大地を走るは人の子ら
 刹那を誇る春の花 刹那に輝く流れ星
 其の色、白にて千変万化 天秤揺らすも白き面

 大空を翔るは天の子ら
 永久を誇る冬の花 永久に輝く昼の王
 其の色、金にて不変不動 変われぬからこそ世を眺む

 世界を色に喩えれば 誰もが違う色を言う
 この世は一つであるけれど 等しく全でも在るがため
 然れど仮面は拒絶せり 玉虫色を拒絶せり
 皆の世界の明くる日如何 太平なるを約定せん
 白と金より生まれし者よ 揺らぐ天秤何するものぞ
 我ら盟友貴女の随に 貴女の翼が羽ばたく随に

 『桃色の吟遊詩人の唄』


 1.ミサナール―1

 彼女の記憶している中で一番古いものは、どこか暗い、石造りの建物の中、そこに林立する巨大なガラスの容器に満たされた液体の中で漂っているものだった。その状況がどういうものであるのかまったくわからなかったし、自分がどうしてそんなところにいるのかもわからなかった。そして何より、そんなところでぷかりぷかりとうつろに漂うだけの「自分」というものが何なのか、それもわからなかった。
 その記憶は割合しっかりしている。だが、それは一旦意識が途切れるまでの間、特に何かするわけでもなく、ただそうしているだけという、ひどく単調なものだったからで、別段己という存在が確立していたわけではない。
 その記憶の最後は、彼女をガラス越しに覗き込む、緑色の異形の姿を認めたところで終わっている。骨ばった姿と不気味な瞳は、彼女にしてみれば忘れられない記憶である。
 次に彼女が意識を持ったとき、既に彼女は「彼女」だった。その前の記憶はまどろみの内に波間に揺られていたような感覚があったが、今度はとてもはっきりとした、大地を踏みしめているような確かさのあるものだった。
 その記憶において、彼女は己が身中に何かを埋め込まれたことを覚えている。誰によるものかはわからない。けれども、彼女は最初の記憶の中で見た異形によるものだと、思うことにした。それは本能的に、あの異形という存在に違和感があったからで、また他に心当たりなどなかったからだ。何せ彼女は、自分以外を知らない。
 そして今の記憶。これは、以前の二つよりも、さらにはっきりしている。何せ、どれだけ時間が経っても、彼女自身に目立った変化が訪れないから。ここにおいて、彼女は完全に「彼女」となった。完全に、一個の生命体として確立したのを、感じていた。
 今彼女がいる場所が、どういう場所なのかは彼女も知らない。ただ、気がついたらそこにいただけ。そして、そこから出る術を知らぬ彼女にとって、そこは一つの完成された世界だった。
 そこは、最初の記憶にあったような、石造りの部屋だ。しかし記憶の中の場所とは違い、周囲にあるのはガラスの容器ではなく、無数の本棚。そこに収められた本が一体どれだけあるのかは、彼女も知らなかった。
 そして、その他には何もない。強いて言うなら定期的に食事が出現するテーブルとベッドに鏡、そしてトイレくらい。それ以外は、本当に本しかなかった。
 ここ以外を知るものが見たら、牢獄のような印象を受けたかもしれない。しかし、この場所以外を知らない彼女にとって、これ以下の場所は知らないし、これ以上の場所も知らない。だから彼女は、この場所に対して不満は抱かなかった。
 本を、読むまでは。
 本を手に取った彼女は、自分がその「本」という存在を、「読む」ことができることを初めて知った。以来、彼女は本の虫となる。その場所にあってできることといえば読書くらいだし、書物は無数にあるためそれを続けていれば飽きることはなく、また時間はいくらでもあった。
 本に記載された事柄は、彼女の知識を豊かにしていった。たわいもない小話の類から、知識の粋を集めた魔道書、果ては世界の動物図鑑、人間の生態書など、この場所にある本の種類は多種多様だった。
 そこから彼女は、自分が生物学的に女という性に属することを知り、また自分が人間ではないことも知った。やがて彼女は、そこにある本の中から魔法という存在を知る。試しにやってみて、自分が魔法を扱えることも知った。また、戦うということも知った。決して広くはないその場所で、とにかく本の中のことを真似てみて、また己がなぜかそうした行為をよどみなく行えることを知った。しかし、その「なぜか」に対する解答は、どこにもなかった。
 そして最後に知ったこと。それは、ものには必ず、名前があるということだ。彼女は、自分が何なのか、考えるようになった。
 名前とは、誰かに認識されて初めて意味を持つ。だが、彼女は自分以外を知らない。自分で自分に名づけたところで、それを知るものは誰もいない。ただ空しいだけだった。
 そうして知識を得た彼女が、ここではない、どこか別の場所へ行ってみたいと思うようになるのは必然だった。あらゆることを知ってしまった今、彼女にとってそこは「楽園」足りえないのだ。その日から、彼女は脱出する術を捜し求めることになる。
 そんな彼女が「彼女」と出会ったのは、その決心をしてからしばらくのことだ。外を知るもの、暦を知るものの感覚で言えば、おおよそ二週間。
 その時、彼女は物音を聞いた。それは下からで、同時に床がごとごとと動いていることも認識できた。
 何かが、来る。
 そう感じた彼女は物陰に隠れてその様子を伺っていた。
 しばらくはそのままだったが、やがて床板が砕かれ、人影が二つ、そこから出てくるのを見て、彼女は思わず本棚の影に隠れた。
「あー、もう……なんなのよー、ここは」
「うわあ、本がいっぱいね。ホントなんなのかしら……」
