含みを持たせて笑いながら、リッシアはイムアの前に立つ。
「おーし、いっちょ気合入れて行きますかぁ!」
 そんな彼女のさらに前へ出て、イムアは腕を振りかざした。
 イムアはどこまでもマイペースだ。けれどそこが、いかにも彼女らしく、リッシアはまた、その場にいない恩人たちの顔を思い浮かべながら、微笑んだ。そうして、ぐんぐん先へ行くイムアをよそに、顔を西へ向ける。
「……行ってきます、ライさん、シレイムさん、リオリエ様」
「リッシアさーん、置いてくわよー!?」
「わかってるわかってる、もう、イムアはせっかちなの!」
 夢をかなえるために今、雛鳥が大きく羽ばたこうとしていた。