 それは、彼女が生まれて初めて聞いた、自分以外の存在の声だった。どちらも自分と同じくらいの声色で、彼女はそれまで培った知識から、その声の主は二人で、どちらも自分と同じ女という性に属する存在であると判断した。
「ん。ねえ、リッシアさん」
「……そうねえ、誰かいるわね」
「…………!」
 彼女は、驚いた。自分は何も言葉を発していないし、物音も立てていない。ましてや、その声の主たちのいる場所から、自分は見えないはずなのだ。それなのに、どうしてわかったのか。
 疑問は、そのまま好奇心となった。恐怖という感情を、彼女はまだ知らなかったから。だから、彼女は問いかけながら、その誰かわからぬ訪問者の前に姿を見せた。
「……誰?」
 それによって、彼女は訪問客がどのようなものなのかを知ることになる。
「あが…………あ…………うぇ?」
 意味のない言葉と共に目を点にしてあんぐりと口を開ける、緑色の髪と黒い猫の耳を持つ女性と。
「…………」
 無言のまま、それよりもはるかに驚いた顔で彼女をじっと見つめてくる、同じく緑髪と、針葉樹のような長い耳を持つ女性。
 そして、彼女もまた、見つめてくる女性の姿に、驚いた。
「…………」
 その女性の姿は、彼女と瓜二つだったのだ。
 この場所に、なぜか鏡はあった。見たものの姿を映し出す、銀色の物体。かつて彼女はそこに己を映しこませ、己の姿がどういうものなのかを確認したこともある。彼女の身体は人間やエルフのような、か弱い女性のそれだった。耳が針葉樹のように尖っている様は当然人間ではない。髪色は闇のように深い黒で、瞳もまた何ものをも溶かし込んでしまう黒。
 逆に、彼女と今まさに対面している女性の姿は、彼女の髪と、瞳の色を緑に変えただけのよう。その様子はまるで、鏡の前に立っているのかと錯覚してしまいそうだった。
 こういうのを、なんと言うのだったか。彼女は、本の中でこのような存在を知っていたはずだ。二重の意味を持つ、幽霊。そうだ、確か――。
(ドッペル、ゲンガー?)
 心の中でつぶやく。見たものに死を運ぶ、もう一人の自分。死という概念に直接触れたことのない彼女にとって、それは恐怖に値するものではなかった。が、やはりいい気分はしなかった。
「……あ……あ、あなた方は……どこから来たのですか……?」
 長い沈黙を破ったのは、彼女だった。ドッペルゲンガーを見ている違和感や驚きを、ここ以外の場所を知りたがっていた彼女の好奇心が勝ったのだ。
 彼女がそうして口火を切ったことで、訪問客二人も、戒めが解かれたかのようにようやく口を開く。
「え……と……えと、山から、突き落とされて……」
「……うんうん、魔物にね、突き落とされたのよね」
 それだけで、確信できた。二人が、彼女とは違う、外からやってきたのだと。
「あ、あなた方は外から、ここに?」
「? ええ、まあ……」
 猫耳の女性が、怪訝な表情をしながらも頷いた。それを聞いた瞬間、彼女は自分でも意識しないうちに、前へ一歩進み出ていた。
「お願いします!」
 そして、懇願していた。
「わたしを、わたしをここから、出してください!」
「……は?」
「…………」
 彼女の言葉に、訪問客二人はとても意外そうな顔をした。そのまま、彼女の顔を凝視する。
「……お願いします、わたしを……わたしをここから……」
「……どうします、リッシアさん……」
「ええ、私に振るの? 私はただの護衛みたいなもんなんだから、あなたが決めてよお」
 リッシアと呼ばれた猫耳の女性は、そう言って、もう一人の女性の肩を押す。
「…………」
「…………」
 その女性は、やや困った表情を浮かべながらも、視線を投げかけてきた。彼女も、それに合わせて視線を投げる。二つの、色だけが異なる視線が交錯する。
 しばらくそのまま二人は見詰め合っていたが、やがて相手が先に視線をずらした。そして、言う。
「……ま、いっか。そこまで言うなら。出てどうすんのかわかんないけど、とりあえず一緒に行きましょ」
「……あ……、ありがとうございます!」
 これが、嬉しいという気持ちなんだろうか。思わず頭を下げた彼女は、そんなことをふと考えていた。
「わたしの名前は、イムア。一応物書きで、今紀行文を書く旅をしてるの。それで……」
「私はリッシア。駆け出しのパラディン。よろしくねー」
 イムアとリッシア。そう名乗った二人組は、彼女に笑顔を見せた。
「は、はい、よろしくお願いします」
 もう一度頭を下げて、今度は別のことを思う。
 名前。わたしには、名前がない。
「わ、わたし……わたしは……」
 顔を上げながら、彼女はふと隣の本棚を見た。ずらりとならんだ本の背。その中に、一人の人物の名があった。
「……み、ミサナール・ドエル……」
 最初の頃に読んだ、物語の著者の名前だった。
「……ミサナールと、呼んでください」
「んじゃ、『ミーちゃん』ね」
「……はい?」
 間髪入れずに飛んで来たイムアの言葉に、彼女はきょとんとした。
「長いから」
 そして、実にあっけらかんと言うイムアの顔を、思わずぽかんとした表情で見つめる。だがしばらくして、それが親しいもの同士で使う、ニックネームというものだと思いついた。
「……そう、ですね。はい、よろしくお願いします」
 こうして彼女は、ようやく己の名前というものを手にすることができた。ちらりと、本当のミサナールが出てきたらどうしようかとも考えたが、同姓同名というものもいると本から聞いているし、その時はその時だろうと思い直した。
 ようやく得た、自分という存在の証。彼女の名前は、ミサナール。ミサナール・ドエルだ。

 2.スウィン

 そろそろ夕暮れも近づきつつある昼下がり、彼女は大きなかごを抱えて戻ってきた。
「おかえり、スウィンさん。今日もお疲れ様でした」
 そう言って、山菜やきのこが積まれたかごを持つ彼女を迎え入れた初老の男性は、笑う。口ひげが似合う、この宿の主人セルウェン。
「いいえ、とんでもない」
 彼に対して、彼女――スウィンも笑い、カウンターの中へと入る。普段通りのやり取りだ。
「今日はきのこが多く取れたので、汁物はきのこ汁でどうでしょう?」
「そうですね、そうしましょうか。お願いできますか?」
「はい、お任せください!」
 セルウェンの言葉を受け、彼女は厨房に入る。腕の見せ所である。白い、穢れなき兎の耳が楽しげに揺れた。
 スウィンは、自分がどうしてここにいるのかを知らなかった。あの日、彼女は全身に大怪我を負った状態で、ドリス山に倒れているところをセルウェンに助けられた。だが、意識を取り戻した彼女は、自分のことをすっかり忘れてしまっていたのである。スウィン・ソレアの名も、セルウェンによる。それほどの重傷を、一体どうして負うことになったのか、それは謎だ。
 あの日より以前の記憶は、一切ない。自分が一体何者なのか、わかるものもいない。ただ、自分を助けてくれたセルウェンに恩を返すため、彼女は今日も働き続ける。それは、胸の奥でかすかにうずく不安を吹き飛ばすかのようでもあった。
「……ふう、今日はこんなところかな」
 やがて仕込が終わり、あとは来客の要望に応えるだけになった。ちらりと外を見れば、すっかり日も暮れてきていた。そろそろ、夜の客がやってくる時間帯だ。
「やっほー、スウィンちゃーん」
「今日も来たよー」
「あ、はい、いらっしゃいませー」
 厨房から出た瞬間、入ってきた彼らと目が合い、スウィンは微笑んだ。食堂も兼ねたこの宿の常連客である。
「なんだい、二人ともまた来たの」
 二人に対して苦笑を向けて、セルウェンが言う。
「へへへ、いいじゃないの。仕事帰りに一杯」
「そうそう。ねースウィンちゃん、今日のメニューは何かなー?」
「今日はきのこ汁ですよ。山菜のほうも、いつもとは趣向を変えて和え物にしてみました」
「おっ、うまそー。じゃあそれ二つー!」
「それから酒も」
 にん、と笑みを浮かべる常連客二人に、セルウェンは肩をすくめて見せた。が、もちろん本気で呆れているわけではない。気のおけない友人だからこその掛け合いだ。
「じゃあスウィンさん、すいませんがお酒のほうお願いします。料理は私がやってきますから」
 そしてスウィンの肩をぽんと叩くと、厨房へと入っていく。彼に対してはい、と返事をし、スウィンは酒蔵へと向かった。
 もう常連の二人の趣味は把握している。やや度が強い蒸留酒だ。スウィンは迷うことなく彼らが普段から好んでいる酒瓶を手早く取ると、そのまますぐに戻る。厨房でグラスに注ぐと、酒瓶と共に盆へ乗せて、彼らの元へ。
「お待たせいたしました」
「いやいや、ちっとも待ってない。なあ!」
「おう、俺たちなんったって時間だけはあるから」
 大きくはない町の、大きくもない食堂ではある。けれどもそこには既に陽気な雰囲気が漂っていた。それからしばらく、彼女は食事を目的とした客たちを相手に、忙しく動き回ることになる。いつもと変わらない日常だった。
 だが、「彼女」と出会ったのはその日のことである。仕事が一段落しスウィンもそろそろ休憩に入ろうかと思っていた頃合、「彼女」は客として宿を訪れたのである。すっかり夜も更け、新しい客はもう来ないだろうと思っていた頃合だった。
「あ、いらっしゃいませー」
 二人組だった。一見すると姉妹にも見えるほど、よく似た少女たち。だが、一人は猫の耳を持っており、もう一人はエルフと思しきとがった耳。明らかに同じ種族ではない。
「えっと、紀行文書いて回ってる関係で、何日か滞在したいんだけど」
 そう言ったのは、耳のとがった少女。その言葉に、へえ、とスウィンは目を丸くした。限りがないと言われて久しいこの世界、そんなことをしている人間がいるとは思わなかったのだ。しかし驚いたのは一瞬、すぐに仕事を思い出して、彼女は居住まいを正す。
「はい、大丈夫ですよ。お二人でよろしかったですね?」
「うん」
 その返事に頷くと、スウィンはその二人をセルウェンの元へ通す。
「セルウェンさん、お二人様中期滞在です」
「はい、わかりました。それじゃ、宿帳にご記入を……。……はい、はい。ではスウィンさん、奥の部屋にお通ししてあげてください」
「かしこまりました」
 そのまま、スウィンは二人の客を言われた通りに案内する。奥の部屋は、セルウェンがそうしろと言ったように、ある程度の期間滞在する客向けの場所なのだ。
「こちらになります。どうぞごゆっくり」
「おおー、いい部屋じゃん!」
 部屋に通されてすぐに、エルフ耳の少女は顔をほころばせた。それに微笑を向けて、猫耳の少女は背負っていた剣を下ろす。
「気に入っていただけたようで、何よりでございます。わたし、スウィンと申します。何かございましたら、どうぞ申しつけください」
「はーい、よろしくね、スウィンさん。わたしイムア、そっちがリッシアさん」
「よろしくお願いしまーす」
「はい、お二人とも、よろしくお願いしますね」
 ふふ、と笑みがこぼれた。スウィンはそれから頭を下げると、しずしずと部屋を後にする。
 食堂に戻ってみると、既に客はみな帰っていた。セルウェンが一人、テーブルを片付けている。
「あ、セルウェンさん、わたしがやります」
「いやいや、元々私一人でやっていたことだ。それより、疲れたろう。今日はもう上がっても大丈夫だよ」
「……はい、お言葉に甘えさせていただきます」
 セルウェンは、スウィンを従業員としては見ていない。初老に入ったセルウェンに妻はなく、子もいないから、恐らく娘のように見ているのだろう。それは、スウィンのほうも感じていた。だから、彼の気遣いには素直に従うことにしている。
 自分の部屋に戻ると、彼女はメイド服から寝巻きに着替える。その寝巻きも、メイド服に近いものだ。くつろげる状態になって、彼女はベッドに身体を横たえた。天井を見つめながら、今日のことをゆっくりと回想する。
 自分に関することは、その日も特に収穫はなかった。けれど、最近はそれでもいいかと思うようになってきていた。このワウンの暖かい雰囲気の中、静かに過ごすのも悪くない、と。しかし、それが続くことはなかった。
 暖かい仮初めの日常が唐突に終わりを迎えたのは、イムアたちがやってきてから数日後のことである。普段通り、宿の名物である山菜料理の材料を求め、ドリス山に登った時のことだ。突然に現れた仮面の男に、襲われたのだ。
 その男は、スウィンに対して「ようやく見つけた」と言った。その言葉に偽りがあるかどうか、記憶を失っているスウィンには判断しかねたが、男の放つまがまがしい魔力の波動は、彼女の頭が危険信号を出すには十分すぎた。イムアとリッシアが助けに来てくれなければ、どうなっていたかはわからない。
「よくはわからないけど、あの男は以前から世界中で何かをしているわ」
 辛くも男を撃退して、リッシアが言った。歴戦の猛者なのだろう、彼女の活躍がなければ、恐らく負けていた。
「そ、そんな人に狙われるなんて……わたしは一体……」
 狙われる心当たりはなかった。そう呟くスウィンを前にちらりとイムアに目配せして、リッシアは口を開く。
「……あなた、記憶がないのね?」
「え? ……え、ええ、はい……」
「……やっぱりね。それじゃ、あなたが誰なのか、教えてあげるわ」
 頷いたスウィンに、リッシアは続きを告げる。その内容に、スウィンは愕然とした。
「あなたは、スラウト王国の王女、ティルエス・ヒューレン・レイトーユ姫その人よ」
「…………」
「記憶がないなら信じられないのも無理はないけど、あなたほどの強い魔力の持ち主は、一度見たら忘れられないものなのよ」
「……ど、どこかで……?」
 お会いしましたか、までは言えなかった。驚きがずっと尾を引いていた。それに対して、リッシアはふ、と優しい笑みを浮かべる。
「五年くらい前かな。私、あなたがレグアに表敬訪問した際の案内役をしてたわ」
「…………」
 当然だが、そんな記憶はなかった。
「……スウィンさんが王女様かもしれないってのはわかるんだけどー」
 そこに、イムアが首をひねりながら口を挟む。
「あの魔法使いは一体ナニモン?」
「……多分だけど、三年前スラウトを壊滅状態に追い込んだ奴よ。確か……名前はジョーマ。リオリエ様の話だと、ティルエス殿下の力を狙って、魔物の軍勢を率いて奇襲をかけてきたと伺っているわ」
「うっはあ!?」
「殿下の魔力で何をするつもりなのか……それはよくわからないわ。けど、三年前から今に至るまで執拗に追いかけてきてるんだし、今後も諦めるような奴じゃないだろうね」
 ふう、と小さなため息と共に、リッシアは締めくくった。
「…………」
 魔物の軍勢を率い、一国をも脅かす凶悪な魔法使い。そんな魔法使いに、なぜか狙われている。なぜか? 疑問ばかりが、スウィンの頭の中に浮かんでは沈んでいった。
「……あ」
「ん?」
 ふと、気がついた。そんな恐ろしい魔法使いなら、この後もどんな手段に出るかはわからない。国すら相手取った態度からして、万が一ともなれば――。
「……わ、わたしがいては、ワウンの皆さんが……!」
「…………」
「…………」
 搾り出すようなスウィンの言葉に、イムアははっとし、リッシアが頷いた。
 山間の静かな村ワウンから、一人の看板娘が人知れず立ち去ったのは、その翌日のことだった。

 3.ティレッティ

 この世界には果てがなく、どこまでも永遠に続いている。少なくとも、フェイレンワールドと人々が呼ぶ範囲においては、そうした認識がなされている。そして、それはその範囲における常識でもある。
 だから、この世界には様々な文化や人種が入り乱れ、旅に生きるものは、行く先々でまったくその異なる様子を見ることができる。だが、当然ながらその全ての場所が平和であるはずはない。
 この時、ティレッティがタックと共に訪れていたジャスオン帝国も、そうした不安定な情勢を抱える場所だった。
 城下町に足を踏み入れてすぐ、二人は町に活気がなく、薄暗い雰囲気に満たされている様子を見ることになった。水に囲まれた入り江の城下町は青く美しかったが、出歩く人のまったくいない様子は、ゴーストタウンを思わせるほどであったのである。
 当初はそれがどうしてなのかは、二人にはわからなかった。ただ、何か他とは違う事情がこの国にはあるのだろうという認識はあったが、それ以上のものではなかったのである。
 だから、いきなり兵士に連行された時、ティレッティは何が起きているのか理解できなかった。突然のことで思考も半ば停止し、ただ離れていくタックの姿を見つめるくらいしかできなかったのである。
 彼女が事情を知ったのは、地下牢に投獄されてからだ。そこには、様々な種類の亜獣人たちが狭い牢屋の中に押し込められ、互いに遠慮しながら息を潜めていた。
「……ねえ、これって一体どういうことなの?」
 彼女は、押し込められたところの手近にいた、兄妹と思しき猫系亜獣人の二人に声をかけた。
「キミも悪い時にここに来たもんだねえ……」
 返事は、深いため息と共に紡がれた。
「どういうこと?」
「……ここ最近になって、急に亜獣人捕縛命令が下ったんだよ」
「!?」
 口にするのも忌々しいといった様子で、兄が吐き捨てる。こらえようのない怒りが、その言葉には含まれていた。そして、ああそうか、と、ティレッティは納得した。
 彼女の頭の上には、犬耳が乗っていた。彼女が普通の人間であるにも関わらず、だ。
「そっか……それでボクも捕まったのか……」
 複雑な表情を隠すことなく、ティレッティは頭をかいた。その瞬間、獣の耳が少しずつ景色に溶け込むようにして、消えていく。
「……!?」
「え、あれ……?」
 その様子に、兄妹は目を見張った。
「……うん、その。ちょっと色々とあって……」
 ばつが悪そうに、ティレッティは二人に事情を説明した。己が夢幻の血を宿す末裔であること、そして戯れに獣の耳を出現させていたことを。どうしてそんなことをしていたかまでは口にしなかったが、いずれにせよ、この国の状況を知っていればそんなことはしなかったに違いない。
「……まあなんというか、災難だったわね……」
「や、多分自業自得って言うんだと思いますケド……」
 妹の言葉に、ティレッティは自虐的に笑った。
「……でも、なんで亜獣人を捕まえてるの? 誰かが何かしたわけ?」
「わけねえだろ」
「そうよ、誰も何もしてなんかいないわ」
 二人は、揃って首を横に振る。
「捕縛命令が出たのは、ホントに突然だったの……元々あまり皇帝はいい人じゃなかったけど……」
「ざっけんなって話だぜ……知ってるか、亜獣人捕まえた国民には報酬が出るんだとよ。猫系一人につき一万五千ティン。意味わかんねーよ……!」
 そうやって二人の言葉を聞いているうちに、ティレッティは無性に腹立たしくなってきた。元々彼女は砂漠の盗賊、レバン一家に育った。親分は確かに人のものを盗んでいたが、それでもそれがいいことだとは決して彼女には教えなかった。そうしたところを彼女に見せまいとしていたのかもしれないが、少なくとも、とても気高い人だったと彼女は信じている。
 そして、タック。彼は、その親分のように、強い心の持ち主だった。あの敵討ちの戦いで、彼は誰一人として敵を殺そうとしなかった。どういう状況でも、姑息な手段を使おうとはしなかった。恐らく、今も彼はこの城に、正面から突入しようと考えているだろう。単純かもしれないが、悪いことなど見過ごすことができない人だと、彼女は信じている。
 だから、ティレッティが一人立ち上がったのは、ある意味で彼女らしいことかもしれない。夢幻という特殊な力を使えば、みんなを助けることができるはずだ。そして、その力は、自分にしか使えない――。
 最初は順調だった。牢番を夢幻で煙に巻き、鍵を奪取。そのまま牢屋を開け放ち、皆を解放したのである。夢幻の力もさることながら、盗賊団での生活と、ここ数ヶ月の旅の中で、彼女は幼いながらも既に戦士として十分な器量を持ち合わせていた。
 それが、彼女を駆り立てたのかもしれない。諸悪の根源を断たなければならない、と。自然と彼女の足は、更なる敵地へと向いていた。
「おい、どこに行く気だ!? そっちは……」
「いいんだ、ボクはこのまま奥に行くよ!」
 そう告げられた兄妹は、しばらく迷っているかのように、あるいはティレッティの真意を確かめようとしているかのように視線を投げかけていたが、やがて二人は頷き、ティレッティとは逆の方へ足を向ける。
「……わかったよ。気をつけてね?」
「……ありがとよ、小さな英雄さん」
 そして、そう言って駆け出した。
「二人とも気をつけてね!」
 そして兄妹の姿が闇の中へと掻き消えるのを確認すると、ティレッティは一人戦いの場へと赴いた。
 小さい体躯と盗賊団での経験、そして夢幻の力は、潜入するにはうってつけだった。亜獣人たちが逃げたことには気づかれたが、彼女の存在は気づかれることなく、城内へ、そして玉座へとたどり着く。
 狂気に取り憑かれたようなジャスオン皇帝その人は、騒然となる城内の様子など意にも介さない様子で、玉座にふんぞり返っていた。傍に、魔物を従えて。
 その異形が、恐ろしい相手だった。レイギュと皇帝が呼んだ、無数の頭を持つ蛇の異形。よほど鋭い感覚を持っているのか、ティレッティが潜んでいることは即座に露見してしまった。その力もすさまじく、とても一人では敵わなかった。
 だがとどめの一撃が来るかと思った瞬間。レイギュの身体は、炎と風と光の魔法に包まれて、大きく吹き飛ばされた。そして、そこに金髪の男が白銀に輝く剣を突き立てる。
「ティレッティ、大丈夫か!?」
 そこで聞こえた彼の声を忘れることは、ないだろう。彼が、タックが駆けつけてくれたことをなんとか認めた彼女は、静かに意識を手放した。
 その後どうなったかは、彼女にはわからない。だが次に目を覚ました時、彼女はタックから顛末を知らされて、なんとも言えない複雑な気分になった。
 皇帝が引き連れていた魔物は、他人から譲渡されたものだったという。それは、代償のない偽りの力だ。力というものは大いなる責任が伴うものだというのに、それを無闇に振り回すというのは、愚かとしか思えなかった。
 愚かと言えば、騒動の後に皇帝が自害したということも彼女には不可解だった。それは、目の前のものから逃げただけではないのか。もし、亜獣人たちを迫害していることに多少なりとも罪悪感を感じていたのならば、なぜそれを止めることはできなかったのか……。
 ティレッティはその席で、「彼女」たちと顔を合わせた。タックに力を貸し、共に戦ってくれたという三人はいずれも女性だったのでティレッティには少し不満だったが、ともあれ恩人であることには変わりない。
 その三人は、緑色の美しい髪と瞳を持つ亜天界人イムア、同じく緑色の髪が美しい猫耳の英雄リッシア、そして、いつかアウアドスで見た赤髪に兎耳の女中スウィンである。
 彼女たちは、二人に告げた。本当に倒さなければならない敵の存在――あの忌々しき、仮面の魔法使いのことを。
 その名は、ジョーマ。ジャスオン皇帝に異形を渡し、帝国を乱した張本人。そして、ティレッティにとって、いやティレッティたちにとって、倒すべき仇敵。
「あの男、本当に色んなところで魔力をかき集めてるのね……」
 その魔力ゆえにタックの姉が虜囚の憂き目を見ていることを聞いて、リッシアは首をかしげた。
 ジョーマの力は、その召喚した異形の力を見ても、並大抵のものではないことがわかる。それにも関わらずひたすらに魔力をに固執していることは、謎でしかなかった。
「……でもさ、そのジョーマって奴、スウィンさんを狙ってるんでしょ?」
「でしょう、ねえ……魔力が一番目当てかなとは思いますが……」
「じゃあ、スウィンさんたちといればあいつと戦えるんだね……」
 ティレッティは、一瞬表情を険しくする。その言葉には、今まで抑えてきた憎しみと怒りがにじみ出ていた。そんな彼女に、タックはぽんと肩に手をやる。彼女がふとそちらを向くと、大丈夫だ、とでも言っているかのように優しい顔で、タックが頷いていた。
「……イムア、俺も連れてってくれ。そいつには随分と貸しがある……いい加減にしてもらわねーとな……!」
 そして、そう言って立ち上がるとイムアたちに向き直った。だから、間髪いれず、ティレッティも言う。
「ボクも行く!」
 一行が、二人から五人になった瞬間だった。

4.ミサナール―2

 まるで夢を見ているようだった。あるいは、幽体離脱という臨死体験の類か。
 彼女――ミサナール・ドエルは、己が躊躇なく人を殺す姿を、まるで舞台を眺める観客か何かのように、呆然と見詰めていた。彼女の持つ鎌が一直線を引き、その線上から鮮やかな紅色の花が咲き零れる。信じられないと言わんばかりに目を見開いた冒険者の男が、ゆっくりと崩れ落ちていく。
「…………。……任務、完了いたしました」
 そして彼女は、返り血を気にする風もなく、どこへともなく言う。
『良き哉。やはり優れし血統の為せる業なりや』
 どこからともなく、闇のような声が響き渡った。はるか地の底からわきあがってくるような、おどろおどろしい声。
『本日は此れまで』
「イエス。マイ、マスター」
 声と共に、彼女の意識は遠くなる。空間魔法独特の揺らぎ。それが収まる頃、彼女は魔王の城かとも思えるほどに邪悪な気配が漂う、石造りの建物にいた。
 もうやめて。もう嫌だ。もう耐えられない。
 彼女は叫ぶ。けれども、それが表に出ることはない。確かに自分の身体なのにも関わらず、彼女の身体はまるで別人に乗っ取られてしまったかのようだ。
 それは、イムアと共にあの場所を抜け出してから数日後のことだった。
 夜、突然ミサナールの身体は動かなくなった。いや、正確には今と同じように、自分の意思で動かなくなった、というのが正しいか。糸繰り人形が神ならぬ人の手で踊らされているかのように、勝手に身体が動いていく。そして、彼女はあの日、イムアの寝込みを襲った。
 不本意だった。一体自分の身に何が起こったのか、それすらもわからぬまま意識は途絶え、気づけば彼女は、この場所にいた。
 そこで彼女を待ち受けていたのは、ほとんど黒と言ってもいい、緑色の骨ばった身体を持つ異形。大きな翼は悪魔のそれ、手に持つ鎌が放つ威圧感は、失神してしまいかねないほどだった。
 異形は、言った。
『順調至極。次なる高みへ昇り行かん』
 理解、できなかった。だがその日から、異形の声に従い、名も知らぬ旅人を襲う日々が始まった。
 相手が手練で、返り討ちにされたこともあった。だが、確実に己の身体が戦いを吸収していっていることは彼女にもわかる。鎌を振る己の動きのよどみのなさ、魔法を放つ己の口の滑らかなこと。認めたくは、なかったけれど。
 一体この苦痛の日々は、どれだけ続くのか。最低限、意識がなければどれほど楽なことかと、彼女はもがく。だが、どれだけ力を込めても、何も変わりはしなかった。殺戮の日々は続く。
 ある日、彼女はいつも通り異形によってどこかの洞窟へと送り込まれた。いつも通り、これから通りがかる人間を殺すのだろう。彼女にできることは、誰も来ないことを祈るだけだった。
 しかし、現実というものはどこまでも無常だった。しばらくの後、人の気配が、声と共に近づいてくるのを感じて、彼女の身体は、彼女の意思に反して身構えた。
 やめて、動かないで。彼女は叫ぶ。だが、それはやはり届かず――。
「うおっ!?」
 彼女の足は勝手に地を蹴り、やってきた相手、先頭にいた初老の、しかし屈強な肉体を持つ男に向かって鎌を振り下ろしていた。だが相手はなかなかの熟練者のようで、不意打ちとしては完璧だったはずだが、一撃はしっかりと受け止められてしまう。
「ガイドンさん、大丈夫!?」
「うむ、わしは大丈夫だ……しかし、不意打ちとは卑怯な、何者ぞ!」
 後ろにいた誰かからガイドンと呼ばれた男に押し返され、ミサナールの身体はひらりと中空に舞って後ろに着地する。だが、その瞬間彼女は目を疑った。そこにいたのは、ガイドンの名を呼んだのは。
「み……ミーちゃん!?」
「!?」
 イムア、その人だった。隣には、当然リッシアの姿も見える。他にも、兎亜獣人のメイドや、金髪の剣士、同じく金髪の少女の姿があった。
「ぬ、知り合いかね、イムア君?」
 油断なく剣を構えて、ガイドンが言う。それに対して、イムアは首を縦に振るだけ。
「ミーちゃん、どうしたの!? 一体、何があったって言うの!?」
 応えたかった。全力で、彼女の問いに、そして彼女の元へ行きたかった。だが。
「…………殺す……」
「……!?」
「…………殺す……」
 身体は動かなかった。己の身体に打ち込まれた楔は、あまりにも強烈だった。口をついて出るのは、まったく思っていることとは違うこと。
「……み、ミーちゃん……」
「…………殺す……」
 腕が、動いた。鎌がその首をもたげる。口が、動いた。闇の力が、周囲に凝り固まる。
「……や、やめて……ミーちゃん、やめて……!」
「…………殺す!」
 身体が、地を蹴った。滑るようにして、まっすぐ先頭に立つガイドンへと向かう。
「ぬん!」
 振りぬかれた鎌を真正面から受け止められ、そのまま二人は拮抗する。
「イムア、悪いけどやらないと逆にやられるよ!」
「イムアさん、すいません!」
 そのガイドンの後ろから、リッシアと、亜獣人のメイドが躍り出た。刹那、ミサナールの身体は一歩さがり、ガイドンの刃をいなしながら、闇の魔法を放つ。強烈な黒い波動が放射され、呆然としていたイムアの身体が吹き飛んだ。
 イムアの名を呼びたかった。しかしその想いも空しく、身体は突っ込んできたリッシアとガイドンを相手に、大立ち回りを演じ始める。その向こうで、地面に転がったイムアを、金髪の剣士と少女が介抱していた。
「く……! セイント!」
 メイドの言の葉が、闇の力を吹き払う。聖なる力が周囲に満ちた。ミサナールは、魔族だ。身体が重くなる。包丁と、二振りの剣が眼前に迫る。
『……其れ迄』
 突如、ミサナールの目の前に巨大な鎌が出現した。それはそのまま空間を切り裂くようにして、彼女とイムアたちを隔てる。
「ぬ!?」
「こ、今度はなんですか!?」
「この鎌……!? ひょっとして!」
 ざわ、と空気が色を変えた。一度満ちた聖なる力を一気に吹き飛ばしてしまうほどに強い、そしてどこまでも深い闇の力が、ずぷりと空間をたわませて、やって来る。
『我思う……』
 それは、あの異形。ミサナールを動かしている、根源。限りなく黒に近い緑の身体が、空間魔法独特の揺らぎの残滓を纏って出現した。
『未だ時に非ずと……』
 そして異形は、てらてらと不気味に光る瞳らしきものを、イムアたちに向けた。
「ドッペルマスター! リュイオス!」
 リッシアが言う。異形――リュイオスは、にたりと笑った。
『……久しき哉、リッシア・フェルナンデス。健勝なりと見たり、結構結構』
「あんたが出てきたってことは、ひょっとして……!」
『我思う、汝が想像、正しきなりと……』
 また、リュイオスが笑う。
『……然れど此処で汝らに相見ゆる事、予定に非ずして、此度は我らが刃を納めん』
「ふ……ふざけんなあ!」
 リュイオスの言葉に、イムアが怒声を上げる。
「あ、あんた一体なんなのさ!? ミーちゃんに一体何したの!?」
 涙で濡れた瞳が、声が、ミサナールの心を突く。しかしやはり身体は動かず、リュイオスがかたかたと笑う音だけが鳴った。
『我が元へ。生きて我が元へ、参られよ。然らばその時、我が心中を明かさん』
 また、笑い声。
『……然れども、ジョーマが魔手を逃れ我が元へ至る事、いと難きと存ず』
「!? それってどういう……!」
 イムアが更に言おうとした瞬間だ。また、空気が色を変えた。空間がたわむ。それに合わせて、ミサナールの意識もよどんでいく。
「ま、待ちなさいよ!」
 それが、その時ミサナールが最後に聞いた、イムアの声だった。

 5.リトゥ

 死都からの生命召喚により魂を生み出し、新たな命としてからもう随分と経つ。この時彼女、リトゥは己の認識を改めることにした。
 本来リトゥと名づけるはずだったその存在、今のリウリリを見上げながら彼女は小さく嘆息する。もうここまで来れば、自分にもわかるのだ。あの強烈なオーラを放つ存在が、周辺にいることが。
 二人はアウアドスの事件以来このトレッポスまで足を運び、方々を尋ねて回った。まずは先にこちらに来たはずのミーメルと合流しようと思ったがそれは叶わず、またスラウトまで足を伸ばしたが、かつての魔法国家の壮麗な姿はなく、なんとか次に来るまでに道具や施設を整えておくという言質を取って、再びシーグル方面まで戻ってきたところだった。
 リウリリの魔力をとらえる感覚の鋭さは、類を見なかった。そもそも、行方不明となったティルエスの魔力を追跡したのはリウリリであり、その感覚の正確さは既にジョーマと対峙した際や、空間に潜むリュイオスの存在を感知したことでも明らかだ。これに関しては、さしものリトゥも兜を脱ぐ他なかった。最初は役立たずと思っていたが、なかなかどうして、誰にでもとりえはあるものだ。
 この時より少し前、リウリリはティルエスの魔力を強く察知した。その発信源はシーグル、もしくはウィトの周辺とのことで、それらを鑑みると、二つの街の中央付近、人々が黄金の道と呼ぶ場所の近辺をくまなく探索すれば、ティルエスを発見することができるだろうとリトゥは踏んだ。
 そして、その予想は的中する。リトゥは、黄金の道の中ほどで、「彼女」と共にいるティルエスの姿を見つけることができた。
 なにやら見慣れぬ連中と一緒にいる上に、なぜかメイド服を身に着けたティルエスの姿を見た時は一瞬顔をしかめたリトゥだったが、まあ、一応姫であるのだし、ここはスラウトにも程近い。正体を市井に知られるわけにもいかないのだろうと考え直して、冒頭のように、リウリリを見上げて嘆息を漏らしたのである。
 まあそれはともかく、とリトゥは近づいてくる「彼女」の一行を観察した。
 先頭を行くのは、緑色の髪と瞳に、エルフ耳を持つ少女。エルフかなとも思ったが、それにしてはまとう気配は若干それとは異なり、かといって魔族とも異なるため、あるいは天界人かと判断する。
 次いで、猫耳を持ち背に騎士剣を負う少女。その様子はひどく隙だらけに見えるが、その実隙はまるでない。剣には疎い身にもそれはよくわかった。ひょっとしたら、あれが音に聞こえたリッシアだろうかと、考える。
 その後方には、剣を同じく背負った金髪の青年。前を歩く猫耳の少女に比べれば力量は劣るだろうかと思えるが、それでも素人には到底思えない。ただし、他の面々に比べるとどうも印象は薄かった。
 そして、その青年の隣を歩くあどけない少女。その一行の中でも、特に際立った印象を受けるのは、彼女が持つ気配が普通の人間のそれとは明らかに異なるためだろう。それはもしかすると、全ての魔法使いがその存在に焦がれる夢幻の血が為せるのではないか。
 そこまで一人一人を入念に観察したところで、リトゥはその一行と対峙することになった。
「やー、やっと見つけたわよ」
「ひょ、ひょっとしてまた刺客!?」
 先頭の少女が言う。が、それは猫耳の少女がやんわりと否定した。
「いや、この人たちに敵意はないみたいよ」
 その通りである。彼女たちと戦おうなどという意図は、リトゥには一切ない。
「ん、そんなつもりはないわ。……また、ってことはやっぱりティルエスは何度も襲われてるわけね?」
「ど、どうしてそのことを?」
「……あ?」
 ティルエスの思いがけない言葉に、リトゥは細い目をむいた。しばらく首をひねりながら考える。
「みう、みうみーう」
「なんだとぉ!?」
 そこに、リウリリが耳打ちし、それに対してリトゥはまたも目をむいた。
「……なるほどー、そりゃ、しゃーないなあ」
「どういうこと?」
 一人で驚き一人で納得するリトゥに、金髪の少女が言う。それに向き直って、リトゥは一つ一つ言葉を選ぶように間をおきながら、話し始めた。ついでに、自己紹介も行う。
 しばらく前にアウアドスで起こった事件のこと、その中心にティルエスがいること、彼女を狙うジョーマという魔法使いのこと、そして、自分たちのこと……。
「……あんたも大変なのねえ」
「まーね……」
 同情の目線を一身に浴びながら、リトゥはため息をつく。
「……まあそんなわけで、その子はティルエスなのだわよ。でも! こいつによると、どうも裏のティルエスが暴走した際に、人格ロックで表……本来のティルエスを無意識に守ろうとしたみたいね。で、その暴走の結果裏ティルエスそのものも記憶を失った、と」
「……わたしって……」
 裏ティルエス、もといスウィンのなんとも言いがたい表情を見やって、リトゥも顔をしかめる。記憶を失ったことがないためその心中は図りかねるが、少なくともいい気分ではないことは確かだろう。
「で? そっちの彼……タックだっけ。彼のお姉さんもあいつにさらわれてるのね? 魔力目当てで?」
「……おう」
「……ジョーマの奴、ホント一心不乱に魔力だけを求めてる感じだなあ……? そんなたくさんの魔力が必要になる魔法なんて、死人を蘇らせるくらいしかあたしは知らんぞえ」
 冗談めかして言ったが、どうもリトゥにはそれが正しいように思えてならなかった。
「……で?」
「んお?」
 ふと考え込みそうになるリトゥに声をかけたのは、先頭の少女。イムアと名乗った。
「この後どーすんのよ? 学校に戻るとか言うの?」
「いやー、戻る意味は多分ないさね。こないだシッチャカメッチャカにされたもんよ」
「なるほど」
「それよか、このままあんたらの予定通りスラウトまで行くのが多分正解ね。こないだ見てきたけど、三年経ってある程度復旧も進んでたし、それにそん時色々研究所の方に頼んどいたから、そこでひとまず人格ロックなんとかしましょ」
 そう締めくくってうむ、と頷いてみせるリトゥ。だが、それに対してリッシア以外の全員が怪訝な視線を投げてきた。
「……信じてないな、あんたら。あたしを誰だと思ってるんだ」
「黄色むにむに球」
 イムアが即答した。
「カッ! なんじゃそりゃ!」
「おおう」
「アウアドス大陸が準一級魔道士、リウリリ・リウリ! コネは広いのだ。……まあ、今は身体違うけどさ」
 あーあ、と思わずため息をつかずにはいられなかった。しかし、その瞬間。
 リトゥは、己の身体に激痛が走るのを感じた。あの時と同じ、けれどもあの時を上回る痛み。それは、肉体そのものが崩れ落ちるかと思うほどだった。だが、あの時と同じく、なんとかそれを表情に出さずに、彼女は笑う。
「……まあ、そんな、わけよ。こいつ共々、スラウトまで、よろしくね。一応、魔法に関し、ては、あたしプロだし。任しとき」
 そして、自分を指差して見せた。合わせて、リウリリがみうー、と笑う。
 ほどなくして、痛みは去った。だが、この痛みが何を意味するものか、リトゥにはもうはっきりとわかっていた。そして、その先に何が待っているのかも。彼女は、それでも笑う。それがあたしだから、と。

 6.ミーメル

 彼女、ミーメル・フィルフェスは、夢を見ていた。あの日、彼女のクラスに、ティルエス・ヒレイユという少女が編入してきた時のことを。
 彼女は、その名前を事前に耳にしていた。編入生ともなるとやはりクラス全体が浮つくもので、そうしたどこぞの情報通の言葉を、小耳に挟んでいたのである。そして、その編入生が、大層成績のよろしくない、おちこぼれであることも、聞いていた。
 スリースに紹介されるティルエスは、編入生らしく緊張した面持ちだった。そんなティルエスと自分が接点を持つきっかけは、偏にこの時、ティルエスが彼女の隣の席に案内されたからだ。
「あんた、あんたが噂のヘッポコ娘ね」
 初めてティルエスにかけた言葉は、自分でも少しいじわるだったと思うほどだった。
「ふえっ? わ、わたしが?」
「あんたのこと、噂になってるくらいだもの。魔法がちっともできなくてすごいらしいじゃない。……あ、私はミーメル。よろしく頼むわよ」
「……うー、ひどいよう……」
 そんな言葉が出たのは、多分、自分が学校の中ではかなり成績が良い生徒だったからだと思う。優等生であるという自負と、相手の出来損ないという噂が、彼女にそんな言葉を言わせたのだろう。
「ま、せぇぜぇがんばんな。大抵のことはがんばる奴が報われるからさ」
 そう言って笑った自分の顔は、あるいは醜かっただろうかと、彼女は今になって思う。
 初めての出会いは、決して互いにとって快いものではなかった。けれども今、彼女を突き動かしているのは、そのティルエスへの想いだ。
 最初は、本当に何も考えていなかった。いじめに近いようなことも、した。けれど。
 けれど、どんなことがあっても、何を言われても、ティルエスは諦めなかった。ティルエスの実力では到底こなせないような課題を与えられても、泣き言を言わず、ひたすら一生懸命問題の解決に取り組む姿は、彼女の心を動かすのに十分だった。
 本当に些細なことだった。あまりにも不器用で、見ていられなかったから。ここをこうすれば、いいんじゃない。それだけ。たった一言、ティルエスに告げた助言。それを受けたティルエスは、次の瞬間見事に難問を解いていた。
 彼女は驚いた。ちょっと不器用なだけで、やればできるじゃないかと。けれど、ティルエスがその次に言ったのは、彼女に対する感謝だった。それは、邪念の欠片もない、純粋でまっすぐな言葉。
 何も、感謝されるようなことではないと思った。私はただアドバイスをしただけだ。問題を解いたのは、全部ティルエスの力なのに。なのに、どうしてあなたは、そんなに嬉しそうに笑うの?
 ……けれど、そんなティルエスの姿が、笑顔が。
「いい笑い方するのね、あんた」
「そ、そうかなあ?」
 彼女を、ミーメルを、笑わせていた。
「ホント嬉しそうに笑うんだもん……こっちにまでうつっちゃいそうだわ」
「い、いーじゃん、笑う門には、福が来るんだよっ」
「へえ、そんな難しい言葉、あんた知ってたんだ?」
「あー、ひどいんだ! そんな言い方しなくったっていいじゃんかー……」
 むくれて頬を膨らませる様子がおかしくって、彼女はまた笑った。幸せだった、学園生活の一こま。
 どうして幸せだったのか。それはよくわからないけれど、でも、幸せだった。理由なんて、わからなかったけれど。けれど、笑顔を、幸せを分けてくれるような、ティルエスの笑顔が、大好きだった。それだけだ
 だから。ティルエスの悲しむ顔なんて、見たくなかったから。ティルエスが、ジョーマとかいう魔法使いに、命を狙われているから。
 だったら、私はティルエスの力になろう。どこまでも、ティルエスと一緒に戦おう。
 三年近い月日の中で、彼女がティルエスから得たもの。その恩返しもこめて。彼女は、ミーメルは、一人でも歩き続ける。
 けれど。
 それは夢なのだ。うとうとと半濁したまどろみの中で垣間見る、今ではない時間。懐かしい時間。そんな夢を追いながら、呟く。それは、うわごと。
「ティルエス……どこにいるの……」
 それに答えるものは、いない。かすかに鳴る薪の爆ぜる音だけが、部屋に満ちていた。
 そこは、北国スラウト海の玄関口、クイント。熱病にかかって倒れた彼女は、親切なある人の介抱を受けていた。身体の治療もそこそこに、一人で飛び出したのが痛かった。
 熱にうなされ浮き沈みを繰り返す意識の底で、先に進もうとする気持ちだけがはやる。今、ティルエスはどこで何をしているのか。それを考えると、病で重くなった身体を動かさずにはいられなかった。そうしてベッドから落ちたのも、一体何度になるかわからない。
 時告げの鐘が、遠くから聞こえてきた。しかし、今が具体的にどれくらいの時間かうかがい知るだけの余裕は、彼女にはない。
「…………」
 少しだけ、意識が戻った。ぼんやりとぼやけた視界の中に映るのは、薄暗い天井だけ。身じろぎをすると、額から濡れた布がずるりと落ちた。
「大丈夫ですか?」
 声のするほうに顔を向けると、そこにはこの家の女主人の姿。今し方額から落ちた布を拾い上げると、氷水の満たされた器に浸す。
「……無理をしてはいけません……身体に障ります」
「……でも……!」
 ぐらりと視界が渦を巻く。思わずきつく目を閉じた彼女に額に、冷たいものが乗せられた。
「……大丈夫、大丈夫ですよ」
「……何が……」
 また、意識が混濁してきた。意識が、飛びかける。
「……先ほどリトゥという方がいらっしゃって」
「……リトゥ……? せんせい……?」
 なんとか意識を引き戻して、彼女は口を開く。
「特効薬を作ると仰って、すぐに戻るから、と」
「…………」
 どうやら、追いつかれてしまったらしい。先に走り始めたのは自分だと言うのに。
 こんなことでは、ティルエスに顔向けができない。何もできない今の己を思うにつけ、彼女は自分がふがいなかった。
 けれども、身体を蝕む病は容赦なく彼女の力を削る。現実との僅かな邂逅を終えると、再び彼女の意識は深い夢の奥底へと沈み込んでいった。

 7.ミサナール―3

 暗い、魔王の城すら想像させる闇の砦が、出し抜けに激しく揺れた。あまりの出来事に、思わず彼女――ミサナールは、目を覚ました。
 いきなりのことに身体を起こして、天上がとても低いことをようやく知ることになる。痛みをこらえながらうずくまり、とりあえずキュアを唱えた。
 彼女がいる場所は、ガラスのような透明の物体で覆われた、見慣れない様式の、ベッドのようなものだった。幸い外と中を遮断しているものが透けているため、外の様子はうかがい知ることはできたが、とはいえそこから脱出する方法はどうにも浮かばなかった。
 砦が、また揺れた。今度はより激しく、また壁か何かが崩れる音も響き渡ってきたため、彼女は恐怖を覚える。
 が、そこに至って、彼女はふと気づいた。自分の身体が、自分の意思で動く。糸で操られているような感覚は、微塵もなかった。
「……な、何がなんだか……」
 今まで散々望んできたことだったはずだが、突然訪れた状況には、混乱するばかり。むやみやたらと身体を動かして、けれどもその器のようなものはびくともせず、ただがたごとと揺れるだけだった。
『……ミサナール、出でよ』
 不意に、頭の中にあの声が響き渡った。もはや聞き飽きた、あの異形の声だ。思わず拒否反応が出そうになるが、その声に呼応するようにして、そこを覆っていたガラスのようなものがふっと消えたため、彼女は図らずもそこから出ることができた。
 改めて周囲を見返すと、そこはひどく殺風景な場所だった。石造りの、そう広くもない部屋に、わずかばかりのともし火が一つ。それ以外には、彼女が横たえられていた謎の容器が、……もう一つ。
『ミサナール、息災か』
 そのもう一つの容器の前に、その異形はいた。黒と見紛うほどの緑色の肉体を持つ、骨ばった悪魔だ。その異形に、思わず彼女は身構えた。
『……問題無きと見受けたり。重畳』
「な、何をわけのわからないことを……!」
 不敵に笑う異形に、少々おびえながらも彼女は言う。だが、その瞬間だ。
『……ふん。相も変わらず、賢しい事を』
 壁を突き破って、四足の巨体が割り込んできた。飛び散る瓦礫のことなど意に介す風も無く、緑の異形はそれを涼しい顔で見つめる。一体どうなるのかと、ミサナールがその二つの異形を交互に見比べる。
「があああ!」
 割り込んできた異形が、緑の異形に飛び掛る。しかし。
『其れなるを、匹夫の勇と言うなり』
 緑の異形は、身体に相手を触れさせる暇も与えなかった。黒緑の身体がゆらりと揺らいだかと思うと、次の瞬間相手はその身体を闇に蝕まれ、骨だけになる。
「な……なな、な……!?」
 わけのわからないことの連続に、ミサナールの混乱は極まろうとしていた。そこに、異形がじろりと目を向ける。
『……臆病なりしは転写せし折の変異と思いしも、有事に際して此れなるは、いともどかしきなり……』
「な、何……? も、もう……! 何なの……!?」
『「裏切り」なり。現下、数多の魔物が我らが砦を蝕まんと、大挙せし状況なり』
「…………!?」
 何が裏切りなのかは、理解できなかった。けれども、とりあえず今いるこの場所が、魔物に襲撃されていることだけは理解できた。
 しかし、それでどうすればいいかはまったく想像もつかなかった。ここに現れたこの異形に今までされたことを考えると、その言葉を信じたくもなかった。だが、そんなミサナールにそれ以上を語ることなく、異形は暗闇の中で静かに佇み続けていた。
 そうしているうちにも、砦は揺れ続けている。魔物の咆哮が、あちこちから聞こえてくる。暗かったその場所に炎が投げ込まれ、辺りが一瞬明るくなった。
『沈着たれ、ミサナール。果報は寝て待つものぞ』
 慌ててその場を離れようとしたミサナールの身体を引き止めて言う異形。その闇のごとき瞳に見据えられて、彼女は思わず足がすくんだ。
 しかし、次の瞬間口を着いて出てきたのは、今までずっと抱き続けてきた疑問だった。
「……あ、あなたは一体……!?」
 好奇心が勝ったのか、それとも、極端な恐慌状態では思いもしないことを口走るという、本でよく見た現象なのか、それはミサナール自身にもわからない。だが、その問いを受けて、異形はにたりと笑みを浮かべると、ミサナールを引き止めていた手を静かに離した。
『……我が名はリュイオス。魔界に名高き、ドッペルマスターが一柱なり』
「…………?」
 ドッペルマスターという単語には、心当たりがなかった。一応、その自信に満ちた調子から、すごい存在ではあるのだろうとミサナールは考えることにする。何せ、聞きたいことが、山ほどあった。どうして自分がこんなところにいるのか、今までのことは一体なんだったのか……とにかく大量の疑問を解消したくて、ミサナールはリュイオスと名乗ったその異形に向かい合う。
「……あなたは」
『静かに』
 意を決して口を開きかけた彼女を、リュイオスはその骨ばった手で制した。そして、ぎろりとある一点に目を向ける。
『汝が其処に潜みしは、筒抜けなり。潔く姿を現せ』
「くくくく……さすがはドッペルマスター、と言ったところか……」
 リュイオスの言葉に応じる形で、不意に何もない空間から男の声が聞こえてきた。しゃがれた、低い声。それに驚いて、ミサナールはそちらに目を向ける。
『ぬん!』
 そこへリュイオスが手を向けると、石造りの壁がいとも簡単に砕け散った。床に降り注ぐ石の向こう側から、それが現れる。
「……まったく、こんなところにいたとは……さすがの我輩も、少々手間取りましたぞ」
 真っ白な仮面で顔を覆い隠した、魔道士だった。土気色のローブは黒い風を受けてはたはたとたなびき、良い印象は欠片もない。その後ろには無数の魔物たちが控え、今にも襲い掛かってきそうだ。
『……我が作品達を、如何にせん?』
「くく……聞くまでもないだろうに……」
 仮面の男が、あざ笑う。
「あなたの作品など、我輩の作品にかかれば塵芥……すべて後のための肥やしにさせてもらいましたよ……」
『…………』
 ミサナールは、その時初めてリュイオスのまがまがしい顔に、怒りや悲しみ、侮蔑といった、複雑な表情が浮かぶのを見た。だがそれも一瞬。
『……ならば問おう。汝、我に何を求む?』
「知れたこと……」
 魔法使いが、両手を開いた。まるで、演説をする扇動者のように。
「あなたの最高傑作二つを、こちらに渡してもらいましょう!」
 そして、男はミサナールを指差した。
 まったく話についていけず、状況もよくわかっていなかった彼女は、突然話題の中心に持ってこられて、目を点にすることしかできなかった。
 そんな彼女をまるでかばうように間に入ると、リュイオスが笑う。
『……くくくく……』
「……何がおかしい……?」
 男の仮面には、表情などまるでないはずだ。しかし、その冷徹な仮面が、わずかに眉をひそめたように、ミサナールは見えた。
『……ジョーマ、汝の所業、まこと笑止千万』
「何ィ……!?」
 ジョーマと呼ばれた仮面の魔法使いにしてみれば、これだけ圧倒的な状況にも関わらず、いまだに不敵な笑みを浮かべて、逆に挑発するリュイオスの行為は、何がしたいのかわからないのかもしれない。ミサナールにも、わからない。
 とはいえ、語調を強めながらも、さすがにジョーマは余裕ある態度は崩さない。後ろで控える魔物たちも、今は大人しく彼に従っている。
『我と汝が結びし協定、此処に破棄されしものと我は看做さん。されど……』
 言いながら、リュイオスが傍らに横たわっていた例の容器と、どうすることもできず、ただ立ち尽くしていたミサナールの身体を抱き寄せた。
『……然れどジョーマ。協定、或いは同盟を結びし上での鉄則、汝は知らぬと見受けたり』
 そして、笑う。あざ笑う。
「!」
 明らかなリュイオスの敵意に、ジョーマは後ろの魔物を一匹けしかけた。名も無きその異形は、リュイオスを討たんと必殺の一撃を繰り出す。――が。
『約定の鉄則。其れは、相手よりの「裏切り」を想定し、後顧の憂いを予め断つが事なり』
 その攻撃は、リュイオスたちに届くことなく、手前で不意に雲散霧消した。
「!? こ、これは……!?」
『愚かなり、ジョーマ。追い詰められしは汝なり』
「……け、結界……!? いつの間に……!?」
 気色ばむジョーマの目の前で、黒い光が湧き上がった。それは、砦もろともジョーマたちを包み込み、彼とリュイオスたちを、完全に遮断していた。
『我が何ゆえ此処に傑作二つを安置するか。答えは、汝が約定を反故せんと襲来するに備え、砦自体を巨大な爆弾となし、其れよりの退避に際して用いんとするが為なり。……ジョーマ』
 ミサナールは、リュイオスの腕の中で、見た。リュイオスが、魔界の傑物に相応しい、邪悪な笑みと共に魔力をたぎらせている姿を。
 そして、見た。その異形に対し、怒りをあらわに魔力を爆発させる、仮面の魔法使いの姿を。
『去らば。二度と会うこと有らずと思す。然れど、汝が反故行為、何れ報いが在ると覚悟せよ』
 ミサナールたちのいる場所が、黒い光との境目から離れた。そのまま、そこだけが静かに夜の闇の中へと浮き上がっていく。
 そして。
 夜の静寂を突き破り、何千里もの彼方からも確認できるほどの極大の爆発を起こして、暴走した魔力が砦を消滅させた――。